三章①『旅支度と、試練を求める者』
三章
その客は、恐ろしく人目を惹き付けた。
一人は剣士風の優男。整った顔立ちを、赤い髪と緑の目が飾る。すらりとした体としなやかな身のこなし。腰の剣は持ち主に相応しく、優美な拵えはさながら芸術品のごとく。
『腕はさして立たぬだろうが、女に苦労はせんだろう。特に、上流階級の女には』と、何人かの男達は思った。店主もその一人だった。
続いて酒場に入ってきた人物に、先客達は息を呑んだ。
東向きの扉から、差し込む朝日を付き添わせた乙女が一人。
夜闇を思わせる黒髪は、星々の耀きを溶かし込んだごとく艶やかに流れ落ちている。純白の肌に一点の陰りも無く。目は紅玉を填め込んだよう、唇は朝露に濡れる深紅の薔薇を散らしたよう。儚げな硝子細工の無垢さに、銀月の光を灯したような、高貴の所作を生み出す姿態。
身にまとう物が庶民の子供服である事が、恐ろしいまでの違和感を覚えさせるが、見つめていると、そのボロさえもが何か上等な召し物であるかのような錯覚を引き起こす。
「女神だ……」
誰かの呟きに――いや、店主自身が漏らした言葉に、とまっていた時間が動き出し、酒場は色めき立った。
二人は――正確に言うと、人間二人と化け物二体は、夜が明ける前に猟師小屋を出発した。
まだ誰も野良仕事に出ていない畑を見送り、小川に架かる橋を越え、家畜たちが小屋で眠る牧草地の側を駆け、そうして朝飯時までに小さな町に到着した。
一刻も早く神殿や王都から距離を離す必要があったが、旅には色々と物が入り用だ。立ち寄った店で、旅支度と、朝食を済ませようという計画だった。
幸か不幸か、アルテミシアは“秘せられた存在”だったので、逃亡が知れても大っぴらに触れを出す事はできないはずだ。その点に関して、クラウズェアに多少の心の余裕を与えていた……胸の痛みと同時に。
ここは〈黄金の麦酒亭〉。どこの町にも存在する、酒場と宿屋と万屋を兼ねたような形態の、ありふれた店の一つだ。
中年の店主が料理を出し、その娘が女給という具合に、父子二人で切り盛りしている。
店内は既にいくつかの席が埋まっている。畑や勤め先に行く前の食事を摂りに来た独り者がたいていだが、中には剣などの武器を持ち込んでいる者も居た。
彼らの間を、栗色の髪と麻のスカートを揺らしながら女給が行ったり来たりして注文を取り、料理を運んでいる。
そんな中、アルテミシアとクラウズェアの二人は、空いているテーブル席の一つに腰を落ち着けた。
「にぎやかな所なんだね」
アルテミシアは、赤い目できょろきょろと辺りを見回した。頭の動きに合わせて、緩やかに髪が波打つ。
「お嬢様、膝の御髪を落としませんよう、お気をつけください。それと、わたしは注文をしてきますので、大人しくお待ちください」
そう言って、クラウズェアは店主が居るカウンターの方へ歩いて行った。
注意されたアルテミシアは、膝の上に纏めた黒髪が落ちないよう、体に引き寄せた。立っている状態で地面に着きそうになるのだ。当然、椅子に座れば床に着く。汚れぬよう、膝の上などで纏めておく必要があった。
「『お嬢様』だそうですぜ? シアお嬢ちゃん」
アルテミシアの影の中から、彼にだけ聞き取れる小さな声で、ジャックがゲヘヘとからかった。
「決めた事だもの。守るよ」
足下の影に視線を落とし、呟くアルテミシア。
旅をする上で、いくつか決めておいた事があるのだ。アルテミシアの事は“お嬢様”あるいは“シアお嬢様”と呼び、クラウズェアの事は“クロード”と呼ぶと。変装の一環だ。稚拙だが、やらないよりはましだ。
ちなみに、アルテミシアは〈常葉の乙女〉が着る緑の巫女装束から、民家に干してあった女児用服を失敬し、着ている。律儀に、クラウズェアは銀貨一枚をおいてきた。払いすぎだ。お釣りがどれだけ来る事か。
ついでに言えば、クラウズェアは男装のために、胸の膨らみを布で縛って押さえ付けている。ジャックが『勿体ねぇ』と漏らした言葉は黙殺された。服装はもとよりシャツとズボンで、上等だが飾り気のない質素な作りをしている。あまり盗みを働きたくはないクラウズェアは、『新しい物を買うまでは』と、そのまま着ているのだ。
「おや? ずいぶんと良い子ちゃんですねぇ? もちろん、シアお嬢ちゃんは良い子ちゃんのかわい子ちゃんですがね」
からかい混じりの言葉に対し、シアお嬢ちゃんは幽かな笑みで答える。
「うん。ロー、クロードに迷惑かけないように、良い子でいないと。【……ん? だいじょうぶだよ? お腹がすいてるだけだから】」
モリオンと話す時の常で、どこを見るともなしに、囁いている。
「ふぅん?」
「お嬢様、お待たせしました」
そのとき、クラウズェアが戻ってきた。
「お帰り。待ってないよ。二人とお話ししてたから、退屈もしてない」
慌てて、言い繕うような返答をよこすアルテミシアに、クラウズェアは面食らう。
「シア、お嬢様? 何かあったのですか?」
「ううん。何もないよ? 何もしてないし……まだ、何も失敗してないよね?」
最後の言葉は、ジャックへの確認だった。
「いや、失敗っちゅーか、何もありやせんね。あえて言やぁ、スッゲー目立ってます」
ジャックの言葉に促されて周囲を見ると、確かに酒場の男達は皆、さりげなさを装ったり、あるいはあからさまに、二人の事を見ていた。特に、アルテミシアの方を。
給仕の娘は、クラウズェアの涼やかな男装姿に頬を赤らめ、アルテミシアの可憐な姿に溜息をついている。
多くの視線にさらされ、それを意識したとたん、アルテミシアは身をすくめて目を閉じた。
「何か不作法をしたのかな? 髪、髪は?」
不安に襲われ、髪が白に戻ってやしないか、思わず開けた目で確認してしまう。
「髪は真っ黒、目は真っ赤。いつも通りのかわい子ちゃん。シア嬢ちゃんは、かわい子ちゃん」
変な調子をつけてジャックが教え、その言葉に、怯えていた少年は安堵する。
その間、不躾な目に対し、少年の守護騎士は鋭い視線でにらみをきかせておく。それで、いくつかの目はそらされた。残りは無視するよりほかないだろう。
ただ、給仕の娘には相手が女性という事もあり、乱暴も不作法もできない。ただ視線を向けるだけに留めたのだが、もうそれだけで女給の顔は熟れすぎた林檎みたいに真っ赤になり、潤んだ目を床に向けてしまった。
恥ずかしそうに、ごわごわとして毛羽立った麻のスカートをなでつけている。だが、いくらなでつけても、皺が伸びる訳でもなく、麻が綿や絹に変わるでもなく、ましてやフリルやボタンの一つでも生えてくる訳が無かった。
女給が貧しくて飾り気の無い服を恥じていた時、クラウズェアの方は長い栗色の髪に一瞬だけ羨望の眼差しを向け、その気持ちを振り切るように視線を逸らす。
そうしていると、料理が運ばれてきた。
野菜を煮込んだスープ、黒パン、木苺のジャム、麦酒、林檎酒。それらが、薄汚れたクロスの敷かれたテーブルに、無造作に置かれていく。スープもジャムも酒も、どれも木製の器に入れられていた。しかし、人の顔ほどもある黒パンの塊だけは、そのままテーブルの上に置かれそうになる。
それを、クラウズェアの手が横から掠った。
「後は自分でやる」
訝しげな顔をした店主だったが、特に追求する事もしない。一度だけアルテミシアの顔をちらりと盗み見た後、感嘆の溜息を漏らしてカウンターへ戻っていった。
クラウズェアの方はといえば、汚らしいクロスを眉をひそめて見ていた。一応、洗ってはあるようだし、他のテーブルのように、食べ物滓が落ちたり、スープで汚れた口や手を拭った跡はついてなかったが、それでも、彼女から見て“綺麗”や“清潔”からはほど遠い。
だが、『朝でまだ良かったのだ』と、内心で己を納得させたクラウズェアは、昨晩の内に洗って乾かしておいたハンカチを取り出し、クロスの上に敷くと、その上に黒パンを載せた。それから、懐から小さめのナイフを取り出し、パンを切り分けた。それを、テーブルの真ん中、アルテミシア寄りに置く。
「どうぞ、お召し上がり下さい」
それまで、一連の作業を瞬き一つせずに凝視していたアルテミシアだったが、クラウズェアの言葉に、目をぱちくりさせた。
「ロ、クロード、これって、なぁに? パンみたいな匂いがするんだけれど」
ハンカチの上の黒パンを、赤い目がじっと見る。
近くの席でさりげなく耳をそばだてていた男達は、訝しげな表情を浮かべた。
「これは黒パンといって、平民が食べるものです。お嬢様が普段お召し上がりになっている白パンに比べれば、堅く、味も悪いのですが。あいにく、これしか無かったのです。どうか、お許しを」
クラウズェアの謝罪の言葉を聞き、周りの男達はぎょっとした。顔を見合わせ、ひそひそと話し合う者も居る。
「ううん、そんな事ないよ。食べるのがなんだか面白そう! それに、これを食べたら髪が黒くなるかも」
慌てて打ち消すような言葉を返すと、アルテミシアは黒パンを手に取った。
「シア、お嬢様」
健気な主人の言葉に、クラウズェアは胸が締め付けられる思いだった。
「天と地のお恵みに感謝を」
少年は祈りの言葉を捧げると、小さく口を開け、黒パンに齧り付いた。そのまま咀嚼行動に移るかと思われたアルテミシアだったが、パンに歯を立てたきり、動かなくなった。
「お嬢様?」
やはり口に合わなかったのかと、クラウズェアが気を揉んでいると、パンを噛みちぎったアルテミシアが林檎酒を口に含み、時間をかけて飲み下した。そうして一言、
「かたぁい」
間の抜けた声に、ジャックは笑いをかみ殺し、クラウズェアは申し訳ない気持ちで一杯になったのだった。
白パンは高級品だ。小麦自体が高級品だし、精白にも金がかかる。自然、貴族や金持ちの食卓にしか並ばない。
反して、黒パンは庶民の主食である。ライ麦や燕麦から作られ、精白もされる事は希なので、色は黒っぽく、実は詰まってずっしりと重く、なんといっても堅い。保存用に作り置きする事が多いので、乾燥してぱさついた舌触りの物が多い。
「申し訳ありません! お教えするのが遅くなりましたが、黒パンは、スープや飲み物に浸すか、ジャムを塗って軟らかくしてから食べるのです。かくいうわたしも初めて食べるものなので、不手際を犯してしまいました。どうか、ご容赦を」
右手を胸に添え頭を垂れ、騎士の礼で謝罪するクラウズェア。本当は立って行うべきだが、人目を気にして控えた。
「そんなっ、少しも気にしてないから! クロードも気にしないで? ね?」
懇願の色を含ませた許しの言葉に、これ以上主人の気を重くするのは本意で無いと、クラウズェアは頭を上げた。
「お許し頂き、有り難う御座います」
「どうにも堅苦しいねぇ、お二人さん。飯はもっと楽しく食いなってんだ」
ジャックのおどけた声が下から届き、二人の心を和らげた。
「そうだね。ジャックさんの言う通りだよ。こういう食事は初めてなんだから、楽しまなくっちゃ」
「まこと、その通りですね。では、わたしも」
そう言って手に取った黒パンに齧り付いたクラウズェアは、やはり眼前の少年がしたのと同じく動きを止め、無理矢理に噛みちぎった。ビールで嚥下する。
「なるほど、堅い」
そういって笑うクラウズェアに、アルテミシアも口許を緩ませた。
「黒パンは白パンよりゃあ栄養価……あー、体に良い体力を増す滋養が多く入ってるんですぜ? これから旅をするってぇんなら、食っといて損は無ぇ」
「それは初耳だ。お嬢様のお体にも良さそうではないか。影の国の知識か? お前は存外、物知りなのだな」
クラウズェアの感心したような物言いに、ヘッヘと笑う影人間。
「いや照れるな、こりゃあ。お二人さんよりゃあ長生きしてるみてぇですからね」
「なんと、年上なのか。魔物の齢はわからんものだ」
「ねぇ、それよりジャックさん。ジャックさんは食べなくていいの? モリオンは食べなくてもいいらしいんだけれど」
アルテミシアの心配そうな声に、ジャックが嬉しげに答える。
「あっしは飯は食わねぇんでさぁ。腹も減りやせんしね。お気遣い無く。二人でモリモリお食べなせぇ。特にシアお嬢ちゃんは、たらふく食べねぇと。大きくなれやせんぜ?」
「よくぞ言った、ジャック。お嬢様は食が細くていらっしゃる。いつもいつも、わたしからご進言申し上げているというのに、少しもお聞き入れ頂いた覚えが無い。いつもお召し上がりになる物と言えば、粥を少しだけだの、パンを少し囓りだの、果物を――」
「食べるっ、食べるよ、食べるからぁ。ねぇ、もういいでしょう? その話は。前と違ってちゃんと食欲はあるんだよ。本当だよ? なんだか体も元気だし。【……そうなんだ?】モリオンのおかげみたい」
慌てて忠臣のお小言を遮ったご主人様は、ジャムを塗りたくった黒パンに齧り付き、一生懸命、黒パンの堅さに挑み始めたのだった。
結局。
アルテミシアはジャムを塗った黒パンを一切れ半と、林檎酒一杯で満腹になった。彼曰く『今までで一番食べた』との事である。
クラウズェアはというと、残りの黒パン全部と、スープと麦酒を二杯ずつ平らげた。それでも腹は満ちなかったが、路銀の節約のためには堪え忍ぶよりほかは無かった。“たくさん食べても筋肉がつきにくい”というのが、彼女の悩みの一つだ。
そんな、大食漢ならぬ大食乙女のクラウズェアは、店主を相手に旅支度を整えているところだった。
「旅の道具が欲しい。二人分だ。調理道具と、食器と、防寒具、毛布、それと食料に飲み物だ。あそこの子を馬に乗せるから、それを差し引いて積めるだけ欲しい」
アルテミシアの方を一瞥し、店主に注文する。
「わかった。適当に用意するから、そろったら確認してくれ。……そうそう、酒は蜂蜜酒でいいかい?」
店主の言葉に、失念していたとばかりに、
「かまわない。それより乳はあるか? 山羊でも羊でもいい」
このクラウズェアの言葉に、近くに座っていたカウンター席の男が笑い声を上げる。
「ミルクだって? ジジババの世話か子守でもするつもりかぁ?」
男の大声に、他の客達の爆笑が酒場に響いた。
下品な笑い声を無視している赤毛の客に、店主が呆れ顔で忠告する。
「お客さん、いったいどういうつもりだい? 冷やかしなら帰ってくれ」
「冷やかしではない。非礼があったのなら詫びる。だが、必要なものなのだ。牛のでも構わないから、乳が欲しい。それと、蜂蜜も欲しい」
あくまでも真剣なクラウズェアだったが、この言葉はより一層の笑いを買い、店主は渋い顔をした。
「あんた、ミルクだの蜂蜜だのと、病人でも居るのか? そんなら薬師のとこでも行ってくれ。だいたい、蜂蜜酒ならともかく、蜂蜜なんてある訳ないだろうが」
店主の文句ももっともである。元来、ミルクは体力の無い子供や年寄り、または病人が飲むもので、大人は飲まないものだ。チーズやバターは別だが。
それと、蜂蜜も同じく療養食の役割を果たし、薬としての側面が強い。
これだけ言われては、引き下がるよりなさそうだった。店主にヘソを曲げられて、買い物自体ができなくなっては本末転倒だ。ミルクと蜂蜜を売ってくれそうな者の居る場所を訊こうと、クラウズェアが口を開きかけた時だった。
「どうしたの?」
彼女の背後から、声がかかった。
無性に胸をかき立てる声だった。
吟遊詩人が歌い上げる、情感に溢れた声では無い。むしろ、抑揚に乏しいとさえ言える。大陸の大きな劇場で、艶やかに広がる歌姫の声とも違う。そういった、肉の身から発される現実感が伴っていない。例えるなら、まだ誰も触れた事の無い水晶の竪琴を、罪を犯す前の幼子が柔らかな手で爪弾いたような。そういった夢想を、聞く者の胸に芽生えさせてしまう。
そんな声だった。アルテミシアの声は。
誰も、声一つ、衣擦れ一つ、起こさない。
彼女以外は。
「お嬢様。申し訳御座いません。不慣れ故、準備に手間取っております」
謝罪する騎士に、
「そうなの」
と返すアルテミシア。白い手が胸の辺りで握られ、しょんぼりと俯いてしまう。
「また、ぼくのせいで迷惑かけて」
「お嬢様がお気になさる事ではありません。別の店に寄れば、解決する問題です。いえ、問題ですらありません。ちょっとした手違い、取るに足らぬ些事ですので」
そう笑いかけ、少年の頭を軽く撫でるクラウズェア。
白い面が上げられ、乏しい表情の中に、湖の底で頼りなく揺らめくルビーの煌めきを見た時、店主は激しい後悔の念と湧き上がる使命感を覚えた。
「用意しよう。待ってな」
言うやいなや、店を飛び出して行ってしまった。
「おい、どこへ」
クラウズェアの声が、店内にむなしく響く。
「ぼく、変な事を言ったのかな? クロードの邪魔をしちゃった?」
不安げな声でアルテミシアは問うた。
「いいえ、そんな事は決して。もしかすると、注文の品を取りに行ってくれたのやも。しばらく時間もかかるでしょうし、テーブルで待っていましょう」
微笑みと共に、主人の背に騎士の手がそっと添えられる。
「うん」
促されるままに、アルテミシアは席まで歩いて行く。
彼は子供の頃からのクセで、転びにくいようにと、後ろ足で地面を蹴る事なく、前足はそっと置き、静かに歩く。“動”たる躍動感は全くないが、“静”たる慎ましさが感じられた。
静けさが身を飾る。
酒場は沈黙に包まれている。
ふと、なにげなく視線をずらせば、一挙手一投足を見守る目。慌てて反対に目を向ければ、食い入るように、穴が開くほどに見ている目。アルテミシアは、全ての人間から注視されていた。
“視線にさらされていると気付く事”に不慣れなアルテミシアは、視線を避けるように俯き、頬を赤らめたまま席に逃げ戻った。
男達は、惚けたように黙り込み、胸中に湧き上がる激しい好奇心とは裏腹に、声をかける事ができないでいた。
一部の例外を除いて。
「へへっ、こりゃたまんねぇな」
席で恥ずかしげに俯いているアルテミシアに、わざと聞こえるような独り言。近くのテーブルから、アルテミシア達の会話を盗み聞いていた男の一人だ。
少年は、その声に一瞬びくりと肩をふるわせ、ぎゅっと目を閉じてしまう。
その姿に嗜虐心を煽られた男が、どす黒い衝動に駆られて口を開こうとした時。彼とアルテミシアの間に割って入った人物が居た。
クラウズェアだ。
「わたしのお嬢様に何か用か? 下郎」
低く、重い声だった。
店内は緊迫感に包まれ、客も、女給も、固唾を呑んで事態を見守っている。
「あぁ? てめぇ、すっこんでろ! オレの剣の錆に――」
周囲の事などお構いなしに、クラウズェアをじっとりと睨め付け、男が剣の柄に手をかけた時である。
抜剣し終わった細剣の切っ先が、男の喉元に突きつけられていた。
「抜けば、死ぬ事になる」
静かな声が、余計に恐ろしい。男は震え上がった。
「わっ、わか、った。わかった」
切っ先を凝視しながら、無理矢理に喉から声を絞り出す男の顔は、脂汗にまみれて無様極まりない。
男も、男の仲間達も動かないのを見て取ったクラウズェアは、ゆっくりと剣を収め、主人のもとに歩み寄った。
「シア、大丈夫?」
優しい声の響きに、“お嬢様”ではない呼びかけに、アルテミシアの顔が上がった。微かに嬉しげな、クラウズェアだけが判る表情を浮かべて。
「うん。だいじょうぶ。もう平気」
落ち着いた声の調子に、クラウズェアはほっと息を吐いたのだった。
そんな二人の様子を、憎しみのこもった目で見ている男が一人。
「おい、行くぞ」
忌々しげに吐き捨てると、数人の連れを従えて、宿泊部屋のある二階へ上がって行ってしまった。
そんな男達を見送りながら、ジャックはぽつりと呟いた。
「こりゃあ、面倒事にならなきゃいいがなぁ」
店内の張り詰めていた空気は緩み、客達は皆それぞれ、飲み食いを再開している。給仕の娘なぞは、クラウズェアの勇姿に完全に魅了されており、うっとりと見惚れている。
それからしばらくしての事だった。息を切らした店主が、調達してきたミルクと蜂蜜を抱えて戻ってきたのは。