予想以上と予想外
カランカラン。
学校のジャージ姿の光毅は、喫茶小路の扉を開いた。
「おや光毅君、いらっしゃい」
中野さんの優しい出迎えを受ける。
「こんにちは、中野さん」
力なく返すと、中野さんは光毅の様子に気が付いた。
「なんだか元気がないねぇ。お疲れなのかい?」
「はは、まぁちょっと」
光毅は苦笑いを浮かべた。
「それは大変だねぇ。好きなだけゆっくりしていくと良い。注文はカフェオレかな?」
「あ、はい。ありがとうございます」
中野さんに軽く会釈をすると、光毅は店内を見渡して少し考え、2人で勉強をした奥のテーブルへ向かった。
自分の体がその動きを覚えてしまったのか、考えることなくいつもの場所へ座る。
かばんを降ろし、頬杖をついて目の前の空間をぼんやり眺めた。
以前と同じく1人でゆっくりしに来たのに、今日は何か物足りない。
1人の時間を欲していた自分は、いつの間にか2人の時間を欲するようになっていた。
今、何してるんだろ…?
授業の合間の短い時間でも本を開く彼女なら、休みの日は1日中読書に没頭していそうだ。
もしそうなら、軽い気持ちで電話をかけてはいけない気がする。大事な時間を邪魔したら、本気で怒って自分を嫌いになるかも知れない。
彼女に嫌われるのだけは、どうしても嫌だった。こんな些細な行いもためらってしまうほどに。
初めて、心を許せる人に出会えた。彼女なら本当の自分をさらけ出しても、ちゃんと受け止めてくれると思った。だから、あの真剣で真っ直ぐな眼差しが自分を見てくれなくなるなんて、耐えられない。考えたくもない。
他には何も望まないから、どうか自分のそばにいてほしい。
……そう、願っているのに。
「はぁ…」
光毅は昨日の圭佑との会話を思い出していた。
自分の中に疼くものが、焦りを訴える。
誰にも取られたくない。誰にも知ってほしくない。全部自分だけのものにしたい。自分だけを見てほしい。
どうしようもない独占欲が、純粋な気持ちの邪魔をする。
いつか彼女に傷をつけてしまいそうで、自分が怖い。
どうやったら、純粋な気持ちだけを伝える事ができるだろうか。
次は、どう接すれば良いんだ……?
カランカランと音がして、光毅は扉の方を振り返った。
なんだ、違うのか…。
入ってきたのは、自分が期待した人ではなかった。
向こうから来る訳ないか、と淡い期待を打ち消し、テーブルの上のカフェオレに再び目を向けた。
すぐに考え事を始めてしまった光毅は、扉の閉まる音が遅れた事に気付かなかった。
§
午後3時25分。碧乃は喫茶小路への道を歩いていた。
自分の読みが正しければ、彼は腰を落ち着けている頃だろう。
いつものあの席で、考え事でもしていてくれてると良いなぁ。
碧乃は小さな企みを抱いていた。成功する確率はほんの僅か。失敗した時は潔く諦めようと思っている。
…しかし、少しくらいこちらも楽しんだって良いではないか。
クスリと笑い、目的地を目指した。
店が見えた所で、碧乃は歩みを緩めた。
どうやったら気付かれずに入れるだろうか。
すると、自分とは違う道から来た初老の男性が店に向かっていくのが見えた。
これはと思い、店の扉に手をかけたその男性の少し後ろについた。
中に入った男性が手を離し、扉がゆっくりと閉まっていく。
小走りで近付き、閉まる直前の扉に手を添えた。
ベルが鳴らないよう、そうっと扉を開く。
音がしなかったせいで、中野さんはいつもより少し反応が遅れた。
入ってきた自分と目を合わせて驚く中野さんに、瞬時に口の前で人差し指を立てて見せ、声を出さないようお願いした。
その動作をしながら、チラッと奥のテーブルを見やる。
…いた!
読みは正しかった。彼はぼんやり頬杖をつき、こちらの存在には全く気付いていない。
こちらの意図を察してくれた中野さんは苦笑いを浮かべ、仕草だけで『奥へどうぞ』と示してくれた。
協力に感謝して笑顔で軽く会釈をすると、音を立てないように彼の方へ歩いていった。
気配を消すのは得意なので、難なく彼のすぐ斜め後ろまで辿り着いた。
ここまで近付いても、まだ気付かない。
さて、彼の反応はいかに。
碧乃は腰をかがめ、彼の耳元で声を発した。
§
「おはよう」
「っっ!!?」
一瞬にして心臓がどこかへ吹っ飛び、体は反射的に声とは反対方向へ飛び退いた。
しかしそこには壁があり、勢いよく後頭部と背中を打ち付けてしまった。
「いっった…」
なんとか後頭部を手で押さえるも、目の前の光景を凝視したまま、頭は真っ白になっていた。
腰をかがめていた声の主は自分と目を合わせると、堪え切れずに吹き出し、顔を片手で覆った。そして体勢を戻しつつ、笑いを堪えて肩を震わせていた。
襟なしのシャツにニットコートを羽織ったとても大人っぽいその女性は、間違いなく、今の今まで自分の頭の中をいっぱいにしていた人だった。
「え……え?……え!」
真っ白にされた頭が、徐々に状況を把握していく。
「はー……驚き過ぎだよ」
「!!」
笑いを収め終えた彼女の一言で、光毅の顔は一気に真っ赤になった。頭の中を、今度はたくさんの疑問が埋め尽くす。
「い、いい、いつ…」
「今来た」
「え、だ、だって今…」
「ああ、あの人のすぐ後に入ったから」
「いや、でも…」
「ごめんねぇ、光毅君。碧乃ちゃんがあんまり楽しそうにしているから、つい協力してしまったよ」
斉川の隣にトレーを持った中野さんが現れた。
その優しい声に、強張っていた体の力が抜けた。
「はぁぁー…」
吹っ飛んだように思えた心臓はちゃんと自分の胸の中にあり、その存在を知らしめるかのようにバクバクと鳴っていた。
「すいません、騒いでしまって。ここまで驚くとは思ってなくて」
「いやいや。今日は常連さんばかりだから、きっと皆許してくれるよ。面白いものが見れたってね」
「それは良かったです」
「うう……2人共ひど過ぎ」
笑い合う2人にしかめ面を見せ、痛む後頭部をさすった。
「頭は大丈夫かい、光毅君?」
「あ、だ、大丈夫です…」
「そうかい。それなら良かった。碧乃ちゃん、ご注文は?」
「あ、今日は香りブレンドが飲みたいです」
「かしこまりました」
斉川は満足気に向かい側の席へ座り、中野さんは笑顔でカウンターへ戻っていった。
「…なんで、いきなりこんな事…?」
彼女の予想外の行動がさっぱり理解できなかった。
「なんでって……、今までの仕返し」
「!」
平然と返す彼女の顔を見て、背筋がゾクリとした。
そこには、無垢で黒い微笑が浮かんでいた。
この人は絶対に敵に回してはいけない。自分の直感がそう告げた。
「まぁ、うまくいきすぎて自分でもびっくりしたけどね」
ふっと表情を和らげ、斉川はグラスの水を一口飲んだ。
「…仕返しするために来たのか?」
光毅は眉根を寄せた。
「ううん。1つ提案をしに来た」
「提案?」
何の事かさっぱり分からず、キョトンとしてしまった。
「うん。来月の期末試験について」
「へ?」
期末試験?
「次は、もう少し早めに勉強を始めた方が良いと思うんだけど」
「『次は』って……え?」
そ、それって…。
「明日からでも、また勉強教えようか?」
「え!?」
さっきの何倍もの衝撃が体を貫いた。
自分が発してしまった声に、斉川はビクッと反応した。
「…嫌ならしないけど」
「嫌じゃない嫌じゃない!全っ然嫌じゃないっ!!」
むしろ嬉し過ぎる!!
訝る彼女に、全力で首を振って見せた。
「…わ、分かった。そんなに言わなくて大丈夫だから。けど明日からって言っても部活で忙しいだろうから、土日ぐらいしかちゃんと教えられないと思う」
「え?」
「だから平日は、少し意識して授業受けてもらうだけって感じかな。まぁ、それだけでもかなり違うから」
「え?じゃあ平日は教えてくれないの?」
「練習終わるまで待ってたら遅くなっちゃうよ。疲れてるだろうし」
「早めに切り上げれば…」
「それはだめ。部活を頑張れるように勉強するんでしょ?またバスケ禁止とか言われないように」
「あー、まぁ、そうか…」
嬉しいけど、ちょっと残念。
そこへ、中野さんがコーヒーを置いていった。
斉川は早速一口飲み、コーヒーカップを見つめた。無表情を装っているが、目は心なしかうっとりしている感じだった。
「……」
ああ、やばい…。今ものすごく気持ち悪い事を考えてしまった…。
彼女から目をそらし、頭から邪念を追い出す。
…でも。
一瞬だけ。ほんの一瞬で良いから、その目のままこちらを見てくれないだろうか。
そっと、下を向くその顔を覗き込んだ。
「…何?」
ああ、やっぱりだめか。
こちらの動きに気付くと、キュッとしかめ面になってしまった。
「…なんでもない」
光毅は体勢を元に戻し、俯いた。
そこまで睨まれると、さすがにへこむ。
「斉川は……俺の事嫌い…?」
「は?」
頭の中に留めたはずが、つい口から出ていた。
しまった…。答えなんか聞きたくないのに。
「う、うーん……、嫌いでは…ないかな」
「え?」
「嫌いな人に勉強教えようとは思わないよ」
顔を上げた自分を真っ直ぐ見つめ、そう言った。
「そ、そっか…」
良かった…。
光毅の中に、小さな希望が灯った。
「…でも、嫌いな部分はある」
「え…」
灯った希望は瞬時に掻き消えた。
ピキッと顔が強張る。
「…授業中、よく周りの人と無駄話してるよね」
斉川は静かな怒りをその目に宿した。
「あれはやめた方が良いと思う」
「え…?そ…」
「そんな事って思った?」
「うっ…」
「どうせ授業聞いても分かんないし、友達と話してる方が楽しいし、って?」
「……」
思っていた事全てを言い当てられ、何も言えなくなってしまった。
「確かに、そんな事って思うぐらい小さな事だよ。私が真面目過ぎるんだっていうのも自覚してる。でも、だからこそ許せないの」
「…?」
「授業を真面目に受けろとは言わない。寝てたって良いし、ぼーっとしてたって全然構わない。けど、あれだけは私には理解できない。何でみんな平気であんな事ができるの?」
分からない、と首を横に振って何とか示すと、目の前の彼女は苦く微笑んだ。
「…きっとそれをする人達は、あの行為が何を意味するか分かってないんだよね。指摘する人がいないから、誰も気にしてないだろうって思ってる。気にされないくらい些細な事だ、って」
「……」
斉川は、コーヒーカップに目線を落とした。
「あれは、真面目に頑張ろうとしてる人を妨害する行為だよ。これでも私は、ちゃんと目的があって勉強してるの。だから授業にも集中したい。……あんなくだらない事で邪魔をされるのは本当に嫌なの。他の人がどう思っているかは分からないけど、私みたいに不快に思ってる人がいる事ぐらいは知っておいてほしい」
話が終わり、2人の間に沈黙が流れた。
知らなかった…。自分がいかに馬鹿な行いをしていたのか、言われるまで気付きもしなかった。軽い気持ちでした事なのに、彼女を酷く不快にさせていたなんて。
「…ごめん」
沈黙を破ったのは斉川だった。
「え…!な、なんで斉川が謝るんだよ!悪いのはこっちだろ?」
光毅は動揺を露わにした。
「だって…、さすがに言い過ぎたと思って」
申し訳なさそうに、そう言われてしまった。
「そんな事ない。斉川は本当の事を言っただけじゃんか」
「いや、でも……もともと言うつもりなかったし…」
「え?」
どういう事だ?
「普通、こんな話に耳を傾ける人なんていないよ。真面目過ぎだって馬鹿にするだけ。だから今まで黙ってた。どうせ気にしてるのは私だけなんだから、私が言わないでいれば丸く収まるしね」
「そんな…」
どうして、そんなに平然と自分を押し込めるんだ…?
「…なんで話しちゃったんだろうねぇ?」
斉川は真っ直ぐこちらを見つめ、首を傾げた。
「!…お、俺に訊かれても…」
「ああ、ごめん」
やばい、可愛すぎる…。
無垢な仕草に、自分だけに話を打ち明けてくれたという事実が加わり、目の前に座る彼女は相当な魅力を放っていた。
心拍数が上昇し、顔が熱くなっていくのを感じる。
直視できず、光毅は目をそらした。
「まぁでも、知っておいてくれればそれで良いよ」
「え…」
「嫌な思いさせてすいませんでした」
見ると、斉川は笑顔で頭を下げていた。
その様子に、ツキンと胸が痛んだ。
「…だから、謝るのはこっちだって」
「え?いいよ別に」
「良くない。俺の方こそ全然気付かなくてごめん」
光毅はシュンとうなだれた。
「本当ごめん…。もうしない」
だから、嫌いにならないで。
2拍ほど間を置いて、向かい側から笑う声が聞こえた。
「…ふふっ」
「?」
声の主は、可笑しそうにこちらを見つめた。
「無駄話するのは嫌いだけど、そういう素直な所は好きだよ」
「んなっっっ!!?」
3度目にして本日最大の衝撃を食らった。
心臓は見事に吹っ飛び、顔は一気に熱くなった。
「え、何?」
「だっ、だ、だって今!!」
「なんでそんなに驚くかなぁ?私が褒めたらおかしい?」
「そっ、そうじゃなくて!」
「声うるさいよ」
「うぐっ…ごめん」
ああ、もう!!何なんだ、今日は!
§
小坂との話を終えた碧乃は、駅までの道を1人で歩いていた。
碧乃の企みが予想以上に打撃を与えたらしく、小坂は碧乃を引き留めることなく、大人しく見送ってくれた。
きっと今頃、してやられたとテーブルに突っ伏しているのだろう。意地悪なわがまま王子さえ出現しなければ、彼の行動は実に単純で分かりやすい。明日からの行動が少し楽しみになった。
妹ほどではないが、自分も相当悪い人間のようだ。
これで、少しはましになってくれると良いんだけど。
小坂への提案はこちらが示した通り、平日はなるべく授業を聞くようにしてもらって、土日でその復習をすることになった。貴重な休息時間を削られてちょっとは嫌がるかと思っていたのに、これっぽっちもそんな事はなかった。それほどまでに、感じていた負い目は大きいものだったのだろうか。
別にそこまで気にしなくて良いのに。どうせ自分は、王子のおもちゃでしかないのだから。
…まぁ、黙って遊ばれる気はないけどね。
駅へ着くと、慣れた足取りで電車のホームへ向かった。次の電車はあと10分程で来るようなので、適当な場所に立ってそれを待つ。
スマホで暇つぶしなんて気はさらさらない碧乃は、ただぼーっと突っ立っていた。
電車の来る方向に何気なく目を向けた時、誰かに後ろから声をかけられた。
「あれ?もしかして、斉川碧乃?」
「…え?」
名前を呼ばれ、思わず振り返ってしまった。
そこには、緑星高校のジャージを着た男子生徒が立っていた。
整った顔立ちに長めの茶髪。耳にはピアスが光っていた。校則がそこまで厳しくない碧乃の学校では、ちらほら見かける出で立ちだった。
いかにも遊び人な感じのその男は、驚いた顔でこちらをジロジロと見ていた。
「あ、やっぱそうだよね?顔は覚えてたけど、制服じゃないから全然分かんなかった」
「…?」
誰、この人?
少なくとも自分のクラスの人間ではない。
その男子生徒に不審の目を向けた。
「こないだ写真の事で話しかけたんだけど、俺の事覚えてない?」
「え…いえ」
言われてみるといたような気もするが、大多数に話しかけられたので、そんなのいちいち覚えているはずがない。
「あれー?それは残念。実はそん時からちょっと気になってたんだよねー。あの小坂といても動じないなんて、どんな子なんだろなぁって」
「……」
「てか、ずいぶん大人っぽい格好してんだね。地味だと思ってたから、びっくりしちゃった。それなら俺アリかも」
そう言うと、男子生徒はこちらに笑いかけた。
「…は?」
何言ってんの?
この男の言動に不快感を受け、碧乃はわずかに身構えた。
「俺は谷崎涼也。君と同じ1年生だよ」
「はぁ…」
「是非とも仲良くなりたいなぁー。まずはお友達から」
谷崎と名乗った男は、ずいっと握手を求めてきた。
「……」
何なの、いきなり…?
碧乃は一歩後ずさった。
その様子に、男はクスッと笑って手を引っ込めた。
「そんなに警戒しなくても。ま、とりあえずよろしく。碧乃ちゃん」
馴れ馴れしい呼び方に、若干の寒気を感じた。
私、この人苦手だ…。
誤りを修正しました
『是非ともお友達に』⇒『是非とも仲良く』




