二章③『目ん玉お化けのお母さんと、影の国からやって来た住所不定無職』
ある日、女の子は石を拾った。
不思議な色をした不思議な石は、とてもとても真っ黒で、神殿が建つ湖の浅瀬に浸かっていた。
前日は強い雨風が吹き、川の流れに乗ってこの湖まで運ばれてきたものが多かったので、これもその一つだろうと、その子は思った。
女の子は、その卵みたいな形をした石ころを、友達の男の子の所へ持って行くことにした。
「これって、なぁに? このまえ言ってた彩化晶?」
「さあ? お父様も、お母様も、お兄様も、黒いのは持ってないからわからないわ。でも、とっても不思議な色してる。もしかしたら、黒水晶なのかも」
「黒水晶?」
知らない言葉に、男の子が問い返す。
「宝石よ。たいそう綺麗なんですって」
「きれい」
包み込むように持っていた石を、小さな手がそっと撫でる。
「つるつるしてて、まぁるいね」
「ええ、まるで卵みたいな形だわ」
「たまごって、どうぶつが産まれる、あのたまご?」
「ええ、そうよ。めずらしいから、あげる」
「ほんとう? ありがとう」
その日から、男の子は黒い石ころを服の中に入れ、温めた。眠る時も、ベッドの中で一緒だった。
どんな動物が産まれるか、とても楽しみだった。生まれてきた子にはモリオンと名付けるつもりだった。もしかしたら、おかあさんの気持ちはこんななのかなと思った。
男の子と石ころは、ずっと一緒だった。……石が捨てられる、その日までは。
ある時。世話係の巫女達が、いつものように事務的に、男の子の湯浴みの世話をしていた頃。
ベッドメイクをしていた巫女が、枕の下に隠された黒い石を見付けた。男の子の持ち物は厳しく管理されていたから、不審な物があっては巫女が叱られる。
彼女は、部屋の窓から石を捨てた。
格子の隙間から落ちた石は、湖の中へとぼちゃんと落ち、落ちた石は魚が呑んだ。
石がないと知った男の子は、その日、たくさんたくさん泣いたのだった……
「モリオンは、湖の中に住んでたんだって」
たくさん泣いて少し枯れ気味の声で、アルテミシアは説明した。
夜の山道を下りながら、一緒に着いてくる銀の満月を、赤い目が不思議そうに見上げている。
ちなみにモリオンというのは、アルテミシアが彼の身のうちに居る存在につけた名前であり、この国のいくつかある鉱石資源の中でも貴重な結晶鉱物〈黒水晶〉からとったものだ。
「それで、水に落っこちたぼくを助けてくれたんだ。【モリオンは良い子だね】」
胸の辺りを見下ろすアルテミシアは、心なしか嬉しそうだ。彼が嬉しいと言うより、彼の中のモリオンがうれしがっているのかもしれない。
ちなみに、短剣で刺された事はクラウズェアには伏せている。知れば、幼なじみの少女は怒り狂って、剣を抜いて駆け出すだろうから。
幸いな事に、モリオンの力で傷は癒えている。
「……それで、何故そのモリオンは殿下の御身へ?」
色々と言いたい事はあったがぐっとこらえ、一番大切な質問をクラウズェアは選んだ。
ちなみに彼女は、乗りつぶした馬の死体がない方角を選んで、山を下りている。優しいアルテミシアに見せる訳にはいかないからだ。
「うん、それなんだけれど」
そう言って、少年は思案げに目を細める。己の内側へ意識を向けているのだ。
「モリオンとお話しができるわけじゃないから、本当にそうなのかはわからないんだけれど」
そう、前置きした後。
「ぼくが“お母さん”だから、みたい」
「………………は?」
クラウズェアの口から、間抜けな声が出た。
「モリオンはぼくの子供で、ぼくはモリオンのお母さんで、だから一緒なの」
そう言って微かに笑みを浮かべるアルテミシアを、騎士はまじまじと凝視した。
「お、お母さん、ですか?」
「うん、そう。あとそれから、水に濡れた服を乾かしてくれたのも、モリオンだって。【モリオンは優しい子だね】」
モリオンと話すアルテミシアの口から、小さな笑い声が漏れる。
「あの……殿下、理解が及ばず申し訳ありませんが、仰っている意味がよくわかりません」
困惑以外の何物でもない色を声と表情ににじませたクラウズェアに、とがめるような声色でアルテミシアが答えた。
「ねぇ、ローズ。そんなことよりも、なんでさっきからぼくの事を『殿下』って呼ぶの? それに、その他人みたいなしゃべり方はなに? ぼくには、そっちの方がわからない」
「うぅっ、それは……」
赤い目に見つめられて、答えに窮するクラウズェア。思わず足も止まる。
「答えて、ぼくの騎士ローズ」
「それは卑怯だわ……。わたしは、シアの騎士だから、騎士として……それより殿下、先を急ぎませんと。いつ逃亡が知るところとなり、追っ手がかかるやもしれません。ひとまず殿下にはどこかへお隠れ頂き、その間、わたしは神殿騎士用厩舎へ急ぎ、馬をとってきますので」
「【ねえ、これって、ごまかされてるのかな?】」
モリオンへの問いかけのつもりだった。
アルテミシアの声に、内なる声ではなく、二人の耳朶を震わせる声がかけられた。
「ええ、そりゃあもう、これ以上はないってくらい、ごまかしまくってる感じっすね」
「何やつっ?」
誰何の声とともに、アルテミシアを背にかばいながら抜剣したクラウズェアは、鋭い目つきで声のした辺りを睨み付ける。
「おー、勇ましいこってすなぁ」
楽しげな声と、その後に続く高らかな口笛の発生源に、それは居た。
木々が作る濃い影の中に立つ、ひときわ黒い人影。人影以外の何にも見えぬ、目も鼻も口もなく、子供が描いた落書きみたいな、ぺらりとした人型の影が、少し向こうに立っていた。
「また、――」
『化け物』と続けそうになったクラウズェアだったが、アルテミシアを悲しませる事は決してすまいと心に固く決めていたので、なんとか言葉を飲み込んだ。
モリオンの事を受け入れたわけでは、決してなかったのだが。
「黒い人によく会うね」
幸い、アルテミシアは気付いた風でなく、女騎士の背後から暢気に顔をのぞかせている。
「黒い人? お嬢ちゃん、あっし以外にもこういう形した奴をご存じで?」
先程の、人を食った調子とは打って変わり、きわめて真面目な声色だった。
「殿下、口をきいてはなりませぬ。何をきっかけにして妖しい呪いをかけられるか、わかったものでは――」
「あっしは今、そちらのお嬢ちゃんと話をしてるんですぜ? 部外者はちょいとすっこんどいてくだせぇ。ええい、話すにゃちいと遠いじゃねぇか。ちょいとそっちへお邪魔してもよござんすか?」
「うん、いいよ」
「シア! だめだってば!」
ちっとも言う事を聞かないご主人様に女騎士が抗議の叫び声を上げた時、人影は、向こうからこちらへ、アルテミシアの影の中に立っていた。
「くっ」
クラウズェアの動きは素早かった。周囲に目を配り、視界の端に人影をとらえた瞬間、突きを放っていた。
疾風と呼ぶにふさわしい突きで、踏み込みの勢いも乗った細剣が、影の胸を貫いていた。
手応えもなく。
「なっ?」
一歩、前へたたらを踏んでしまうクラウズェア。
「“突こう”という意識が強すぎです。後の事も考えなきゃあ。ま、ですが今のでたいていの奴は仕留めていると思いますぜ」
茶化すでもなくかけられた冷静な声に、だが、クラウズェアは心穏やかではいられない。
「貴様!」
頭と腹に、素早い二段突き。今度はたたらを踏む事はなく、先にも増して素早い剣捌きだったが、結果は同じだった。
「ローズ待って!」
事態の急激な推移に着いていけなかったアルテミシアだったが、今になってやっと動く事ができた。女騎士と影の間に割って入ろうとする。
「シアっ、下がってて!」
「ローズ話を聞いて!」
「そうそう、お嬢ちゃんの言う通りですぜ」
「貴様ぁッ」
「あなたも茶化さないで!」
「はい」
アルテミシアの赤い目に射竦められた訳でもないだろうに、影はおとなしくなり、何故だかその場に正座をした。
「ほらローズ、この人も何もするつもりはないって」
「だけど!」
そう言い返し、鋭い眼光と剣先を油断なく向けたまま、女騎士は主を左手で抱き寄せた。
アルテミシアの動きに合わせ、少年の影も位置を変える。その影に付き従うように、得体の知れぬ影人間も正座のまま滑るように水平移動した。
すかさず、レイピアが影の喉元に突きつけられる。
「誰が動いていいと言った」
「いや、そうは仰いますがね? あっしは今お嬢ちゃんの影に“移った”んですぜ? 家が動いたら、住んでるあっしもそりゃあ動くってもんですぜ」
「家だと? ……まさかっ?」
“またなのか”と、不吉な考えが脳裏をよぎったクラウズェアを差し置き、少年は興味深げに人影を見ている。
「さっきの面白かったね。ねえあなた、名前はなんて言うの? ぼくはアル――」
「シア!」
稲妻のごとき素早さで口をふさがれたアルテミシアは、もごもごと口を動かして黙った。
「こいつぁ失礼。紹介が遅くなりましたが、あっしの名前は……名前は、そう、ジャック! ジャックってぇケチな野郎です。へへっ」
「嘘をつけ! それは、あれだろう、偽名だろう。間がおかしかった!」
やはり怪しすぎると、アルテミシアの腰に手を回して引き離そうとするのだが、その甲斐むなしく水平移動で着いてくる、ジャックと名乗った影人間。
そのさまの可笑しさに、少年は小さく笑い声を漏らす。
「面白いね。……ねえジャックさん、あなたはどこから来たの? ここで何をしているの?」
その問いに、よくぞ訊いてくれたと言わんばかりに膝を打つジャック。どういう原理か、剣で突いてもぶすりとも刺さらぬその身から、ぱちんという小気味よい音が鳴った。
「いやいやいやさっ、ようお訊きなすった。これぞ、聞くも涙、語るも涙の物語! どうかお客さん、ハンカチのご用意を」
「ローズ、ハンカチ持ってる?」
「聞いてはだめよ、シア」
一人は聞く耳を持っていないようだったが、ジャックは語りを続けた。
「あっしの名前はジャックです。見ての通りの影人間。遠い遠い故郷から、昼寝をしてたらあら不思議! 見知らぬ土地に、ほいさっさ」
「ほいさっさ?」
「話の調子を整えるために付け加えた、無意味な言葉よ、きっと」
そう少女が答えた後、観客の視線が続きを促した。
「おしまい」
「おしまいなのっ?」
あまりにもあっさりとした幕切れの言葉に、思わずクラウズェアが叫んでしまったのも、無理からぬ事だろう。
「かわいそう」
なんとアルテミシアは、はらはらと涙を流していた。
「あのぅ、シア? 泣くような話じゃ……」
世間知らず故の、純粋な少年の無垢な涙にケチをつける訳にもいかず、呆れと笑みの混ざった顔で甲斐甲斐しく涙を拭いてやる幼なじみの少女。
「ジャック、感激!」
あいかわらずの正座のまま、胸の前で手を組んでいる影人間。
「それで、お前はここで何をしていたのだ?」
騎士の問いに、
「いやぁ、どうにか帰り道はないものかとウロウロしてたんですがね? こんな人気のねぇ山ん中、影から影へとしか移れやしない身としては、どうにもこうにも」
影人間の両手が挙がった。お手上げのポーズらしい。
「そうか。それは災難だったな。お前に神々のご加護を。じゃ」
おざなりな祈りの言葉を口にした神殿騎士は、時間を浪費したとばかりに、先を急ぐためにアルテミシアを促した。しかし、
「ねえ、ローズ?」
主の、赤く潤んだ目に見上げられ、やっぱりかとばかりに溜息をつく。
「シア、ねえ? 聞いて頂戴。こいつはね、怪しすぎるの。ジャックって言う名前も嘘っぱちだし、故郷がどうのって話も、眉唾物よ。きっと、私たちを化かそうとしているに違いないわ。そもそもこいつ、どう見ても〈魔物〉よ。……モリオンとは違うのよ」
心にわだかまりがあるものの、『モリオンとは違う』という説明ならば解ってもらえるだろうと、少女は判断した。だが、
「そんな事を言ったらだめだよ。ジャックさん、すごく困ってるんだよ。助けてあげようよ」
「助ける? この、いかにも素性の怪しい奴を?」
赤毛の少女は横目でジャックを睨め付けた。
「住所不定、無職です」
神妙な声色でふざけた事を抜かすジャックに、女騎士の目はますますきつくなった。
「だって、ここにはジャックさんの家もないしご飯だってないし。ここにずっといたら」
自分の境遇と重ねてみているのだ。それ以上は言葉にならず、アルテミシアは目に一杯涙を溜めた。
「もう……本当によく泣く子ね」
抜き身だった剣を鞘に収め、もうぐっしょりのハンカチは諦め、指で涙をぬぐってやるクラウズェア。
「ジャックと言ったな」
地に座り神妙にしていた人影に、騎士は向き直った。
「我々を裏切る事も害する事もなく、大人しくついてくると約束できるか? できるなら、いま、天と地の神々に誓って見せろ」
緑の目が瞬きもせず、強い視線でジャックを見下ろす。
「天地神明に誓って。あんたがたを裏切りも害しもしません。言う事も聞きましょう。そして、何かあればあっしにできる範囲で、お嬢ちゃんを守ると約束しましょう」
影の身で何ができるとも思いませんがねと、笑いながらジャックは付け足す。
「いいだろう。誓いは、神殿騎士クラウズェア・セルペンティスと、常葉の木々が聞き届けた。守る限りは神々の加護を。破れば、その身を滅ぼす事となる」
厳かに言い渡すと、隣で心配そうに見ている王子様を向いた。
「これでいいでしょう? シア」
「うん。さすがはぼくの騎士ローズ」
ほっとしたような、それでいて嬉しそうな声のアルテミシアに、その言葉に、少女は今までの己の態度が思い起こされた。
咳払いを一つ。
「では行きましょう。殿下」
「どうして『殿下』にもどるの?」
不満そうなアルテミシアの問いに、
「殿下は殿下だからです」
答えになっていない返答をするクラウズェアだった。
「あのー」
そこに、ジャックの間延びした声が割り込む。
「どうしたジャック? なんなりと申せ」
これ幸いと、ジャックの話題に話をそらすつもりのクラウズェアだ。
「いえね。お嬢ちゃんが最初に『黒い人』とかなんとか言ってたじゃあないですか? そいつの話を、ちょいとばかりして貰ってもバチは当たるめぇと思いやしてね」
へへっと笑うジャックは、髪の無い黒頭をぴしゃりと手で打った。
「えと、モリオンのこと? そうか……そうだよね、紹介しないとね」
黒髪の少年は、顔にこそ出さなかったが躊躇った。モリオンの事ではなく、我が身の事で。
だが結局、一度深呼吸をしてから言った。
「【おいで?】」
言うやいなや、湖の時と同じように忽然と。アルテミシアを挟んでクラウズェアの反対側に、モリオンが浮いていた。
「なっ、なんだぁこりゃあっ?」
今の今まで地に正座をしていたジャックだったが、そのあまりにも唐突な怪異の出現に度肝を抜かれたようで、あやうく後ろにひっくり返りそうになった。
「いや、えっ? いやいや、えっ?」
まともな言葉も出ない。
「この子は、ぼくの子供のモリオン。【モリオン、ごあいさつは?】」
アルテミシアの言葉に、赤い光をちかちかと瞬いてみせるモリオン。
「【モリオンはお利口さんだね】」
嬉しげな新米お母さんの言葉に、
「は? 子供? ……マジで?」
もう、どちらが化かすの化かされるだのと言っていたのが、まったく逆転してしまっていた。
「殿下……その仰りようは、誤解を招きます」
剣の柄に手をかける事を必死で自制しながら、騎士が進言した。
「もう、またそういう言葉づかい」
不満そうなアルテミシアの声にひかれ、ジャックがそちらを見た。
「……へ? 白髪になってる? それに、目もなんだか瞳孔が広がりすぎじゃあありませんかい?」
ジャックの指摘通り、モリオンが外に出ている今、アルテミシアの外見は元に戻っていた。つまり、色素が一切無い真っ白な髪と、やはり色素がなく水晶のように透き通った虹彩。そのせいで、瞳孔がめいっぱい開いて、黒目が異様に大きく見えた。
「こわい?」
ぽつりと、アルテミシアの小さな問いかけ。
「きもちわるいかな?」
視力のない、焦点を結ぶ事のない“まっすぐ”な視線が、ジャックの居る辺りを向いている。
そんな頼りない姿を、クラウズェアは息をのんで見つめ、同時に、ジャックの姿も視界にとらえる。知らず、彼女の拳は握り締められていた。
「怖いとも気持ち悪いとも思いやせんね」
クラウズェアの心配をよそに、拍子抜けするほどにあっけらかんと、ジャックは言ってのけた。
「白い髪も白い肌も、それから大きな黒目も、冬の兎みたいで可愛いですよ。あっしは、ウサちゃんは大好きな動物でさぁね」
ジャック自身にはどんな考えがあったのか。気を遣ったのか、または含みはなかったのか。
けれど、その言葉は確実に、〈忌み子〉として扱われ続けたアルテミシアの、自分でも気付かないでいた心の傷を、優しく撫でた。
モリオンにしがみついて泣きじゃくり始めたアルテミシアを、クラウズェアは優しく見守っていた。
「男の子っ? マジでっ?」
「声が大きい。それと、下品な言葉遣いをやめろ」
少しばかり寄り道をしてから下山し、単独行動で神殿騎士の厩舎に立ち寄ったクラウズェアは、馬を一頭拝借してきた。本当は二頭欲しかったのだが、よく訓練された馬がその一頭だけだったのだ。連れ出す時に暴れて嘶きでもされたら困るし、それにどうせ、アルテミシアは馬には乗れない。
それから一行は馬に乗り、神殿から離れた。
そして今は、こうして暖を取っていた。
そこは、山から少し離れた所にある森の、うち捨てられた猟師小屋だった。暖炉を兼ねた竈で薪を燃し、熱と、薄ぼんやりした明かりを得ている。
ちなみに、森というものは基本的には貴族の所有物で、勝手に立ち入ったり、ましてや猟をする事は犯罪にあたる。それらを行うためには貴族に使用税を払わねばならない。そんな中、貴重な猟師小屋がある程度使える形で放置されている状況は、幸運であった。
それはさておき。
「うん、そう」
赤い野苺の実に興味がそがれているアルテミシアは、ジャックの叫びに生返事をした。手で触ったり匂いをかいでみたりした後、口に含んでみる。林檎や梨よりは実が軟らかく、葡萄よりは硬い。味は甘酸っぱく果汁に溢れ、少年の口内を満たした。
「おいしい」
きちんと飲み込んでから、感嘆の声を漏らした。
「【モリオンも食べる? ……そうなんだ】」
彼の中にいる子供は、母親の“美味しい”と感じる気持ちだけで、一緒に満ち足りている。
「こりゃあ、たまげたなぁ」
ジャックも、違う意味で感嘆していた。
黒曜石を思わせる水のように滑らかな光沢を放つ髪も、野苺よりも赤くて葡萄酒よりも透明感のある紅玉みたいな目も、それはそれはたいそう美しかった。だが、ジャックの言葉に嘘偽りはなく、雪兎みたいな元の姿も可愛いと思っていた。
しかし、そういった付加価値的な要素ではなく、純然たる造形の美しさにこそ、驚いていたのだ。
ぱっちりとして零れ落ちそうな大きな目も、その目を取り巻く影を落とす長いまつげも、小さくて通った鼻筋も、瑞瑞しく朱を帯びた唇も、それらのパーツを配置させた、ほっそりとしているが丸みもある輪郭も。その顔を乗せた、華奢で嫋やかな肢体も。それらの全てが美しく、それらの全てが調和し、そして何よりも、あらゆる所作を伴った姿態が、未成熟な少女の儚さを想わせて、ジャックの口から賞賛の言葉を紡がせた。
「マジ、別嬪! マジっ、マジでスゲー! 結婚して?」
ジャックの興奮にあてられてか、中に引き入れていた馬が一声嘶いた。
クラウズェアは剣を抜いた。
「誓いを破る者に、死の償いを」
「暴力反対! 殿下たすけて!」
「もう、ジャックさんまでそんな風に言う……それよりも、このオレンジみたいな実、酸っぱくて面白いよ」
そう言って実を噛んだ少年の、美しい白い顔はしかめられた。
「ジャックさんのおかげで晩ご飯が食べられるんだから、ローズも座って食べたらどう?」
「殿下」
そう言いながら振り向いた女騎士の口に、実を一房おしこむご主人様。彼女の顔も、酸味でゆがんだ。
事実、果物のなる木まで案内したのはジャックであり、こうして飢えをしのげているのだから無下にはできない。
「ま、山ん中をウロウロした時に、ぐうぜん見つけただけですがね。まあ、そんな事よりも」
ジャックの声のトーンが落ちた。
「お二方が高貴なご身分で、特に殿下はやんごとない御方だと。そいで、今は訳ありで逃避行の身と」
女騎士と王子の顔を見比べながら、確認していく。
「んで、なんでそんな大事な秘密を、あっしなんかにアッサリとバラしちまったんですかい? えっ? もしかすっと、スッゲー信用されちゃってたりっ?」
いやぁ参ったなぁと頭をかいてはしゃぐジャックに、
「そうだ」
生真面目な女騎士が答えた。
「へ?」
「お前を信用しての事だ。いや、信用すると“決めた”のだ」
「今日はじめて会った人だけれど、ジャックさんが良い人だって、判るもの。ううん、判るなんて言うのはおこがましいかな。ぼくは思ったんだ、“きっとそうだ”って」
クラウズェアの後を継いで、アルテミシアが胸中を打ち明けた。
その、自分にしっかりと焦点を結んだ赤い目に、思わずジャックはたじろいだ。
「いや、こいつぁ」
アルテミシアとクラウズェアの顔を交互に見比べてから、のっぺらぼうの黒い禿げ頭をポリポリと掻く。
「山で誓わされた時より緊張しまさぁ」
そう言って、居住まいを正すと、
「あっしはちょいと訳ありで、ベラベラ話しちまうのは憚られるんでさぁ。申し訳ねぇですが、そこはちょいと勘弁してもらいてぇ。けど」
一端間を置き、
「山で誓った事に、二言はありやせん。裏切る事も、害する事も、しますまい。あっしにできる事の全てを使って、殿下をお守りしますよ」
今まで聞いたよりも一番の真剣さで、そう明言した。
クラウズェアは黙って頷き、アルテミシアは微かな笑みを浮かべた。
薪の生み出す熱よりも温かい空気が、その場に満ちたようだった。
「それにどうせ、お前は殿下の影に『移った』のだろう? つまり、モリオンと似たようなもの。違うか?」
「おや? よくお気付きで」
「お前が言っていた事だ。殿下の影が、今のお前の家だと」
「そうなの?」
宿主の質問に、
「そうなんでさぁ。殿下に“招いて”貰った時から、あっしの住処は殿下の影ん中です。手持ちがねぇんで家賃は勘弁。なんなら体で払いやしょうか?」
シナを作りながら投げキッス。
「影のお前には何も期待はせん。せいぜい、殿下の無聊を慰めて差し上げろ」
「へーい」
飛び交う軽口に、少年の相貌に微かな笑みが浮かぶ。
今日一日で色んな事があり、何度か肝をつぶす事態にも陥ったが、幽閉されていたアルテミシアと、いま目の前で微笑むシアを比べて、きっとこれで良かったのだと、仕える女騎士は確信した。
それから、新たな決意を固めた。
ふつり、と。クラウズェアの三つ編みが切り取られた。
誰も、何も反応できなかった。
赤く、腰まで届いていたお下げ髪は、今は女騎士の左手にあった。右手のダガーは、腰の鞘に戻される。
「バッサリいきやしたね。しかしまた、どうして急に?」
ジャックが問うた。当然だろう。
「邪魔だからだ」
クラウズェアは簡潔に答えた。
「重いしな。前から切ろうと思っていた」
嘘だった。
逃避行をする上で、多少なりとも変装は必要だろうとの判断だ。技術も道具もない素人にはたいした事はできないが、できる事はやるべきだ。
貴族は髪を伸ばす。男でも多少は伸ばすものだし、女ならばなおいっそう伸ばす。平民でも、女ならば伸ばす。つまり、髪の長さで性別や身分がはっきりしてしまう可能性が高いのだ。
アルテミシアの髪は刃物を通さない。ならば、せめて自分だけでも切らねばならぬ。そもそも、そういった役目は自分のものだ。
クラウズェアは、そのように思っていた。
彼女は決別したのだ。“伯爵家のお姫様”という身分と。それから、“女”としても。
「長い付き合いだったな」
そう言いざま、左手の髪を、竈の火に投げ入れようとした時だった。
「だめーーー!」
アルテミシアが、凄い勢いでクラウズェアの左手に飛びついてきた。
「燃やしたらだめ!」
「シア、じゃない、殿下」
狼狽しながらも言い直すクラウズェアを、赤く濡れた眼が見上げていた。
「どうしてぇ?」
少女が出会った頃から、人形みたいにほとんど表情の変わる事が無い白い相貌が、止め処なく流れ落ちる涙に濡れていた。今日一日で、もうじゅうぶん泣いたはずなのに。
「好きなのに。ローズの赤い髪、好きなのに。どうして?」
「殿下、さきほども申し上げたように――」
「変装なんじゃあねぇですかい? 追っ手の目をごまかすための」
「貴様っ?」
余計な事をと目を怒らせるクラウズェアに、そっぽを向いて口笛でごまかすジャック。事態が事態なので、誰も『口笛が吹けるんだ?』なんて疑問は持たない。
「へんそう? ……ぼくのせい――」
「違います!」
アルテミシアの呟きに、慌てて打ち消しの言葉をかぶせるクラウズェア。もう一度、ジャックを射殺さんばかりににらみつけた後、少し身を屈めて赤い目と目線を合わせる。
「もともと切ろうと思っていたのです。重くてうっとうしいですし、剣術の稽古の邪魔にもなります。髪を洗うのも手間です。それは、殿下もお分かりでしょう?」
精一杯の笑顔で、少年を説き伏せようと試みる。
アルテミシアは、『嘘だ』とも『そうか』とも言わなかった。ただ、いつも、いつだって優しかった幼なじみの、今日で初めて知った緑の目のまっすぐさを、確かめるように覗き込んだ。
「殿下?」
そう問いかけるクラウズェアの表情から、考えを読む事などはできない。それは、アルテミシアが最も不得意な事だったからだ。
だから、盲目だった少年は目を閉じて、年上の幼なじみの綺麗な顔を、そっと両手で包み込んだ。
「あの?」
とまどいながらも、されるがままのクラウズェア。
こめかみ、目許、頬、口元、そして首筋。白い手がそっと触れていき、凜々しき少女の輪郭をなぞった。
「うん。わかった」
そっと静かに囁いた少年は、目を開けて眼前の少女を見た。
「お解り頂けて良かったです」
そう、穏やかに微笑むクラウズェアに、王子はねだった。
「ねぇ、ローズ? いらないのなら、その髪をぼくにちょうだい?」
「この……髪を、ですか?」
「うん」
戸惑う少女へ向けて、両手を差し出す少年。
思わず反射的に、白い掌に赤毛を載せてしまった。
「あのぅ、そんな物を何故?」
「うん。ぼくの宝物にする」
率直な返答に、クラウズェアは慌てふためいた。
「な、なりませんっ、そのような!」
「もう貰ったから、ぼくの物だよ。返さないからね」
そう言って、赤い顔の騎士を尻目に、お下げを懐にしまい込んでしまった。
「宝物って、そんな……」
赤面する事しきりのクラウズェアを、口笛でからかうジャック。当然、今にも火が出そうな目でにらまれた。
そんな二人を尻目に、アルテミシアはそっと拳を握り込んだ。クラウズェアの感触が残る、両の手を。悲しい事を我慢している時の、人の顔の感触を。
〈常葉の森〉は、永遠の森。
一年を通して、常緑樹も、落葉樹も、その別なく瑞々しい緑の葉をつける。
本来ならこの国に育たぬ植物も、根付いている。
だが、その永遠が失われた。
だが、その命の源は去った。
常葉の森の、常しえは失われ。
その不可思議の力は、呪われた王子の中へ……