幼馴染みの参入
ふっと、目が覚めた。ゆっくりと開けた目にカーテン越しの日の光が映り、朝になった事を認識した。
ベッドに寝たまま枕元に置いてあったスマホを手に取り、時間を確認する。
午前5時58分。アラームが鳴るまで、あと2分。
しばしそのままぼーっとして頭を完全に起こしつつ、時間が来るのを待った。
ピピピ、と鳴った音をすぐに止め、むくっと起き上がり大きく伸びをした。
いつも通りの1日の始まりだった。
乱れた髪を手櫛で直し、適当にヘアゴムでまとめながら洗面所へ向かう。
顔を洗い、歯磨きを終えると、キッチンでお弁当と朝食の仕度を始めた。仕度と言っても、昨日のうちに作っておいた物を弁当箱に詰めたり、皿に盛って温めたりするだけだが。
碧乃の母親は近くの病院に勤務する医者だった。そのため母親が当直で家にいない日は、碧乃が料理を担当していた。ちなみに陽乃は料理ができないので、それ以外の家事をする事になっている。
全ての準備を終えると、あとは各自に任せて一旦部屋に戻った。その途中で、二度寝に入ろうとしている弟を起こして仕度を促した。
碧乃は制服に着替えると、適当にしていた髪をほどいて、クローゼットの鏡を見ながら櫛でとかした。
そしていつものように括ろうとして、ピタッと手の動きを止めた。
そうだった…。今日はこれじゃだめなんだった。
仕方なく、持っていたヘアゴムを手首に付けて部屋を出た。
父と弟と一緒に朝食を食べていると、仕度を終えた陽乃が1階へ降りてきた。
「あれ、どしたの?今日それで行くの?」
碧乃の下ろしたままの髪を指す陽乃に、ご飯を口に運びながら無言で頷いて返した。
「え、何?何かあったの?」
「何もないよ。結ぶのが面倒になっただけ」
「えー、本当かなぁ?」
正確には、『結んだ後に起きる事が面倒になった』だが。省略しただけで、嘘は言っていない。
「早く食べないと遅刻するよ」
「え?あー、そうだった!今日は私が鍵開けるんだった!」
陽乃の所属するバトミントン部は、朝練で使う道具の準備を交替でしているのだ。
陽乃は急いで朝食を食べ終え、バタバタと家を出ていった。斉川家の朝は、いつも1人だけ騒がしい。
父と弟を早めに送り出し、食器洗浄機をセットして自分も家を出た。
碧乃が緑星高校に入る事に決めた理由は、自分がいないと家の中が立ち行かないからだった。親には好きな所へ行って良いと言われたが、特にどこが良いと決まっていた訳でもないし、家族が心配なまま高校生活を送る気もなかった。したがって家から通えて、レベル的にも申し分ない今の高校を受験したのだ。どうせまた地味な学校生活を送るだけだと思っていたのに、まさかこんな事になろうとは。
全ての元凶は、自分が最も苦手としていたあの男。
存在を消し、関わらないようにしていたのに、なぜか気付かれてしまった。
こんな自分に興味を抱くなんて、絶対どうかしてる。彼の周りにはいないタイプの人間だから、好奇心を満たすために近付いてきたとしか思えない。実際、自分をからかって楽しんでいるし。
しかし、なぜか憎み切れなかった。とことん意地悪でいれば良いものを、変に素直に謝ったりするせいで、こちらは許すしかなくなるのだ。騒ぎを起こされ多大な迷惑を被った今も、また落ち込んで謝りに来るのかと思うと、怒る気も失せてしまった。
一体、どう対処したら良いのやら。
学校へ近付くにしたがって、碧乃の警戒心は高まっていった。同じ制服の人を見る度、話しかけられませんようにと思いながら歩いていた。
玄関で靴を履き替え、平静を装いながら教室へ向かう。
すると、碧乃の教室の前はいつもよりも人口密度が高かった。きっと昨日話を聞けなかった人達が、自分もしくは小坂を捕まえようと待ち伏せしているのだろう。
恐る恐る彼らの横を通り抜け、教室へと入っていった。
何事もなく自分の席に辿り着く事ができ、ほっと胸を撫で下ろす。
やはり読みは当たっていた。どうせ長くはもたないが、今だけはこのままでいよう。
碧乃が席につこうとした時、藤野が後ろから抱きついてきた。
「おっはよー!今日は一段と可愛いよー!」
「……」
……それはどうも。
朝のホームルームの時間。試験も終わり、来週から11月に入るという事で、碧乃のクラスでは席替えが行われた。席替えの時期は、担任の気分で決まるらしい。
箱から引いたくじの番号を見ると、廊下側の席だった。
かばんを持ってそちらへ移動すると、後ろの席に来た人から声をかけられた。
「お?斉川そこなんだ」
山内圭佑だった。
「え…うん」
初めて話しかけられた…。
なぜか体が無意識に身構える。彼の性格のせいだろうか。
「今日からよろしくー」
「…よろしく」
§
いやー、まさか向こうから近付いてきてくれるとは。これなら違和感なく話しかけられるから、楽で良い。
圭佑はチラッと光毅の方を見た。
彼は窓側の席に座り、こちらを睨んでいた。斉川と離れてしまった上に自分がここに来たせいで、さぞかし苛立っているに違いない。何とも分かりやすい奴だ。
1限目の授業が終わると、圭佑は早速斉川に話しかけた。
「何読んでんのー?」
彼女はかばんから取り出した本を開いた所だった。
ビクッと反応し、こちらを振り返った。
「…え?」
声をかけられると思っていなかったのか、戸惑った表情をしている。
「そんなに読んでて飽きない?」
「…飽きないよ」
キュッと眉根を寄せて返されてしまった。
うーん、やっぱりどうも取っつきにくい。
「そういえば、光毅が赤点取らなくて良かったなぁ」
「…?」
「あいつから勉強の事聞いた」
「…ああ、そうなんだ」
感情表現が乏しいので、ちょっと話しただけでは彼女の考えがさっぱり読み取れない。
「あの勉強嫌いにどうやって頑張らせたんだ?」
「どうやってって…、別に普通に教えただけだけど」
「普通ねぇ。そもそも、なんでそうなったんだ?」
そういえば光毅から聞いてなかった。
「え…頼まれたから」
いや、そうじゃなくて。
「いつ、そんな話をしたんだ?」
「……一緒に駅まで帰った時」
斉川は思い切り嫌そうな顔をした。
あいつ何かしたのか?…てか、あいつにそんな顔を向ける女初めて見た。
「なんで一緒に?」
「…雨の日、部活終わりに鉢合わせて……強制的に向こうの傘に入れられた」
「………へぇ」
普段の光毅の言動と『強制的』という言葉が結びつかなくて、つい反応が遅れてしまった。いつも女子の前では『優しいお兄さん』を演じているのに。
「…いつもあんななの?」
今度は斉川から質問されたが、何の事か分からなかった。
「へ?あんなって?」
「わがままっていうか、強引っていうか…」
「え?わがまま?」
あいつが?
「自分の要求は何が何でも押し通すよね。気に入らないとすぐ怒るし」
「はぁ…」
圭佑は目が点になっていた。
…あのバカ何やってんだ?
「…正直、ちょっと対応に困る。いつもみんなどうしてるの?」
斉川は真っ直ぐこちらを見つめ、首をかしげた。
おお?
「今のそれ、ちょっと可愛いかも」
「は?」
「どうせならもっと前髪短くして、顔がよく見えるようにしたら?」
言いながら、彼女の髪に手を伸ばす。
「ちょっ!な、何っ!?」
斉川は嫌悪感を露わに、圭佑の手から逃れようとした。
「良いから良いから…」
さらに手を伸ばして触れようとした時、ガシッと誰かがその手を横から掴んだ。
それは、鬼の形相をした光毅だった。
§
「…何やってるんだ?」
圭佑の腕をギリギリと締め上げながら、光毅は静かに問うた。
「痛たたた、俺はただちょっとアドバイスを…」
彼は痛がるだけで、全く反省の色を見せなかった。
「あぁ?」
未だヘラヘラ笑う圭佑の腕をさらに締める。
「分かった分かった!じゃあお前がここ座っとけ!」
「なっ!あっ、こら!」
自分の席に光毅を押し込むと、光毅の席に逃げていった。実はその隣に三吉がいるのだ。
「あの野郎…」
光毅は圭佑の後ろ姿を睨みつけた。
何が俺に任せろだ!こんなんで任せられるか!
2人が話しているのをハラハラしながら見ていたら、やっぱりこうなった。
二度と馬鹿な行動はしないように、後できつく言っておかなければ。
ふと視線を感じた方を見ると、戸惑った表情の斉川と目が合った。
「あ、ごめん。大丈夫だった?」
「え…う、うん」
「あいつすぐああなるから、気を付けた方が良い」
「…分かった」
「……」
やばい、普通に話しかけてしまった。騒ぎが収まるまではと思っていたのに。
昨日あんな話をしたせいで、彼女の近くにいる事を変に意識してしまう。
光毅の心拍数がわずかに上昇した。
…そういえばアタックがどうとか言われたけど、具体的に何をすれば良いんだ?
昨日は結局教えてもらえなかったので、何がそれに当たるのか未だによく分からなかった。
光毅の素直すぎる言動がいかに世の女性を魅了しているのか、彼自身は自覚していない。いつも、どんな接し方をしても皆同じように喜んでくれるので、使う言葉も距離感も、生まれてこのかた気にした事がなかった。他の人なら恥じらってためらうような行為も、彼にとっては普通なのだ。
「…何?」
「え?あ…」
彼女をじっと見ながら考えていたら、不思議がられてしまった。
この状況で話さないのは、逆におかしい。アタックどうこうはひとまず置いといて、とりあえず写真の件を謝る事にした。
「あの…迷惑かけてごめん」
「え?」
「写真、まさか撮られてるとは思わなかった」
「ああ…」
「本当ごめん…」
彼女の下ろした髪を見たら、罪悪感がさらに増した。
光毅はシュンとうなだれてしまった。
「…ふふっ」
笑う声がして顔を上げると、斉川が可笑しそうにこちらを見ていた。
「謝りすぎ」
「!」
言いながら、彼女はまだ笑っていた。こんな風にしている所を見るのは、2度目だった。
ものすごく可愛いと思うのと同時に、笑われている自分が急に恥ずかしくなった。
光毅の顔が赤くなる。
「わ、笑うな!」
「ごめん」
すると教室の扉が開いて、次の授業の担当教師が入ってきた。
「あ……」
「…もう自分の席戻ったら?」
圭佑の席に座ったまま教師の様子を見ていたら、斉川にそう言われた。
…けど、今離れるの嫌だな。
「今だけこっちにいようかなぁ」
「え?」
圭佑の方を見ると、向こうからも『そこにいろ』という合図が来た。多分こちらのためではなく、自分が三吉といたいからだろう。
「圭佑もあっちにいたいってさ」
「え、で、でも…」
「1回ぐらい大丈夫だって」
光毅はニヤッと笑った。
「今あいつに近付いてほしくないだろ?」
俺も近付けたくないし。
「けど、そうしたら萌花ちゃんが…」
斉川は困ったように、三吉の方を見た。向こうも同じように困った顔で、圭佑と話していた。
「あー…、あいつには後で謝っとくよ」
その時、授業開始のチャイムが鳴った。
「ほら、もう鳴っちゃったし」
「……好きにすれば?」
斉川は呆れ顔で前に向き直った。
やった!
しかし、そこでふと気付いた。
「あ、俺ノートないから後で見せて」
「……分かった」
前を向いたまま、むすっとした口調で返された。
§
2限目が終わり、碧乃は後ろを振り返った。
そこでは、小坂が机に突っ伏して眠りこけていた。
たいして授業も聞かず周りの友達と雑談しているかと思えば、いつの間にか規則正しい寝息を立てていた。ここまで堂々とされると、呆れてものも言えない。またバスケ禁止を突きつけられて、こちらに助けを求めるのではないだろうか。
…全く、懲りない人だ。
碧乃が呆れ顔で見ていると、授業の終わりを察知したのか、彼は目を覚ました。
むくりと起き上がり、大きく伸びをした。
「んんー…、終わった?」
「…終わったよ」
悪びれない様子にため息をつくと、彼にノートを手渡した。
「はい」
「ん?ああ、ありがと」
「席戻ったら?」
「……んー、ずっとここが良いなぁ」
小坂は帰りたがらない子供みたいになって、頬杖をついた。
「なんで?」
「なんか落ち着く」
その言葉に、碧乃は眉をひそめた。
「…それ、また寝そうだからだめ」
ちょっとくらい授業聞いて。
「えー」
「それに、ずっとあのままにしておけない」
碧乃は、山内に絡まれたままの三吉を指差した。
「あー、そっか……分かった」
渋々立ち上がると、彼は自分の席へ戻っていった。
昼休み。トイレから出てきた碧乃は、教室へ戻る途中でこんな声を耳にした。
「ほら、あれがそうだよ」
「斉川碧乃はあの人」
「写真に写ってたのは、あの子だよ」
「いつも本ばかり読んでる大人しい子」
クラスメイトが自分の情報を拡散させていく声だった。
そしてその情報を受け取った人達は、碧乃に好奇の目を向けていた。
「へぇー、あの人が」
「ああいう子にも声かけるんだー」
「小坂君って優しいー」
「小坂君には似合わないタイプだね」
「本当にたまたまだったって感じ」
それら全てを平然と受け流し、碧乃は教室に入った。予想通りとはいえ、やはり気持ちの良いものではない。早くこの話題に飽きてくれないだろうか。
「おかえりー」
「どしたの?また何か話しかけられた?」
三吉と藤野が座る場所へ戻ると、2人は碧乃のかすかな表情に気付いた。
「あ、ううん。大丈夫」
「何かあったら言ってね?」
「碧乃っちをいじめる奴は私が許さないから!」
藤野が拳を振り上げる様が可笑しくて、つい笑ってしまった。
「ふふっ、ありがとう」
「んもー、その顔可愛すぎー」
「いたたた、ちょっと締めすぎ」
「ふふふー」
彼女に抱きつかれるのも、だいぶ慣れてきた。
好奇の目に晒されるのも小坂のせいだが、こうして2人と仲良くなれたのも、いきさつはどうあれ彼のおかげだ。
なんだか不思議な感覚だった。
「はい、これ」
お昼を食べ終わり3人で談笑していると、山内が碧乃にノートを手渡してきた。それは、碧乃がさっき小坂に貸したものだった。
「あいつ今忙しいから代わりに返しに来た」
「あ…そう」
「俺もちょっと勝手に借りちゃった。ごめん」
「それは別に良いけど」
小坂は、少々女子が多めの集団に囲まれていた。きっといろいろ訊かれているのだろう。
「あれ結構ダメージ来るみたいだから、後で癒してあげて」
山内が集団を指差しながら、碧乃に言ってきた。
「?なんで私が…?」
「勉強教えた仲だろー?」
山内はニヤリとしながら、とんでもない事を口にした。
「!!」
「あ!ごめーん」
目を見開く碧乃に、えへっと笑って逃げていった。
さらっと普通に暴露するなっ!
「碧乃ちゃん、小坂くんにも勉強教えた事があるの?」
「え!?ほ、ほんのちょっと教えただけだよ」
「うそー!いついつ?」
「…わ、忘れた」
「えー」
碧乃は山内が消えていった方を睨んだ。
散々騒いだ家庭教師が自分だとばれたらどうする気だ!
小坂が喫茶小路の存在を彼に教えない理由が分かった。




