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六章④『親と子』

 モリオンのおかげで高い視力を得ているアルテミシアは、城の見張り塔や物見櫓ものみやぐらなどにいる哨戒兵しょうかいへいを、全て見付けることができる。更に、彼らがどの方向を向いているのかさえも。

 誰の視線も向いていない死角が生まれる空間。そこを、〈かかりみ〉したジャック=アルテミシアが身軽に駆け抜けた。

 それで、難なく王の寝室がある窓の下までやって来たのだ。

 その後は、モリオンの上にアルテミシアが乗り、こうして登っている最中という訳だ。

「モリオンは飛べたんですねぇ」

 感心げなジャックの言葉に、

「うーんと。モリオンが云うには、“飛んでる”んじゃなくて、『壁伝いに浮いてる』んだって。地面からちょっとだけ浮いてる時みたいに」

 モリオンの心をんだアルテミシアが代弁した。

「へぇ」

 よくは解らなかったが、解らないなりにジャックは感心した。

 ちなみに、アルテミシア曰く『つるつるしている』モリオンに乗っているにも関わらず、少年が落ちずに済んでいるのは、引き寄せられるように体が固定されているからだ。鉄を引き付ける磁石に似てもいるが、少し違う。

 そうして、風が吹いても落ちることなく、目的の窓の前まで来たのだった。

「開けましょう」

 〈かかりみ〉した腕でジャックが窓を押したり引いたりしてみる。

「開かないみたい」

「あー……かぎがかかってるのか。セキュリティー上、当然か」

「どうしよう……【モリオン、開けられるの? おねがい】」

 身の外に出ていても、触れていればなんとなくモリオンの言いたいことが分かる。彼の子供は、母親の役に立てるのが嬉しくて、張り切っていた。

【イクヨ、イクヨ】

 少年がお願いした次の瞬間。

 闇の中に灯る松明のような目でモリオンが見ると――窓が、(がら)()も、(さん)も、何もかもが砂に変わって散ってしまったのだった。

「……え?」

「【もう開けられたの? ありがとう、モリオン。モリオンは本当に良い子だね】」

【ホメテホメテ】

「【えらいね】」

 モリオンからの無言の報告を受けたアルテミシアは、無邪気にその親孝行ぶりを褒めた。

「いやいや、え? ナニ今の? 窓が砂になっちまったんですが」

「モリオンは、窓を砂に変える力があるんだね。【すごいね】」

【エッヘン、エッヘン】

「窓を砂に変えるっちゅーか、なんちゅーか……。ジャック、ビックリ」

 〈魔物〉という名に相応しい、不可解で、強力で、多くの人間達が“禍々(まがまが)しい”と評するであろうその力に、ジャックは驚いた。そして、そんな魔物を“我が子”と可愛がり、逆もまた“母親”と慕うその奇妙な関係に、何故だか楽しく感じるのだった。

 さて。

 アルテミシアを乗せたまま、窓枠や壁をすり抜けたモリオンは、部屋の床に少年を下ろしてから、いつも通りその体内へと戻っていった。

 ジャックは、宿主の影がある場所ならどこへでも行けるので問題はない。

 こうして侵入を果たした部屋は、とても豪華な部屋であった。質の高い、それでいて落ち着いた調度品が置かれ、華美にならないよう配慮された装飾が施されている。

 そして、重病人特有の、()えたような臭気が満ちている。

 静かな部屋に風が吹き込み、黒いカーテンをはためかせた。

「ベラか?」

 小さな声だった。小さく、弱々しい声。

 その声に、はっと息を呑んだアルテミシアだったが、ややあって、静かに声のした方へと歩み寄った。

 毛足の長い絨毯カーペットの上を、ゆっくりと歩く。

 向かった先には(てん)(がい)の上げられた大きなベッドがあり、(せい)()刺繍ししゅうの施された掛け布団と、そこに埋もれるようにして顔を(のぞ)かせる、(がい)(こつ)さながらにやつれた男が横たわっていた。

 グリーンウェル国王、サイラスである。その目はもはや、見えてはいない。

「……お、おとう、さ、ま?」

 緊張で、つっかえつっかえ言葉を絞り出すアルテミシアの声に反応し、サイラスの顔が(わず)かに傾いた。

「ベラ? ベラなのか? 懐かしい声だ。まだ少女であった頃のように、若々しく、()(れん)な声……」

 ぜいぜいという苦しげな声は、驚きと懐かしさの入り交じった声だった。

「いいえ、ちがいます」

「違う? そういえば、(わし)を父と呼んだな。おお、エサルレッドが帰ってきたのか?」

「いいえ。お兄様ではありません」

「兄だと? ……まさか……アルテミシア、なのか?」

 弱々しい声だったが、その声は、アルテミシアの体を極度の緊張で震えさせた。数度、口をパクパクさせた後、やっと声を振り絞ってこう答えた。

「はい。次男の、アルテミシアです。久しくご無沙汰ぶさたを重ねてしまい、まことに申し訳御座いません。……お父様、あの……お会いしとうございました」

 この返答には、しばしの沈黙が訪れた。

 ややあって。

「儂を殺しに来たのか? それならば、お前が手を下すまでもなく、儂はもうすぐ――」

「ちがいます!」

 あまりなサイラスの言い様に、思わずアルテミシアは大声で言葉を(さえぎ)った。彼にしては珍しいことだったが、無理もなかった。

「ちがうんです。ぼくはただ、お父様にお目にかかりたくて……ただ、会いたかった。ひとめ、お顔を見たかっただけなんです」

 感情豊かな声ではない。むしろ、(よく)(よう)に乏しいとさえ言える声だったが、張り裂けた胸から取り出したような、純粋で強い思いが込められていた。

「……そうか、悪かった」

 静かに泣く息子に、父親は言った。

「アルテミシア、儂の息子。もっと近くに来ておくれ」

 この言葉に、(うつむ)かれていた白い(おもて)が上がった。

「よろしいのですか、ぼくが」

「かまわん」

 一瞬躊躇(ためら)われた足は、結局、親の情を求め、かけられた言葉を信じたくて、前に進んだ。

「おとうさま?」

 声のした方へと手を伸ばすサイラス。棒きれみたいになってしまった、今にも折れそうな手。その手を、白くたおやかな手が包み込んだ。

「お父様、こんなに細いなんて。お顔も、こんな、ぼくよりもローズよりも()せてる。どうしよう……ねぇ、どうしよう。どうして誰も居ないの? お母様は? お医者様は? お父様がこんなに苦しんでいるのに、お城の外はどうして賑やかなの? どうしてっ……」

 少年の口から、次々と言葉が飛び出す。()()(めつ)(れつ)な言葉は、少年の(たましい)からの声だった。

「アルテミシア、もうよい。儂は(しん)(ばつ)が下ったのだ。仕方がないのだ。だから、もうよい。泣くな」

「でもぉ」

 泣く子のあやし方一つ知らないサイラスは、骨のように細く節くれ立った手で、白く柔らかな手を撫でた。

 それで、アルテミシアの頬からはますます涙があふれてしまう。

「それよりも、もしかすると、お前は目が見えているのか?」

「はい、見えています。見えるようになりました」

「そうか……。それは、良かった」

 長い長い時の間に(ちく)(せき)された、深い後悔の声だった。

 同時に混じる、(あん)()の色。

「そうだ。良いお薬があります。来る途中で置いてきたのですが、とてもよく効くお薬です。お父様もお飲みになれば、たちまち元気を取り戻されます。お城のお庭ですから、すぐに取って参ります」

「そうか。それは嬉しいな。だが、その薬を取りに行く前に、お前の体を抱きしめさせておくれ。儂は、長年会っておらなんだ息子と、(ほう)(よう)の一つも済ませていないのだ」

「はい、お父様」

 アルテミシアは、弱った父を傷付けないよう、(いたわ)るように、そっと、その体に抱きついた。

「大きくなったな、アルテミシア。済まなかった。それと、会えて嬉しい。優しいアルテミシア。さぞ、うらんだことだろう」

 間近で、男の子がずっと会いたかったお父さんの声がする。かつての威厳の片鱗へんりんも、力強さの欠片かけらも無い。だが代わりに、温かな情があった、

「いいえ、いいえ、うらんだことなど、一度もありません。お父様も、お母様も、きっとお辛かったのでしょうから。ぜんぶぜんぶ、しかたがなかったのです」

 ありったけの気持ちを込めて、父に語った。

 それだけでは足りない気がして、(しわ)だらけの汚れた頬を、そっとそっと、何度も撫でた。

「そうか。ありがとう、優しいアルテミシア」

 それが、サイラスにとって今生こんじょう最期さいごの言葉となった。

 そしてその顔は、彼の人生の中で一番穏やかなものであった。



 父親の死を()()ったアルテミシアは、父の(むくろ)に泣きすがり続けていた。胸中のモリオンがあれやこれやと話しかけるが、涙を止めることができない。

 そんな男の子を、ジャックは複雑な思いで見守っていた。

 子の親としてあるまじき仕打ちを、許せないという気持ち。

 同時に、最後に見せた後悔と、親らしい言葉。

 義母(はは)を亡くした時のことが、ジャックの胸中に蘇った。そして、この可哀想な子供に比べたら、自分はなんと幸せだったことだろうか、とも。

 だが、今は(つい)(おく)(ひた)る時ではない。

「そろそろここを出ましょう。クラウズェア姐さんと合流して、おっかさんを探しに行かねぇと。誰が来るともわかりやせんからね」

 なんと冷たいことを言うのだろうかと思いはしたが、心を鬼にして、優しい影人間は促した。

「……うん」

 ややあって、少年は身を起こした。

「良い子ですね。……誰か、来る?」

 その時、部屋に近づいてくる気配があることに、ジャックは気がついた。その数、二つ。

 慌てて周囲を見回すが、調度品の数こそ多いものの、隠れられそうな場所は、無い。

「しかたねぇ。お嬢ちゃん、入ってきた奴を視線で固めて下さい。その後、あっしが〈かかりみ〉してそいつを気絶させやすから」

 段取りを説明するジャックの声を、だが、アルテミシアは聞いていなかった。

 扉の向こうから聞こえてきた話し声が原因だ。

「北門近くの遊歩道で騒ぎがあったようですが」

「ネズミが騒いだだけです、大した事ではありません。ミッドノール子爵に任せておけば間違いはありませんので。それよりも大聖堂での(たい)(かん)(しき)を早く執り行いましょう。――どうれ、先代陛下はお亡くなりになりましたかな?」

 がちゃりと開け放たれた扉の向こうから現れたのは、二人の男女であった。

 一人は、女王ベラ。

 もう一人は、イーストフットヒル侯爵、オズワルド・オズボーンである。

 二人とも、鮮やかな色々で染め抜いた(けん)(らん)たる衣装に身を包んでいる。式典の正装であり、それは勿論、戴冠式のだ。

 そして、オズワルドの手には、小ぶりだが存在感に溢れる、純金製の宝冠が大事そうに抱えられていた。

 その宝冠に、ジャックの目が向く。どうしようもなく、意識がそちらに()()けられてしまうのだ。

 一方、オズワルドは咄嗟とっさに声を出すことができなかった。アルテミシアの、あまりの美しさに。すぐには、不審者ふしんしゃの可能性に思い至らないのだ。

 しばしの沈黙の(のち)。最初に口を開いたのは、オズワルドであった。

「お前は誰だ? 侍女か? 断り無くこの部屋に入るなという、女王陛下のお達しを知らんのか?」

 だがこの言葉は、アルテミシアの耳には入らない。少年の赤眼は、侯爵の横に立つ、美しい金髪の女に向いている。

「おかあさま?」

 その呼びかけに、女は――ベラは答えた。

「……アルテミシア、なの?」

 ごく(わず)かに、今までよりも(まぶた)が持ち上げられる。驚いているのだ。

 だが、ただそれだけ。

 氷像のような()(ぼう)には、大した変化は生まれなかった。

「は? アルテミシアですと? 何故いま〈色なし王子〉の話など――」

 侯爵が話しに割って入るが、女と少年はお互いしか見ていない。

「はい、お母様。ぼくはアルテミシアです。お母様をお助けに参りました」

「助ける?」

「はい。侯爵のオズワルド・オズボーンという者と、子爵のタイタス・ゴードンという者が(きよう)(ぼう)して、この国と王位を奪い取ろうとしているそうです。それを知らせに参りました。(いくさ)の準備をなさるか、逃げるか、どちらか選ばなければなりません」

「こいつは驚いた。反対派の貴族が立てた密使みっしか何かか? だが残念だったな。これは女王陛下御自(おんみずか)らのご意思なのだぞ」

「密使ではありません」

 (あざけ)(のたま)う侯爵に、声をかけられたアルテミシアではなく、ベラが答える。

「なんですと?」

「この子はアルテミシア。私の息子です」

 この言葉に、オズワルドの口がポカンと開き、間抜けな表情を(さら)した。

「……は? しかし、色なし王子、失敬。第二王子は髪にも目にも色のない化け物のような姿であると聞いておりますが。それに、これほど美しい男子など」

 この時、侯爵の顔に浮かんだ表情から、底知れぬ(いや)らしさを感じたジャックは、生理的嫌悪に身震いした。

「お母様と二人だけでお話しをさせて下さい」

「ええい、さっきから『お母様』などと()(れい)(せん)(ばん)。少々(しつ)けてやる」

 オズワルドの両手、十本ある指のそれぞれには、色とりどりの宝石の指輪がまっている。そして、十個の指輪の全ての石は、〈彩化晶〉なのだ。

 その中で、青い彩化晶に意識を向けた侯爵は、風の共鳴術を使うことにした。

 共鳴術だ。それも、調律歌(チューニング)無しに、である。貴族らしく、彼は〈先天共鳴者(ヘレディタリー)〉であった。

 小さな《(かま)(いたち)》を作り、服だけ切り裂いてやろう。そういうつもりだった。

 だが、その試みは実らなかった。

「なんだ?」

 もう一度試してみるのだが、オズワルドの意思に反して、共鳴術は発現しない。

「なぜだ?」

「お母様と――」

「ええい、やかましい! (えい)()っ、衛士はおらんのか! (ろう)(ぜき)(もの)を引っ捕らえろ!」

 癇癪かんしゃくを起こしたオズワルドは、赤黒く顔を変色させながら金切り声を上げた。まるで興奮した豚だ。

 その甲高い叫び声に、慌てた衛士が足音を響かせ、部屋に()()れ込んできた。

 だが、次の瞬間。

 剣の柄に手をかけた状態で、衛士達の体は動かなくなってしまった。

 オズワルドの共鳴術が不発に終わったのと同じく、アルテミシアの《視線》で動きを封じられたのだ。

「なんだ、これは? ……貴様……まさか、共鳴術師かっ?」

 (ただ)ならぬ事態に(おちい)ったことを理解し始めた侯爵は、額に(あぶら)(あせ)(にじ)ませながら、衛士達と、アルテミシアとを何度も見比べる。

 場に大きな混乱を生んだ張本人である、そのアルテミシアだが。彼の身にも、差し迫った問題が発生していた。

 《視線》の(らん)(よう)が、少年の体に負担を与え始めたのだ。眉間の奥に生まれた頭痛により、眉根が寄せられてしまっている。

「お嬢ちゃん、大丈夫ですかいっ?」

 少年の影より思わず上がった声は、侯爵を更に混乱させた。

「なんだ、この声はっ? まだ(ぞく)(ひそ)んでいるのか?」

「まだ、だいじょうぶ」

 健気に答える少年とは裏腹に、集中が解け、《視線》の効力が消えてしまっている。動けるようになった衛士達が、今こそと勇気を振り絞り、()(かん)にも一歩踏み出した時の事だった。

 (こつ)(ぜん)と。

 黒い球体が、室内に現れたのは。

 夜の森の中よりも、深い谷の底よりも、暗くて黒い闇の中で、赤い光が(ぼう)と、煌めいている。

「【モリオン、だめ!】」

 既に身より出て離れてしまっているため、その意図は解らないが、モリオンの怒りを感じたアルテミシアが、咄嗟に制止の声を発した。

 そのおかげで、衛士達も、侯爵も、命拾いをしたのだった。だが、それには誰も気付かない。

 突如現れた化け物に、エリートであるはずの衛士達も驚き怯える他はない。

 感情薄く(せい)(かん)していたベラも、さすがに一歩後ずさる。

 女王が額に冠する魔除けの環状額飾り(サークレット)は、その効力を発揮できないでいる。否、正確に言えば、かつてのモリオンと今のモリオンとでは、有する力が違うのだ。

 その、恐怖の隣に(たたず)むのは、白い髪、透明な目に戻ったアルテミシアだ。それは、人々が()(きら)う、呪われた姿。

「い、色なし王子」

 そこで、オズワルドはあることに気付き、ハッとした。

 先程までの黒髪と赤目。そして化け物の黒い体と中に灯る赤い光。

(ばん)()殿(でん)

 恐怖と嫌悪の入り交じった声が漏れる。

 オズワルドの家系は古い。(いにしえ)の統一国家時代から続く、神官の家系だ。〈全き民スフィリカル・エンシェンツ〉の(まつ)(えい)であるとの自負もある。それを裏付ける力があり、遺産もある。その遺産の一つ――(れん)綿(めん)と受け継がれた知識の中、(ぶん)(けん)にあった存在は、こう記されていた。

 “魔物の母となる者。(すべ)ての魔を(おさ)め、身に(おさ)め、この世の魔を()べる”と。

「お前、まさか、〈晶公子(しょうこうし)〉なのか……?」

 であれば、生かしておく訳にはいかない。それは、人間の敵だと、オズワルドは理解していたからだ。

 その危険人物は、どうしてか解らないが、今は弱っている。その(すき)を狙って、神官の(まつ)(えい)はもう一度共鳴術を試みた。

 今度は茶色の〈彩化晶〉だ。

 彼は〈先天共鳴者(ヘレディタリー)〉であり、〈調律歌(チューニング)〉無しに〈共鳴術(レゾナンス)〉を行使することができる。

 たいていの貴族は〈先天共鳴者〉である。彼らは調律歌無しで術を行使できる代わりに、一種類の石しか使えない。だがその速さは脅威であり、石の消耗も少ない。

 対して、〈後天共鳴者(エクワイアード)〉は術の行使に〈調律歌〉を必要とする。施術(せじゅつ)には時間がかかってしまうが、その代わり、最大二種類の石を扱うことができ、ある程度の工夫を加えることもできる。

 それなのに。

 そんな常識をくつがえし、侯爵は全ての色彩の石を使うことができた。それも、調律歌無しに、だ。そんな特別な人間は、この国においては彼ただ一人きりである。

 オズワルドは、グリーンウェル(ずい)(いち)の共鳴術師なのであった。

 侯爵は、アルテミシアが居る辺りの床を崩れさせるつもりだった。黒く不気味な化け物も、その化け物を従える魔物の首領も、もろとも地面に叩き落とすつもりなのだ。そして今度こそ、彼の共鳴術は成果を現した。

 だが、気が急いて焦ってしまった結果。

 彼の共鳴術は制御を失い、部屋を中心に、城の一角を崩れさせてしまった。術の使い方は充分に心得ていた侯爵だったのだが、その精神は充分に(れん)()されているとは言い難かったのだ。

 国王サイラスの亡骸(なきがら)も、衛士も、侯爵も、女王も落ちる。

 そんな中、〈かかりみ〉したジャック=アルテミシア唯一人が動いた。崩れる床を飛ぶように駆け、ベラの腕を掴む。

 侯爵も、なんとか片手で崩れた床の(ふち)に捕まり、重い体を支えている。もう片方の手には、黄金に輝く宝冠。

「貴様、その、姿っ、まさか、〈影の英雄〉、なのかっ?」

 苦しそうにあえぎあえぎ、侯爵は()えた。石の力を使えば、体を浮かせることも、崩れた床を元に戻すことさえできる。

 彼なら、できるのだ。

 だが、(いちじる)しく集中に欠いた今の状態では、何もできはしない。現に、共鳴術で窮地きゅうちを脱するという考えにすら思い至らないでいるのだ。

「だったらどうだってんだ? え?」

 (かん)(さわ)るその声と、しゃく(さわ)る単語に、自然、ジャックの声は吐き捨てるような物言いになった。

「バカか! お前を、〈天恵の儀〉で、この世に、呼び出したのは、儂だぞ! この宝冠を、使えるのは、儂だけなのだぞ! 影の英雄なら、儂に従え! そんな女、放っておいて、儂を――」

 そこまで言ったところで、床の()(れつ)は更に広がり、部屋の全てが崩れ去ろうとした。

 ほんの一瞬――(せつ)()の中で、ジャックは迷った。

 この陽気な影人間は、この〈晶果(しょうか)〉の者ではない。ひょんな事から何かの力で、元居た晶果からこの晶果へとやって来たのだ。そしてその原因を作ったのが、オズワルド・オズボーンであり、彼が手にする〈宝冠〉だという。

 いま掴んでいる手を離し、オズワルドの手を取れば、元の世界へ帰ることが可能なのかもしれない。それは、とても簡単で、とても重要な選択だった。

 だが、結局。

 ジャックは手を離さなかったのだ。ベラの――アルテミシアの母の手を引き上げ、崩れる部屋から廊下へと、飛び込んだ。

 素っ頓狂な悲鳴を上げながら、侯爵は落ちていった。

 旧時代きゅうじだいから役目を果たし続けた()(ぶつ)も、黄金の光を放ちながら、愚か者と共に落ちる。

 全てが落ちていき、()(れき)に埋もれて消えた。

 ジャックの葛藤かっとうは、誰にも知られず、誰に知らせる事も無く、消えていった。それでもジャックは満足だった。

 ジャック=アルテミシアは身を起こし、モリオンもその身に入り、髪と目は染まった。

 遅れてベラも立ち上がる。

「助けて良かったの? 私を」

 この国の女王は、()()するように、しかしどこか無機質とも聞こえる声で問うた。

「シア嬢ちゃんのお袋を、あっしが助けねぇ訳がねぇ」

「ぼくは、お母様をお助けに参りました」

「そう」

 ただの一言だった。まるで、全く興味が無いとでも言うように。そして、ジャックの心に深い怒りを生じさせた。

「そんだけかよ。え? 他に言うことはねぇのか?」

 大きくも激しくもない声だった。だが、低く重い声だった。

 この言葉で、今まで表情の変化に(とぼ)しかったベラの顔に、初めて生まれる顕著けんちょな色があった。

 高らかな笑い声が上る。

 それは、嘲笑ちょうしょう

 その顔には、()(べつ)が。

「『言うこと』ですって? ありがとうとでも言えと言うの? 私は助けて欲しいなんて、一言も言ってはいないのに?」

 この言葉に、少年は(うつむ)き、ジャックは殺意すら覚えた。

「てめぇ」

 対照的な二人の反応を気にすることもなく、ベラは、胸の内に溜め込み続けた全てを、口を()くに任せてさらけ出した。

「助けて欲しい時なんて、もうとっくに過ぎ去ってしまったのよ! 私が辛い時、誰も助けてくれなかった! 私が苦しんでいる時、サイラス(あのひと)は侍女や巫女達と浮気を繰り返し、(なぐさ)めの言葉一つたりともくれなかった! そして、私が悲しんでいる時――――優しい言葉をくれた人が居た……」

 激昂から、落ちるトーン。

「へっ、それがあの豚みてぇな男かよ? あんたは本当に馬鹿な女だぜ。それで侯爵から、たんまりと(いつわ)りの愛でも貰ったのか?」

「愛ですって?」

 さも面白いことを聞いたと言わんばかりに、美しい顔に笑いが浮かぶ。

「あいつ、同性愛者よ? キスの一つも貰ったことがないわ」

 笑いは……己へと向けられたものだった。

 その、あまりの(あわ)れを(さそ)う姿に、さすがのジャックも言葉が出てこない。

「お母様」

 それまで、ただ黙って話を聞いていたアルテミシアが、静かに語りかける。

「……なに?」

 女王の顔には、未だに自嘲の笑みが浮かんでいる。

「ミッドノール子爵は、我が騎士クラウズェア・セルペンティスが討ち取りました。イーストフットヒル侯爵も、あの通りです。悪い人たちは居なくなりました。お母様、もう安心ですね」

 その静かさに慰められでもしたのか、ベラの顔から暗い笑みが消えた。

「そうかもね」

 寂しそうに目を伏せてしまうベラ――

 それを見て悲しくなるアルテミシア――

 その時。

「なんだ、この気配は?」

 只ならぬものを感じ取り、ジャックは咄嗟にその方向を探った。

「ジャックさん?」

「あれは?」

 少年の手を借りてジャックが指さす方、そこには、巨大な化け物が、現実感に乏しく、その異様を晒していたのだった。

 しかも、クラウズェアと別れた場所から、そう離れてはいない。

「ぼく、止めに行かなくっちゃ」

「アレをっ? 無茶です!」

 少年の()(ぼう)な決意を、当然ながらジャックは止めた。

「ううん。行かないと。だってここはお母様の住む家で、お兄様が帰ってくる家だから」

 アルテミシアの心は、全く揺らぎがない。白い面が母を向き、相も変わらず変化に乏しい声と表情で、こう告げた。

「お母様、どこか離れた場所へお逃げ下さい」

 そう言って、元は寝室があった空間の、崩れてその先がない廊下の端まで歩いて行く。

「アルテミシア」

 小さな背に声がかかり、アルテミシアは振り返る。

「……旅は、楽しかった?」

 状況に似つかわしくない、場違いなその問いは、城に来てから初めて、アルテミシアに微かな笑みを浮かべさせた。

「はい、とっても」

「そう。良かったわね」

「はい! では、行って参ります、お母様」

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