『いつも通り』が終わる日
『いつも通り』に終わりがあるなんて、知らなかった……
朝6時起床。いつも通りに仕度をし、いつも通りに朝ご飯を食べ、いつも通りに家を出る。
斉川碧乃16歳。現在緑星高校に通う1年生だ。一応高校生なのだが、流行に敏感なわけでも、おしゃれに気をつかうわけでもない、全くもって地味な女である。そもそも、それらの何が面白いのかすらよく分かっていない。そのため、髪型も毎日同じ。長い黒髪を後ろで一括りにしているだけ。勉強の邪魔にならなければ、それで良いのだ。そのおかげなのかは分からないが、成績は常に5位以内には入っている。
今は9月の下旬。青春の「せ」の字もなかった夏休みを通り過ぎ、季節は秋へ向かっている。葉先がほんの少しだけ色づいてきた街路樹を横目に見つつ、碧乃は電車の時間に間に合うように駅へ向かう。
いつも通りに学校に到着。
「おはよう、斉川さん」
「おはよう」
自分の教室へ入り、何人かのクラスメイトと挨拶を交わして自分の席へ向かう。
これでも普通の人ほどには友達がいるのだ。あまり深い仲ではないが。
碧乃の席から少し離れた所に女子の集団ができていた。彼女達は1人の男子を取り囲み、精いっぱいの可愛さを振りまきながら話しかけていた。
その男子は小坂光毅。学校で一番といえるほどのイケメンで、1年生にしてすでにバスケ部のエースとなりつつある、典型的なモテ男だ。性格も気さくで優しいので、女子だけでなく男子からも慕われている。唯一の欠点は勉強が苦手なことらしいが、完璧過ぎない所がまた魅力となっているのだそうだ。
彼の周りに人だかりができるのはほぼ毎日のことなので、クラスの皆は誰も気にしない。碧乃も入学当初は驚いたが、今となってはもう日常の一部でしかなくなった。他の女子とは違い、小坂のことは、世間一般から見ればすごい人なんだなという程度にしか思っていない。むしろ自分とは完全に真逆の人間なので、苦手意識すら感じている。できることなら関わりたくない。
程なくして担任の先生が来て、これまたいつも通りの日常が始まった。
本日も何事もなく授業が終わり、教科書などをかばんに詰める。碧乃は美術部に所属しているので、そのまま部室へ向かった。
緑星高校は必ず部活に入らなければならないという規則がある。碧乃は運動も集団行動も苦手なので、一人で黙々と作業をしていられる美術部に決めた。部員はそれなりにいるが、皆好きな時間に作業しに来るので、たまに会話をする程度だった。今は町で行われる作品展に向けて絵を作成している。もともと絵を描くのは好きだったので、部活の時間はとても楽しかった。
部室に行くと、すでに何人かの部員が作業していた。碧乃も自分の作業スペースに落ち着き、いつものように作業を始めた。
どれくらいの時間が経っただろうか。ふいにある部員が声を発した。
「えー、うそ!天気予報思いっきり外れてるし」
窓の外を見ると、雨がサーサーと降っていた。
「どうしよう。これから塾だから、あとは家で完成させようと思ったのに…」
彼女は2年生の先輩で、明後日の日曜日に行われるコンテストに彫刻作品を出品することになっていた。
碧乃は常にかばんに入れていた折りたたみ傘のことを思い出し、先輩に話しかけた。
「あの、私の傘使いますか?」
「え!本当に!?あ、でも斉川さんが帰る時どうするの?」
「私は雨が止む頃に帰ればいいので大丈夫です。多分そんなに長く降らないと思います」
それがいつになるのかはさっぱり分からないが、まあ何とかなるだろうと思い、傘を差し出す。
「いいの?本当にいいの!?ありがとう!」
満面の笑みで先輩は傘を受け取った。
お礼は必ずするからと言って、先輩は作りかけの彫刻をビニールに包み、大事そうに抱えて帰っていった。今日は金曜日なので、傘が戻ってくるのはきっと来週だろう。
1階にある部室の窓から先輩が校門を通過したのを見届け、また作業に戻った。
最終下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。時計を見ると午後7時20分だった。窓の外を気にしながら描いていたのだが、ついに雨が止むことはなかった。仕方なく片付けをして玄関へと向かう。
さて、どうしたものか。一番近いコンビニまでは徒歩5分はある。この雨量では傘を買う前にびしょ濡れになってしまう。
1人で突っ立って思案していると、急に後ろから声をかけられた。
「あれ、斉川傘持ってないの?」
びっくりして振り向くと、学校一のモテ男、小坂光毅がいた。
「え、あ、うん…」
まだこの時間に生徒がいたんだ…。よりによってあの小坂が。一人でいる所初めて見た…。
いろんなことに驚きつつ返事をしたので、あいまいな感じになってしまった。
まさか彼に話しかけられる日が来るとは。いつも人だかりの中心にいるから、同じクラスにいても会話をしたことは一度もなかった。それゆえに、すんなりと名前を呼ばれたことにも驚いていた。
「そっか…。じゃあ、俺傘持ってるから、駅まで一緒に行く?」
「え!?」
更に驚きが追加される。普通、まともに会話したこともない人間と1つの傘に入ろうとするだろうか。
「先生に借りたやつ結構でかいし」
「い、いや…いいよ。1人で大丈夫だから」
「大丈夫って、どうやって帰るんだ?」
「そ、れは…えっと…」
何も考えていないので、答えられる訳がない。うまい返しが見つからず、明後日の方向に視線をそらす。
「全然大丈夫に見えないけど」
「う……」
どうしよう、何とかしてこの場から脱出しなくては。恋愛経験値がゼロである自分には、この状況はレベルが高すぎる。
こうなったら、強行突破するしかない。
「あ……は、走っていくよ!」
精いっぱいの力を使ってそう言い残し、雨の中へ走り出そうとした。……が、小坂に腕をつかまれ、引き戻される。
「あ、こら」
「わっ!?」
逃げられなかった。当然といえば当然だが、碧乃の運動能力よりも小坂の反射神経の方がはるかに上だった。
「こんな中出てったら風邪ひくだろうが」
「ちょっ……あのっ……」
碧乃の脳はあまりのショックに思考停止に陥った。確保された腕は、あまり強い力でつかまれてはいないのにびくともしなかった。心臓が今にも飛び出しそうな勢いで脈を打っている。
「ったく……。一緒に帰るぞ」
「…………はい」
もう、承諾するしかなかった。でなければ離してくれない気がした。
碧乃の返事を聞くと、呆れと怒りがほんのり混じっていた小坂の表情はふっと和らいだ。腕も無事解放された。碧乃は止まりそうになっていた息を何とか吐き出した。
寿命が縮んだかも知れない…。
小坂は持っていた傘を開き、隣へ来るよう促した。
「ほら」
碧乃は、まだバクバクと鳴っている心臓を抑え込みながら、恐る恐る傘の中へと入っていった。
どうしてこんなことになったんだろう…?
今自分は、人生で最もありえない状況の下にいる。
あの小坂と1つの傘を共有しているなんて…。
『相合傘』という単語は死んでも使いたくなかった。
全身の筋肉に変な力が入っているのを感じるが、緩めることはできなかった。もし誰かに見られでもしたら間違いなく学校中に広まり、女子生徒達から総攻撃を食らうことになるだろう。それが容易に想像でき、恐怖を感じずにはいられなかった。
なぜ自分だったのか。こんな状況を望んでいる子はもっと他にいるではないか。そもそも、なぜ小坂はあの時間まで学校にいたのだろうか。考えられることとしては、エースの座を勝ち取るために1人で練習していたということくらいだが。腕をつかまれた時から彼の顔を見られずにいるので、こちらから質問するなんて不可能だった。
それを知ってか知らずか、ふいに小坂が話しかけてきた。
「なぁ、なんでこんな遅くまで学校にいたんだ?」
「えっ!?…あ……えっと…絵を、描いてて…」
碧乃はビクッと反応し、何とか答えた。もちろん、彼とは目を合わせないまま。
「絵?…てことは、美術部とか?」
「う、うん…」
ぎこちなくうなずいて返す。
「へぇー、斉川って美術部だったんだ。何の絵?」
「……うー…ん…うまく、説明できない……」
説明すると長くなるので、できないということにしておく。
「ふーん。…じゃあ今度見せてよ」
「なっ!?……あ……あぁ…うん、今度ね」
なんで、と言い返そうとしたが止めた。きっと会話を丸く収めるための社交辞令だろう。友達でもないのに、そんな約束する訳がない。
「そ、それより、そっちこそなんで……」
これ以上続けたらそれこそ本当に見に来てしまいそうなので、頑張って話題をそらす。思い切って気になっていたことを訊いてみた。
「俺?俺は部活終わっても残って自主練してるから、いつもこの時間だけど」
「そうなんだ………」
先ほどの予想は見事的中した。行動が単純というか何というか…。しかし、いつも最後まで残っているとは。学校一のモテ男は意外に努力家のようだ。
そして碧乃は気が付いた。彼が常にこの時間に帰っていたということは、今のこの状況は間違いなく碧乃自身が引き起こしたものだ。
こんなことなら、雨が止むのを待たずに早く帰るんだった。1人でびしょ濡れになってた方が何倍もましだ。
いつもの道のりがものすごく長く感じる。駅はまだだろうか…。
会話が途切れたので、2人は黙々と歩いていた。あたりは人通りも少なく、幸いにも碧乃の学校の生徒はいなかった。日はすでに落ち、雨の降る音だけが聞こえていた。
と、急に小坂が大声を発して立ち止まった。
「あ!!そうだ」
「っ!?」
やっと落ち着いてきていた碧乃の心臓が、再び跳ね上がった。
本当に勘弁してほしい…。いきなりにも程がある。
驚いた拍子に碧乃も立ち止まった。
「斉川って頭いい?」
「………」
突然何を言い出すんだ、この人は?
「1学期の期末テスト何位だった?」
「………なんで?」
思わず、不信感を全面に押し出した顔で小坂を見た。なぜそんなことを教えなければいけないのか。彼の言動がさっぱり理解できなかった。今このタイミングで訊くべきことなのだろうか。
「あ、いや…実は、俺の期末の結果がさんざんでさ……」
歩みを再開しながら、理由を教えてくれた。
次の中間試験で1教科でも赤点を取ったら、しばらくの間バスケを禁止すると親に言われてしまったのだそうだ。更にそれでは押しが弱いと思ったのか、彼の親はバスケ部の顧問にもその了承を得たらしい。小坂は確か、スポーツ推薦で緑星高校に入学していたはず。いつだか友達が言っていた。そのため、バスケにおいてはかなり期待された人物だった。にもかかわらず禁止されそうになるとは、彼の試験結果は一体どれ程酷かったのだろうか。
「それで今、勉強を教えてくれる人を探しててさ。斉川頭良さそうだなぁ、と思って」
「……」
いやな………予感が………。
「良かったら俺に勉強教えてくれない?」
や、やっぱり……。
碧乃は再び視線をそらした。
いや、無理です。なんで私が?あんなに友達がいるんだから、その中から選べば良いでしょうが。
「……なんで?………友達に、きけば…?」
口下手なので、思ったこと全ては伝えられなかった。
「うーん…、俺の友達で頭良い奴いないんだよなぁ」
1人くらいはいると思うのだが。
「あー、それでこの前学年1位の奴を紹介してもらったんだけど、いまいち教え方が難しくてさぁ」
だからって、今日たまたま鉢合わせただけの人間に頼まなくても…。
「斉川なら教え方も上手そうだし」
「そんなこと、ないと思うけど……」
どういう事だろう。彼の前でそのように判断される行動をとった覚えはない。
「だって、教室でよく友達とかに教えてるだろ。結構何度も見かけるから、やっぱ上手いんじゃない?」
……とっていたらしい。そんな所を見られていたとは。自分は完全に彼の眼中に入っていないと思って、油断していた。なんだか急に恥ずかしくなってきた。
またしても碧乃の思考能力が低下していく。
「いや……上手くは…ないんじゃ…」
「そうかなぁ。…あ、じゃあ一日だけでいいから教えてよ。そしたら上手いかどうか分かるだろ?」
「え……」
なんかもう、会話を続けるのが面倒になってきた。
「だめ?」
「……じゃあ…一日だけ…」
「やった。絶対な?」
小坂の念押しに、碧乃は力なくうなずいた。
慣れない事が起こり過ぎたせいで、彼女の気力はついに尽き果てた。このやり取りを終わらせるには、承諾するのが一番早いと思った。後の事はもう考えられなくなっていた。
今日は、なんか疲れた……。
碧乃は家の湯船に浸かり、やっと一息ついていた。あの後は小坂に言われるがまま、来週の月曜日に勉強の約束をし、ついでにアドレスを交換させられ、駅で別れた。
冷静になって考えれば考える程、後悔の念が押し寄せてきた。女子達が必死になって奪い合っている小坂との接近のチャンスを、この地味女がうっかり手にしてしまったのだ。もう、総攻撃どころではないかも知れない。
お湯の中にいるのに、寒気がした。
しかし、だからと言って約束を取り消してもらう勇気もない。諦めるしかなかった。こうなったら、何とか一日だけで済むようにしなければ。
どうするべきか考えながら、碧乃は風呂を出た。
処女作品となります。こんな話があってもいいかな、と思って書きました。拙い表現もあると思いますが、お手柔らかにお願いします。