二章①『宝石の思い出と、醜悪な謀』
二章
ノーザンコースト伯爵家のお転婆娘クラウズェア・セルペンティスが、王家の第二王子アルテミシアと出会ったのは、二人がそれぞれ十と七つの時だった。ちなみに、クラウズェアの方が年上だ。
ありていに言えば、“遊び相手”だった。
国王女王両陛下に、まだ少しばかり息子への愛情があった頃、無聊を慰める役に立てばと、たまたま年の近いクラウズェアに白羽の矢が立った。
「髪、真っ白だね」
最初は、そんな言葉から始まった。
物怖じせずに話しかける少女に、周囲の巫女達は慌てふためいたものだったが、毎日を寂しく過ごしていた男の子には、この刺激の塊みたいな少女を喜びと共に歓迎した。
「目が見えないんだ? それってどんな? 夜みたいに真っ暗なの?」
「わからない。真っ暗って、どんなの?」
「真っ暗は真っ暗よ。太陽の反対よ」
「太陽?」
「そう、ここからじゃ見えないわ。外に出ましょう」
「でも、外には出ちゃいけないって」
「わたしに任せておきなさい」
そう言って、巫女達の目をかいくぐって外に出たのが、アルテミシアが生まれて初めて神殿から出た日となった。
「なんだかこわいよ、クラウズェア」
「こわくなんてないわよ。それと、わたしはローズよ」
「ローズ?」
「そう。おとうさまも、おかあさまも、おにいさまも、みぃんなそう呼ぶのよ」
「わかったよ……ローズ」
はにかみ混じりの微かな笑顔に、つられて少女も笑顔になる。
「あなたはなんて呼ばれてるの?」
ローズの無邪気な質問に、少年は幽かに困ったような顔をした。
「アルテミシア」
「それじゃあ長いわ」
少年の返答に満足しなかったローズは、しばし考えた。
「シアでどう?」
「シア?」
「アルやアーティーも考えたけど、あなたには『シア』がにあうと思うわ」
「うれしい。ローズ」
「気に入ってもらえて良かったわ、シア。……あなた、泣いてるの?」
ローズの言葉に初めて気がついたと、シアは自らの頬に手を当てた。
「本当だ」
「泣き虫なのね」
そう言って優しくハンカチで拭いてあげるローと、突然の感触に驚き、ついでくすぐったそうに身をよじるシア。
「どう? 落ち着いた?」
「うん」
「まだこわい?」
「もう、こわくない」
そう答えたシアの手を取って、少年よりも少しだけ大きくて温かい手で、少女は太陽の方へと導いた。
「この、ずっと向こう側にあるのが太陽」
「あたたかい」
今度は別の方角へ手を向け、ローズは言った。
「この先に木があって、そこの枝で小鳥が鳴いてるわ。この鳥は、太陽が出ている時にだけ鳴くのよ」
「わかる。ないてる。かわいいこえ」
こんな具合に、お姉さんぶったローズがシアに色んな事を教えたのだった。
草を踏み、風に乗って薫ってくる花々の匂いをかぎ、そして、つないだ手からお互いの体温を感じた。
この可愛い勉強会は、王子の失踪に気付いて血相を変えて飛び出してきた巫女達に見つかるまで、続いた。
「石がつかえないの」
ある日のこと。いつも元気なローズが、開口一番、しょんぼりした声をもらした。
「石って、この部屋のかべとかゆかの石? それとも、外におちてる石?」
部屋を覆う冷たい感触や、以前、二人でこっそり外に出た時に拾った石ころを思い出しながら、シアが尋ねた。
「ううん、〈彩化晶〉のことよ」
「さいかしょう?」
聞いた事のない単語を、シアが繰り返す。
「彩化晶よ。シアは王族なんだから、使えるんでしょう?」
ローズは自分がからかわれているのかと思い、少し不機嫌そうに言った。だが、
「なぁに、それ? ぼく、つかえないよ。そもそも、きいたことがないよ」
この、幼なじみの少年の言葉は、赤毛の少女をたいそう驚かせた。
「うそっ? ……本当に?」
あり得ない事を聞いたものだから、やはり自分がからかわれているのではないかと、ローズは念押ししてみた。
それに対し、盲目の少年は、
「うん」
と、即答したのだった。それから、
「ねぇ、ローズ。さいかしょうって、どんな石なの? やっぱり、かたいの? それとも、パンみたいにやわらかい? スープみたいにあたたかい? この部屋のかべみたいにつめたい? 外にさくお花みたいにきれいなの?」
自分の何倍も物知りな少女に、矢継ぎ早に質問したのだった。
どうやら少年が嘘を吐いている訳ではない事を理解したローズは、石を使えないのが自分だけではないと解り、しかもそれが一番の仲良しであるシアだったので、なんだか仲間ができたみたいでほっとしたのであった。
それから、白い髪した男の子の、閉じた瞼の辺りを見ながら、説明していった。
「彩化晶はね、わたしもくわしくは知らないんだけど、見たことがある物は、どれもかたいわ。この前、二人で拾った石ころみたいによ。けれど、石ころほどには冷たくないわね。あと、いろんな色があって、とってもきれいよ」
「いろんな、色」
シアが繰り返す。
「そう。……花にいろんな色があるみたいに、彩化晶にもたくさんの色があるわ」
本当は『いろんな髪と目をした人たちがいるみたいに』と言うべきだった。何故なら、人の持つ髪や目の色に対応した色の数だけ、彩化晶はその種類が存在するのだから。例えばローズが使えるとするなら、それは“赤”と“緑”という具合に。
だが、皆が当たり前に持つはずの、その髪と目に色の無い男の子を想い、優しい少女は言葉を選んだ。
そして、考えるまでもなく“色の無い人間に彩化晶が使えるはずがない”という事実に思い至り、自分の浅はかさに赤毛の少女はひどく落ち込んだのだった。
けれど、当の男の子は気にした風もなく、続けて少女に尋ねる。
「その石って、どんなふうにつかうの?」
その質問に、“色の話題”で自分が落ち込むと、少年も落ち込んでしまう事を知っていたローズは、気を取り直してこう答えた。
「〈共鳴術〉に使うのよ」
「レゾナンス?」
またもや、聞いた事のない単語だったので、シアは不思議そうに繰り返す。
「いわゆる、魔術よ」
ローズは、もっと解りやすい言葉で言い直した。
「魔術って……あの、ふつうの人ができないことができる、すごい術のことだよね?」
赤毛の少女が、外の話をする時や、おとぎ話を聞かせてくれる時に見せる、ローズにだけ判る少し興奮気味の面持ちで、シアは言った。僅かに身を乗り出してさえいるほどだ。
男の子の反応に気をよくした少女は、学校の先生が授業で言っていた事を思い出しながら、一番の友達に語って聞かせた。
ちなみに学校とは、貴族の子弟が通う、王立の教育機関の事だ。
「この世にはね、たった二つだけ、自ずから特別な〈律動〉を発しているものがあるのよ」
「リズム?」
「そう。振動とも言い換えられるわ。こんな風に」
ローズの掌がパンパンと打ち鳴らされ、続いて、机がコンコンと叩かれた。
その音がなんだか楽しくて、シアの頬が少し緩む。
「その二つというのが、“人間”と“彩化晶”なのよ」
「そうなんだ」
「そう。で、人間と彩化晶には、決まったリズムがあって……えっと……そうっ、固有振動数というのがあるのよ」
「こゆう……え?」
思わず聞き返すシア。
「固有振動数、よ。その固有振動数が人間と彩化晶で一致すると、〈共鳴術〉が――魔術が効果を発揮するのよ」
「えっと、えっと」
もう既に話しについて行けないでいるシアは、ちんぷんかんぷんだ。
「簡単に言えば、人と石には相性があるのよ。こんな風に」
そう言ってローズは、さっきみたいに掌を打ち鳴らした。
パンパンパンと、三回音が鳴る。
「これがわたしの〈律動〉だとして」
次に、机がコンコンコンと三回叩かれる。
「これが彩化晶の〈律動〉だとするわね。どっちも音が三回鳴ったわね?」
ローズの問いかけに、
「うん」
と答えるシア。
「つまり、どちらも固有振動数が三回ということになるの。三回同士だから、相性はバッチリ」
「どっちも三回鳴ったものね」
この説明は解りやすかったので、シアも一安心だ。
「けれど」
今度は、ローズの掌が二回打ち鳴らされ、机が三回叩かれた。
「これだと、音の数が合ってないわ。一致してない」
「うん。二回と、三回だもの。音の数がちがうね」
「そうなの。この固有振動数が一致したら、〈彩化晶〉は不思議な力を発揮してくれる。けれど、一致しなかったら、何も効果は出ないの」
そこまで言ったところで、ローズの肩が落ちた。最初、『石がつかえないの』としょげていた女の子に戻ってしまった。
「わたしは貴族だから〈先天共鳴者〉のはずなのに」
「へれ……なぁに?」
「ヘレディタリー。生まれつき、特定の彩化晶と〈律動〉が一致してる人のことよ」
「ヘレディタリーじゃないと、石はつかえないの?」
「ううん、使える人もいるわ。〈後天共鳴者〉って言って、技術でズレてる〈律動〉を一致させる人たち」
「その技術は、学校ではおしえてくれないの?」
「……教えてくれる。〈共鳴術〉の中に〈調律歌〉っていうのがあって、それを上手く使えば、律動が一致して、彩化晶が応えてくれる」
「じゃあ――」
「使えないの、わたしには」
シアの言葉を遮り、ローズは悲痛な声を漏らした。
「お父様もお母様もお兄様も使えるのに、わたしだけ使えないの。勉強してるのに、使えないの」
暗く沈んだ声だった。
いつもは太陽のように明るく溌剌とした少女が、今はどんよりとした雲に覆われてしまったかのようだ。
仲良しで大切な友人をなんとか元気づけようと、シアは少ない知識をかき集めて考えた。考えたが、結局は良い知恵は浮かばなかった。けれど、大好きな友達を慰めたくて、とにかく口を開いた。
「ローズは石がつかえなくてもいいよ」
「でも、家族みんな使えるんだよ? 学校の友達だって、使える子たくさんいるし。最初は使えなかった子達も、勉強してどんどん使えるようになっていってるし」
貴族であればたいてい、石を使う事ができる。使えない方が希だ。
「ぼくもいちおう貴族だけれど、石はつかえないよ」
『学校の友達』に少しだけ嫉妬しながら、シアは言葉を続ける。
「そんなことよりもローズにはとってもステキな才能があるよ」
この言葉に、ローズは驚いた。ついで、すがるような気持ちで問いかけた。
「どんな才能?」
「ぼくをいつだって楽しい気持ちにさせてくれる才能! この部屋を明るくしてくれる才能!」
大まじめだった。真剣だった。『明るい』なんて言葉の本当の意味、ちっとも解らなかった。けれど、本当の気持ちを込めて語った。だから、ローズの顔は真っ赤になった。
「あと、もの知りの才能! それから――」
「もう、いいわ!」
まだまだ続きそうな言葉に、慌てて待ったをかけた少女は、
「ありがとう」
小さな声でお礼を付け加えた。
「さいきん、外に出ていないわね。出てみようか?」
ごまかすように言ったローズの言葉には、「だめだよ」と元気のない言葉が返された。
「どうして?」
「今まで何度か外にでたでしょう? だから、ローズのことが良く思われてないみたい。今度みつかったら、ローズと会えなくなるかもしれない。会えなくなったらイヤだよ」
切々と訴えるシアに、うーんと腕組みをして考え込むローズだったが、しばらくして、
「わたし、騎士になる!」
突拍子もないことを言い出した。
「騎士に?」
「そう。王様も女王様も、お父様もお母様も、貴族は出かける時に護衛の騎士を連れて行くわ。護衛の騎士がいれば、自由に外に出ていいのよ!」
名案とばかりに、手を打ち鳴らしてはしゃぐローズ。
「じゆうに、そとに」
「そう。わたしが、シアの騎士になってあげる! そうして、外に連れ出してあげる! 街へ行って買い物をしましょう。美味しいお菓子を売ってるわ。馬に乗って山の向こうまで探検に行きましょう。竜や妖精に出会えるかも。そうして、夜は私の家で一緒にご飯を食べて、ベッドの中でずっとお話していましょう。それは、きっととても楽しいことだわ」
楽しげに話すローズの言葉は、シアには全部は理解できなかった。けれど、静かに聞き入る彼の目からは、なぜだか涙が溢れていた。
「どうしたの? ここは泣くところじゃないのよ? 『ありがとう、ぼくの騎士ローズ』って、よろこぶところだわ」
ハンカチで涙を拭いてあげるローズに、その手のぬくもりに触れると、何故だかもっともっと涙が溢れてきて、困ってしまうシアだった。けれど、言わなければいけない大切なことだけは、嗚咽混じりになんとか言うことができた。
「ありがとう。ぼくの騎士、ローズ」
クラウズェアは馬で駆けていた。
父から地鎮の儀の話を聞くやいなや、厩舎へ走った。馬丁を斬り殺さんばかりの形相で急かし、一番の早馬に鞍をつけさせると、〈常葉の森〉へ向けて馬を走らせた。
「頑張ってくれ!」
襲歩――全速力で向かわせたかったが、それだけは必死でこらえた。
馬という生き物は、思ったほどには体力はない。長距離走行用にペースを落として走らせても、せいぜい四十㎞が限界だろう。馬の品種や用途別の種類にもよるが、満足に襲歩を維持できる距離は八百m程度が限界とされ、無理して襲歩で走らせ続ければ、二~三㎞で心臓麻痺を起こして死んでしまう。そして、よく訓練された馬であるほど主人の命令には忠実で、死ぬまで従い続けてしまう。
だから、しらずに馬を急かしすぎてしまわないよう、乗りつぶしてしまうギリギリのペースを見極めながら、逸る心を律して、気も狂わんばかりの時間を耐えなければいけなかった。
そうでなければ、間に合わなくなってしまう。
もしかしたら、もう既に手遅れなのかもしれない。だが、そんな事は考えたくなかった。あってはならぬことだ。
クラウズェアが仕える、彼女より年も背も小さなご主人様の身に、“死”が降りかかるなど起こってはいけないことだった。
「わたしはまだ、約束を果たしていないんだ!」
馬の首が、汗でびっしょりと濡れている。まだ、大丈夫。まだ、もつ。尻や尾の方まで汗をかいたら、危険な兆候だ。
沈みゆく金色の太陽を横目で睨みながら、クラウズェアはただ一心に、主が居るであろう〈常葉の森〉を目指して馬を駆けさせた。
ワインは高級品である。
ワインの材料は葡萄だ。その葡萄は、東の大陸でしか採れない。とりわけ、温暖で乾燥した一部の地域で栽培された葡萄は質が良く、味も旨い。その葡萄から作られる果実酒は大変に美味だが、値段は張る。つまり、金持ちしか飲めないのだ。
ワインを飲むということは、一種のステータスだ。
「〈赤陽地鎮の儀〉は、手はず通りに済みましたな」
不可侵卿ことイーストフットヒル侯爵オズワルド・オズボーンは、好物の赤ワインに舌鼓を打ちながら、女王ベラに話しかけた。
「ええ」
これ以上ない簡潔な答えだった。
「おつらいでしょうが、これも国のため。ひいては我々のためですからな」
この言葉には、ベラは応えない。
「この国の未来に、そして、我々の甘い蜜月に、乾杯!」
耳障りで甲高い祝杯の声に、冷ややかな視線を返すベラだったが、ドアへ歩を向けた。
「そろそろ、サイラスを看に行く時間だわ」
侯爵に顔を向ける事なく、ベラが告げる。
「陛下の経過は順調ですかな?」
「ええ、順調よ。さすがは不可侵卿が推した薬師だけの事はありますね」
「薬も?」
「きちんと飲んでいるようよ」
「それは、大変よろこばしい。どうですかな、女王陛下も一杯?」
「結構です」
結局、ベラが振り返る事は無かった。
退室する女王と入れ替わりに、外に控えていたフィデリオが入室する。
「まったく、虫の好かん女だ。これだから女の扱いは煩わしい」
「今の言葉、女王陛下に聞かれていたら事ではありませんか?」
フィデリオの忠告に、思わずオズワルドの腰が浮き、ドアの方を凝視してしまう。だが、そのドアは開く事も、廊下で物音が聞こえる事もなかった。
その無様な小人振りに、一瞬だけフィデリオの顔に冷笑が浮かぶ。だがそれは、侯爵に気付かれる事はなかった。
でっぷりとした尻を椅子の上に落ち着け直したオズワルドは、内心で安堵しながら語気強く言った。
「ふんっ、ただ環状額飾りが適応したというだけで女王になれた女だ。諸侯を手懐け、権勢を増した今の儂なら、権力でも充分に渡り合える。恐るるに足りんわ」
「古から受け継がれた、“魔物を寄せ付けぬ”と云われる強力な遺物だったはずでは?」
「馬鹿か貴様! 魔物なんぞどこにおる? 儂は人間だぞ。まあ、あんな魔除けの小道具を身につけていても、産まれたのが怪物なのだから、笑える話だがな」
そう言ったオズワルドは、腹を揺すって大笑いした。
「あんな女の事よりも、首尾は? 王太子はどうなった? 子爵はすぐにでも着くのか? それと、天恵はまだか?」
矢継ぎ早の質問を、フィデリオが一つ一つ答えていく。
「王太子殿下の生死は、伝令が未だ来ませんので不明です。甥御殿は、指示通り都に向かっているようです。多少、寄り道はしたようですが。それから、天恵は影も形も見えません」
「ええいっ、腹の立つ! どいつもこいつも、いつまで儂を待たせるつもりだ!」
オズワルドは癇癪を起こし、酒の飲み過ぎで浮腫んだ顔を、赤黒く染めた。
「伝令に関しては、待つしかありません。それから、〈金陽天恵の儀〉だけではなく、〈赤陽地鎮の儀〉も忠実に再現した方が良かったのではありませんか?」
「やかましい!」
唾を飛ばしながら怒鳴りつけたオズワルドは、ふぅふぅと荒い息を吐き、濁った目でフィデリオを睨み付けた。
「呼び出すのは天恵の儀だけで充分なのだ! 地鎮の儀なんぞ、関係はない! あれは、〈色なし王子〉を殺すための大義名分に利用できれば、それで良いのだ」
オズワルドの血筋は、古くから伝わる神官の家系だ。先祖代々より祭祀を司り、他の者が知り得ない知識や文献も多く保有する。
だが、長い歴史の中で儀式は形骸化し、その本質は失われた。中でも〈陽の儀〉、特に〈赤陽地鎮の儀〉に関してはほとんどの知識が失われてしまっており、正確なものが伝わっていない。
それでも、彼が読み解いた文献では、望むモノを得るためには〈金陽天恵の儀〉だけで充分なはずだったのだ。
「それよりもあいつめっ、儂が使ってやっておるのに、言うことを聞かん! 血筋の悪い者はこれだからいかん」
考えたくない案件から目をそらすため、侯爵は話題を変える事にした。彼の甥御の件だ。だが、
「もとから“そういう輩”だと解っていたはずでは? それに、ご兄弟が下女に産ませたお子とは言え、れっきとした侯爵閣下と同じ血が流れておいでですが」
これもフィデリオから痛い所を衝かれてしまい、とうとうオズワルドの堪忍袋の緒は切れた。
「うるさいっ、黙れ!」
ぴたりと口をつぐむフィデリオ。
「まあいい。彼奴の欲しがるものを与えてやれるのは、この儂だけだ。儂には逆らえん」
押し黙ったままのフィデリオに背を向けた侯爵は、高価なガラス窓から外を睥睨する。
「いずれ、全部が儂のものになる。焦ることはない」
独りごちる侯爵の背を、物言わぬ剣士は冷ややかに見つめていた。