彼の家 後編
1階から玄関の扉の音が聞こえ、碧乃は小坂が持つバスケの雑誌から顔を上げた。
誰か帰って来たのかな…?
「多分、絢菜だよ」
部屋の扉の方を見ていると、同じく顔を上げた小坂が教えてくれた。
「?」
あやな?
「ああ、俺の姉貴」
「ああ…」
お姉さんか。
小坂に姉がいる事は以前教えてもらっていた。確か、二十歳の大学生と言っていた。
ほどなくして小坂の姉らしき足音が階段を登り、彼の部屋の前で止まった。
トントンというノックの音と共に、姉の声が聞こえる。
「光毅、入るよー」
「おー」
小坂の応答で扉が開き、声の主が顔を覗かせた。碧乃と目が合うと、ニコッと笑いかけた。
「こんばんは」
「あ、こ、こんばんは…。お邪魔してます」
碧乃が軽く会釈をすると、小坂の姉は部屋へと入ってきた。
「初めまして、姉の絢菜です。よろしく」
落ち着いた口調の小坂絢菜は、予想通りというべきか、とても綺麗な人だった。母親の恭子とよく似た面差しに長いストレートヘアで、『可愛い』よりも『美しい』という言葉が似合っていた。
「…ところで光毅、何してるの?」
絢菜は挨拶を終えると、小坂にしかめ面を向けた。
「え?何って…バスケの話」
今彼は、隣に座る碧乃に雑誌を見せながらバスケの説明をしている所だった。
「そんな話女の子にしても面白くないでしょ」
「え、だって、斉川が聞きたいって言うから」
「え…そうなの?」
絢菜は驚いた顔で碧乃を見た。
「あ、はい。どういうものか気になったので」
「全然面白くないでしょ?」
「いえ、面白いですよ。今まで触れた事ない分野なので、聞いてて楽しいです」
笑顔で答えると、絢菜は目をパチクリさせた。
「……へぇー、すごいわね碧乃ちゃん。光毅の話についていけるんだ」
「え?」
「難しい事ばっかり言うから、途中で分からなくなったりしない?」
「あー、まぁ、用語とかはちょっと難しいですけど、ついていけない事はないですよ」
雑誌を見ながらの説明なので、割とすんなり頭に入ってきた。戦略などはよくできたパズルのようで、何だか面白いし。そして、彼があまりにも楽しそうに話すものだから、つい引き込まれてしまっていた。
「絢菜とは頭の出来が違うんだよ」
「うるさいわね」
「……」
そんな良い出来にはなってませんが…。
碧乃は複雑な表情で2人のやりとりを聞いた。
ニヤッと笑う弟を睨んでいた絢菜は、ふっと表情を和らげため息をついた。
「…まぁいいわ。ご飯もうできるから降りといでって」
「ん。分かった」
自室にかばんを置いた絢菜と3人でリビングへ行くと、ダイニングテーブルにはこれでもかという数の豪華な料理が並んでいた。
「す…すごいね…」
「あ、ああ…。これは、さすがに…」
「作り過ぎね…」
驚く碧乃の横で、姉弟2人も呆れ返っていた。
「どうしたの?皆してボーッと突っ立っちゃって」
キッチンの向こうにいる恭子が、不思議そうな顔で話しかけてきた。
「いや、だって…」
「お母さん、ずいぶん張り切ったのね」
「そうなのー!碧乃ちゃんに喜んでもらいたくて、すっごく頑張ったのよ!」
恭子は、呆れる2人に胸を張ってみせた。
「頑張り過ぎだろ…」
「まぁ、予想はしてたわ…」
「ん?何か言った?」
鍋をかき回していた母に、姉弟の呟きは聞こえなかったらしい。
2人は何でもないと首を振った。
恭子に促され、3人はテーブルについた。碧乃と小坂は先程と同じ場所に、絢菜は小坂の向かい側にそれぞれ腰を下ろした。
すると、玄関から誰かが帰宅する音が聞こえた。
「あ、帰ってきた!おかえりなさーい」
恭子は嬉しそうにパタパタとリビングを出ていった。そして少しすると、会社用と思われるかばんを持ち、スーツ姿の男性を連れて戻ってきた。
その男性は碧乃を見つけるなり軽く目を見開いたが、すぐに優しく微笑みかけた。
「こんばんは。君が碧乃ちゃんか」
「こ、こんばんは。お邪魔してます…」
碧乃は椅子から立ち上がって頭を下げた。
「初めまして、光毅の父の正晴です。よろしくね」
「あ、はい、よろしくお願いします」
どうやら小坂の家族は全員が美形らしい。父の正晴は、小坂が年齢を重ねるとこうなるのだろうという顔をしていた。そして小坂とは比べ物にならない程の色気を纏っており、まさに大人の男といった感じの人だった。
「…本当、光毅が言っていた通りだね」
「?」
「大人っぽくて格好良い黒髪美人」
「えっ……」
なんだ、その極限まで美化された表現は?!
思わず隣に座る小坂を睨む。
「え!なんで睨むの?」
「……」
変なイメージで説明しないで!
家族の前で怒り出す訳にもいかず、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「…なんでもない」
小坂から視線を外し、ゆっくりと息を吐き出した。
「それにしても、今日は一段と豪華だねぇ」
正晴が、テーブルを埋め尽くす料理を見て言った。
「でしょー?碧乃ちゃんのために精いっぱい腕を振るったんだから!」
「ああ。頑張ったね、恭子。どれもおいしそうだ」
正晴は自慢気に話す恭子の頭を撫でた。
「こんなに沢山、大変だったろう。手は荒れたりしていないかい?」
今度は恭子の手を取り、愛おしそうに指先で触れた。
「ええ、大丈夫よ。心配してくれてありがとう、正晴さん」
「当然だよ。君の美しい手に傷が付いたら、それこそ大変だからね」
そのまま2人は熱い眼差しで見つめ合った。
「……」
な…なんだ、これは…。
碧乃は座るのも忘れ、目の前の薔薇が舞い飛ぶような光景に唖然としていた。
「ちょっとそこ2人!碧乃ちゃん引いてるからやめなさい」
うんざり顔の絢菜が、未だ見つめ合う2人を止めた。
「あ、い、いえ、引いてなんて…」
いや、引いたかも。しかもかなり。
「もう座ったら?」
「え、ああ…」
小坂に言われ、立っていた事を思い出し椅子に座った。
「仲良いんですね…」
「良すぎて迷惑よ、全く」
絢菜は腕を組んで苛立ちを露わにした。
「まぁ、いつもの事だからもう慣れたけどな」
「そ、そうなんだ…」
平然としている小坂を見て、碧乃はある推測に行き着いた。
彼の言動が大胆なのは、あれを見慣れてしまったせいかも知れない。見慣れ過ぎて、彼の中の基準が普通のそれと大きくかけ離れてしまったのではないだろうか。
小坂光毅なる人物がいかにして形成されたのか、少しだけ分かった。
料理が冷めるという絢菜の指摘に2人は動き、ネクタイを外したYシャツ姿の正晴は碧乃の斜め横に、恭子はスープを取り分け皆に配ってから絢菜の隣に座った。
帰りは絢菜が車で送ってくれるというので、正晴と恭子は赤ワイン、あとの3人は冷たい緑茶で乾杯をした。
恭子はワイングラスを置くと、料理を取り分けて碧乃に次々渡していった。
「碧乃ちゃんどうぞ!今日はとってもおいしくできたのよ!だからどんどんおかわりしてね!」
「あ、ありがとうございます。でも、あの、そんなにいっぺんには…」
「さぁー、食べて食べて!」
「え、あ、はい。あ、あのもうそれくらいで…」
「もう、ほら遠慮しないで…」
「母さんストップ!」
「え?」
小坂が、碧乃の前に突き出された皿を手で止めた。
「もう置けないから」
碧乃の前は取り分けた皿でいっぱいになっていた。
「あら、ごめんなさい。気付かなかったわ。じゃあ、これは光毅にあげる」
「あ、ああ、どうも」
小坂は止めた皿をそのまま自分の前に置いた。
「放っとくと暴走するから気を付けて」
「わ、分かった…」
恭子は皆への皿攻めを終えると、今度は碧乃に期待の目を向けてきた。
「一番の自信作はグラタンなの!是非食べて!」
「あ、はい、じゃあいただきます…」
恭子の迫力に押されつつ、グラタンを一口食べた。
「あ、おいしい」
「でしょー?」
碧乃は驚いた顔でこくっと頷いた。
「これ、普通のとちょっと違いますよね?」
「そう!分かる?実は隠し味にお味噌が入ってるの!」
「へぇー、そうなんですか。なんか意外です。味噌ってこんなに合うんですね」
「私も初めて知った時はびっくりしたわー。でもおいしいから、うちではもうずっとこれで作る事にしちゃった」
「本当おいしいですね。今度うちでもやってみます」
「あら、碧乃ちゃんお料理するの?」
「はい、しますよ。母親が仕事で家にいない日は私がご飯作ってるんで」
「え!そうなの?!」
隣にいる小坂が驚きの声をあげ、碧乃はビクッと反応した。
「う、うん。そうだけど…」
そんなに大声出さなくてもいいでしょ。
「へぇー、初めて知った。え、もしかして自分の弁当とかも?」
「そうだよ」
「えー、すげー!」
「碧乃ちゃん、お母さんは何してる人なの?」
今度は姉の絢菜が質問をしてきた。
「あ、医者です」
「医者?!」
再び隣から大声が発せられた。
ビクッと碧乃の肩が跳ねる。
「……」
だから声大きいって…。
碧乃はしかめ面で小坂を見た。
「なんかすげーな、斉川ん家。…あ!てことは、斉川の頭の良さは母親譲りなのか」
「え?うーん、良いかどうかは別として、理系脳な所は同じだね」
「へぇー」
「お医者さまって事は、結構お忙しいんじゃない?」
話し相手が恭子に切り替わる。
「そうですね。夜はいつも遅いし、当直とかで家を空ける事も多いので、月の半分以上は私と妹が家事をしてる感じです」
「まぁ、そうなの?大変ねぇ」
「だから碧乃ちゃんはこんなにしっかりしているんだね」
父の正晴も話に加わってきた。
「いえ、してないですよ。別に普通です」
そう言うと、グラタンを再び口に運んだ。
おいしい。やっぱりうちでもやろう。
「あら?ちょっと待って。じゃあ碧乃ちゃんは、家事をしながら光毅に勉強教えてたって事?」
「あ!そういえば」
姉弟2人が驚きの表情を見せた。
「あ、いえ、違います。試験期間中は勉強に集中できるようにって、家事は免除されるので大丈夫ですよ。父が適当にやってくれます」
「ああ、なんだ。そうなのね」
「びっくりしたー。俺どんだけ負担かけてんだよとか思っちゃった」
「ふふっ、ご心配なく」
安堵する2人に笑いかけた。
「良かった。あ、じゃあ今度さぁー」
「?」
「俺にもご飯作って」
「は?!」
いきなり何言ってるの?!
「……なんで?」
碧乃は眉根を寄せ、小坂を睨んだ。
「うっ…いや、あの、斉川の料理食べてみたいなぁって…思って…」
言いながら、だんだんと俯いていった。
「……」
これはもしや…。
「だめ?」
やっぱり。
上目遣いの不安気な子犬登場。
碧乃は小坂から視線を外し、ため息をついた。
これはもう癖なんだな…。
「…だめ」
「え、な、なんで?」
「なんとなく」
「何、なんとなくって?」
「だって…私に得がない」
むしろ損だ。なぜ自分の料理の腕を家族以外に披露しないといけないのか。しかもこんな料理上手な母親を持っている人に。
「え?得?ちゃんとお礼ならするよ」
「いらない、そんなの」
「えー?何でもするから」
「しなくていい」
「うーん…、じゃあどうしたら作ってくれる?」
「ど、どうって…」
王子にしろ子犬にしろ、彼の中に『諦め』という概念はないらしい。実に面倒くさい。
「人にふるまう程の腕じゃないから、別に食べなくてもいいと思うけど…」
「そうかなぁ?上手そうだけど」
「上手くないよ」
「でも下手ではないんだろ?」
「え?う、うーん……まぁ、普通…」
「じゃあいいじゃん。俺は食べたい」
「っ……」
『食べなくていい』と喉まで出かかったが、やめた。この感じだと言って拒否した所で、どうせ拗ねて強制的に承諾させられる。
結局、自分は彼には逆らえないようだ。
しかし素直に承諾するのは、なんか嫌だ。
さて、どうしようか…?
「……あ」
頭の中に閃きが生じた。
「え、何?」
「期末試験の結果次第では、作ってあげてもいいかも…」
「嘘?!本当に?」
彼の大声に、またしても肩が跳ねた。
もうちょっと大人しい反応できないかな…。
「本当だよ。嘘つけないの知ってるでしょ?」
「うん、知ってる。やった!頑張るから絶対作ってよ?」
「分かったよ。じゃあ、全教科の点数が前より上がってたらね」
「え、赤点取らないだけじゃだめなの?」
「だめだよ。早めに勉強始めてるんだから、目標も少し高くしないと」
すんなり達成されたら困る。
「やればできるんだから頑張って」
ニコッと笑いかけ、拒否権を奪った。実は弟にも同じような方法で勉強させる事があるので、相手の反応は手に取るように分かる。
「うっ……わ、分かった、頑張る。え、絶対だからね?」
「分かったってば」
やっと会話が終了。なんか疲れた。
嬉しそうな小坂を横目に、グラスの緑茶に手を伸ばした。
「……すごいわね、碧乃ちゃん」
「え?」
声のした方を見ると、小坂一家の3人が驚いた顔でこちらを見ていた。話しかけたのは母の恭子だった。
「光毅のわがまま、完璧に利用してる」
「本当、見事なもんだ」
絢菜と正晴も感嘆の声を漏らす。
しまった…。人ん家の息子を、あろう事か親の前で説き伏せてしまった…。
「え?俺利用されてたの?」
小坂がキョトンとした顔を見せた。
「ご褒美欲しさに頑張る犬みたいよ」
「い、犬?!」
「途中、あんたの後ろにしっぽが見えたわ」
「え!どこがだよ!俺、犬じゃねぇよ!」
絢菜の平然とした言葉に、小坂はむきになって返した。
「す…すいません……出過ぎた真似を…」
碧乃はばつの悪さに頭を下げた。
「いえ、いいのよ!むしろ大歓迎だわ!」
恭子が楽しそうに、碧乃に満面の笑みを向けた。
「これからも光毅の事、どんどん躾けてやってね!」
「だから俺、犬じゃないって!!」
碧乃の肩書きが、家庭教師兼トレーナーとなった。
他愛ない話をしながらの夕食も終わりに近付いた頃、小坂が恭子に話しかけた。
「あ、今日のデザート何?」
「今日はティラミスのつもりだったけど、碧乃ちゃんがシュークリーム買ってきてくれたから、そっちを食べましょ」
「シュークリームか。良いねぇ」
正晴も加わったその会話に、碧乃は目を剥いた。
「え!あ、あの…まだ食べるんですか…?」
「当然よ!甘い物は別腹。ふふっ」
「は、はぁ…」
恭子の言葉に、ただただ呆れるしかなかった。
テーブルを埋め尽くしていたご馳走は、作り過ぎと言われたにもかかわらず、あらかたなくなっていた。それなのにデザートまで食べようとは、この家族の胃袋は一体どうなっているのだろうか。
「いつもこうなの…?」
気になったので、隣にいる小坂に訊いてみた。
「こういうご馳走の時は必ず出るよ。普通の時もたまにね」
「そ…そうなんだ…」
うちじゃ考えられないな…。
「碧乃ちゃんには甘くないお菓子をお出しするわね」
「い、いえ、もうお腹いっぱいなので、遠慮しておきます」
恭子の皿攻めのおかげで、ちょっと食べ過ぎてしまった。
「あら、そう?」
「せっかく用意して頂いたのに、ごめんなさい…」
「そんないいのよ、気にしなくて。じゃあ、ハーブティーを淹れてあげるわね」
「あ、はい。ありがとうございます」
テーブルを片付け終えて一息つくと、母の恭子はシュークリームとハーブティーを皆に出した。ちなみに小坂には紅茶だ。碧乃にお礼を言いつつ、皆それぞれに食べだした。
「一口食べる?」
「え?」
小坂が自分の前のシュークリームを指差して訊いてきた。
「買った本人が味知っておいた方が良いかと思って」
「ああ。いいよ別に。ちゃんと人気あるやつ選んだし、感想聞ければそれで分かるから」
「そっか。んじゃいただきまーす。…ん!うまっ!」
頬張った瞬間、小坂の目が輝いた。
「本当?大丈夫だった?」
碧乃の問いに小坂はこくこくと興奮気味に頷いた。
「生地サクサクで最高!甘さも丁度良い」
「ふふっ。なら良かった」
中野さんに照れると言わせた幸せそうな顔に満足し、碧乃もハーブティーに口を付けた。
ハーブの心地良い香りに浸っていると、豪快にかぶりついた小坂がクリームをこぼしそうになっていた。
「!危なっ!」
慌てたせいか、頬にクリームが付いていた。
「付いてるよ」
「え、どこ?」
碧乃は自分の顔を指差して、クリームの付いた箇所を教えた。
「ここ?」
小坂は、示した所とは違う箇所を触った。
「もっと右」
「右?ってこっち?」
「違う、反対」
「あ、こっち?」
「んで、もっと下」
「下?…ここ?」
「違う」
「えー?どこ?」
ああ、もう面倒くさいな!
「もういい、じっとして」
テーブルの上のおしぼりを手に取ると、小坂の顎に手を添えてクリームを拭った。
「ん。取れた」
添えた手を下ろし、おしぼりをテーブルに戻した。
全く、世話の焼ける…。あんたは私の弟か。
「……」
「?」
小坂はなぜか体を硬直させたまま、顔を真っ赤にしていた。
子ども扱いされたのが、そんなに恥ずかしかったのだろうか。
…まぁでも、部屋でやられた仕打ちを考えたら、これくらい良いよね。
碧乃は平然とハーブティーに向き直り、再び堪能し始めた。
小坂一家は、その光景を面白そうに眺めていた。
「あら大変!もうこんな時間!」
驚く恭子の視線の先を見ると、壁に掛けられた時計が午後9時に差し掛かる所だった。
「碧乃ちゃんが聞き上手だから、つい話し過ぎてしまったわ!ごめんなさい」
「いえ、そんな。私も楽しくて気付きませんでした」
小坂一家との会話が面白くて、碧乃自身も時間の事をすっかり忘れていた。
「じゃあ、そろそろ帰ります」
「荷物取ってくるよ」
「あ、う、うん」
小坂は部屋に置いてきた碧乃のかばんを取りに行き、絢菜も車を出しに外へ出ていった。
母の恭子は、キッチンからハーブティーの入った紙袋を持ってきて碧乃に手渡した。淹れ方のメモも入っているとの事だ。
「今日はごちそうさまでした。すごくおいしかったし、楽しかったです。ありがとうございました」
恭子と正晴に笑いかけると、2人からも笑顔が返ってきた。
「こちらこそ、来てくれてありがとう。私もすっごく楽しかったわ。是非またいらしてね!」
「君と光毅のやりとりは面白いからね」
「え、あ、はぁ…」
そんなに面白かったかなぁ…?
3人で廊下へ出た所で、小坂が下へ降りてきた。
「はい」
「………え?」
小坂が、碧乃のショルダーバッグではなく、それとは反対の手に持っていたコートを差し出してきた。
「今日上着着てこなかっただろ。外寒いからこれ着て。俺のだから、ちょっとでかいかもだけど」
「え…いらないよ」
碧乃は首を横に振った。
「なんで?」
「そんなに寒くない」
「寒いよ。夜遅いんだし」
「耐えられない程じゃないから大丈夫だよ」
「…そこ耐えなくていいから」
平然と返したら、なぜか呆れられた。
「てか、学校の時も着てないよね?」
「だって、厚着したら動きにくい」
「温かさより動きやすさ重視かよ」
「どうせすぐ電車乗るし、動きにくいと邪魔で面倒くさい」
小坂は渋い顔でため息をついた。
「…そんな事言ってるから、手冷たいんじゃないの?」
なんだと?
碧乃はキッと小坂を睨んだ。
「うっ…ほ、本当の事じゃんか!着た方が良いよ」
「いらないって。すぐ車乗るんだから大丈夫」
「念のためだよ。いいから着て」
「念のため程度なら必要ない」
「じゃあ絶対必要だから着て!」
「やだ」
「着てよ!」
「嫌!ってか、かばん」
「着ないとあげない」
「なっ!…」
なんでそうなる?!
眉根を寄せる小坂と睨み合った。
すると、すぐ側からクスッと笑う声が聞こえた。
「…いやー、2人は本当に面白いねぇ」
声の主は父の正晴だった。
「碧乃ちゃん、残念ながらここは折れた方が良い」
「そうよ。大事なお嬢さんに風邪なんてひかせてしまったら大変だわ」
「う…」
小坂に加勢され、碧乃の拒否権は奪われた。
「………はい」
§
ったく……、変なとこ強情なんだから。
持ってきたコートは、短めのを選んだがやっぱり大きかった。斉川に着せると、彼女の手がすっぽり隠れてしまった。
そして動きにくいと不満顔になっているせいで、彼女からはいつもの大人っぽい感じが消えていた。
…なんか可愛い、これ。
ついじーっと見ていたら、また睨まれてしまった。
絢菜が戻ってきたので、光毅は斉川と一緒に靴を履き、玄関に立った。彼女の家の前まで一緒に行くつもりだ。
「お邪魔しました」
なんとか笑顔を見せ、斉川は両親に軽く会釈をした。
「本当ごめんなさいね、こんな遅くまで」
「いえ、大丈夫です」
「光毅、碧乃ちゃんのご両親に会ってちゃんとお詫びしてきてね」
「ああ…」
「え!?」
母親の言葉に斉川は目を剥き、顔を引きつらせた。
「いっ、いいです!そこまでしなくても、私から言っておけば大丈夫ですから!」
明らかに動揺している。どうしたのだろうか。
「そういう訳にはいかないわ。ご両親に心配かけてしまったもの」
「あ、あのっ、でも、なんか申し訳ないですし…」
「申し訳ないのはこっちの方よ。気にしないで。じゃあ光毅、お願いね」
「あ、ああ、分かった」
「……」
斉川は無言で俯いてしまった。
両親にぎこちなく笑顔を見せていた斉川は、車が発進すると再び無言で俯いた。
一緒に後部座席に乗ったため隣にいるのだが、髪に隠れて表情は全く見えなかった。
すると急に、彼女がすがるようにこちらを見上げた。
「…ねぇ、本当に会わないとだめ?」
「!?」
え!何これ、すげー可愛いんだけど!?
「い、いや……えっと…」
可愛さに動揺して答えられずにいると、運転中の絢菜が代わりに訊き返した。
「碧乃ちゃん、もしかして光毅を親に会わせたくないの?」
「え…」
「え!そうなの?!」
今度は別の理由で動揺した。
「俺ってそんなにダメな奴?」
抑えられずに訊いてしまった。
「あ、ち、違うの!そうじゃなくて」
斉川は慌てて首を振ると、俯き気味に目をそらした。
「あの……、会わない方が身のため…っていうか…」
「へ?」
「会うと…後が大変で……」
「?…どういう事?」
「……」
顔をしかめただけで、答えてくれなかった。
「うーん、嫌がる理由はよく分からないけど、会わないのは良くないと思うわ」
絢菜の言葉に、斉川はチラッと運転席の方を見た。
「…やっぱり…だめですか?」
「そうねぇ。お詫びはちゃんとしないと」
「………分かりました」
隣の彼女は目を閉じてため息をつくと、意を決したようにそう言った。
「……」
何がそんなに嫌なんだ…?
これから会う彼女の両親に大きな不安を抱いた。
斉川の指示とカーナビのおかげで、無事に彼女の家の前に到着。時刻は午後9時47分。迷わず来られたが、やはり遅くなってしまった。
事前にメールで伝えたから怒られる事はないと彼女は言うが、先の動揺ぶりを見た後ではどうしても不安が拭えない。
斉川の両親ってどんな人達なんだろ…?
「…え、何やってんの」
ふと隣を見ると、斉川がさっき着せたコートを脱ごうとしていた。
彼女の両手を取って動きを止める。
「!…だ、だってもう着いたよ」
「家ん中入ってから脱げば良いだろ」
「やだ!突っ込まれ所は少ない方が良い!」
「へ?」
『突っ込まれ所』って何だ?
「……ああ、そういう事ね」
運転席にいる絢菜が、なぜか納得の声を上げた。
「え?な、何がそういう事なんだよ?」
「あんたを親に会わせたくない理由が分かったの」
「え、何?」
「後で分かるわよ」
「は?何だよそれ」
全然意味が分かんねぇよ。
絢菜は振り返って斉川の方を見た。
「ごめんね、碧乃ちゃん。私が行っても良いんだけど、それだと光毅の立場がなくなっちゃうから」
「分かってます。だからせめてこれだけでも…」
「そうねぇ。でも寒くない?大丈夫?」
「大丈夫です。すぐに家に入ります」
「分かったわ。光毅、離してあげて」
「え、なんで…」
「いいから」
2人の会話についていけないまま、斉川の手を離した。
渋々、脱いだコートを受け取り車に置く。
何なんだ、一体…?
「それじゃあ、送って頂いてありがとうございました」
「こちらこそ、楽しかったわ。もし嫌にならなかったら、また遊びに来てね」
「あ、は、はい」
斉川は苦笑いで返した。
「じゃあ頑張って。大変だろうけど、後で光毅も同じ目に遭うはずだから、それで許してね」
「後で?……ああ、やっぱりそうなんですね。分かりました」
今度は斉川が納得の顔をした。
「…俺は全然分かんないんだけど」
「今分かってもどうにもできないわよ。ほら、もう行かないと遅くなっちゃう」
絢菜に促され、2人は車を降りた。
玄関の扉の前まで来ると、斉川は渋い顔で光毅を見上げた。
「…どんな反応されるか私にも分かんないから、気を付けてね」
「え、何それ!」
なんか怖いんだけど!
「とりあえず、声がでかいとだけ言っておく」
「……」
注意点そこ…?
斉川は1つ深呼吸をすると、扉を開けた。
早く入るようこちらを促し、しっかりと扉を閉めてから声を発した。
「ただいま」
ガチャッと廊下左側の扉が開き、母親らしき人が出てきた。
「おかえりー!今日は……」
自分と目が合うと、なぜかそのまま硬直した。
と思ったら、次の瞬間両手を頬に当て、驚きの表情であらん限りの叫び声を発した。
「きゃあああぁぁぁーーーーーーー!!!超絶イケメーーーーーーーン!!!」
家中に響くその声に、玄関の2人は慌てて耳を塞いだ。
「どうしたんだ?そんなに騒いで」
同じ扉から、しかめ面の父親らしき人が現れた。光毅を見て目を見開くと、斉川と目を合わせた。
対する彼女は、耳を塞いだままばつが悪そうにこくっと頷いた。
「え、あ、あの…」
状況が呑み込めず斉川に話しかけようとしたら、なぜか止められた。
「まだ耳塞いでて」
「え、なんで…」
「いいから」
すると、廊下右側にあった階段から妹が降りてきた。
「なになに、どしたの?お姉ちゃん帰って……」
またしても目が合うと硬直され、母親と同じ動きをされた。
「きゃあああぁぁぁーーーーーーー!!!超絶イケメーーーーーーーン!!!」
「!!」
光毅は慌てて耳を塞ぎ直した。
な、何だよこれ…。
「ち、ちょっと碧!!こんなに格好良いなんて聞いてない!」
「そうだよ!!なんでちゃんと言ってくれなかったの?!」
「……」
「てかあんたその格好で行ったの?!」
「あり得ない!馬鹿じゃないの?!」
「……」
母と妹の詰問を、斉川はしかめ面で受けていた。
「静かにしないか、2人共」
怒りの滲む父の声に、2人は押し黙った。
「すまなかったね。ええと、名前はなんと言うのかな?」
彼の言葉に、唖然としていた光毅は我に返った。
「あ、こ、小坂光毅です」
「小坂君、2人が失礼な振る舞いをして申し訳ない」
「い、いえ…」
「だって碧が!」
「お姉ちゃんが!」
「いい加減にしなさい」
再び2人が押し黙る。
同じのが2人いる…。
黙っていれば普通の親子なのだが、言動が同じなために双子のように見えた。
2人共斉川ほど髪は長くないが、彼女ととても良く似ていた。しかし性格は正反対なようで、物静かな彼女にこんな家族がいたのかと驚いてしまった。
……あ、今日の事謝るんだった。
「あの…いつも、あ、碧乃さんにはお世話になってます。今日は、こんな遅くまで引き留めてしまってすみませんでした」
慣れない呼び方にも緊張しつつ、深々と頭を下げた。
「きゃー!碧乃さんだってー!」
「お世話になってますだってー!」
きゃあきゃあ騒ぎ出した双子を、斉川と父の睨みが黙らせた。
「ご丁寧にどうも。わざわざ送って頂いたそうで、ありがとうね」
「あ、いえ、そんな」
頭を上げ目を合わせると、彼女の父親は優しく笑いかけてくれていた。斉川の真っ直ぐな目と纏う雰囲気は、彼から受け継いだものだという事が分かった。
「じ、じゃあ、俺はこれで…」
「えーーーー!もう帰っちゃうの?!」
「碧との事全然聞いてない!!」
「何言ってるんだ!こんな時間に引き留めるんじゃない」
父親が語気を強めた。
「だ、だって…」
「聞いてみたいじゃない、いろいろと」
「だとしても、今はだめだ。外にお姉さんを待たせているんだろう?」
斉川の父が光毅に顔を向けた。
「あ、はい、まぁ…」
「あ!じゃあ今度はこっちが呼べば良いんだよ!」
「なっ!?」
妹の言葉に、今まで無言を貫いていた斉川が反応した。
「あ、そっか!でもいつにしよう?私が休みじゃないといけないからー…」
「ち、ちょっと!勝手に話を進めないで!」
動揺を露わに、彼女は母の発言を止めようとした。…が、全く聞き入れてもらえなかった。
「光毅君!」
「っ!は、はい!?」
突然の呼びかけに、光毅はビクッと反応した。
「頑張って休み取っておくから、来月絶対遊びに来てね!」
「え!…」
「だから勝手に決めないでって!」
光毅が返答する間もなく、斉川が再び止めに入る。
「いいじゃない!せっかくできたお友達なんだし」
「違うよお母さん、友達じゃなくて…」
「陽!!」
斉川は妹を鋭く睨み付けた。
「やめないか!みっともない!」
父の雷に、3人はピタリと動きを止めた。
ため息を1つつくと、彼は斉川に話しかけた。
「碧乃、2人は止めておくから小坂君をお見送りしておいで」
「…分かった」
「小坂君、本当にすまないね。今日はわざわざありがとう。お姉さんとご両親によろしくね」
「は、はい…。じゃあ、失礼します」
状況に圧倒されたまま何とか挨拶を交わし、斉川と共に外へ出た。
扉を閉めると、彼女は深く息を吐き出した。
「……ごめん」
「え、あ、いや…なんか俺の方こそごめん」
家の中からかすかに聞こえてくる声から逃れるように、扉から少し離れた。
「…びっくりしたでしょ?」
「あー……うん。した」
「今日は2人相手だから、特に面倒くさいんだよ」
「みたいだね…」
だから、あんなに嫌がったのか。
「……さっきのあれは気にしないで」
「?」
「家に呼ぶって話」
「ああ。…別に呼んでくれても良いけど?」
「……」
思い切り嫌そうな顔をされた。
…まぁ、そうだよな。
光毅はクスッと笑った。
「じゃあ、帰るよ」
「あ、うん。気を付けて帰って」
「分かった。冷えるからもう家入りなよ」
「………入りたくない」
頭を抱える姿に、光毅は苦笑いを浮かべた。
「頑張って。俺が言える立場じゃないけど」
「うん……」
斉川が、同じく苦笑いでこちらを見上げた。
「そっちもね」
「え…?俺?」
キョトンとすると、頷きが帰ってきただけだった。
おやすみと挨拶を交わし、斉川が家に入ったのを見届けると、光毅は車に乗り込んだ。
「おかえり。どうだった?」
「なんか…すごかった」
その時、光毅のスマホから電話の着信音が鳴り出した。
画面に表示されたのは、『山内圭佑』。
「……なぁ、絢菜」
着信音が鳴りっぱなしのまま、運転席に話しかけた。
「何?」
「同じ目に遭うって……これの事?」
このタイミングにおける彼の用件は、1つしかない。
「そうよー。そっちの家の前で降ろしてあげる。あまり遅くならないでね」
「……」
スマホを座席に放り出し、光毅は深いため息をついた。




