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彼女の秘密、彼の誘い

 どうしよう……。何も思い付かない……。

 あれから、もう5日も費やしたというのに。

 目の前でノートにペンを走らせる手を、頬杖をついてぼんやり見つつ、思考を全く違う方向へと巡らせていた。

 碧乃の読み通り、谷崎はあの約束をした日以降は執拗に迫ってくる事はなかった。しかしその代わり、廊下などで会うたび馴れ馴れしく挨拶をしてきたり、金曜が楽しみだなどと言ってきたりと、碧乃の精神力を確実に削いでいた。お前は逃げられないと暗に告げられ、あの男の存在に恐怖すら感じるようになっていた。

 谷崎に捕まったら最後、自分はあの男の好奇心に弄ばれ、何もかも奪われてしまうだろう。

 …そんなの絶対に嫌だ。

 何としても、逃げ切らなければ。

 …なのに。

 恐怖と焦りばかりが先行し、頭の回転はどんどん鈍くなっていった。この類に免疫がないせいもあるのだろう。そこをうまく突いた谷崎の策略にまんまとはまりつつあった。

 もう…どうしたらいい……?

 碧乃は小坂の手から顔へと、目線を移した。

 彼は下を向いていて気付かない。

 もしも逃げられないのなら、その前に。

 いっそのこと違う誰かに、時に安心感すら与えてくれるこの人にでも全てをあげてしまえたら、少しは楽になれるだろうか。

 …………何、馬鹿な事考えてんだろ。

 どうやら、自分が思っている以上に追い詰められているようだ。

 碧乃は心の中で苦笑した。

 そんな事できる訳がない。彼に迷惑がかかるだけだ。第一この事を知ったら、またこちらに負い目を感じて『俺のせいだ』と自分を責めてしまう。

 たかがおもちゃのために、そんな思いを抱く必要はない。素直なまま、気楽にこちらをからかっていればそれで良い。

 ちょっと言い寄られたくらい、1人でかわしてみせる。誰にも迷惑をかけないように。今までそうやって、どんな事も1人で解決してきたのだから。

 …にしても、本当どうしようかなぁ?

 小坂に気付かれないように息を吐き出し、傍らのコーヒーに口を付けた。

 「…なぁ」

 「ん?」

 目を向けると、彼はノートの一点を指差した。

 「これって、どういう意味?」

 「ああ、これは…」

 思考を打ち切り、彼の家庭教師に戻った。



 「あ、あのさ…」

 「…ん?」

 勉強を終え一息ついていると、小坂がおずおずと話しかけてきた。

 「明日…なんだけど…」

 「…ああ、今日でだいぶ復習できたから、明日は来なくても大丈夫だよ」

 「え!そうなの?!…って、いや、そうじゃなくて…」

 「?」

 なんだ…?

 「あ、明日……家に来ない?」

 「………はい?」

 意味が分からず、変なトーンの声で返してしまった。

 何言ってるの、この人は?

 不審の目を向けると、小坂は慌てた様子で理由を述べてきた。

 「いや、あの、じ、実は…また勉強教えてもらう事になったって母親に言ったら…、『私からもお礼したいから絶対連れてきなさい』って言われちゃってさ…」

 「はぁ…」

 「だから、来てくれると嬉しい…っていうか、来てくれないと困る……」

 目の前の彼はそう言いながら、だんだんと俯いていった。

 「え…。い、いきなりそんな事言われても…。それに、わざわざお礼されるほどの事じゃないし…」

 「…やっぱだめかな?」

 「うっ…」

 またしても上目遣い。今日は困った顔で。

 碧乃は小坂から目をそらした。

 これ、無意識なんだよね…?

 「だ、だめって言うか…」

 「なんか、夕飯ごちそうするって張り切っちゃってさ…。一度決めたら絶対曲げない性格だから、断られると俺多分すげー怒られる…」

 「そ、そうなんだ…」

 彼の王子的性格は、母親譲りだったのか。

 うーん……、私のせいで怒られるのは申し訳ないよなぁ…。

 碧乃はため息を1つつき、再び俯いた小坂に向き直った。

 「…分かった。じゃあ、行くよ」

 「え?良いの?本当に?」

 小坂は驚いて、パッと顔を上げた。

 「う、うん…。今日帰ったら、親に言っとく」

 「やった!すげー嬉しい!」

 一気に笑顔に変わった彼を見て、碧乃は苦笑いを浮かべた。

 そんなにコロコロ表情変えて疲れないんだろうか。

 …まぁ、見てて飽きないけど。

 「でも、どうやって行けば良い?」

 「え?あー…、どうしようか」

 碧乃の問いに、今度は考え込む顔になった。

 この間の一件で懲りたらしく、学校近くの駅で待ち合わせなんて気は起きなくなったようだ。

 これは良い傾向だ。

 「じゃあ、どの駅で降りれば良いか教えて。そこで待ってるから」

 「あ、ああ、うん。分かった」



 会計を終え店を出ると、2人は並んで住宅街を歩いていた。

 「こうやって歩くの、なんか久々だな」

 「え?…ああ、そういえば」

 先週は別々に帰ったからなぁ。

 隣を見ると、嬉しそうな顔が浮かんでいた。

 しかし急に何かを思い出したのか、ふっと考える表情になってこちらを向いた。

 「そういえばさぁ…」

 「……何?」

 なんか、嫌な予感…。

 「斉川が勉強する目的って、何?」

 「……」

 ゆっくりと小坂から目をそらし、渋い顔でため息をついた。

 相変わらず目ざといなぁ…。いや、耳ざといの方が良いか。

 「そういう事は思い出さなくていいよ」

 「え!だ、だって気になっちゃってさ…。訊いちゃいけなかった…?」

 今度は思い切り不安気な表情を浮かべた。どうやら意地悪な王子は、不安気にすがる子犬になってしまったようだ。

 ちょっと、やり過ぎたかな…。

 これはこれで面倒くさい。

 「そういう訳じゃなくて…、なんか、気恥ずかしいというか…」

 「…なんで?」

 「…馬鹿にされそうな事だから」

 「しないよ。する訳ないだろ」

 「だからって、素直に応援されても困るし…」

 そんなの恥ずかしくて死んでしまう。

 「え、なんか、余計気になる。教えてよ」

 「やだよ」

 「えー?なんで?」

 「人に言うような事じゃないでしょ」

 「でも俺は知りたい!」

 「知らなくていい!」

 小坂はむーっとふくれた。

 「じゃあ、いいよ。気になって勉強が手に付かなくなったら、斉川のせいね」

 「なっ!?」

 前言撤回。全然やり過ぎてなんかいなかった。

 拗ねる小坂の横で、碧乃は頭を抱えた。

 何なの、もう…。

 「……分かった。言うよ」

 「え?」

 小坂の顔がパッと輝いた。

 「…笑わない?」

 「笑わない!」

 「誰にも言わない?」

 「言わない言わない!」

 小坂は全力で首を振った。

 碧乃はため息をつき、前を向いて話し出した。

 「…小さい頃からの夢を…叶えるため」

 「夢…?」

 小坂の問いに、こくんと頷いた。

 「昔飼ってた犬が病気になった時…、お世話になった獣医さんがいてね」

 小坂は静かに耳を傾けた。

 「余命わずかだってなっても、見放さないで懸命に処置してくれたの。命が尽きるその日まで、少しでも苦しまないように、少しでも…幸せでいられるように、って…。私にはそれが、すごく格好良く見えて……この人みたいになりたいって思ったの」

 「その獣医になるのが…斉川の夢?」

 「そうだよ。…おかしいでしょ?未だに夢を追い続けているなんて」

 苦笑いを向けると、小坂は立ち止まり、ふっと優しく笑いかけてきた。

 「おかしくないよ」

 「え…?」

 碧乃も同じく立ち止まった。

 「そんな風に追える夢があるなんて、すげー羨ましい。俺にはまだ、それがないから…。その人も格好良いけど、今の斉川もすごく格好良いよ」

 「!」

 まただ。またそうやって、真っ直ぐに人を褒める…。

 赤らむ顔を、俯いて隠した。

 「頑張ってる斉川見てたら、俺にも何か見つかりそうな気がするな。…それまで、こうやって近くで見てても良い?」

 「み、見てるって…」

 「だめかな?」

 小坂は首を傾げた。

 「う、うーん…」

 少し考えると、隣に立つ彼を見上げた。

 「…だめって言っても、どうせ聞かないんでしょ?」

 あなたはわがままだから。

 「え!い、いや…どうかな?」

 慌てて目をそらす様子に、碧乃は苦く微笑んでため息をついた。

 …まぁ、それも悪くはないのかも。

 誰かの目があった方が、途中で挫折せずに済むかも知れない。

 夢を実現させるのは、とても大変な事だから。

 「…じゃあ、いいよ」

 「え、いいの?」

 「好きにすれば?」

 小坂は嬉しそうに頷いた。

 「うん。じゃあ、そうする」

 「邪魔したら本気で怒るから」

 「……はい」



 コンビニの角まで来るとどちらからともなく立ち止まり、2人は視線を合わせた。

 「どうしようか?」

 「う、うーん…、やっぱ、別々に行った方が良いんだよな?」

 碧乃の問いに、小坂はおずおずと答えた。

 「んー、まぁ、念のためその方が良いかもね」

 「…分かった」

 あの写真騒ぎが相当こたえてるな。

 「じゃあ、また明日ね」

 「うん。ごちそう楽しみにしといて」

 「分かった。おやすみ」

 「おやすみ」

 小坂を角に残し、碧乃は駅へと歩いていった。

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