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五章⑥『神速狼』

 バイガン将軍の思惑はこうだった。

 彼は、部下の目撃証言など、(はな)から信じてはいなかった。だが、(くだん)の〈神速狼〉の話は、上手く使えば邪魔な異邦人達を始末する機会に繋げられると考えたのだ。

 これは、ジャックが推測した通りだった。

 将軍は、配下の武官の中でも腕が立ち、なおかつ隠密行動に()けた将を選び、隊の中から一個分隊を編成し、軽装歩兵部隊として指揮させることにした。

 目的は、異邦人達の暗殺だ。



 スルトン宰相は、何としてでも華燭かしょく(てん)を執り行うつもりだった。

 それこそが、彼が敬愛する国王への忠誠の証であり、その身を捧げて尽くすと誓った国家の、千年の繁栄と安泰の実現が、彼の夢が叶う道に通じると、信じていたからだ。

 そのためには、必要な条件が二つあった。

 一つは、王族に迎えるに相応しい更なる(はく)を、英雄達に付けさせること。

 もう一つは、バイガン将軍が(くわだ)てるであろう、英雄達の暗殺計画を阻止すること。それも、秘密裏に。

 彼は、将軍を失脚させたい訳ではないのだ。そのためには、暗殺計画などという不祥事ふしょうじは、秘密裏にもみ消さなくてはならない。

 宰相は、子飼集こがいしゅうを使うことにした。

 彼らは隠密行動を得意とする集団で、軍には属さない。つまり、バイガン将軍の配下ではない。スルトン宰相を組織の頂点とし、ナデファタ王のためにこそ働く。

 子飼集の中でも取り分け隠密行動にちょうじた者を選び、今回の任務に着かせることにしたのだった。




 さて、いっぽう。アルテミシア達といえば。

「シア。元気を出して、ね?」

 前回と同じく、(けい)(だい)(そう)()(たい)の隊員である、タッタルガルとヒューヴァウワーの二名の背を借りた一行は、今はもう天を焦がすことの無くなった〈天焦山〉へとその身を移していた。

 ただ、以前とは違って(ふもと)で下ろして貰っている。今回の目的は山頂に登ることではなく、“魔狼狩り”だからだ。獣を追い込むために、麓から山頂めがけてゆっくりと登る必要がある――名目上は。

「うん」

 隊員二名と別れた一行は、ゆっくりと山道を登っている。道と言っても(けもの)(みち)だ。そこを、縦一列に並んで歩いている。まあ、実質歩いているのはクラウズェアとアルテミシアの二人だけだが。ジャックには道など関係がなく、モリオンに到っては母の中に居る。

 前回難儀した登山とは言え、この辺りはまだ密林然とした中腹以降とは違い、木々の間隔が開いた林である。下草も丈は短く、歩くのにそれほど困難はない。

「大丈夫だから。上手くやれるから、ね?」

 俯きがちに背後を歩く少年を振り向き、赤毛の少女は艶やかな黒髪を撫でた。

「うん。そうだね」

 白い(おもて)が上がり、赤眼が緑の目を見つめた。

「本当に、そう思ってる?」

「え?」

 少年の鼻が、長い指にちょんと(つつ)かれた。

「打ち合わせ通りにやれば大丈夫よ」

 わざと大袈裟に表情を崩して笑って見せたクラウズェアは、幼なじみの頭をぽんぽんと軽く叩いた。

 それに釣られ、アルテミシアも微かに笑う。

 胸中のモリオンがユラユラと揺れたので、

「【だいじょうぶだよ。心配かけてごめんね?】」

 と応じた。

「シア嬢ちゃんが主役なんですから。そう落ち込んで貰ってちゃあ、困っちまいやす。……待てよ? 落ち込んだお嬢ちゃんをさり気なく慰めて点数を稼ぐ絶好の機会だったんじゃあ? しまったっ、姐さんに先を越されたぁ!」

「ジャック……お前……」

 クラウズェアは呆れ果てたとばかりに首を振ったが、軽薄な言葉がアルテミシアを慰めるためだと分かっていたので、これは単なる見せかけのポーズだった。

「お嬢ちゃんにはこのジャックがついてますからね! お早うからベッドの中まで、あなたをネットリ見つめる憎い奴です。ぶひっ」

 のっぺらぼうでなかったら、鼻の穴を広げて興奮した様子が見られたのではないかと思える、熱のこもった声であった。

「ジャック……お前……」

 クラウズェアは、先程の己の見解が間違いではないかとの思いを拭うことができず、本気で呆れ果てた。

「というかお前、シアが寝ている間に何か良からぬことをしているのではなかろうな?」

「良からぬコトってぇのは、いったいぜんたい何ですかい?」

「それは、そのぅ……何か()(れん)()悪戯(いたずら)を……」

「え~、ヤダぁー、なにそれー! 姐さんったら、破廉恥な悪戯とやらを、まさかシア嬢ちゃんにしたいとか? 毎晩、ベッドの中で良からぬ妄想に(ふけ)って、お嬢ちゃんを想像の中で汚してるんじゃあねぇですかい?」

「きさっ、きさまぁ! よりにもよって、なんということを言うのだ! 恥を知れぇっ!」

 激情に駆られた女騎士は、髪より変成へんじょうさせた薄紅を大上段に振りかぶった。激しい怒気が刀に乗り移り、薄紅から炎が吹き上がる。

「うっひぇぇぇっ? オタスケー! ってか、山火事になる! また天焦山になっちまいますって!」

「してやる! 再び天焦山にしてやる! ここに炎獄を造って、お前の墓場にしてやるぅ!」

「もう、二人とも、早く行こう?」

 いつもの馬鹿騒ぎにすっかり気持ちが軽くなったアルテミシアは、本気でジャックを斬り殺しかねないクラウズェアの手を引き、先頭に立って歩き始めた。

「あ、ちょっとシア、待って」

「た、助かっ、た?」

 どうやらジャックは死なずに済んだようである。

 ちなみに、アルテミシアに元気がなかった原因だが。

 これは勿論、ツユクサのことだ。

 当初、“多くの猫妖精を喰い殺した魔狼”と“ツユクサ”とが、同一の存在であるとの認識ができていなかった少年は、事態の深刻さを理解していなかった。

 そこをジャックとクラウズェアの二人から(こん)(せつ)(てい)(ねい)に説明を受け、やっとのことで状況を把握したのである。

 だが、それはそれで、また新たな問題が発生した。

 アルテミシアが酷く落ち込んでしまったのだ。

 見た目はいつもと同じく、表情の変化に乏しい、お人形さんのような(よう)(ぼう)だったので判り辛かったのだが、全く一言も喋らなくなってしまったのだ。

 これには、長い付き合いのクラウズェアだけでなく、ジャックにもその変化がすぐに感じ取れた。

 夕食も全く(のど)を通らず、モリオンとルクルクを酷く心配させたものだ。

 クラウズェアとジャックの二人は、またもや言葉を尽くして、アルテミシアを(なぐさ)める運びとなった。

 最後の決め手は、ジャックの、

『こんなモン、ツユクサを退治したことにして逃がせば良いんですよ。バレなきゃあ良いんですよ』

 という言葉で、少年の不安も何とか払拭ふっしょくすることができた。

 だが、今後ツユクサとは会わず、ましてや城まで来させることなど絶対にできなくなる。それだけがアルテミシアにとって心を(ふさ)がせる要因となっていたし、また、その説得の役を少年は(にな)っているのだった。こんな所で遊んでいる暇はない。

「あぁん、待ってよ~う」

「気色の悪い声を出すな!」

 いかにも不真面目ですと言わんばかりにペラペラしながら、別に追い付く必要もなくアルテミシアの影ごと移動しているジャックが、二人に身を寄せてきた。

「怒らせちまったお()びに、良いコトを教えますから」

「ええい、聞きたくなど――」

 怒りの炎がくすぶっていたクラウズェアが上げた、荒ぶった声にかぶせるように、

けられてやす」

 囁かれたその言葉の意味を理解した時、怒れる少女は凜々しき騎士へと表情を変えた。

「まことか?」

 足を止めることなく、同じく囁き返す。

「つけるって、なぁに?」

 二人の真似事で声を潜めてはいるが、言葉の意味と事態を理解していないアルテミシアが、あどけなく問いかけた。

「尾行のことよ。わたし達の後を隠れて追って来ている者が居るって、ジャックはっているの」

「そうなんだ」

「ええ、けっこう練度れんどの高い連中みてぇでして。複数居るのは解るんですが、正確な数までは判りません。恐らく、二つの集団が居やがるんでしょうが、ね」

「かくれんぼ?」

 きょろきょろと辺りを見回したアルテミシアを、クラウズェアが慌てて止めた。

「シア、だめ」

 言われて、やってはいけない事をしてしまったのだと理解した少年は、しゅんと(うな)()れてしまった。

「ごめんなさい」

「あ、えっと、別に怒っている訳じゃ」

「そうです。今ので事態がどうこう変わることもなさそうですし。連中の目的は、だいたい想像ついてますからね。対処しようはありやすよ。しかし、ホントにかくれんぼが上手な奴らですねぇ」

 おどけて言って見せたジャックの言葉に、(うつむ)いていた白い顔が上がった。

「うん。……あんなにたくさんいるのに、今まで気がつかなかったなんて、あの人達すごいね」

「あんなに沢山?」

 ジャックが聞き(とが)め、

「シア、数が判るの?」

 クラウズェアはもしやと問いかけた。

「うん。ぼく達のななめ後ろの方の、あいだを空けたそれぞれ左右に、十人の集まりと、十一人の集まり。それと、左ななめ前に一人いるよ?」

 この言葉に、クラウズェアの目は驚きに(みは)られた。

「シアの目って、凄いのね。それとも、モリオンのお(かげ)になるのかしら?」

「そいつも、例の“銀の霧”とやらで見分けてるんですかい?」

「うん。そうだよ」

「シアもモリオンも、偉いわね」

 クラウズェアの優しい言葉に、アルテミシアの白い頬が桜色に染まった。

「ぼく、うれしいな。失敗しちゃったかと思ってたから。……モリオンもよろこんでる」

 幸せそうな少年の頭を女騎士が無骨な手で撫でてやり、(いや)しい影人間は不純な絶叫を(ほとばし)らせた。

「チクショー! また姐さんに美味しい所を()(さら)われたぁっ?」




 ヒクイシーは待っていた。

 彼は子飼集こがいしゅう(わか)(がしら)を務めるだけあって、細い体は身軽でしなやかだ。全体的に灰色がかった毛色で、背中側の黒い体毛は、闇夜で身を伏せた時に周囲に溶け込むのを助ける。大きくて尖った耳は小さな音も聞き逃さず、アーモンド状に吊り上がった目は、夜闇を()く見通す。

 その身は()(かげ)に同化し、鋭敏な目と耳は二つの目標を捉えていた。一つはアルテミシア達。もう一つは将軍配下の軽装歩兵部隊だ。

 英雄達は今、少し開けた場所で小休止を取っている。

 軽装歩兵部隊は、英雄達から距離を置き、今のところは動きがない。

 彼には三つの目的があった。

 一つ目は、英雄達の護衛。

 二つ目は、将軍配下の者――この場合は軽装歩兵部隊である――の撤退てったいを秘密裏に促すこと。

 三つ目は、英雄達に手柄を立てさせること。これは、魔狼の変装を(ほどこ)した犬妖精を、彼らにしか聞き取れない笛で合図を送って呼び出す予定だった。呼んだ後は適当に交戦させ、手傷を負った演技をさせて逃がせば良い。そういう作戦だった。

 彼は、今回の任務を心苦しく思っていた。

 二つ目の目的である、軽装歩兵部隊の撤退誘導だが、時期を計らなければならないのだ。何故なら、彼らが事を起こす前に捕縛するなり撤退を促すなりしようにも、ただ「警邏中けいらちゅうだ」だの「英雄達の護衛だ」などと言い逃れされる可能性がある。そして、また似たような(はかりごと)(くわだ)てられてはたまらない。

 それでは意味がないのだ。

 今回のこの一件で、将軍の(さし)()による犯行の現場を押さえる必要がある。そして、釘を刺すことによってこそ、意味を成す。

 だから、ヒクイシーは待っていた。

 英雄達が襲われる、その時を。



(ころ)()いか)

 クローシェーイは異様な風体の男だった。

 毛色は黄褐色。これはバイガン将軍のそれより、茶色味が強い。背は一・五mほどと、猫妖精の中では特に大きくはない。ここまではいい。

 だが、口を開けばノコギリのようにズラリと並んだ歯が(のぞ)き、見る者に(おぞ)()を走らせる。そして、腕が足よりも長いのだ。

 彼は、剣の腕が立つ。

 両の腰に吊した三日月刀(シミター)と呼ばれる曲刀は、その名の通り三日月状に弧を描き、敵を撫で斬りにするのに適している。

 それを彼は、二つ同時に扱う。二刀流だ。

 長い腕より繰り出される双刀の連撃は目にもとまらず、一人で七人を相手取って瞬く間に斬り伏せた逸話から、付いた異名が〈(しち)(そう)()(ざい)〉である。

 しかし、彼の異名の本当の意味を知る者は少ない。

 彼の左手は、不思議の手であった。

 五つの指に備わる鈎爪には、特別な力が宿っている。彼が変化へんげの術を使えないその代わりに得た、強い力。いや、これこそが彼の変化の術。二つのシミターと五つの鈎爪。合わせて七つを振るうからこその〈七爪自在〉なのだ。

 クローシェーイは、人差し指から小指までの四つの爪を、異邦人達の周囲に放ったのだった。




 ひとまず〈(れん)(たん)(どう)〉まで行く。それで三人の合意は得られていた。

 今まで〈ツユクサ〉と接触していたその全てが、向こうからの意思であった。こちらからは会う(すべ)がない。かの狼と(そう)(ぐう)したのは、城を除けば洞窟近辺。それと山頂。

 まずは、遭遇回数が多く、かつ、拠点にするのに便利な〈練丹洞〉を目指す。これはジャックの発案だったが、アルテミシアがすぐさま賛成し、クラウズェアも納得した。

 だが、その前に。

「早いとこ仕掛けて来ねぇかなぁ」

 ジャックが退屈そうに漏らした。

「こちらから打って出られれば良いのだが。難儀なものだ」

 竹筒のヨーグルトをちびちびと舐めながら、クラウズェアも応じた。

「おそって来る方が判ってたら、いますぐにでも“固め”られるのに」

 そう呟いたアルテミシアは、ドライフルーツを一粒つまんで口へ運んだ。そして、

【ブルブル】

 と、胸中のモリオンが今か今かと出番を待って武者震むしゃぶるいをしている様子に、くすりと微かな笑いを零した。

 三人が休憩にと選んだこの場所は、周囲が開けている。以前、山火事で草木が焼けた場所であり、それからあまり時間が経っていないのだ。

 ここへ来るまでの道々で、あちこちの花や動物を指さして説明する。そういう演技をジャックとクラウズェアがやりながら、アルテミシアに隠れている連中を探らせた。そうして情報を集めた結果、それぞれの集団は(れん)(けい)を取ってはいないことが判明した。つまり、全てが敵という訳ではなさそうだとの結論に到ったのだ。

 おそらくは将軍派と宰相派の二派だろうとの見当を付けたのだが、どちらがどちらの勢力なのかが判らない。間違って宰相派を攻撃でもしてしまったら、目も当てられない。

 スルトン宰相はナデファタ王の腹心として相応しい男で、今のところ敵ではないだろうと、ルクルク王女から助言を得ている。

「練丹洞まで連れて行く訳にはいかぬし」

「そうですね。あすこを知られるのは具合が悪い」

 クラウズェアのは『敵を引き連れていてはツユクサも現れないだろう』との意味での言葉であり、ジャックは『他人に知られては不味い色々な物がある』との理由からだ。

 その時。

「あ」

 一つの集団から、銀の軌跡を()きながら四つの何かが飛んでくるのを、アルテミシアの目と耳が捉えた。

「仕掛けて来なすったか。お二人とも、手はず通り」

 アルテミシアの反応を見て取ったジャックは、そう告げるなり少年に〈かかりみ〉した。だが、影の身が覆うのはほっそりした首までだ。《視線》を妨げないために。

 クラウズェアも素早く立ち上がりながら、赤い三つ編みを〈薄紅〉へと変成へんじょうさせた。

 四つの飛来物――クローシェーイの鈎爪は、立ち上がった二人の四方を囲むように落ち、アルテミシアにだけ聞こえるさらさらとした音を(かな)でながら、驚くべき変化を遂げた。

「化け物め」

「こいつぁ、なんだぁ?」

 クラウズェアとジャックの予想を超え、現れたのは武装した兵士などではなく、見たこともない四つ足の獣だった。

 それは、黒い獣。

 体長は尾を含めず二mほど。いかなる獣とも似ず、肉食獣の凶悪さのみを抽出ちゅうしゅつしたような、それでいて、悪夢の中から彷徨(さまよ)い出た怪物を思わせる異様さだ。

 黒い体は一切の陽光を照り返すことがない。だが、ジャックやモリオンとも違う、ドロドロとした重たい何かでできているかのようだった。

 黒い顔には、目も、鼻もない。唯一確認できる口が大きくパックリと開き、黒い牙を誇示した。まるで獲物を威圧するように吠えている風にも見えたが、音はない。

「爪だけが動いてるなんて、ふしぎ」

「え、なんですって?」

「どういう事なの、シア?」

 それまで静観していたアルテミシアが漏らした感想に、二人が問いかける。

「うーんと。あの大きくて黒い体は、ジャックさんの体みたいに触ることができないと思う。でも、前足の爪だけは触れるよ。あれに引っかかれたら痛いよ」

「つまり、あの鈎爪以外は実態のねぇ幽霊や幻みてぇなモンで、そいつにだけ気を付けりゃあ良い、と。この解釈であってやすかい?」

「ん……幽霊も幻も見たことがないから判らないけれど、爪じゃない所が体に当たっても、たぶんだいじょうぶ」

「前足の鈎爪だけ、気を付けたら良いのね。了解」

 対処法が解れば、恐れはなくなる。()(ぜん)として脅威きょういがそこにあっても、だ。脅威の度合いよりも、“わからない”という事にこそ、人は恐怖を抱くのだから。

「んじゃお嬢ちゃん、やっちゃってください」

「うん。ぼくたち、役に立つよ。【モリオン】」

【タツヨタツヨ】

 胸中の子と()(おう)しながら、アルテミシアは《視線》を使った。

 視界に収めた二体の黒い獣が、置物のようにぴたりと動きを止める。

「【モリオン、おりこうさん】」

【モリオン、オリコウ!】

 母親の褒め言葉に、胸中の子は飛び跳ねて喜んだ。


 一方、ジャック=アルテミシアと背中合わせに獣と(たい)()したクラウズェアは。

 正眼せいがんに構えた薄紅の剣先を、あえて右斜め前にずらし、そのまま二体の黒い獣へ歩を進めた。以前のようなサイドステップではない。歩み足だ。右、左、右、左。交互に足を出す。

 黒い獣は――クラウズェアから見て左手側の方は、剣の開いたのを見て好機と捉え、一直線に駆けてきた、

 右手の方は、向けられた剣を警戒し、宙に浮き上がる。跳躍の為の準備動作がない、重さを感じさせないフワリとした動き。すでに駆けた仲間より、一拍遅れた拍子で、放物線を描きながら飛びかかる。

 黒い巨体が迫った、その時。

 赤毛の騎士の体が、ゆらりと左前方に傾き、見えない綱に引かれるように俊敏に動いた。それは、先にたどり着いた獣の鈎爪が振るわれようとした、その時だった。

 ()(げん)の月のように半円を描いて閃いた薄紅色の()(せき)は、鈎爪を斬り上げ、触れぬはずの黒い体も斬り裂いた。

 獣が、黒い水のようにベシャリと地に崩れ、消え去る。

 もう一体の獣の鈎爪が、クラウズェアの元居た空間を空振りし、次こそはと赤毛の騎士の背後から飛びかかった時。

 動きを止めていなかった薄紅が上弦の軌道を通り、向き直りざまに残りの一体を斬り伏せた。

 振りかぶられていた鈎爪と、脳天から胸までをすぱりと断ち斬られたそいつも、やはり(おも)()に崩れ落ちた。

 その赤い軌跡は、まるで太陽だった。紅の光環(コロナ)

 勝負は決した。

 息を吐いたクラウズェアがアルテミシア達の方を振り向こうとした、その時だった。

「姐さん左!」

 ジャックの鋭い叫びが上がったのは――




 クローシェーイが動いた時。ヒクイシーもまた動いた。

「お静かに」

 部下より先行して忍び寄ったヒクイシーは、音もなくクローシェーイの背後を取り、首筋に短剣を()えた。

 異変に気付いた兵士達が武器に手をかけた頃には、部隊は子飼集によって包囲された後だった。音や殺気を抑えるために、まだ得物を抜かずにいた用心が、逆に後手を取らせる結果となったのだ。

「宰相殿の使い走りか。ソレガシの隊をどうするつもりだ?」

「ただちに戦闘の(ほう)()を。それから、(すみ)やかにお退()()されよ」

「……わかった。武器を収めろ。撤退だ」

 クローシェーイの宣言に従い、部下達はいったん抜き放った武器を収め、残っていた黒い獣二体も消え去った。

「これで良いな?」

 その確認の言葉にヒクイシーが短剣をどけ、クローシェーイが英雄達に背を向けた時、それは起こった。

 アルテミシア達を挟んで、彼ら二隊の反対側。()(だち)の陰から殺気がふくれあがったのは。

 続いて響いた、

「姐さん左!」

 という鋭い声に、一同の注意が一カ所に集中した――クローシェーイ(ただ)一人を除いて。

 彼は、左手に残った親指の鈎爪を、振り返らぬまま赤毛の人間に向けて放った。

 爪は、ちゅうでその大きさを変え、持ち主の得物である三日月刀(シミター)のような形状に変化しながら、横一文字に飛翔した。

 透明な姿で。




 「姐さん左!」というジャックの叫びに機敏に反応したクラウズェアは、咄嗟に左に刀をかざした。それはただ運が良かっただけなのだが、薄紅は飛来物を弾くことができた。

 弾かれて地に落ちたのは、一本の矢だった。彼女には知る(よし)もないが、(やじり)には毒が()ってある。実に危ない所だった。

 だが、まだ危機は続いていたのだ。

 アルテミシアは気付いた。彼だけに聞こえる、さらさらという川底を流れる砂のような、銀霧の音を。

 そちらに赤眼を向ければ、何かが一直線に向かってくる最中だった。

 向かう先はクラウズェア。飛来物は、誰の目にも映らない。先程の殺気に紛れた巧妙な攻撃は、ヒクイシーでも、ジャックでも、気付けない。

 唯一、銀の霧を見ることのできる、アルテミシアを除いては。

 少年は動いた。転がるように、倒れるように。ただ、幼なじみの少女へと。《視線》を使うことすら頭になかった。ただ心を()めるのは、クラウズェアのことのみ。

「うわっ?」

 ジャックは、突然動いたアルテミシアの体と、唐突に〈かかりみ〉が()けたことに驚き。次の瞬間、その光景を目にすることになった。

 クラウズェアに飛びついたアルテミシアが、体を硬直させ、地に崩れ落ちるのを。

 そして、その背に流れる黒髪が、鋭利な物でも押し当てられたように(たわ)むのを。

「シア? ……シアッ?」

 突然のことに驚いたクラウズェアは、自分に抱きついた後、地に倒れた少年の側に膝を突き、素早くその身に視線を走らせた。

 見える範囲には、怪我を負った様子はない。だが、これだけでは安心できない。

 彼女は速やかにこの場を切り抜け、この華奢な少年を診断できる環境に移したかった。しかし、状況がそれを許さない。焦りと、憎しみにも似た怒りの感情に心が満たされそうになった、その時のことだった。

 ――ツユクサが、その場に現れたのは。




 恐怖に“美醜びしゅう”などというものが存在するのだと、この時初めてヒクイシーは知った。

 青い、大獣。

 先程の黒い獣が“醜”ならば、この見事な恐怖の塊の、なんと美しいことか。そして、その“美”の度合いが大きければ大きいほど、それはとてつもなく“恐ろしい”ということに繋がるのである。

 彼は、恐ろしかった。

 だが、あれこそは伝承に名を残す〈神速狼スウィフト・ウルフ〉に他ならないだろうと、彼の本能がこれ以上なく教えていた。それならば、英雄達の加勢に向かわなければならない。彼の任務の一つに、英雄達の護衛も含まれているからだ。

 部隊の者で、動けそうな者は彼しか居ない。

 ヒクイシーは、危機を知らせる本能を無理矢理ねじ伏せ、一歩を踏み出した。


 場を支配する圧倒的な存在感。

 振り向いたクローシェーイの視線の先には、“死”を具現化したかのような、青い獣が在った。

(まさか……神速狼?)

 三日月刀を抜き放つ……そのつもりだった。だが実際、彼が取れた行動は、曲刀の両の柄に、左右の手をかけたのみであった。

 彼は(がく)(ぜん)とした。武において、このような失態、一度もなかったのだ。

 武人の矜持きょうじが音を立てて崩れるのを自覚したその時、彼の視界に動く者があるのに気付いた。ヒクイシーだ。

 一歩、一歩。地を踏みしめるようにして向かう先は、あの神速狼の方。任務を果たそうとしているのだ。

 その姿に、何故だか後れを取ってはならないような、尻を叩かれる思いのしたクローシェーイは、えいッ、と腹の底から気力を振り絞った。

 すらり、と双刀が抜かれる。

 彼もまた、一歩を踏み出した。

 だが、クローシェーイとヒクイシーの両名が歩みを進められたのも、そこまでだった。

 神速狼が(ほう)(こう)()げたのだ。

 地の底に閉じ込めていた雷が吹き出してきたのではないかと思わせる、低く、重く、大きな(うな)り声だった。地をうように広がったその声には、質量を錯覚させるほどの圧力を感じさせた。

 それまで金縛りにあっていた二部隊の者達は、いずれも気を失い、ばたばたとその場に倒れ伏してしまう。

 ヒクイシーとクローシェーイの両名は何とか持ち(こた)えたものの、がくりと地に膝を突き、もうぴくりとも動けなくなってしまった。




 大気を震わせ、内臓を揺さぶり、心を粉々に砕かんとする大音声だいおんじょうだった。

 クラウズェアは一瞬気が遠くなりかけたが、薄紅からの温かな流れが(はら)に集まったことで、意識をつなぎ止めることができた。

 いつも少年の側でおちゃらけていた心強い影人間は、宿主の影に引っ込み、出てこない。

「おこって、る、の?」

「シア!」

 不用意に抱き起こすことも躊躇(ためら)われ、地に横たえたままだったアルテミシアが、(ささや)くような弱々しい声を漏らした。

 上体を起こそうとして、咳き込む。

「シア、喋らないで、じっとしてなさい」

 慌てて押しとどめようとした腕に、白い手がかかる。

「ううん、だいじょうぶ」

「大丈夫じゃありません!」

「ツユクサと、お話しさせて?」

 緑の目を見上げる赤い目には、薄紅を抜きに行くことを(ゆず)らなかった時と同じく、強い(おも)いが込められていた。

 クラウズェアは迷った。アルテミシアに無理をさせたくはなかった。だが、この男の子は以前と比べて自分の望みを口にするようになっていた。

 少女が手を差し伸べ、旅に誘ったあの日から。

 (かご)の中の小鳥だった少年が、白くたおやかな手を伸ばして騎士の手を取ったあの日から。

 だから。

 王子様の、この世でたった一人の守護騎士である少女は、結局、その望みを叶えることにした。

 手を貸し、立ち上がるのを助ける。

「ローズ、ありがとう」

「わたしは“シアの騎士”だもの。なんでも望みを叶えるわ」

「うん」

 短い言葉に、肯定と、信頼と、感謝と、喜びと、安心と、心強さを込めて返答した少年は、彼の騎士の手を借りて立ち上がった。

 ――(ほう)(こう)は、止んでいる。

 蝉の鳴き声も、動物が立てる音も無い。この世の全ての音が逃げ去り、置き去りにされてしまったような狂おしいまでの不安と、張り詰めた緊張が、場を満たしている。

 赤眼と琥珀の目が合った。

 だが、どちらも口は開かない。

 クラウズェアも口出しはしなかった。ただ、己の体と薄紅とで小さな体をかばい、先程のような不意打ちに備えている。

 (しばら)くして。

「わかった」

 アルテミシアが小さく言葉を(つむ)いだ。

「シア?」

 周囲を警戒しながらも、クラウズェアが問うと、

「あのね」

 そう言って、アルテミシアが背伸びをしようとし、背の痛みに顔をゆがめた。

 慌てたクラウズェアは、自分が身を屈めてやった。位置の低くなった耳元に、少年が口を寄せる。

「ツユクサがね、今からローズと戦うふりをするんだって。それで、向こうにいる隠れていた人たちにそれを見せて、それから負けたふりをして逃げてくれるんだって」

「戦う、ふり?」

「うん、そう。隠れてた人たちは、ほとんどの人たちが気を失っていて、起きている人も今は動けないから、安心していいんだって」

「それは……」

 クラウズェアの胸中に、先程響き渡った尋常じんじょうではない唸り声の恐怖が蘇り、木々の向こうの状況は想像に(かた)くなかった。

「最後にね。戦っている最中に、ぼくが“合図”をするから、そしたらローズは本気でツユクサを斬って欲しいの」

「本気で? ……いえ、分かったわ」

 抗議も問いただすこともせず、女騎士は頷いた。

「ええと、ジャックさん、出られる?」

「へ? ……あっ、出られそうです!」

 宿主の呼びかけに、今まで鳴りを潜めていたジャックが影から飛び出し、アルテミシアの体に〈かかりみ〉する。

「お話は聞かせて貰ってやした。お嬢ちゃんのことはお任せを」

「ああ、頼んだ」

 ジャック=アルテミシアは後ろに下がり、クラウズェアはツユクサに正対した。


 ……恐ろしい。

 それが、クラウズェアの偽らざる気持ちだった。

 その巨体が恐ろしい。

 長く吊り上がった琥珀の目も恐ろしい。

 鋭利な爪や牙もまた恐ろしい。

 先程の唸り声も、未だに耳にこびりついて離れない。

 だが何よりも恐ろしいのは、やはり、底の見えない(しん)(えん)の如き青であり、生き物などひと()みにしてしまうだろうその青だった。

 山頂の炎獄を前にした時、ふと現れたその青に、赤に(あぶ)られた目を()やされたこともあったというのに。それでもやはり、恐ろしい。

 クラウズェアは、乱れた呼吸を繰り返しそうな口を閉じ、深呼吸した。

 深く、(はら)の底まで届けと息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

 (はら)の熱が増した。

 もう一度、深呼吸。

 体に熱が巡り始めた。

 上がっていたものが下がったような。ぐらついていた腰がどっしりしたような。そういう変化が、女騎士の中で起こった。

(よし、戦える)

 赤の色付きを増した〈薄紅うすくれない〉を、正眼に構える。

 それが合図とばかりに、ツユクサが動いた。

 低い姿勢から一気に飛び出す。風を切る姿は青い(いな)(ずま)の如く。

 クラウズェアが横に避けると、駆け抜けたツユクサは木々にぶつかり、落雷みたいな音を立ててそれらをなぎ倒した。突進に巻き込まれれば、命は無いだろう。

 巻き上がった土砂が地に降り注ぎ、土煙が晴れた向こうから、青い巨体が姿を現す。

 今度は、最初の時よりも更に身を低くし、四肢の力を存分に使った跳躍ちょうやくで、狼が飛びかかった。

 それを(かわ)すと、着地したツユクサの勢いで土が弾け飛び、地面がえぐられた。

 四散した土砂が通り雨のように降り注ぐのを、赤毛の騎士はするすると退いて距離を離す。

(手加減されている)

 クラウズェアはそう思った。動きに無駄が多すぎるのだ。わざと(ため)を作って初動を明らかにしたり、直線的な動きしか繰り返さない。

 実はこれは、以前の彼女には判らなかったことであり、そういう“目”が養われたのは、日々の訓練の(たまもの)だった。

 だが、(はや)いことには変わりがなく、容易に(かわ)せるものでもない。

 それを、クラウズェアは(から)くも躱し続けた。

 そのような攻防が、二度、三度と繰り返される中、幾本もの木が倒され、いくつかの穴が穿(うが)たれた頃。

「斬って!」

 アルテミシアの叫びと、ツユクサの突進が重なる。

 上段に振りかぶられた薄紅が陽光に赤く輝き、迫る(あぎ)()に振り下ろされる。

 青に赤が触れた刹那――

 ツユクサの巨体は、岩に砕け散る寄せ波の如く、飛沫(しぶき)となって散り、その霧のような空間に赤毛の騎士は呑み込まれた。

 ……ゾッとする心地だった。

 薄紅の熱がなければ死んでいたと思った。

 体温と、体温以上の何かを持ち去られかけたような、そんな()()()()

 それは、一瞬だった。

 死の空間が過ぎ去り、背後で青は()(さん)した。

 全身に冷や汗を吹き出しながら、クラウズェアは己の掌中にある、赤々と生命の色に(かがや)く薄紅をぎゅっと握り込み、深く、深く、相棒に感謝したのだった。

 勝負を終えた勇敢な仲間に、手に汗握りながら見守っていたアルテミシアは駆け寄り。


 かろうじて意識を保ちながらも身動きが取れないでいた二部隊の隊長は、すでに動けることにも気付かずに、赤毛の騎士を()(けい)の念で凝視し続けていた――

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