ニューエイジ①
***
実家から県外にある下宿先の最寄り駅へ向かう電車を僕は待っていた。
雨と晴れの中間。空には蓋がされて星も、月も見えない。
中学生の頃、居なくなってしまえばいいと密かに確かに願っていた安在の通夜で焼香だけをあげて帰ろうとしたぼくを彼のお母さんが止めた。
ぼくは帰るに帰れなくなって、予定よりも帰るのがずいぶん遅くなってしまった。もう少し早い計算だったのだけれど。
会場に居たのは安在の両親だけで彼の姉すらいなかった。そして、少しだけ見憶えあるけれど名前も思い出せない学校の教師たち。
家族葬と言うわけではない。彼の死を悼む人の数が少なかった。
そこにぼくが来たのだ。きっと、彼のお母さんはぼくのことを安在の親友か何かだと思っただろう。
電車がやってきて、重々しい銀色の扉が左右に開く。
また一つ増えた嫌な思い出にため息をつくのをこらえ、ぼくはやってきた電車に乗った。
電車の座席は二人掛けの座席がそれぞれ縦に並んでいるタイプのもので、ぼくは両方空いていた座席に腰掛け外を眺める。
視界の隅にあるひとつの電灯は、点検不足なのかばちばちと音を立てて点いたり消えたりを繰り返していた。
外は暗く自分の顔しかうつさない。
――ぼくはとうとうため息をこらえられなかった。
ぼくの両膝には安在のお母さんからもらった菓子折りの入った紙袋がある。老人二人には多いからと渡されたものだが、ぼくにはとにかく重たい。
電車は走りだし、ときおり人魂のように通り過ぎる橙色の街灯がみえた。湧き出るブルーとフラッシュバックを抑えられずに、吐くように思い出していった。
――中学生のころぼくに一人の少女が近づいてきて友達になり、ほどなくして二人は恋人になった。
けれど、すべて安在の差し金だった。その少女がぼくに近づいてきたことからすべて。
そうだと分かったときぼくらはもうすでに高校生だった。
それが狙いだとわかってから煙のように消えてみせた。安在の前からも、彼女の前からも。
安在は中学生のころからとにかく子どものようにぼくをつけ狙って傷つけようとしていた。
ふっとゆっくりと電車が減速していき、次第に止まる。
停車駅に停まった電車の自動ドアが開くと同時に、電話がかかってきた。
「もしもし」
『あっ、ハナにい?』
周りの目を気にしながら出ると、軽快ではつらつとした声。
ぼくが下宿をしている民宿、風月の女将さんの娘の美登利ちゃんが民宿の固定電話かけてきたようだった。
「美登利ちゃん? どうしたの?」
『今日、晩ごはん要るかってお母さんが。今日はお母さんが作ってくれるんだよ』
その声は嬉しそうに聞こえる。
原田家は共働きで美登利ちゃんは自分の夕飯をいつも自分で用意していた。
そういえば忘れていて遅れるという連絡を入れてなかった。安在のお母さんに引き留められなければ本当は今頃とっくに下宿先に着いているはずだったから。
「あっ、ごめん。結構遅れちゃって、今さっき電車に乗ったところだからあと二時間くらいはかかると思う。今日は食べて帰るよ」
『えーっ、しょうがないなぁ。って言う事は今電車でしょ、なんで遅れたかは帰ってから聞くね』
「うん」
電車が再び動き出し美登利ちゃんの呆れた時に出るため息が聞こえた。
『じゃあ、お母さんに伝えとくからね』
「うん、お願い」
『お母さんの料理、ハナにいの分も食べとくから』
「太るよ」
『うるさい』
「ははは」
『じゃあね』
「またね」
そこで電話が向こうから切られる。両親が共働きと言う事もあるのだろうか、美登利ちゃんは高校生のわりにしっかり者だとぼくは思う。
携帯電話を喪服の内ポケットにしまうと車内の扉の近くにいるマスクをした女性がじっとぼくをみつめていた。
通話を咎めているのだろうか。ぼくは確証もないままなんとなくそうだろうと思って会釈をかえし、再び窓の外を向く。
下宿している民宿は県外の大学に出て一人で暮らす場所を探しているぼくに母が見つけてくれたものだ。
とはいってもそこの女将さんは母と同窓生らしくそう言った関係もあってぼくの下宿を許してくれたらしい。なので、ぼく以外の下宿生はいない。
従業員の方、美登利ちゃんを含めた女将さん一家。みんないい人だと思う。
とさり、と音がして少し座席が揺れた。見ると右隣の座席に先ほどの女性が座っている。ほかに席は空いているけれどぼくはとくに気に留めなかった。
ぼくが眺める窓にはその女性の顔が映っている。
ぼおっと眺めていると窓の反射越しに女性と目が合う。互いに気まずくなって、顔を少しだけ正面に戻した。
前の座席に座っているおじさんの禿頭がある。ぼくはそれに集中しながら、隣の女性がぼくをみていたような気がしたけれど偶然だろう。
そう思って、けれどなんとなく気になってちらりと女性の方を見るとまた一瞬目があった。女性はぼくを見ていて、そこにぼくの視線が重なり、ぶつかったようだった。
はたから見れば臆病な野良猫同士の威嚇しあいのようなかんじだろうか。
なんとなく気まずくなって、ぼくは再び禿頭に集中する。つるつるした部分にも産毛が生えているのだと気づく。何もない無限の荒野にもこうやってたしかな命が芽吹いて――、いや何を考えているんだ、ぼくは頭をぶんぶん横に振った。
そんな事よりもこの女性は確実にぼくを見ている。
自意識過剰ではない。たしかにローティーンのころは世界中の全員がぼくを見ているような気がした。けれど今は違う。確実に、彼女はぼくを見ている。
なぜだ。理由が思いつかない。知り合いだろうか、でも自慢じゃないが友達は携帯電話に二人しかいない。ちなみに二人とも先輩だ。美登利ちゃんをカウントしていいのならさらにもう一人。なので知り合い説はない。中高時代のぼくなんてかわいいものだった。全く目立っていない。いわば影だ。しいていえば女子更衣室に侵入する教頭と担任の買春の瞬間を写真に収めたくらいだ。今客観的に考えるとあの中学は荒れていたなぁ。特に大人の方が。そのしわ寄せに子どもたちが遭うという悲惨な状況だった。
ぼくはまた宇宙の彼方へ飛んでいった思考を手繰り寄せる。
ほかにはなにが考えられるだろうか。同じ大学の生徒で顔見知り以上知り合い未満という可能性かといってもここまで注視される理由はない。あるいはぼくは平凡な黄色人種だから誰かと間違われているという可能性もあった。
彼女が誰かわからないまま電車は何度目かの停車をした。
今留まった駅は、県内唯一の政令指定都市の中にある。仕事を終えた人たちがどっと乗り込んできて、ぼくの目的地である海沿いの駅までにはゆっくりと減っていく。
みんなそれぞれのベッドタウンへ帰っていくのだ。そんなことを誰かにも話した。
だれか、とぼかしている事に自分で気づいておかしかった。彼女は安在に言われてぼくに近づき――
――まさか、と思う。
電車の座席横の通路側にも人が詰まっていく。ここから十分から二十分は確実に、座席から立ち上がって通路側へは出れないだろう。
この駅では入る人も多ければ出る人も多い。居なくなっていることを期待しと思いながらちらりと隣をみると、女性がマスクを外し終えたところだった。
まさか、と思う。ぼくは相手に気取られないようにさっと窓の方を向いた。窓の反射越しに、その顔をよく確認する。
心の部屋の隅っこ。綿ぼこりが溜まるようにして出来上がったわずかな考え。
それが、まさか――
穂だ。
恰好は昔より落ち着いているし全く姿かたちは違う。けれど彼女に違いない。
そう思うぼくをもう一人の自分が制止する。姿かたちが違うなら本当にそうだという可能性は低いし、そもそも彼女だったとして何を話せばいいんだ。
落ち着くためにぼくは何か別の考え事を探す。両足の間にある菓子折りの紙袋がくしゃっと音を立ててぼくは、はっとする。
そうして、なんだかどうでもよくなってしまった。
どうでもよくなろうとしているところもあるけれど、彼女は安在の葬式にはいなかった。あんなに好き合って、ぼくを嵌めたのに。昔の恋人が死んでもそんなものなのだろうか。
ぼくは電車の座席にすわりなおし、他人のふりをしようということにして前の禿頭を見ることにした。そうしているとなんだか自分の後頭部が気になり、触ってみたりした。
いくつか駅を通り過ぎ、人も減り通路にはほとんどいなくなったころ、誰かが何かを落とした。その音で目を開け、何気なしに拾ってはっとする。
――それは、万年筆だった。
「ありがとう」
ぼくの拾った万年筆を、隣の席の穂がつまむように持つ。
そして、いたずらっ気のある微笑みでぼくを見る。
その万年筆は、ぼくが彼女にあげたものだ。
そっと、ぼくは万年筆から手を離す。
――降参した。
「捨てられたかと」
ぼくが言うと穂は黙ってしまう。
一瞬彼女は哀しげな顔になった。
「……捨てないよ」
そっと穂は顔を上げてぼくを見る。
電車がとまり、ぷしゅうと扉が開いて穂は座席から立ち上がった。
「じゃあ、またね」
穂はぼくにそう言うと電車を降りる。
彼女の下りたこの駅は、ぼくが通っている大学に近い。つまり、穂もぼくと同じ大学ということだ。
それか彼女がこの辺の企業に就職したか。
扉が閉まり、止まっていた電車が走り出した。
***
穂と再会した翌日、ぼくは大学に向かっていた。
下宿している民宿「風月」から都会の方に向かって2駅のところにぼくの通っている大学はある。
単科大学ではないけれど立地的にやや田舎なせいか生徒数が少なく、そのうち県内からの生徒がほとんどで内にこもる校風なようだ。
今日は四月の第一週の日曜日。
日曜なのになぜ学校へ向かっているのかと言うと今日は新入生を歓迎するための出し物やレクレーション、イベントがあるからだ。といってもぼくは見る方ではない。出る方だ。
新入生歓迎のための出し物の一つにサークル、同好会の発表がありそれに出演する。――というと大げさだけれど。
大学の最寄駅から校内に入り、大学の棟と棟の間。ところどころ芝生のはげた広間にある名ばかりの小さな屋根付きステージの上。空は曇っている。
そこでぼくはエレクトリックのアップライトベースの準備をした。
ステージ前方には学生らしきひとが数十人いて、そのもっと奥には興味はあるけど熱意のないシャイなひとたちがぼおっとぼくたちを見ている。
振り返るとぼくの左後ろにはドラムのチューニングをする一つ上の女性の先輩、小陽さんが。そしてステージの上手に二つ上、三年生の会長、光晴さんがいた。
ぼくが参加する発表は「音楽同好会」という同好会の発表だ。この同好会の部員はぼくを含めて今のところ四人しかいない。
だから新入生獲得に力を注いでいるかと言われればそうとも言えるし、そうとも言えないと思う。
本当は、あとひとり四年生の先輩もいるのだが海外にいるとか就職活動中とかで姿を見たことは一度きり――去年の十月のオープンキャンパスの時だけ――だった。
今同じステージに出ているこの二人の先輩と出会ったのもそのときで、その四年生の人と三人一緒に演奏していた。
それから、いつの間にか――本当に気づかないうちにぼくは中でも光晴さんと仲良くなり、入学前から同好会の一員となってしまっていた。今日のための練習も入学前から事前に行っていた。
光晴さんはギターアンプにチェリーレッドのES-335をつなぎ、アンプの電源を入れるとこちらを見てにやりと笑う。
洗ってはいるらしいが数カ月切ってないというぼさぼさの黒髪と銀縁の丸眼鏡。口の周りには無精ひげが生えている。身長は高いが細く、ひょろっとした体型は傍目とにかくダサくみえた。
けれどマイナスとマイナスが掛け合ってプラスになるように、男女問わず人を引き付ける。端的に言うともてる。
夜ごろ、練習終わりに光晴さんに連れられて街を歩いていると彼の地元だったというのもあるんだろうけれど、次々へと光晴さんはいろんな男女に話しかけられていて光晴さんも気さくにそれに応じていた。
そういえば曇りの日はさらに光晴さんの髪がぼさぼさになるらしい。
ステージ上の光晴さんはへらへら顔から急に真顔になり小陽さんを見た。小陽さんは頷きをかえし、その次にぼくを見る。
ぼくも、頷きを返した。
光晴さんは、またにやにやしながら髪をかき上げ肩に下げたギターを構えた。
それを見た小陽さんがカウントをはじめる。
ぼくは息を吸ってアップライトベースの最初のポジションを押さえた。
――空気が変わる。何かが宿った心地好い風がふわりと踊るように吹くと遠くの鈍色の雲が捲れていくのが見える。
三つのそれぞれの楽器が一つになった。
クリームとニール・ヤングの曲を三曲ほど演奏する。二人とも年齢を考えると平均以上のプレイヤーだ。遅れてはいけないけれど、出過ぎてもいけない。
そうして楽しい時間はすぐに流れていった。ほんとうにあっという間だ。まるで夢を見ていたかのように楽しい時間は終わっていた。
ドラムセットの前から出てきた小陽さんは、光晴さんの前にあるステージ・マイクを取ってもらうと同好会の説明を始める。
遠目で見れば黒髪セミロングの綺麗なお姉さん、と言った感じの小陽さんだが近くで見るとかなり小さく身長は150センチもないと思う。
小陽さんの説明は音楽同好会は音楽であれば何でもいい。くわしくは部室へ、というような説明だった。あまりにも短いので進行役の学生役員はきょとんとしていた。
曖昧かつてきとうなのには理由がある。それは現部長の光晴さんが人を獲得しようという気があまりないのが理由で、ちゃんと理由を聞いたことはないけれどあまりやる気のない人や、人数自体が増えすぎるのが嫌なのだという。
説明が終わったことに意識が追いついた学生役員が音楽同好会の出番の終わりをつげ、フワッとしたまばらな拍手が会場をつつんだ。
音楽同好会はイベントの開会宣言後すぐのトップバッターだ。楽器や機材をステージわきにどかすと、すぐに次の軽音楽部が自分たちの準備を始める。
軽音楽部は大きな音でやるので目立つけれど音のまとまりで言えば勝っているとぼくは思う。なぜなら光晴さんのコネでなぜかプロのエンジニアさんと簡素な音響設備があるから。
ステージわきのケースにアップライトベースを入れ、小陽さんと一緒に彼女のドラムセットを分解して片づけていると、自分のぶんのアンプとギターを片付けた光晴さんがこのためだけに来たエンジニアさんと談笑している。
エンジニアさんもいちおう片付け中のようで光晴さんもそれを手伝っていた。
それを見つけた小陽さんは少しむっとしている。
その仏頂面のまま数キロある機材を軽々と持ち上げ、片していくのを見ると、ぼくは小さな体のどこにそんなパワーが眠っているんだろうかと思った。
「つわぶきくん。ちゃっちゃとやるよ」
「あ、はい」
小陽さんが仏頂面なまま言う。
すべてが片づけ終わった後、エンジニアさんと話し終えた光晴さんが戻ってきた。
「ごめんね、手伝えなくて」
「わかってて話こんだんでしょ」
「そんなことないんだけどね」
光晴さんはにやにやしている。
「小陽ちゃん今日も揺れてたね、おっぱい」
にやにやしたままの光晴さんの膝小僧の真横に小陽さんの脛が入った。すさまじい速さのローキックだ。
「どこ見てんですかっ」
これがこの二人のコミュニケーションの取り方らしい。
嬉しそうに蹴られる光晴さんと嬉しそうにセクシュアル・ハラスメントを受ける小陽さんを眺めていると、ステージの上にいた軽音楽部員たちが機材のセットを終え、再びステージのわきにはける。
そのうちの一人の女性が光晴さんに近寄ってきてぼくを指差しながら言った。
「光晴。彼が欲しい」
「だめだ。こいつは宗教上の理由で」
平然と光晴さんがうそをつくと軽音楽部の女性はいぶかしむ。
「え?」
さすがうそだとにわかるだろう、ばかでなければ。ぼくがそう思いながら成り行きを見ていると女性のいぶかしげな顔が深くなった。
「まさか、おまえ知らないのか?」
「し、知ってるさ」
女性が胸を張って威張る。
「そうか」
「あぁ」
「まあ嘘なんだけどな」
女性がどんっ、と地団太を踏んだ。
それからほどなくして彼女らの出番の時間が来たのか、他のメンバーが例の女性に声をかけ、その人は忌々しそうに光晴さんを睨みながらメンバーの中に混じっていく。
と、そこでSEが鳴った。なんだか、軽音楽部の部員たちがプロのミュージシャン風に振る舞ってなりきっているように見えて、そこがこそばゆかった。
ぼくなら絶対にやらない。なぜならやればハードルが上がるから。
「あの人、信じたみたいですね」
「ばかだからな」
きこえてるぞ! とメンバーと円陣を組んでいた先ほどの女性がステージに寄った所から叫ぶのが聞こえた。
気にもせず、ぼくらは三台の荷台にそれぞれの楽器を積んで押し始める。
少し進んだところで軽音楽部のメンバーがステージに上がっているのが見えた。演奏がいよいよ始まるようだ。
振り返ってみると先ほどの女性はギタリストだったらしい。
SEがとまると互いに目配せしている。
「演奏始まるまで長くなぁ」
機材のセットが終わってから演奏が実際に始まるまでに10分は経っていた。
ぼくは呟きつつも正直あまり興味もないので荷台を押しながら進もうとしたところで軽音楽部の演奏がようやく始まる。
――それは有名なロックナンバー。バンドは3ピース構成。
サンバーストのレスポールを抱えコードをかき鳴らす彼女の方を同じタイミングでぼくと光晴さんが振り返って呟いた。
「コード間違ってるな」
「あそこはシャープ・ナインスですね」
「あそこは間違いやすいんだよな」
女性が地団太を踏む音が聞こえた。聞こえていたらしい。
軽音楽部の演奏はその後将棋倒しのようにぐだぐだになり、結局演奏を仕切りなおしたみたいだった。
「やべっ」
と光晴さんが急ぎ足で荷台を押し進める。
がらがらと荷台を押しながら部室棟まで行き、ぼくらはエレベーターに乗って楽器を最上階にある部室へ運びこんだ。
部室棟のそれぞれの部屋には人がたくさんいるようだったが廊下には今あまり居なかった。それぞれの準備があるのだろう。
この音楽同好会の部室はおそらく大学の部室棟のなかで最もグレードの低い部屋だ。
陽も当たらないし、埃っぽいが、代わりに防犯設備はわりと良いので、重たいアップライトベースやアンプ、ドラムセットなどを置きっぱなしにしている。けれど部外者はもちろん、心の汚れた学生から機材が盗まれることはない。
部室の中で自分の機材を片付けながら、光晴さんにふと思ったことを口にした。
「そういえばあの人誰ですか?」
あの人、とはコードを間違っていた軽音楽部の人のことだ。視界の隅で小陽さんが苦い顔をする。
「軽音楽部の部長だよ」
荷台から楽器をおろしながら光晴さんが言った。
「仲良いですね。なんとなく、仲が悪いものだと思ってました」
音楽同好会と軽音楽部。活動のベクトルは違うのだが似ている両者はいがみ合っているようなイメージが、なんとなくあったのだが、そう言う事はないらしい。
「邪険にしてもいいことないからね」
肩をすくめながら光晴さんは遠くを見つめ――
「それに一応元カノだし。仲は良いよ、別れても」
――思い出したように付け加えた。
そんな光晴さんの告白に一番驚いたのは小陽さんなようで、シンバルを落としかけ、何とか踏みとどまってから、小陽さんは光晴さんを睨む。
「けだもの」
「いきものだもの」
光晴さんはいつも通りすがすがしいほどにやにやしながら機材を片付け、自分のぶんを片付け終えたのか両手を上げて小陽さんに近づいた。
そして小陽さんが持とうとした大きいキックドラムの入ったケースを抱える。
「手伝うよ」
「ギターはどうしたの」
ハードケースに入ったままのギターが部室の入り口に置いてあるのを小陽さんは指差した。
「持って帰る。借り物だからね」
小陽さんは仏頂面で黙っていたが、少し考えるそぶりを見せたあと軽くため息をつく。
「……じゃあ、お願いします」
そうして小陽さんと光晴さんはそれぞれドラムセット用の棚に両手で抱えたドラムたちをおさめていく。ぼくも自分の分の片づけは終わったけれど、この二人の邪魔をしていいのか悩んだ。
「飲み物買ってきますね」
悩んだ結果、ぼくはすみやかに消えることにする。
「コーラで」
「紅茶をお願いします」
光晴さんはいったん抱えていたドラムを床に置いて、ポケットから五百年玉を取り出してぼくに投げた。
「つわぶきも自分のぶん買っていいから」
「ごちそうさまです」
「はーい」
再び向こうをむいた光晴さんが再びドラムを持ったところでぼくは自販機へ向かいはじめた。部活棟の近くに自販機はないので往復で十分くらいかかるだろうか。その間に二人でドラムの片付けも終わるだろう。
あの二人と会って日は浅いけれどなんとなくあの二人の中途半端な関係は掴めていた。どちらに気を使ったのか、と強いて言えば小陽さんの方だ。
部室棟を出て部室棟の前にある授業や運動系のサークル活動などで使われるらしい運動場へ向かう。ぼくが使う事は全くないけれど。
ぼくはその運動場の横にある自販機でコーラと紅茶。そして自分のコーヒーを買うと両手に抱えて部室棟へ戻った。
勧誘すさまじい運動場のわきを抜け、部室棟の一階でエレベーターの上へ行く矢印ボタンを押そうとするけれど、両手がふさがっていてなかなか上手くいかない。
そうしていると、ぼくの後ろからすっと腕が伸びて誰かがエレベーターの矢印ボタンを押してくれた。
「あ、ありがとうございま――」
肩ほどまでの黄色っぽい金色のショートカット。顔つきはきりっとしていて、目はいろんな意味で迫力ある三白眼。だから小さい子は彼女を見ると泣いてしまう。
昔は黒かった肌の色は白く戻っていて、厚かった化粧もかなり薄く落ち着いたものになって。ただ、昔から細かった体型がさらに細く、長くなっているところは心配だ。
――彼女は、川崎 穂。ぼくの元カノ。
「あ、えと……」
ぼくは何を言っていいかわからなかった。
彼女とは、ついこの間電車の中で久しぶりに再会したけれどあの時は殆ど話をしてない。それに今は、ほとんど話をできないだろう。
「ねえ、音楽同好会って、何階?」
「えっ」
穂の一言にぼくは固まってしまった。ぼくと同じ新入生の穂がどうするのだろう。答えは一つしかない。入部だ。
ぼくは固まってしまったけれど、入部の是非を決めるのはぼくじゃなく光晴さんだから――
「一番上だよ」
――だから、案内はしなければならない。
ぼくが言ったところで、ちょうどエレベーターが降りてきて扉が開いた。
ひよこのような歩き方でぼくはエレベーターに乗り込みんだその後ろから穂が入ってきて一番大きい数字の書かれたボタンを押す。
終始無言のままエレベーターは部室棟の最上階に辿り着いた。最上階の一番奥。そこが音楽同好会の部室だ。
ぼくは扉が開けっ放しの部室に入るとパイプ椅子に前後ろ反対で座る光晴さんと先ほど見かけた軽音楽部の部長さんが睨み合ってなにか口論している。
「……なにやってんすか?」
ぼくは近くで呆れていた小陽さんをつかまえ、彼女から話を聞いた。
「さっきのコード問題で演奏を邪魔されたって怒っちゃったのよ、誰かさんのせいでね」
小陽さんの視線が痛い。
ぼくをじとーっと睨む小陽さんはぼくの後ろにいた穂にふっと気付き、声をかけた。
「あれ、川崎さん?」
小陽さんの声を聞くに、二人は知り合いらしい。
「知り合いですか?」
「同じ、……まあ寮みたいなものかな、そこに住んでるのよ」
ぼくの両手の飲み物たちを小陽さんが受け取って部屋にある大きなアンプの上に置いてから穂に微笑みかけた。
「どうしたの?」
「入部を……、考えてて」
穂が一歩前に踏みだして言うと、一瞬小陽さんは目を丸くしたあと微笑む。
すると光晴さんが、がたがたと立ち上がりどこかからもう一個パイプ椅子と折り畳み式の小さな机を出してきて穂を座らせた。
「ささ、ここに」
「ちょっと待て。私の話はまだ終わってない」
不服そうな軽音楽部の女部長を気にした風もなく穂は用意されたイスに座る。
「おまえの耳が腐ってる話なんてこいつが聞いてくれるから!」
光晴さんはぼくを指差した。
軽音楽部の女部長がぼくを見ると女部長はため息をつきながら腕を組み、微笑んだ。かちゃり、と拳銃の撃鉄の起こる音がする。
女部長のあらたな怒りの標的となったぼくの背中を小陽さんが叩いた。
「グッドラック」
「えっ……」
かつかつと近寄ってきた女部長さんはぼくの袖をひっぱり、半ば強引にぼくを部室の外へ連行する。かなりご立腹なようだ。たしかにぼくも悪かったけども。
「あ、あの……」
「うるさい」
ずるずると引きずられながらぼくは死を覚悟した。