三章②『戦闘と、共鳴術と、誓い』
「これは?」
「こいつぁ、カモミールっつー花です。花を乾燥させたもんを煎じて飲むと旨いですぜ。沈静安眠効果もありやす」
「そうなんだ。【いつか飲んでみたいね、モリオン】」
ジャックの説明に感心したアルテミシアが、胸中の子と楽しげに語らう。それから、太股の高さまで背丈を伸ばした白い花に顔を近づけ、鼻をひくひくさせた。
その愛らしい仕草に、クラウズェアは口許をほころばせ、ジャックはジュルリと舌舐めずりした。舌がどこにあるのかは判らないが。
「林檎みたいな匂いがする」
アルテミシアはカモミールが気に入ったようで、道々に咲く白い花をかいで回っている。旅装外套が翻り、子供服から着替えたズボンが覗いて見えた。
ちなみにクロークとマントの違いだが、前者が体をすっぽり覆う丈と厚い生地を持つ防寒具であるのに対し、後者は儀礼の場や貴族の権威付け、あるいは純然たるファッションとして着られる事が多いのが特徴だろう。少なくとも、この国においては。
それはさておき。
一行は、牧草地沿いの街道を南下中だ。
道の両側は開けて見晴らしが良く、鮮やかな緑色のカーペットが敷かれたみたいな一面を、金色の陽光が輝かせている。それはアルテミシアに、翠玉の目を持つ少女を思い起こさせた。
抜けるような青空から金色の太陽が見下ろす地上を、涼やかな風が草花や髪を優しく揺らしていき、爽やかな草の匂いと、甘やかな花の香りを運んでくる。
「もう、春だな」
クラウズェアが誰ともなしに呟いた。
「春にしちゃあ、まだちょいと肌寒くないですかい?」
ジャックが肩を抱きながら身震いする仕草をした。本当に寒がっているのかは、端からは判らない。
この国は、一年を通して涼しい。夏でも汗ばむほどには暑くならない。だが、冬が極寒という訳でもない。一番寒い日でも雪が降らないし、適度な降雨量もあって牧草も枯れる事は無い。他の国々と比べて北方に位置してはいるが、海流の関係で珍しい気候になっている。
ともあれ。
「姐さんの胸で、哀れなジャックをあっためてくれよぅ」
言葉とはちぐはぐに、両手で何かを揉むジェスチャーをしながら近づいてくるジャックに、手綱を引いていない方の手で胸を隠したクラウズェアは、変質者を蹴って追い払おうとした。
「貴様っ、案の定っ、馬脚を現したな! 死ね! 滅びろ! 影の国に消え失せろ!」
剣の腕とは裏腹に、体術までは修練していなかった女騎士は、足をめちゃくちゃに振り回している。多くは空振りし、当たっても影の身には効かない。
「あ~くそっ、なんでスカートじゃあねぇんだ! パンツも見えやしねぇ」
蹴られるも何のその、しゃがんでクラウズェアの足の付け根を見るも、旅装外套の翻る隙間からズボンと蹴り足しか見えない。
「は、破廉恥な!」
可哀想なくらいに顔を赤くして潤んだ目で睨み付けてくる少女に、グヘヘェという気味悪い声が影から漏れた。
「二人だけで遊んでないで、ぼくも混ぜてよ」
蝶のようにふわふわと、花から花へ顔を寄せていたアルテミシアが、ジャックの真似をして隣にしゃがんだ。
「シアっ、お嬢様! 真似しちゃダメ! 頭が悪くなって、品性が下劣になって、ぺらぺらで真っ黒で、影の腐ったような救いようのない、豚の餌のドングリ以下になっちゃうわ!」
そう、鬼の形相でまくしたてる幼なじみの剣幕に、大人しく従うアルテミシア。
「う、うん。もうしない」
そう言って立ち上がった少年は、心なしか怯えているようだった。
「ドングリ以下って……」
さすがの厚顔無恥なジャックも、多少は堪えているようだ。
「ジャック」
底冷えする声がした。
「お嬢様に下品なことを教えてみろ。お前を殺す。必ず殺す。どうにか殺す算段を見つけて殺す。神々にわたしの魂を捧げてでも殺す。とにかく殺す」
目が本気だった。短くなった赤い髪が、炎のように揺らめく幻影が見えた。ジャックは怯えた。馬も、アルテミシアも怯えた。
「わかったか?」
「わかりました」
何故か、アルテミシアが即答した。
「シアに言ったんじゃないのよ? そこの豚の餌に言ったんだから。待って、どうして泣きそうなのよ」
「も、もう泣かないと誓いました」
「だから、どうして敬語なのよっ?」
クラウズェアが必死に弁解しようとするほど、アルテミシアには逆効果のようである。
そんな時。
「じゃれ合いは終わりです。来なすったようですぜ」
先程とは打って変わった真剣なジャックの声が、クラウズェアを凜々しき騎士に戻した。
彼女たちの後方三〇〇mほどの地点、五人の集団がこちらへ向かってくるのが見えた。
「さっきのお店にいた人たちだ。数は増えてるけれど。なんだか、顔が真っ赤だよ」
アルテミシアが呟く。
「おや? 目の良いこって」
ジャックの疑問に、
「目が良い……のかな? よくわからないけれど。きっと、モリオンのおかげだね。【モリオンは良い子だね】」
母親の褒め言葉に、彼の中で嬉しそうに飛び跳ねる感覚がして、まるでそれは、
【ドンナモンダイ!】
とでも言っているかのようであった。
「お前の危惧が当たったな」
忌々しげに吐き出すクラウズェア。
〈黄金の麦酒亭〉を出て直ぐに、ジャックが忠告をしたのだ。『追って来るかもしれやせん。迎撃の準備をしておきなすった方がいいですぜ』と。なので、立ち回るのに都合の良い、開けた場所をのんびりと歩いていたのだ。わざと追いつかせるために。
一つは、追って来た場合に気付きやすいように。もう一つは、クラウズェアが戦いやすいように。
彼女の剣術は、師フィデリオから習ったものだ。フットワークも剣捌きも非常にスピーディーで、上手くいけば剣の一突きで敵を瞬殺できる。だが、そのためには腕をめいっぱい伸ばせる空間、充分なフットワークを活かせる空間、そして、瞬発力を使ったステップを最大限に活かせる“平坦な足場”が必要になる。
ここは町から近く、道も均されているが、この先もそうだとは限らない。
ひとまず、彼女たちの用心は実ったと言える。
「馬を繋げる木か何かあれば良かったがな」
道の両脇は、木の一本、柵の一つもなく、だだっ広い牧草地が広がっているだけだ。何もなさ過ぎだ。
「仕方がない。お嬢様、今から荒事があるかもしれません。ですがご心配なく。何かあろうとも、フィデリオ先生からご教授頂いた剣術があります。直ぐに片付けてご覧に入れましょう」
クラウズェアは主人を安心させるため、軽口を叩いた。
「怖い目にあうの?」
“自分が”ではない。アルテミシアは、幼なじみの少女を心配していた。そして、彼女が負けるとは思っていない。『騎士になる』と誓った日から、フィデリオに師事した時から、彼女は来る日も来る日も鍛錬を欠かさなかった。手にマメができて、つぶれ、マメができてまたつぶれ。手の皮が厚くなって、剣ダコもできた。その“手”を、アルテミシアは知っていたから。呼び方が『シア』から『殿下』に変わっても、彼女の誓いと心は変わらなかったから。
そのクラウズェアが『心配ない』と言うのだ。その言葉を疑うまねなど、できるはずが無かった。だから、“自分は心配ない”のだ。実際に剣を取り戦うクラウズェア自身が、かすり傷一つ負わずにいられるかは判らない事だが。
心優しい幼なじみの心配を、その真意を正しく理解したクラウズェアは、口許をほころばせた。
「大丈夫、信じて。……お手を煩わせ恐縮ですが、しばし手綱を預かって頂けますか? この馬は良く訓練されていますので、たいていの事には驚きません。よほどの事が無ければ、手綱を引く必要もありませんから」
手綱を受け取ったアルテミシアは、拳ごと胸に抱き込むようにした。
「ジャック、お嬢様を頼んだぞ」
「よござんす。承知いたしやした」
ジャックは神妙に頷く。
そうこうするうちに、集団はそこまで迫ってきていた。
「待ちやがれ!」
集団から声が上がった。リーダーのヨドークだ。酒場でクラウズェアから剣を突きつけられた男である。
十五mほどの距離を取り、対峙するように止まる。五人の男達は皆、肩で息をしていた。もしも今から剣を交えるつもりならば、これほど間抜けな話も無い。
「何の用だ? 忘れ物でも届けに来たか。なら、礼をせんとな」
からかうようなクラウズェアの言葉に、上気した顔を怒りでますます赤くするヨドーク。
「うるッせえっ。さっきはよくもコケにしてくれたな。ただで済むと思うなよ!」
「これほどチンピラらしい台詞を聞けるとはな。まったく面白い」
ヨドークの怒鳴り声に、肩をすくめてやれやれと首を振るクラウズェア。これに激高するかと思われたリーダーだったが、意外な事に自制心を働かせ、顔を大きくゆがめた。笑ったのだ。
「大きな口を叩くのも、それぐらいにしとけや。なあ? あんときゃ油断しただけだ。それに、オレたちゃ五人もいるんだぜ? オカマみてぇなナヨナヨちゃんが、棒ッきれみてぇな剣を振り回してどうすんだ? え? こいつを見てから言いな!」
言って、背中に担いでいた剣を、鞘ごとどすりと眼前に置いた。両手持ちの大剣だ。クラウズェアのレイピアの、優に倍の長さがある。身幅も広く、厚みもある。重さに到っては倍ではきかないだろう。
「どうだ? びびったか? え?」
すでに勝ち誇ったような男の声に、
「ああ、驚いた」
クラウズェアは答えた。驚きのポイントは、ヨドークが意図した部分ではなかったが。
ヨドークは決して細い男ではない。それなりに剣を振ってきた。きちんとした師匠についた事は無いので、技術はほぼ我流、筋肉の付き方もバランスが悪い。だが、この大剣を振り回す事くらいはできた。それは、確かな脅威ではあったし、彼が自信の拠り所にするのも頷ける。未熟者相手ならば、充分に通用するだろう。数の利もある。衆寡敵せず。彼だって馬鹿ではない。
だが、クラウズェアは未熟者ではないのだ。ヨドークの意図を読んだ上で、彼らの技量を推し量った上で、余裕の態度を崩さない。
「筋肉馬鹿とは、こういう輩の事を言うのだな。勉強になった」
これにはヨドークも切れた。
「ってめぇッ、オレたちを舐めるのもたいがいにしとけよっ? オレたちゃ〈試練を求める者〉だぜ。大陸の方でもちったぁ名を鳴らした集団だ。敵に回すとヤバいぜ?」
「試練を求める者って、なに?」
世間知らずのアルテミシアは、思わず疑問を口に出してしまった。クラウズェアに任せて黙っているつもりだったのに。
美少女然としたアルテミシアの言葉に、その正体が男の子だと知らないヨドークは、気を引く事ができたと興奮の笑いを浮かべた。そして、口を開こうとした時、別の者が先んじて答えた。
「物取りの類いです」
クラウズェアだった。
「“冒険者”と名乗ることもありますが――まっとうな仕事に就かずに一攫千金を狙う、地に足の着いていないならず者連中の事です。遺跡荒らしの盗賊。この世で最も胡散臭い人種。社会の最底辺に位置する者達です。決して、あのような者達と口を利いてはなりません」
この言葉には、ヨドーク以外の男達も切れた。
「おいっ、ヨドーク! もうヤっちまおうぜ!」
「後で好きなだけ痛めつければいいだろっ? それに、オレっちは後ろの嬢ちゃんに興味があんだ。金になるぜぇ、ありゃあ。その前に楽しませて貰うがな」
ヨドークの左右の男達が、めいめい好き勝手にがなり立てた。そしてこの言葉に、今度はクラウズェアが頭に血を上らせた。
「貴様ら、お嬢様をどうするつもりだ」
「どうするだってぇ? お前も男ならわかんだろうがよ、騎士気取りのオカマ坊や?」
薄笑いで答えながら、フォーメーションを組み始めるヨドーク・パーティー。
前衛が三人に、後衛が二人。
中央から位置を変え、ヨドークは横にずれる。真ん中は、短めの剣と丸盾を構えた男、その両側に、鞘から抜いた大剣を肩にかついだヨドークと、反対側に長槍の男が並ぶ。
後ろでは、弓矢を持った年若い男がいるが、まだ矢をつがえずに、落ち着き無く視線をさまよわせている。もう一人は六尺棒を握っているが、構えるでも前に出るでもなく、薄目を開けて静観している。
それら五人が皆、皮鎧に身を包んでいる。籠手や脛当ての類いは着けていない。
これは、ヨドーク達が得意とする戦法だ。
前衛の三人で、敵を包囲するように動く。横に逃げようとすれば、長物を持った者に阻まれ、後ろに逃げようとすれば後衛から射かけられる。そして、それを嫌って正面突破しようとしても、盾に阻まれる。後は、そのまま取り囲まれて終わりだ。
人間、焦ると冷静な判断が下せなくなる。三人並んだ敵の正面になど“普通は”行かないものだ。だが、横にも後ろにも行けないとなると、反射的に前に行きたくなる。その向かう先にいる敵が、他の連中よりも短い武器しか持っていないのなら、なおさらだ。そういう計算だ。手慣れていた。
ヨドーク達前衛が、騎士気取りの優男と侮る相手を半包囲しようと前進し始めた時だった。
「くらえぇッ!」
大音声とともに突っ込む者が居た。守るべき主人へのおぞましい欲望を聞かされた挙げ句、『騎士気取り』呼ばわりを受けたクラウズェアだった。
まるで、火の点いた矢だった。一直線に駆けながら、レイピアを片手上段に振りかぶる。
「うおっ?」
最初に反応した真ん中の男が、思わず上げた盾で上半身を守ろうとした。
それを見るや、前方向のサイドステップに切り替えて残りの間合いを詰めるクラウズェア。レイピアは既に中段に構えられており、伸びるような突きが、盾の守らない太股に突き刺さった。
「うっ」
苦痛を漏らした時には男の前にクラウズェアは居らず、ステップバックで開いた空間に、長槍のスイングが通り過ぎた。
がつんっ、と。槍の柄と盾との、木と木のぶつかり合う大きな音が鳴った。痛みで反射的に下ろされた盾に、横から振るわれた槍がぶつかった音だ。
「いてぇっ」
フルスイングの衝撃が、そのまま槍使いの手に返ってくる。槍を手放しこそしなかったが、盾で跳ね返った槍が斜め前方、後ろに倒れた盾使いの前に投げ出される。
ばきり。ヨドークが重い剣を振り上げ、振り下ろした先には、すでに仲間の槍しか無く、それをへし折ってしまった。
そのヨドークに、ステップバックからステップインに反転していたクラウズェアの剣が突き込まれ、大剣を握る手が血に染まった。
「ぐうっ?」
刺された腕を押さえながら呻くヨドークに、レイピアが突きつけられた。
あっという間だった。
「降参しろ」
クラウズェアは低い声で告げた。
彼女は、油断無く周囲を見渡している。誰も動こうとはしない。戦いながら常に警戒していた弓使いは、どうした事か、一射もしなかった。勿論、射掛けさせないために素早く接敵したのだし、的にならないように足を止めなかったのだが。
そのとき。
「後ろっ、なにやってんだ!」
無傷だった槍使いが叫んだ。そのままじりじりと後退しようとするも、クラウズェアの鋭い視線に足を止めた。
叱咤の声に、年若い男はおろおろと迷ったように弓を上げ下げしている。射るかどうするか、決心がつかないのだ。
そんな張り詰めた空気の中。アルテミシアは、妙な物を見た。
銀の霧だった。
六尺棒を持った男が、棒を持たない方の手に石を握り込み、口からは隙間風を真似たような高音を紡いでいる。男の声に合わせるように、その石から銀の霧が立ち上り、音を立てている。
物を知らないアルテミシアには、その音を形容する知識が少なすぎた。さらさらとした硬くて小さい粒が、柔らかな水の中を流れるような。川底の砂もこんな音を立てるのかなと、眠れぬ夜のある時にアルテミシアは思うのだ。
その音は、小鳥たちの歌声が聴ける“朝”ではなく、クラウズェアが来てくれる“昼”でもなく、もう誰も部屋に来てくれない“夜”という時間に、遠くの方から微かに聞こえてくる音に似ていた。
その“音”は〈銀の霧〉から聞こえてくる。
そして、音の流れが、大きく、速くなり、霧が集い形をなした。《槍》の形になったその矛先は、クラウズェアの方を向いていた。
「横によけて!」
アルテミシアが叫んだと同時、《槍》は放たれ、クラウズェアは横方向にサイドステップした。
ばあんっ、という、硬くて重い物がぶつかる大きな音がして、土埃が舞った。クラウズェアの元居た地面が、鋤で一掘りしたかのように深くえぐれている。
クラウズェアは、突風が過ぎ去る音を聞いた気がした。
音に驚いた馬は、一瞬だけ体をびくつかせたが、直ぐに大人しくなった。クラウズェアの言の通り、よく訓練されている。
「バカヤロぅっ、さっさと使わねぇか! 金は払ってやるっ、どんどん撃て!」
石と六尺棒の男に叫ぶヨドーク。それから、弓使いを怒鳴りつけた。
「セロン! てめぇはさっきからなぁにやってんだっ? 臆病者は騎士にゃなれねえぞ!」
その言葉に、セロンと呼ばれた青年は反射的に矢をつがえた。だが、まだ構えるところまでは踏ん切りがつかないようだ。
「まさか、〈共鳴術〉?」
クラウズェアが信じられないといった風に呟く。
〈彩化晶〉、月から零れた銀の滴。それを使って不可思議の業を行使する術が〈共鳴術〉。一般に人々が魔術と恐れるものだ。
この世に働く法則――石ころを放ればやがては地に落ち、火に触れれば火傷を負う。寒さに水が氷となり、人は老いて死んでいく。そういった目に見えない大きな力が存在するように、魔の法とでも呼ぶべき、恐ろしき何かが確かに在った。その法則を〈魔法〉と呼び、魔法の一端を知り、行使する者が〈共鳴術師〉であり、彼らが行使する偉大な力が〈共鳴術〉だ。
クラウズェアからは見えないが、男の握り込まれた拳の中には、確かに青い〈彩化晶〉があったのだ。貴族ならば誰もが持っいる石を。クラウズェアが結局は使えなかった石を。
彼女が、子供の頃から抱える負い目に囚われそうになった時、
「ローズ!」
あの時も、彼女を前に押し進めてくれた幼なじみの声が、必死の声が届いた。
「下がって!」
声に従い、ステップバック。その直後、やはり風切り音の後に爆発が起こり、今度は鍬で浅く地面を掘ったような跡が、六人掛けの長テーブルくらいの範囲でできていた。左右どちらかにステップしていたら、横方向に長い爆発跡の中に巻き込まれていたかもしれない。
「こりゃあ、いったいぜんたい何が起こってるんです?」
「よくわからないよ。けれど、あの男の人が握ってる手の中から銀色の霧が出てきて、それが“風と混ざって”飛んできてる」
「マジで?」
ジャックの驚きの声に、アルテミシアが「うん」と答えた。
「なんでぇ、そりゃあ。魔法? 超能力? 神通力? それとも遠当てだか透空勁だかの類い……って訳でもあるめぇし。自衛隊が秘密裏に開発した新兵器とかでも、ねぇんだろうなぁ」
「共鳴術だよ、きっと」
ぶつぶつ独り言を言うジャックの隣で、アルテミシアが呟いた。
「どうしよう? ローズが大変なのに……横!」
アルテミシアの声に従い、サイドステップで風の共鳴術を躱すクラウズェア。爆発音と土埃がまき散らされる。
「外れてんじゃねえかよ、おいっ? この下手くそが! もっと派手にやりやがれ!」
「やかましいっ、気が散る! 〈共鳴術〉には高度な集中と寸分違わぬ〈調律歌〉が必要なんだ。ボサッと突っ立ってないで、俺を守る盾にでもなってろ! それができなきゃ、せめて黙ってろ!」
男は〈後天共鳴者〉であった。〈先天共鳴者〉とは違い、術の行使には〈調律歌〉を必要とする。時間を掛けて集中する必要があるのだ。
だが、そんな事情は無学な男には理解できない。
「てめっ、雇い主に向かって!」
どうやらヨドーク達は口論を始めたようで、共鳴術が止んでいる。アルテミシアには、銀の霧も見えなくなり、音も聞こえなくなっていた。
「チャンスです、シア嬢ちゃん」
「ローズを助けるのっ?」
ジャックとシアが算段している頃。
共鳴術が止まったとはいえ、クラウズェアは攻めあぐねていた。不用意に近づいて、共鳴術を掛けられでもしたら身の破滅だ。共鳴術師の言葉で、仲間から盾と剣を奪い取った槍使いが、彼の前に陣取った事も厄介だ。
クラウズェアは、共鳴術の仕組みに明るくないのだ。彼女は、〈彩化晶〉が使えないのだから。術は感覚的なものに寄るところが大きく、座学のみで理解できるような浅いものではない。
彼女は対策を立てあぐね、心中焦っていた。
そのとき。
クラウズェアの後方から、アルテミシアの「ごめんなさい!」という声と、馬のいななきが聞こえた。そして、「ローズどいて!」という叫びも。
声に従い、サイドにステップしながら背後に視線を遣ると、空馬がこちらに向かって襲歩で駆けてくるのが見えた。人が乗っていないとはいえ、荷は積んである。襲歩でもあまり速度は出ていない。だが、人の全速力よりは遙かに速く、何よりその重さは脅威だ。
重い足音を響かせながらクラウズェアの横を駆け抜けた馬は、そのまま共鳴術師達の居る方へと駆けていく。
「馬だっ、とめろ!」
叫ぶヨドークに、
「無茶を言うなっ、お前がとめろ!」
がなりあいながら、蜘蛛の子を散らしたように方々へ走る男達。足に刺し傷を負った男も、この時ばかりは倒けつ転びつ、必死に足を動かした。
「今ですぜ!」
ジャックの声が上がった。言われるまでもなく、クラウズェアは動いていた。
腰の後ろ側に差したダガーを抜き、投擲する。狙い違わず、共鳴術師の二の腕に命中し、男は悲鳴を上げ、手から青い石が落ちた。
投擲し終えた瞬間に走り出していたクラウズェアは、腕を押さえて呻く共鳴術師に駆け寄り、最後の一歩をステップインしながら、レイピアの護拳で男の顔面を殴りつけた。
がちりっ、という歯の折れる音と共に、悲鳴も上げられずに後方へ吹き飛ぶ共鳴術師。口からは血が溢れている。
ヨドーク・パーティーで、動く者は誰も居ない。めいめい、へたり込むなり気絶するなりしている。弓使いも、結局は最後まで矢を射る事はなかった。
勝負はついたのだ。
クラウズェアは悩んでいた。
ヨドーク達を打ち負かした後、彼らを一カ所に集め、剣を突きつけて大人しくさせている状況だ。
五人中三人は怪我を負い、得意のフォーメーションは破られ、奥の手の共鳴術も、今は彩化晶が取り上げられているので使えない。彼らは、完全に戦意を喪失していた。
普通なら、このまま町へ戻って、統治者の男爵だか騎士だかに引き渡せばそれで終わりだ。だが、それはできない。相手が平民ならともかく、貴族や騎士と顔を合わせるわけにはいかなかった。素性が割れれば、一巻の終わりだ。
クラウズェア達は、このまま街道を通って関所を抜け、南の貿易都市〈サザンポート公爵領〉へと向かうつもりだ。目的は、船による国外逃亡である。
サザンポート公爵領は、アルテミシアの兄である王太子エサルレッドの治める地だ。だが、彼は今、海外のさる自由都市国家にある大学に留学中の身だ。自ずと指揮系統にも遅延や齟齬が生じ、アルテミシア達の逃亡の触れが出ても、捜査にほころびが出る。貿易で大きな国益を生み出しているグリーンウェルは、港を完全封鎖する訳にもいかない。港にさえ行ってしまえば、後はどうにかして貿易船の積み荷にでも紛れ込み、密航によって外国へ行く。そのためには、この先の〈関所〉を越えなければならない。関所さえ越えれば、その先は何とでもなる。そういう計画だ。
甘い計画だった。
甘いと言わざるをえない事は、クラウズェア自身がよく解っていた。だが、彼女たちには手引きしてくれる権力者や、窮地を打破する妙案を授けてくれる知恵者など、誰一人として味方と呼べる者は居ないのだ。剣一筋に生きてきた騎士が、無い知恵を絞って、やっと考えついた計画だった。
スピードが命だった。早く関所を越えて、南の貿易港に行きたい。こんな〈試練を求める者〉などと自称する、くだらないゴロツキ連中に係らっている暇など無かった。無いのだが。
町へ戻らないとなると、選択肢は限られる。つまり、“逃がす”か、“殺す”か、だ。
騎士としてなら、殺すべきだ。ヨドーク一味は悪党だろう。小さく咲いた名も無き花を、ためらいなく踏みつぶすように、今まで罪も無い人たちを泣かせてきたに違いない。許せるわけがなかった。
だが。
クラウズェアは、今まで誰一人として殺した事が無い。騎士になると誓って剣を取り、国王陛下から騎士の叙勲を賜ったあの日から、いずれは悪党を手に掛けるだろうと覚悟はしていた。騎士とは、そういうものだ。国家の静謐のため、民の安穏のため、盾と成り遮り、矛と成り手を血で染める。騎士とは、そうある者なのだ。
だが。
クラウズェアの後ろには、戻ってきた馬の手綱を固く握り込んでいるアルテミシアが居る。いつも通りの無表情だが、彼女だけが判るその表情は、不安を浮かべていた。その乏しい表情を、恐怖や嫌悪でゆがめてしまうのが怖い。それ以上に、悲しい顔をさせてしまうのが、もっと怖かった。
「どうか助けてくれ!」
クラウズェアの逡巡を感じ取ったヨドークは、ここぞとばかりに土下座した。地面に額をこすりつけている。まねして、周りの連中も頭を下げ始めた。共鳴術師は気絶したままだ。
「もう悪さはしねぇ! 約束する!」
「槍も折れたっ、もうなにもできねえよ」
「この足じゃあ、戦うも盗むもできねぇって!」
めいめい、哀れっぽく訴え始める。その中で、セロンと呼ばれていた年若い男だけは、頭を下げるでもなく、クラウズェアをじっと見上げている。
「ローズ」
アルテミシアの、か細い声が聞こえた。
剣を向け、一味を視界に入れたまま、クラウズェアは小さな主人の方を見た。
「助けてあげよう?」
予想通りの言葉だった。クラウズェアは溜息を吐き、ヨドーク一味は光明を見いだした。
「誓って! 神掛けて、もう悪事はやらねえと誓います!」
「オレも誓う!」
「オレもだ!」
口々に誓いの言葉をわめき散らす男達を尻目に、クラウズェアはもう一度溜息を吐いた。男達の態度に呆れたわけではない。ましてや、アルテミシアの言葉に呆れたのでもなかった。自分が決断する前に、主人に決定させてしまった。それは、何かあった時にアルテミシアに責任を負わせてしまうという事だった。反論すべきだ。
「ですが――」
だが、反論の言葉は“誓いの言葉”でかき消された。
「叶えて欲しい。おねがい」
それは、クラウズェアが〈常葉の森〉で、アルテミシアに言った言葉だ。『なんでも叶えるから言って欲しい』という、誓いの言葉だ。
「シア……」
「わがままだよね。きっとぼくは子供だ。迷惑かけてばかりだし。けれど、お願い。許してあげて?」
抑揚に乏しい静かな声が、場を包んだ。
アルテミシアは、クラウズェアが何に悩んでいるのか、明確には理解していなかった。騎士の職務や国の法律、それ以前に、殺す事、人が死ぬ事を判っていない。だが、大切な幼なじみが“自分の事”で悩んでいるのだけは、肌で感じ取れたのだ。
そして、少女もまた、少年の事が大切だったから。
「御意の通りに」
警戒を怠らないために略式の目礼で応えたクラウズェアは、体ごとヨドーク一味に向き直った。
「お前達を許す事にする。もう一度、あらためて誓って見せろ。そこのお前も誓え。『騎士を目指している』ならば、〈英雄騎士〉の尊名に誓って見せろ」
〈英雄騎士〉とは、東の大陸において古代に栄華を極めた超巨大国家を興した人物である。建国の英雄にして初代国王。そして、〈騎士〉という新しい戦士の在り方を打ち立てた人物である。上は国王から下は平民まで、誰もが子守歌代わりに親から聞いたおとぎ話。吟遊詩人が語り継ぐ、英雄譚。
男達と、最後にセロンと呼ばれた青年に視線を向け、クラウズェアが告げた。その言葉に、ヨドーク達はあらためて誓いの言葉を叫んだ。そして、セロンが初めて口を開いた。
「大昔の大英雄、騎士の祖にして騎士の誉れの鑑、〈英雄騎士〉の振るう正義と力の剣に誓って。俺は正しい道を踏み、立派な騎士になります!」
興奮して声はうわずっていたが、熱意と真剣さのこもった声だと、クラウズェアは思った。それに、この男は最後まで矢を射なかった。ヨドーク一味と行動を共にしているのも、まだ間がないのかもしれない。そう思った。
「いいだろう。誓いの言葉は聞き届けられた。守る者に神々のご加護を。破れば身の破滅となる」
レイピアで、それぞれ天と地と男達を指し示したクラウズェアは、剣を鞘に収めた。
「さあ、行け。正しき道を探しに行け」
クラウズェアの言葉に、一目散に駆け去って行くヨドーク達。セロンは一礼をしてから、共鳴術師を背負って歩いて行った。
「姐さんも嬢ちゃんも、揃って甘ちゃんですねぇ」
ジャックの呆れた声が、人影をともなって現れる。
「ごめんなさい」
アルテミシアの気落ちした声が答えた。
「お嬢様は悪くありません。斬り捨てたとして、ここには隠す場所も、土を掘り起こす道具もないのです。見つかれば騒ぎとなり、余計な騒動は我々の旅の邪魔となります」
「穴ならそこに空いてますぜ?」
ジャックのからかうような言葉に、余計なことを言うなとばかりにクラウズェアの視線が突き刺さる。
「五人も入るものか! そこまで言うなら、お前が掘れ。今から追っかけて、五人まとめて埋めてこい!」
「あっしってば、土いじりは得意じゃないんですがねぇ」
「得意不得意以前に、その手で鋤や鍬が握れるものかっ、この役立たず! ごくつぶし!」
「いや、役には立っちゃあいませんがね? 飯は食ってねぇんだから、ごくつぶしってぇのは――」
「うるさい! この豚の餌! ドングリ以下!」
「……なんかそれ、一番傷つくでやんす」
「うるさいっ、ドングリ!」
馬鹿騒ぎに発展しつつある二人の側で、アルテミシアの心は沈んでいた。
自分はなんて弱くて役立たずなんだろうと、少年は思っていた。
守られてばかりは嫌だった。自分も、クラウズェアを守りたいと思った。何故なら、赤毛の少女は少年にとって、大切な幼なじみなのだから。
けれど、生まれてこの方、剣を握ったこともないばかりか、外に出ることすら数えるほどしか経験のない籠の中の脆弱な鳥に、何ができるというのだろうか?
アルテミシアは、知らず服越しに、懐の宝物に手をあてがっていた。誓いの証。この世で最も無力で強力なお守り。クラウズェアの髪が、そこにしまわれていた。
「守られてばかりは嫌だよ。ぼくも守りたい……」
風にかき消された小さな呟きを、胸中のモリオンだけが聴いていた。