五章⑤『魔狼討伐』
水しぶきが飛び散る。
滑らかな水面を白い手がすくい上げる度に、硝子のように透き通った水の粒が舞い、その大小の一つ一つに星々の煌めきを映し込んで、とても美しい。
ここは、夜の天焦山。洞窟側の、滝壺だ。
天を焦がす炎はもう無く、夜ということもあり、それなりに涼しい。あちらこちらから立ち上る虫の音を、柔らかな夜風が運ぶ。
水に濡れてしまわぬよう、白い装飾緩衣の袖はまくられ、赤いスカートの裾はたくし上げて黒い帯にはさんである。
長い髪は二つに折りたたんで、赤いリボンで結んでいる。
風が、豊かな黒髪を見えぬ手で撫で、むき出しになった濡れた手足に涼を与える。
白い手が動き、すくわれた水が飛び跳ねた。
水を集めて造ったような獣の巨体が濡れる。
お返しと、青く長い尾が動き、小さな少年に水をかけた。
アルテミシアは頭から水をかぶり、それまでにもうずいぶんと濡れていた服と髪を、とうとう水浸しにしてしまった。
少年は微かに笑み、忍び笑いを漏らした。
この場にクラウズェアが居れば、赤い眉を逆立てて怒ったろうなと、ジャックはのんきに思った。
アルテミシアとジャック、そしてツユクサがこうしてここに居るのには、訳がある。
生薬が底を突いたのだ。
練丹洞の無尽本草庫から、運べるだけありったけの生薬を持って行ったはずだったが、患者を診るはめになるとは露とも思わず。先日、とうとう無くなってしまったのだ。
生薬がなければ漢方を処方できない。そうなれば、患者にできることはもうない。だが、まだまだ多くの患者達がこの妖精境には居た。
境内走狗隊の隊員を貸してもらえないか、ルクルク王女に願い出ようかと考えていた時だった。夜の帳が落ちた頃、窓の外から声無き声で呼ばれたのは。
星明かりの下、青々と静かに佇む大獣。
ツユクサの背に乗り、こうしてここまで来たのだ。気絶しないように、目をつぶって。
「【楽しいね】」
少し息を弾ませながら、アルテミシアは言った。
【タノシイタノシイ】
と、胸中のモリオンも弾んだ。
「姐さんにゃあ、くれぐれも秘密ですぜ?」
「ひみつ?」
「ええ。絶対、です」
「そうなんだ。残念だけれど、うん、わかった」
アルテミシアの性格なら、『次はローズも連れてこよう』と言い出すに違いないと、ジャックは考えた。それで、今晩のことが生真面目過保護騎士に知られれば、ジャックの命は無いかもしれない。それを、影人間は恐れているのだ。
「けれど、ローズともこうして遊びたかったな」
ちゃぷちゃぷと水を切って歩いた少年は、ツユクサの巨体にそっと身を寄せ、豊かな毛並みに頬ずりした。
青い大獣は、アルテミシアの小さな体を恐ろしげな琥珀の目で見下ろしながら、いつもの鷹揚さとは少し違う速さで長い尾をゆらゆらさせた。
それから。
ひとしきり水遊びをした後、生薬をどっさり詰め込んだ袋を携え、一行は天焦山を後にした。
来た時と同じく、アルテミシアは目をつぶり、やはり来た時と同じように、背の心地良さに居眠りをこいだのだった。
お城の部屋に着く前に、何故だか服も髪もすっかり乾いており、風邪を引いてクラウズェアを心配させずにすんだ。
まずは、柔軟体操だ。
腕を、縦回転で振り回したり、横回転で振り回したり、左右交互に前に伸ばしたりする。これをやると、腕が鞭のように柔らかでしなやかになる。
それから、円軌道歩法をやったり、素振りをやったりだ。
今は、地面に描いた円周上をひたすら回っている。左回転、右回転。ひたすら、ぐるぐると。
時間は午後。
空は抜けるように、青く、高く。
午前の診療を終え、昼食も済んだ。いつもの中庭で日課となった鍛錬を行っているところだ。
この場には三人だけ。ルクルクは、まだ習いごとが長引いている。
クラウズェアとアルテミシアが、それぞれの円を回っており、それをジャックが見ている。少年が回る度に、ジャックの身も合わせて回るのが面白い。
「姐さん、地面を蹴ってます。地面を踏む力と、重心移動で進んで下さい。かといって、体を前傾させたらいけません。体は地面に対して垂直に。腰の高さを変えず、足を前後に開く。あと、腕を伸ばそうとするあまり、力んで腰が反ってます。腰は真っ直ぐに。あっ、胸を張ってます! 胸は張らずに。それと、意識も上半身に偏ってますから、もっと下半身を意識して。――シア嬢ちゃんは、後ろ足に体重を残すクセを捨てましょう。体重は前足に。そいからやっぱり重心移動で進むこと。それと、きちんと真横を向いて、円の中心に顔を向けて下さい。で、これが一番大事なことですが……お尻がとっても可愛いです」
「えっと、ありがとう?」
「最後の言葉は要らんだろうが! シアも、律儀にお礼なんか言わなくて良いのよ?」
ジャックの指導に、二人がそれぞれ答える。
ちなみに、クラウズェアはアルテミシアと違って、手に薄紅を持っている。
この霊妙な刀を手にしていると、刀から熱が流れ込んで来て、まるで体の中に水脈でもあるかの如く、温かな流れを感じることができるのだ。
それを話したところ、ジャックが『今度から薄紅を持ったまま、鍛錬しましょう』と言ったのだ。
二人が、左回りから右回りに転換する。
「腕だけを伸ばそうとするんじゃなくって、肩胛骨をおもくそ外側に開きつつ、胸も開く。そうすっと、胴体から腕が伸びていく感じになりやす。あっと、それから、太腿の内側はくっつけたまま、薄い竹紙一枚を挟んで落とさない感じに。足が閉じてると、小回りも利くようになるし、速く動けるようになりますよ。……あと、できればもっと薄着で色っぽい衣装を着て欲しいところでヤンスねぇ」
「やかましい! 真面目に指導しろ!」
なんとも緊張感のない練習風景であった。
「やあ、それにしても、今日もクソ暑いですねぇ。そして、毎日毎日あいもかわらず蝉はウルセェし」
ジャックがそう零した。
「本当に、暑いね。また練丹洞の滝壺で水遊びしたいなぁ」
この言葉に、クラウズェアは不審に思った。〈夏の間〉の海辺で水遊びはしたが、滝壺で遊んだ覚えはない。アルテミシアとはずっと一緒だったし、少年一人で遊ぶヒマはなかった。
「また?」
「え?」
問われた少年の横で、ジャックはギクリと身を震わせる。
「シア、さっき『また水遊びがしたい』って。どういう意味かしら? どこで遊んだの?」
「えっと……」
アルテミシアは、ジャックとの約束を守るために嘘を吐こうとした。だが、嘘なぞ吐いたことのない少年は――正確に言えば、寂しい気持ちを『だいじょうぶ』と健気な言葉で覆い隠すこと以外では偽ったことのない少年は――咄嗟に何を言えば良いのか分からず、口をもごもごさせた。
「ジャック」
少年とずっと一緒の影人間に、鋭い声がかけられた。
「イタタ、急に腹痛が。ポンポンにタオルケットをかけずに寝たから、腹を冷やしちったみたいザンス。今日はこれにて失礼」
言うやいなや、アルテミシアの影にコソコソと逃げ込むが、その影に薄紅が突き付けられる。
「うっひゃあっ?」
ビックリしたバッタが草むらから飛び出すよりも見事な速さで、ジャックが影より飛びだした。
「お前のどこに冷やす腹がある。言え、シアをどこに拐かした」
「め、滅相もない! 拐かすだなんて、そんな、人を身代金目当ての誘拐犯か、性犯罪者みてぇな」
「お前には前科がある」
しかも、よりにもよって性犯罪の方だ。
その時、天の助けが入った。
「ローズ、ぼくが悪いの! ジャックさんを怒らないで」
アルテミシアは、両手を広げて性犯罪者をかばった。
「シア? 説明してくれるわよね?」
幼なじみのこの言葉に、少年は「ごめんなさい」とジャックに謝ると、いつかの夜の話を語った。
それは、女騎士を冷や冷やさせるに充分な内容だった。
夜にこっそり出かけたことは勿論そうだし、一度は踏み入った場所とは言え、そこがやはり天焦山という危険な場所に違いはないこと。そして、大いに助けられた身でありながら、未だに得体の知れないツユクサと一緒だったことなど。
アルテミシアの話を聞いて、クラウズェアは目眩を覚えた。そして、これはきつく叱ってやらなければと思った。
「シア」
身を屈めて、赤眼と目線を合わせる。
黒髪の少年は、しゅんとしている。
女騎士の手が、少年の頭を叩いた。
「めっ」
叩いたというか、掌を強めに置いた程度だ。クラウズェアは、幼なじみにはとことん甘かった。
事態の推移を怯えながら見守っていたジャックは、この沙汰に安堵の息を吐いた。
「次に、ジャック」
底冷えするような、恐ろしげな声がした。
「ひえっ?」
思わずジャックは身をすくませる。
「二度と同じ過ちを繰り返さぬよう、腕の一本でも切り落としておくか」
「シア嬢ちゃんと対応が違いすぎるぅ!」
振りかぶられた薄紅が、ギラリと赤い赫きを放ち、ジャックも、アルテミシアも、少年の身の内のモリオンも震え上がった時だった。
「おーい!」
スカートを翻しながら、ルクルク王女が駆けて来た。
陽光を照り返す褐色の肌は、溌剌たる生命が輝きを放っているかのようで、目にまぶしい。
薄紅が髪に戻される。
「命拾いをしたな」
勿論これはクラウズェアの脅しで、本気のことではない。だが、執行官の言葉に身をガタガタ震えさせながら、ジャックはその場にへたり込んだ。排泄器官が備わっていたら、小便でも漏らしていたことだろう。
「習いごとが長引いちゃって……って、ジャックはどうしたの? アルテミシアも、なんだか顔色が悪いような」
「なんでもありませんよ。それよりも、お疲れ様です」
声を出せないでいる者達の代わりにクラウズェアが返事をした。
「そう」
ルクルクも、あまり気にしなかった。
「それよりも! 魔狼の噂を聞いたかしら?」
「魔狼、ですか」
心当たりの無いでもないクラウズェアは、なるたけ顔には出ないよう努めながら、問いを返した。
「そう。かつてこの妖精境で悪名を轟かせた、伝承の狼。とてつもない魔物よ。多くの民が食い殺されたと聞くわ」「そいつぁ、穏やかじゃあありやせんねぇ」
いつの間にか立ち上がっていたジャックが、ぺらぺらとしながら話に割って入る。
「ですが、所詮は言い伝えでげしょう? 真夏の怪談話にすんなら、肝の冷える話で結構ですがね」
「怪談話の手合いですめば良いんだけど、ねぇ」
このルクルクの不安は、現実のものとなった。
「魔狼討伐を命じる」
聞く者を震え上がらせる割れ鐘のような声で、バイガン将軍が下知を下した。
城の大広間は一瞬、しん、と静まり返り、
「何を言ってるのっ?」
即座にルクルク王女の反論の声が挙がった。
「あんなもの、単なる言い伝えに過ぎないわ」
「目撃者がおる」
すかさずバイガン将軍が言い放つ。
「噂話の域を出ないでしょう!」
「誰とも知れぬ馬の骨ではない。ワガハイの部下が『見た』と云っておるのだ。そうだな?」
「は、はい! その通りです!」
バイガンの側に控えていた兵士が、転ぶように膝を突きながら身を縮こまらせた。
「王女殿下は、この者が嘘を吐いていると、そう言うのか? もしこやつが虚偽の報告をしておるのならば、ワガハイは涙を呑んで首を刎ねなければならんが」
「ひえぇっ? 嘘ではありません! お助けを! 嘘ではありません!」
可哀想な兵士は、バイガンとルクルクの二人に対し、交互に頭を下げ、床に額をこすりつけた。
これには、ルクルクも言葉を収めるほかはない。だから、別の方向から抗議することにした。
「魔獣〈神速狼〉が伝承の中より蘇ったとして、どうしてその討伐をお客人達に命じるの? 彼らには全く何の関係もないばかりか、この国を救った英雄なのよっ? むしろ、治安維持を担うバイガン将軍こそ、真っ先に名乗りをあげるべきだわ」
「なんだと、このっ――」
「お待ち下さい!」
その時、声を上げた者があった。クラウズェアだ。
「恐れながら申し上げます。わたくしどもは、陛下を始め、この国の多くの皆様方より恩をかけて頂いております。将軍閣下のお取り計らいにより、〈薄紅〉という名刀も手にすることができました。このご恩、返さずにはいられません。どうかその討伐のご命令、わたくしどもにお命じ下さい」
「クラウズェアっ、アナタ、アナタがそんな風に言う必要は――」
「うむ、天晴れな心意気よ! ワシは英雄殿の気概に甚く感服した。この件は英雄達に任せるとしよう。先の天焦山の件と同じく、見事事態を収めてくれると信じておる」
「お父様っ?」
ルクルクの悲鳴を以て、魔狼討伐の話は一端、お終いとなった。
王女の私室にて。
「ごめんなさい!」
がばっと頭を下げたルクルクは、勢い余って机に額をぶつけそうになった。
「どうしてルクルクがあやまるの?」
アルテミシアが不思議そうに訊いた。
「だって、バイガン将軍の横暴を止められなかったし。お父様も賛成しちゃうし。アルテミシア達はこの国の恩人なのに。それなのに、アタシ……」
そう言ったきり口をつぐんでしまった猫妖精のお姫様は、我が身のふがいなさに目を潤ませた。元の姿であれば、耳もヒゲも尻尾も、力なく垂れてしまっていることだろう。
頼りない風に、陶器製の風鈴が、カラリコロリと儚く鳴った。
その時、白く嫋やかな手がそっと伸び、少女の頭をふわりと撫でた。
きっと、泣いている子を慰める時にはこうするだろうと――自分だったらこうして欲しいだろうなと思ったことを、アルテミシアは自然に行っていた。それは、少年が母親にして貰いたかったことに他ならない。
「だいじょうぶだよ、ルクルク。ね、そうだよね、ジャックさん?」
少年の問いかけに、
「ええ、まあそうですね。今回のことは想定の範囲内です」
あぐらをかいたジャックが、顎を撫でさすりながら答えた。
「え? それって」
「心構えはできてやしたし、そいつは、ルクルクちゃんから事前に噂話の情報提供をして貰ってたお陰でヤンス」
「そう、なの?」
赤銅色の目が一同を見回し、最後にアルテミシアを上目遣いで見た。
「うん、そう。だから、安心して。ね?」
「うん」
その言葉で、何故だかすっかり安心してしまったルクルクは、未だに頭を撫でていた少年の手を取り、甘えるように頬ずりした。
クラウズェアは驚きに目を瞠り、ジャックは「百合は良いものだ」と何度も頷いた。ちなみに、少年と少女なので百合ではないし、そもそも破廉恥影人間が期待しているようないかがわしい雰囲気は微塵もない。
「二人は、なんだか、そのぅ……仲が良いのね?」
まるで、訊いてはいけないことに触れようとしている罪悪感に似た奇妙なものを感じながら、クラウズェアはおずおずと声をかけた。
これにはアルテミシアが答えた。
「うん。ぼくたち、友達だから。ルクルクは、モリオンとも友達なんだよ。【ね?】」
【トモダチトモダチ】
クラウズェアだけが判る、微かに喜色を帯びた声色と、優しく和らぐ紅玉の煌めきが、ルクルクに向けられている。
幼なじみの少年が口にした『友達』という言葉は、赤毛の少女に大きな衝撃を与えた。そして、その衝撃の大部分は“寂しい”という気持ちであることを、クラウズェアは自覚してもいた。
だが、寂しい思い以上に、アルテミシアの――自分にとって一番“大切”な人の喜びを、自分もまた受け止めようと、固く心に誓ったのだった。
「アルテミシア」
ルクルクは、先程とは違った意味で目を潤ませている。
「アタシ、嬉しい。これからもよろしくね? モリオンも、仲良くしてね?」
「……モリオンも『よろしく』だって」
アルテミシアが微かに頬を緩ませ、ルクルクは嬉しげに笑みを零した。
「親睦が深まったところで、今後のことです」
ジャックが仕切り直すように、真面目な声を作って話題転換を図った。
「そうだったわね、ごめんなさい、アタシったら。問題が解決した訳じゃあないんですものね。それで、何か策があるのよね?」
ルクルクも、居住まいを正しながら話に応じる。
バイガン将軍が言い出した魔狼討伐の決行日は、明日なのだ。兵士が見たという、〈神速狼〉が去って行った方角である〈天焦山〉へと、アルテミシア達はまた向かわなければならない。兵の一人も連れずに、だ。これは、バイガン将軍が命じたことでもあるのだが、クラウズェアもまた、兵を借り受ける必要はないと断言したのだ。
「そういえばクラウズェアは、バイガン叔父様が討伐令を口にした時、素直に引き受けたわね? 事前に話し合っていたって、ことかしら?」
小首をかしげながら問うたルクルクに、クラウズェアは「はい」と肯定の返事をした。
「王女殿下が――」
「敬語はなしよ」
「……失礼。ルクルクが仰る……言った通りです。事前にジャックから提案があったのです。そのう……」
そこまで言ったところで、女騎士は言い辛そうに口ごもってしまう。それを、ジャックが受け継いだ。
「あの豹野郎、おっと失敬。将軍閣下が、噂話にかこつけて、ウチらに無理難題を言い出すんじゃあねぇかって、ね。そんで、もし『退治しろ』なんて言い出した時にゃあ、取り敢えず話を受けとくよう、事前に打ち合わせしといたんです」
「そうだったのね。でも、どうして? そんな無茶を聞く必要、アナタ達にはないんじゃないのかしら」
「それがそうでもねぇんですよ、はい。あっしら、剣を抜いただの、炎暑を鎮めたのと持て囃されちゃあいますがね? 所詮は異国の異種族です。歓待されるのは、手柄を立てた直後だけです。そのうち、この熱みたいなモンは冷めちまいます。そんで、そんな時に何かトラブルでも起こって、それがウチらに関係するなんて噂を立てられでもしたら、邪魔者扱いする連中だって出てくるでしょう」
「そんな事は無いわ!」
声を荒げながら机に手を突いたこの国の王女は、己の非礼にはっと気付き、浮かせた腰を敷物の上に落ち着けた。
「ごめんなさい」
「いえ、ルクルクが謝る必要はありません。ジャック、今のは言い過ぎだ。お前こそ、非礼を詫びるべきではないか?」
言い辛い部分を濁さず明確に代弁してくれたジャックに、クラウズェアは感謝の念を抱かないではなかった。が、彼女としては身内の非礼を責めなければならない立場にあったし、また、生真面目なこの女騎士の性格的に、こうして然るべきなのだ。
「おや、そうですかね? そんならば謝らないといかんですね。ごめんちゃい」
「もっと真面目にだな、」
「いいの、クラウズェア」
咎める生真面目騎士を宥め、ルクルクは続けた。
「そうね。確かに、言われてみればそうなのかしら。アナタ達はまだこの国にとって“お客人”扱い。そうなるようにアタシ自身が取り計らったものでもあるけれど、それじゃあ、まずいのかもね」
「ええ、まあ、そういうコトです。あっしらは、自分達の立場をもっと強固にするべく、更なる手柄を立てにゃあならんのです。もしくは、長い時間をかけて、この国に溶け込む必要がある。だが、その“時間”を与えてくれねぇ御方が居るモンで、ええ」
「叔父様、か」
はあ、という重い溜息が、ルクルクの口から吐き出された。
「さきほどの非礼、改めてお詫びいたしやす。この通り」
居住まいを正して、ジャックは頭を下げた。
「気にしないで。アタシ、ジャックのそういう歯に衣着せない物言い、好きよ。問題点もハッキリするし。……そういうの、周りの者達はあんまりしてくれないし」
僅かに垂れた頭が、即座に上がった。
「ま、でも、今は“みんな”が居るわ!」
赤銅の虹彩の中で瞳を広げながら、少女は高らかに言い切った。
当初の重々しい雰囲気は、どこかに消え去ってしまっていた。
「そいから、ツユクサのことも話さんといかんですねぇ」
「ツユクサ?」
このジャックの発言に、ルクルクは首をかしげた。今回の対策の話をするのではなかったのかと思ったからだ。だが、きっとこれも関係のある話なのだろうと思い直した。
「うん。ぼくたちの恩人なんだよ」
ジャックの後を継ぎ、アルテミシアが口を開く。
「そうなの? 城の者? それとも、街に住んでるのかしら」
「ううん。たぶん、〈天焦山〉に住んでるよ」
「え?」
ルクルクは耳を疑った。
「天焦山に誰かが住んでるなんて、初耳だわ。でも、あんな山に住んでるなんて、危なくないのかしら」
「たぶん、だいじょうぶだよ。とっても強そうだし」
「熟練の狩人なのかしら? それとも、山に籠もって武芸を磨いているの?」
「うーん、お仕事は分からないけれど……。あ、走るのがすごく速いよ」
「ふぅん?」
アルテミシアの話は要領を得ない。それでも、ルクルクは少しも嫌な顔をせず、熱心に聴いている。
クラウズェアは、どう話を切り出したものかと思案げに腕組みをし、ジャックは二人の会話を面白そうに聴いている。
「なによりも、毛並みがとっても綺麗なんだよ。海みたいな青い色」
「え?」
その言葉で、ルクルクの大きな目が、より大きく見開かれた。
妖精境に猫妖精は数おれど、海のように青い毛並みを持った者は、一人も居ない。犬妖精を含めても、だ。何故ならそれは、伝承の中に存在する、災厄の具現者、恐怖の絶対者にして全てを喰らい尽くす魔狼、〈神速狼〉こそが持つ特徴だからだ。
「えっと、それって……」
「シアの言う〈ツユクサ〉とは、青い毛並みを持った、熊のように大きな狼のことなのです」
「狼」
その一言が、ルクルクの口より繰り返された。
「海の持つ全ての“青”を集めて作ったような、まこと不可思議で、その……立派な狼です」
アルテミシアの手前、“恐ろしい”という言葉は呑み込み、代わりに“立派”という表現に言い換えたクラウズェアは、王女の様子を窺った。
いま世間を賑わせている神速狼は、言い伝えの中ではとても狂暴で残酷な獣だったと云われている。妖精境に住まう多くの者達が喰われたとされ、時代が下り、恐怖が伝説の中に埋もれてしまった今でも、聞き分けのない子供を脅かす決まり文句として語り継がれている。
『いたずらっ子は神速狼に喰われるぞ』『早く寝ないと、神速狼が来ますよ』と。
その、伝承の狼が、“海の様な青い姿”であると、語り継がれているのだ。
だから、クラウズェアは気が気でなかった。猫妖精の姫は、ツユクサのことを――ツユクサを友達であるかのように語る少年のことを、この新しい友人はどう思うだろうかと。ただ、それが心配だった。
当のルクルクはと言えば、天井を見上げたり、かと思えば床をにらんだり、またはアルテミシアの顔をじっと見つめたりと、瞳孔を細めたり丸めたりしながらせわしなかったが、
やがて、
「アルテミシアは、その〈ツユクサ〉という狼が好きなの?」
赤眼をじっと見つめながら、そう、問いかけた。
「ツユクサのこと? うん、好きだよ」
何の飾り気もない、偽りを感じさせない素直な返答をよこしたアルテミシアに、ルクルクは、何故だか腹が立った。
「ふぅん、そう」
「うん」
「あっしは?」
「わかったわ」
「うん」
「ねぇ、あっしは?」
「それなら、アタシの頭をさっきみたいに撫でて頂戴」
「うん? うん」
言われた通り、白く華奢な手が、焦げ茶の髪を撫で始める。
白い手の心地良さに目を細めながら、ルクルクは己の胸中に湧き上がる様々な思いを鎮めたのだった。
「まあ、良いでしょう」
「ねえねえ、あっしは?」
「お前はさっきからやかましい!」




