五章④『静かな夜の、静かな決意』
短いです。
昼間よりも幾分か涼しくなった夜気に包まれる頃。
静かな虫たちの音色と、微かな寝息の音に混じり、頁をめくる音が、不定期に小さく鳴っていた。
ここはアルテミシアに宛がわれた部屋で、今は、日課となった夕食後の読書の時間だ。
練丹洞から持ち帰った手記は多く、日中に行われる診療や鍛錬の終わった夜に読み進められている。読むのはジャックの役目だが、その際、頁のめくり手としてアルテミシアが協力している。未知の知識に興味のある少年は、説明を受けてもほとんど理解できないにしろ、この時間をいつも楽しみにしているのだ。
だが、その好奇心旺盛な王子様も、昼の疲れが出たのか、今は居眠りをこいでいる。
こくり、こくり。
頭がゆらゆら揺れる度、膝上にたれた黒髪も揺れる。首から下はジャックが〈かかりみ〉しているので、椅子から転げ落ちる心配はない。
「〈晶果〉に、それと〈影の英雄〉、ねぇ」
不機嫌そうに独り言ちたジャックは、読み進めた手記の内容に考えを巡らせた。
――練丹洞の方士曰く。
“根元の気から生まれた水晶樹には、無量無数の実がなっており、その実を〈晶果〉と呼ぶ。一つの晶果は一つの世界であり、一つの宇宙を内包している。我々の居る〈この世界〉もまた、晶果の一つである。そして、この晶果は、他の複数の晶果と重なり合うという、特異な状態にある”と。
これは、世界の構造の話であり、多元宇宙の示唆であった。
また、方士曰く。
“天に在る金陽は、虚空に空いた穴であり、ここより他の晶果とを繋ぐ道である。その道を介し、〈宝具〉と呼ばれる器を用い、過去、幾人か呼ばれた者達が居る。彼ら〈影の英雄〉達によって、部分的に文明が進歩した。異界の知識で身を立てた者あり、また、身を滅ぼす者もあり”
ジャックには不思議に思えてならない事柄がいくつかあった。それは、鉄と鋼、大剣と細剣、ガラス、服飾技術などのちぐはぐさ、である。
この晶果は、ジャックが元居た晶果との類似点が驚くほど多い。そして、歴史に造詣が深いとは言えないジャックから見ても、〈鋼〉が誕生するには少し早いのだ。にもかかわらず、クラウズェアのレイピアのように、鋼を鍛えた武具が存在する。
そもそもレイピアは、〈銃〉の誕生によって生まれた武器だ。金属をも貫通する銃弾の前では、金属鎧を着る意味が無いばかりか、その重さは機動力を削ぎ、銃の的になるだけだ。よって、頑丈な鎧で攻撃を防ぐのではなく、動き回って避けることの方が重要視されることとなる。みな軽装だからこそ、重さよりも軽さを、鈍器のように殴るのではなく、鋭く突き込む刃を持った剣が誕生したのだ。
硝子然り。服然り。文明にそぐわない、突出した技術。
そこにきて、太古に存在した巨大国家の誕生と発展に、深く関与する者達の存在が示唆されているのだ。
影の英雄。
異界の技術をもたらした者。
豊かさと発展をもたらした者。
それから、文明に歪みを与えた者。
彼らによって生み出された最たるものは、〈魔物〉と呼ばれる生物兵器である。
成功失敗織り交ぜて、種々様々な生物が生み出された。だが、突如暴走を起こした魔物の集団によって、陸の大部分を統治していた古代王国は、三日と持たずに滅び去った。
そして――
「“異界の知識を漏らせば、この世から消え去ることになる”か」
ジャックには、常につきまとう不安があった。強迫観念と呼ぶほどの強いものではない。だが、こちらの世界に来てからというもの、ある特定の事柄へ感じる忌避の念。
それは、
『己の素性および知識を、みだりに口にしてはならない』
というものだった。
手記によれば、素性や知識――彼らの晶果の知を漏らした者達はことごとく、跡形もなく消え去ったと記されている。
「だが、あっしは生きている」
名を明かすことや身の上話を渋っていたのは、どうにも付きまとう話しがたさがあったからだ。ただ、呼ばれた者達が皆一様に感じる、恐怖症にまで達するという『話してはならない』という絶対的な恐怖は感じない。そして、今のところ死ぬでも消え去るでもなく、こうしてジャックはここに居る。
並の者であれば、ここで深く思い悩み、考えや行動を改めたかもしれない。だが、ジャックは違った。
「ま、いっか」
あっけらかんと呟くと、〈かかりみ〉している呪われた王子様の黒髪を、影の手でそっと撫でた。
「あっしにできる全てを使って、お嬢ちゃんをお守りしやすよ」
静かな夜に、大切な決意が小さく呟かれた。




