甘い時は危険な時
土曜日。碧乃は香り高いコーヒーの余韻に浸り、ここ数日で溜まった疲れを癒していた。やはり喫茶小路の、この静かに時が流れる空間はとても心地が良い。
これで1人だったら、尚良いんだけどなぁ…。
手元のコーヒーカップから、目の前でノートにペンを走らせている人へと視線を移す。
最初にここで勉強を教えた時とはうって変わって、今は真剣そのものだ。勉強のコツを掴んできたのか、質問の数は減り、こちらが頬杖をついて彼の手を眺めている時間が長くなっていた。
「……」
気付かれないように息を吐き出し、再びコーヒーに口を付ける。
こんな風に1人で勉強を進められるようになったのなら、また教えようかなどと提案せずとも良かったのではないだろうか。そうであれば、谷崎涼也と鉢合わせる事もなかったのかも知れない。あのように狙われる事もなかったかも知れない。
………なんてね。
後悔してもどうしようもないのに、もう終わった事なのに、そんな考えが頭をよぎる。
きっと、鉢合わせていなかったらいなかったで、また違う形で狙われるきっかけができていただけだ。それに、完全に1人で勉強させるには、まだまだ不安な所もある。
しかし、どうしてもつい考えてしまうのだ。
それほどまでに、碧乃の精神は疲れ果てていた。
確かに、やり過ぎてしまう程に楽しんでいたのは事実。先輩と山内に言った言葉は嘘ではない。けれど、楽しまなきゃやってられないと思っていたのもまた事実だ。やり過ぎたのは、半分やけになっていたからかも知れない。
誰が好き好んで襲われたいなどと思うだろうか。先輩同様、自分もあんな事は二度と御免だ。
……だから。
頬杖をつき、目の前の彼をじっと見つめる。
「…………」
せめて今しばらくは、大人しくしていてくれないだろうか。こうやって素直に勉強しているだけの、ただの生徒でいてくれないだろうか。
わがまま王子の相手は……今はできない。
面倒事が嫌いな自分には、消耗の激しい出来事だった。もう少しわがままに付き合ってあげても良いかなどと思っていたが、今の精神力では無理だ。
回復したらまたそう思えるはずだから……だから今だけは………。
「……」
………………………あれ?
ふとある疑念が生じた時、小坂が顔を上げた。
2人の目が合う。
「え!……な、何?」
「……」
なぜそこで顔が赤くなる?見られてると思ってなかったから?……ああ、まぁ、集中している所を見られるのはあまり良いものじゃないか。
まぁいいかと思い、碧乃は今浮かんだ疑問を口にした。
「そういえば…週末に勉強してる事、友達は何も言わないの?」
「へ?」
質問が突然過ぎたのか、彼はキョトンとしてしまった。
「遊びの誘いを断ってここにいるんじゃないの?」
もしもここで勉強をしていなかったらと考え、はたと気付いた。
部活で忙しい彼に予定を取り付けるためには、週末の限られた時間を狙うしかない。しかしその時間は、今自分がここで勉強をさせている事で潰してしまった。あれだけ友人の多い人だ、必ず誘いは受けているはず。『友達と遊ぶ』というものが自分の頭になかったために、今までそんな考えに及ぶ事すらなかった。
自分のせいで、彼の印象が悪くなっているのではないだろうか。
「あー、まぁ…そうだけど」
「付き合い悪いって思われてない?」
「んー……それは、多分大丈夫…だと思う……」
なぜか彼は言いにくそうに答えた。
「…なんで?」
「あの…それが……実は…」
「?」
……なんだ?
小坂は俯き気味に答えた。
「今、俺……家庭教師と付き合ってる事に、なってる…らしくて…」
「…………」
碧乃はしばし瞬きを繰り返すと、ゆっくりと頬杖をついていた手で顔を覆い、重たい息を深く深く吐き出した。
谷崎に構ってる間になんて事に……。
なぜそんな話に至った?
あの家庭教師の話と、最近の付き合いの悪さから、そう推測するのが自然だったから。
なぜ否定しなかった?
その方が誘いを断る理由を確立できるから。
なぜ……?
………。
……。
脳内でいくつもの自問自答を繰り返し、ギリギリの精神力で何とか自分を納得させると、顔を覆うままに彼に答えた。
「……ああ……そうですか」
「えっ?!な、なんでそんな反応?やっぱり嫌だった?!」
直接見てはいないが、声だけでオロオロしているのが分かる。
「……別に」
「べ、別にって何?!え、嘘?怒ってる?!」
「……」
もう…面倒くさい。言葉を発するのも、感情を表に出すのも、今顔を上げて彼を見るのも、何もかもが面倒くさい。
「いや、あのっ、ごめん!お、俺も、そこまで話が発展してるとは思ってなくて!だからっ、その…」
「……」
…でも、この状態の彼を放っておくのはもっと面倒くさい。
静かに深呼吸をしてなんとか平静に戻ると、顔を上げて小坂へと視線を向けた。
「…っ!」
すると予想以上に青く動揺している顔を目の当たりにし、思わず吹き出してしまった。
「え?え?な、なんで笑うの?」
「ふふっ…いや、あの…ごめん…っ、ちょっと待って……」
今、笑いを………だめだ、止まんない。
両手で顔を覆ってみるも、一向に収まる気配がない。今の微々たる精神力ではどうにもならないようだった。
「え、ちょっ…斉川?」
「…っ、ふふふ…っ」
「斉川」
呼びかけに答えたいのだが、どうしても止める事ができない。疲れた所に見たせいで完全にツボに入ってしまった。
しばしクスクスと肩を震わせていると、突然両手首を取られた。
「っ!?」
「斉川!笑い過ぎ!」
むっとした顔を近付けられ、一瞬にして思考が停止する。
「………ご…ごめんなさい……」
「…ん」
碧乃の笑いが止まったのを確認すると、小坂は手を離し、半分浮かせていた腰を下ろした。
碧乃は驚いて止まりかけていた息を吐き出し、跳ね上がった心臓をなだめた。
「……」
びっくりした…。今のはかなり近かった…。
おかげで顔が少し熱い。
「なんで笑ったんだよ?そんなに俺の顔が可笑しかった?」
腕を組んだ小坂が、若干拗ね気味に訊いてきた。
「え?………うん。可笑しかった」
「正直に言い過ぎ」
「あ…ご、ごめん。だって、あそこまで酷くなってるとは思わなくて」
…あ、思い出したらまた笑いが…。
「こら」
「っ…」
慌てて思い出し笑いを引っ込める。
「……怒ってるかと思ったのに」
拗ねた中に、ほんのりシュンとした表情が滲んだ。
碧乃は苦く微笑んで返した。
「ごめん、怒ってないよ。びっくりしたけど」
「……でも…やっぱり嫌?」
「え?…ううん」
「え…!ほ、本当…?」
「うん。だって、その方が都合が良いと思ったから否定しなかったんでしょ?それに、一応それ私じゃなくて架空の人物だし」
だから、もう好きなだけ話を盛ればいい。その人物像が私からかけ離れていくぐらいに。
「……ああ、うん…そうだね」
コーヒーに手を伸ばした碧乃には、小坂の表情は見えていなかった。
一口飲むと、なんとも気だるげに頬杖をついた。
まぁでも…これがばれたら私の高校人生が終わるなぁ……。
碧乃は小坂に視線を向けた。
「お願いだから…私が勉強教えてる事は、絶対誰にも言わないでね…?」
「っ!?……う…わ、分かった」
珍しくお願いをしたせいか、小坂を驚かせてしまった。けれど今は、『言うな』なんて強気になれる程の気力がないので仕方がない。まぁ、承諾してくれたから良しとしよう。
再び手元のコーヒーを見つめる。
「……」
「…あ、あのさ」
ぼんやりしていると、おずおずと小坂が話しかけてきた。
「…ん?」
「斉川って…その……す、好きな人とかって、いないの…?」
「…は?」
いきなり何を?
「あっ、いや!あの…今のでちょっと…気になって…」
「……」
ああ、そういう事。
「いないよ」
「あ……そ、そうなんだ…」
「というより、そもそも人間自体に興味がない」
「えっ!!」
いきなりの大声に、碧乃はビクッと反応した。
「別にそこまで驚かなくても」
「あ…ごめん。え、でも…」
小坂は信じられないという顔をしている。
…ちょっと言い過ぎか。
「今のはさすがに語弊があったね。ごめん」
「……」
苦笑いで頭に手をやり、どう言えば良いかと言葉を探す。
「んー、なんていうか……1人が楽っていうのが根底にあるせいか、人間関係を築くのがものすごく面倒に感じるんだよね。だから、友達が欲しいとも、恋人が欲しいとも、全然思わなくて…」
小坂は複雑な表情で碧乃を見つめ、口を開いた。
「………じ、じゃあ……藤野達といるのは、面倒なの…?」
「え?う、うーん…、実を言うと…たまに、1人でいたいなぁなんて思っちゃう時もあるんだよね。…本当にたまにだけど」
「……」
「あ、でも、私を慕ってくれるのは素直に嬉しいし、一緒にいて楽しいって思ってる。それに、あの2人には感謝してるよ」
「感謝?」
碧乃はこくっと頷いた。
「こんな人間失格みたいな私を友達だと思ってくれるなんて、なんて良い人達なんだろう、ってね」
自嘲気味に答えると、小坂がなぜか必死になって返してきた。
「な、何言ってんだよ!!斉川が人間失格な訳ないだろ!俺より全然しっかりしてるし、頭良いし、それに…!」
「………ぷっ!」
「え?」
必死さが可笑しくて、またしても吹き出してしまった。
慌てて顔をそらすも、肩の震えは止められない。
「ちょっ!な、何だよ!またかよ!!」
「ご、ごめ…っ……」
「今俺、変な顔してないだろうが!」
「っ…、だって…っ、ふふふっ…」
「笑うな!ってか、こっち見ろよ!」
「む、無理っ……、今見たら…」
笑いが止まらなくなってしまう!
「こら!こっち向け!」
今度は両腕を掴まれ、強制的に目を合わせられた。
「!!」
すぐ目の前には怒った顔が。
「…ぷっ!あはははは!」
「なっ!?」
2度目はかえって逆効果だった。
ほら、やっぱり止まんなくなった!
小坂は顔を赤らめ、碧乃はしばらく笑い続けた。
中野さんと常連客に、『若いって良いねぇ』と観賞されながら。
§
何とか勉強を終え喫茶小路を出た2人は、駅への道を歩いていた。
光毅はふと隣を見やる。
「……」
今日の斉川は、なんかおかしい。
ぼんやり考え事をしていたり、質問への反応がわずかに遅かったり、そして人の顔を見て笑ったり…。いつものしっかりした感じが消えているというか何というか。
さっき目が合った時は、なんとも気だるげで無防備な色気を放っており、思わずドキッとしてしまった。しかもあんな話をしたせいで、勉強が全然はかどらなくなって大変だった。
一体どうしたんだろう…?
すると、斉川はおもむろにかばんのポケットを探り、中から飴を2つ取り出した。
「食べる?」
「え?あ、ああ…ありがとう…」
彼女は1つをこちらに渡し、もう1つを自分の口へ放り込んだ。
「……」
斉川が飴を?
もらったそれを見て、光毅は思い至った。
「……斉川、疲れてるの?」
「え?」
「だってこれ」
光毅の手には、いちごミルク味の飴。
「こんなの普段食べないよね?」
「……」
斉川はピタリと立ち止まり、渋い顔を向けてきた。
「………なんでそんなに目ざといかな」
「え!だ、だって明らかにおかしいだろ!」
「……んー…まぁ、そうか」
そう言うと、ばつが悪そうに目をそらした。
「何があったんだ?」
「ん?……別に」
はぐらかすように歩き出した様子にむっとして、彼女の腕を掴んで動きを止めた。
「こら」
「っ!」
「ちゃんと言って」
「……」
「!」
ものすごく困った顔で見つめられ、胸の奥がビクリと疼いてしまった。
やば……可愛い……。
彼女の困った顔は、なんでこんなにも破壊力が強いんだろうか。
…って、反応してる場合じゃなかった。
やっぱり今日の斉川はおかしい。いつもなら『やだ』とか言って睨んでくるのに。なんだか弱ってる感じがする。
「…どうしたんだ?」
「え…あの……えっと…」
俯いてしばし考えると、言いにくそうに答えた。
「……お、お母さんが…休み取れたから呼べって、言ってきて…」
「え?」
お母さん?…って、先週のあの話か。
「もしかして…それを相手にして疲れたのか?」
斉川は小さく頷いた。
「妹に止めさせてたんだけど、結局向こうの味方に戻っちゃって…今日ここに来る前に、2人がかりで攻めてきたの」
「あー…」
なるほど、そうだったのか。
斉川の母親と妹を思い出し、光毅は苦笑いで頬を掻いた。
「…なんかごめんな」
「え!う、ううん。あの2人が勝手に騒いでるだけだから気にしないで」
「あ…うん。でも…」
「あっ、あの」
「?」
光毅の言葉を遮ると、申し訳なさそうにこちらを見上げた。
「それで…この際だから、お願いがあるんだけど…」
「!」
うわ…弱ってる斉川可愛い……って、そうじゃなくて!
疼くものを無理矢理抑え込み、なんとか平静を保つ。
「な、何…?」
「もし、お母さんが直接誘ってくるような事があったら…はっきり行かないって断ってほしいの」
「え!そ、そんな事あるの?」
「あの人ならやりかねない。この前も、勝手にそっちのアドレス写し取ろうとしてたし」
「え…」
怖…。
「頑張って止めてみるけど…あの人に本気出されると、私じゃ全然敵わないんだよね」
「そうなんだ…」
斉川が敵わないってどんだけだよ。
「ってか、素直に俺が行くって選択肢は…」
思い切り困った顔で首を横に振られた。
「う…そ、そっか。ごめん」
すごく行ってみたいけど、ここは我慢しなくては。彼女に嫌われるのは嫌だ。
すると、斉川がじーっとこちらを見つめてきた。
「え、な、何?」
「…今、行ってみたいとか思ったでしょ」
「えっ!?」
な、なんで分かったんだ?!
斉川は呆れたようにため息をついた。
「顔に出てるよ」
「え!嘘!!」
思わず両手で顔を触る。
「ふふっ、そんな反応しなくても」
「あ…」
しまった、また笑われた…。
一気に顔が熱くなる。
「ちゃんと断ってくれないと、勉強教えるのやめるから」
「え…え!?」
笑顔で言われたその言葉に、光毅は目を見開いた。
「だめ!絶対だめっ!!ちゃんと断るからやめないで!!」
「ふふふっ、分かった。じゃあ頑張って」
「頑張る!頑張るから絶対やめないでよ?!」
「分かったって」
§
いつものようにコンビニの角で小坂と別れ、碧乃は電車へと乗り込んだ。
「はぁー………」
閉まった扉に寄りかかり、体内の空気を全て吐き出す。
危なかった……。本当に危なかった。
山内に口止めしておきながら、自分でばらしてしまう所だった。彼の前で正常でいられないなんて、自分は相当疲れているらしい。笑ってすっきりしていなければ、あんな理由絶対思い付けなかった。彼は少々落ち込むかも知れないが、谷崎との事を知られるのに比べれば全然大した事はない。すぐに立ち直らせる事ができるだろう。
彼に話した事は嘘ではない。本当にあの2人に、彼を誘うように言われたのだ。
…ああ、だからか。
2人が残っていた力を根こそぎ奪っていったから、こんなおかしな状態に陥ったのか。
理由を与えてくれた事には感謝するが、やはりあれはやめてほしい。
なんで放っておいてくれないんだろう…?
男と女であったら、深い仲にならないといけないのだろうか。
確かに、彼といるのは楽しい。勉強を教えている時間も割と好きだ。あのコロコロ変わる表情も、見ていてとても面白い。再び勉強を教えるという事に抵抗がなかったのは、根底にそういう考えがあったからだろうとも思っている。
けれどそれ以上に、彼といるのは疲れるのだ。そしてものすごく面倒くさい。
……面倒なのは、嫌いだ。
彼の恋人になってそれら全てを一身に引き受けるなんて、死んでも御免だ。絶対自分の身がもたない。
今この時だけの関係で、なおかつ喫茶小路の存在が付加されていたから、彼を拒絶せずに済んでいるのだ。
嫌いではない。ただそれだけ。そこからの向上なんてあり得ない。
なぜなら小坂に言った通り、人間自体に興味がないのだから。誰かを好きになるという感覚が、そもそも自分の中には存在していない。やはり自分は人間失格だ。
まぁそれ以前に、彼が自分をそういった対象に位置付けるはずがないが。
「……」
そこでふと考える。
彼はなぜ、彼女を作らないのだろうか。
……理由はなんとなく思い付く。
難なく手に入ってしまう『彼女』という存在を相手にするよりも、自分をおもちゃにして遊んでいる方が楽しいと感じてしまっているから。
「はぁ…」
碧乃は再びため息をつく。
人の恋路をとやかく言うつもりはないが、できればさっさと彼女を作ってほしい。そして自分を解放してほしい。そうすれば、再びいつも通りの日常が戻ってくる。平和な日々を過ごす事ができる。
…早く、おもちゃに飽きてくれないかなぁ…?
ガチャッ。
………ん?『ガチャッ』?
音で我に返りふと前を見ると、自分の手が家の扉を開けている所だった。
「え………」
どうやら、考え事をしている間に無意識に帰り着いてしまったようだ。
自分の行動に愕然として立ち尽くしていると、『おかえりー!』と2つ揃ったなんとも明るい声が聞こえてきた。
…ああ……しまった………。
心の準備ができないままに、碧乃は部屋へと連行されていった。




