五章③『武術』
城の中庭の一角に庭園がある。
東屋や噴水が設えられ、よく手入れされた花々が咲き、景観をさえぎらないよう配慮された木が植えられている。その中でも、一番大きな木が作り出す陰で、講習会が行われていた。
ちなみに、二人は伝統的医療従事者装束から着替えている。
「姐さん、踵を浮かしてやしたね?」
「うっ」
開口一番のジャックの言葉に、図星を指されたクラウズェアが思わず呻く。
「それじゃあダメだって教えたでげしょう?」
この言葉に、疑問を持ったルクルクが反射的に反論した。
「でも、踵を浮かせた方が速く走れるし、素早く動けるわ」
「確かにそうなんですがね? それじゃあ居ついちまいます」
「居つく? って、なに?」
「居つくってぇのは、動きが止まってしまった状態のことです。まあ、正確に言やぁ、咄嗟に動けない状態のことですかね。ですから、いっけん間断なく動いているように見えても、止まってしまった瞬間、動けない瞬間ってのがあって、そいつを居つくって言うんです。だもんで、じっと動いてなくても、臨機応変に咄嗟に動けるんなら、そいつは居ついてないってこってす。ええ」
「ふぅん?」
説明されたことの意味は解るが、納得はできない。そんな心情がありありと浮かぶ顔で、ルクルクは曖昧な返事をした。その表情を読み取り、ジャックが笑って言う。
「じゃ、一つやってみましょうか。シア嬢ちゃん、取り憑いても良いですかい?」
「うん、いいよ」
「取り憑くって……。その言葉はなんとかならんものか?」
クラウズェアが苦笑いしながら突っ込みをいれる。
「え? ダメ? じゃあ……素敵滅法相思相愛陰陽転化恋愛成就二身合体ゴッデス――」
「長すぎる!」
苛烈なダメ出しが下された。
「えぇ~? じゃあ、適当に〈かかりみ〉とでも名付けやしょうか。ってコトで、〈かかりみ〉しまーすぜぇ~」
「うん、わかった」
気の抜けきった声とともに、ジャックがアルテミシアの身に懸かる。少年の体が、影にずるりと覆われた。
「さて。そいじゃあ、再現すんのが手っ取り早いですかね。姫様、通せんぼしやすから、あっしらを抜いて向こうに行って下さい」
「いいけど、姫様って呼ばないで」
「んじゃあ、ルクルクちゃんで」
「ええ、いいわよ」
ルクルクはにっこり笑った。
「一国の王女をちゃん付け……」
クラウズェアが衝撃を受けているが、事態は進む。
「いくわよ?」
たたっと身軽な足運びで駆け出したルクルクは、身構えるでもなく自然体に立ったジャック=アルテミシアに迫った。そして、軽やかに地を蹴り、左に跳ぶ。
すると、それに応じて二人も動いた。初動を感じさせない、不思議な動き。前後、左右、上下どの方向へも揺れることの無い動き。端で見ていたクラウズェアは、美しい動きとも、気持ちの悪い動きとも、相反しそうな二つの所感を持った。
これは、脳がうまく認識していないが為に起こるものだ。
“人とはこう動くもの”という常識から外れた動きを見た時、人の脳は、己の蓄えた知識や経験と、見ている現象とのズレをうまく処理できず、結果、“気持ちが悪い”という反応が生じる。
それはさておき。
進行方向をさえぎられたルクルクは、ひったくりと同じく咄嗟に逆へ方向転換する。足首、膝、股関節を折り、身を沈め、つま先で地面を蹴りながら曲げた足をピーンと伸ばす。その、しなやかな足が生み出す瞬発力が、逆方向への機敏な動きをもたらした。
一方、ジャック=アルテミシアも動いた。
すとんと右足を地に落とす。地面を踏むことによって生まれた上方向への反発力を、体内で横方向へ転化させる。それがそのまま、左方向への前進エネルギーとなる。
また、左足の力を抜くことで、突っ支い棒を失った物が倒れるように、体が左へ傾く。その、倒れる力も左へ動く力になる。
右足と身の中心を軸にして、ブレることなく綺麗に回った体を左へ向け、そのまま進む。
この工程を、同時に、一瞬で行い、ルクルクに遅れず着いていく。
この動きを目の当たりにしたルクルクは、これ以上は何をやっても無駄だと、早々に諦めた。
「待って!」
その声に、影をまとった身が止まる。
「元の姿でやらせて」
「ええ、構いやせんよ」
ジャックが答えた。
皆が見守る中、王女は《変化の術》を解いた。
一四五㎝の背丈がどんどん縮み、一mになる。それにつれて、全身に獣毛が生える。ヒゲと尻尾が生え、耳は大きくなり、足の指は五本から四本へと変わる。
そうして、焦げ茶の毛色をした猫妖精が、そこには居た。
身を屈め、四つ足を地に着ける。立てた尻尾をブンブンと左右に振り、やる気満々だ。
「さあ、もう一度よ!」
背は縮んだ。体重も減り身は軽くなった。だが、筋力は衰えずむしろ身体能力は向上している。
人を越えた獣が、地を蹴った。
捷い。ひったくりよりほんの少し劣るが、それでも人間の速度を超越している。
地を駆けた獣が、ジャック=アルテミシアの眼前で直角に曲がる。人間には無い四つの肢、その全てに備わるザラついた肉球と地に食い込む鋭い爪が高い摩擦を生む。屈められた足が急激に伸び、その身を打ち出す。放たれた矢のように。
だが、二人は追い付いた。先程と同じように、行く手を塞ぐ。
それで、王女は本当に諦めた。
「降参よ」
はぁっと息を吐きながら、駆けるのを止めた。
「それは、共鳴術ではないのね?」
「違いやす。あっしは共鳴術なんてこれっぽっちも使えやせん。こいつぁ武術です」
「武術……」
「説明して欲しい。わたしの知っている武術とは、あまりにも違いすぎる。いったい、何をしているのかを。いや、やることは教わったのだが」
ここしばらく、言われるがままに鍛錬してきたクラウズェアだったが、それがどういう意味を持つのかまでは説明を受けていなかった。
「説明しやしょう。ってぇことで、木陰へ」
声に促され、皆は夏の強い日差しが作る濃い影へと戻った。
「あっしの知る限り、陸の動物の歩き方にゃあ、三種類ありやす。蹠行、趾行、蹄行の三つです」
いきなり飛び出した未知の単語に、皆が戸惑う。
「まあまあ。とりあえず最後まで聞いて下せぇ」
〈かかりみ〉を解いたジャックが、黒い両の掌を三人に向け、押しとどめる身振りをした。そして、右手の人差し指だけを立てる。
「一つ目。蹠行ってぇのは、足の裏全体を地面にべったり着けて歩くことで、そういった動物のことを蹠行性動物って言いやす。猿や熊なんかがそうですし、人間もそうです。こいつは、すこぶる安定性の良い立ち方で、足場の悪いとこでも転びにくいですし、木に登るのも適してやすね」
それから、中指を立てた。
「二つ目。趾行ですが、これは踵を浮かして指だけで歩きやす。猫妖精の皆さん方や犬妖精の隊員さん方は、こいつに当てはまりやす。蹠行よりゃあ不安定になりやすが、速く走れやすね」
そして、薬指も立てた。
「三つ目。蹄行です。こいつぁ踵も指もなんもかんも浮かせて、足の爪――いわゆる蹄だけで歩きやす。蹄行性動物の代表は馬ですね。こいつらはとにかく速く走るのに適した足をしてやすね。ただ、ずっと爪先立ちをしてるんで、体の支えが不安定です」
講師はいったん言葉を切り、赤毛の生徒を見た。
「ってことで、クラウズェア姐さんのフットワークは趾行に当たりやす訳ですが」
「ローズは凄く速くて、格好良いよ?」
「シ、シアっ」
責められている訳ではないのだが、少し俯きがちになっている幼なじみを見て、アルテミシアは疑問の声をあげた。その言葉で、赤毛の少女は羞恥で頬を染めてしまう。照れ臭かったのだ。
そして、嫉妬に狂った影人間が吠えた。
「んまぁっ? シア嬢ちゃんったら、姐さんの肩を持って、悔しい!」
雄々しくも猛々しいブリッジが、木陰に建設された。
「早く続きを説明してよ」
先を促す猫妖精の少女は、どことなく不機嫌そう。
「あぁ、はいはい」
言われた講師は、咳払いを一つ。そして、話を進める。
「そんかわり、居つく瞬間が生まれやす。そして、姿勢が不安定で転びやすい」
タイタスとの戦いにおいて、草に足を滑らせて転んだことを、クラウズェアは思い出した。あの時はたまたま事態が良い方向に転がったが、次は無いだろう。
「ルクルクも踵を上げてるんでしょう? 良くないの?」
知らないことへの探究心を抑えられず、また、教えてくれる先生の存在に、王子様は無邪気に質問を繰り返す。
「ルクルクちゃん達は、両手両足ぜぇんぶを使えやすからね。人間の二倍です。安定性も二倍。更に、ザラザラした肉球や鋭い爪もありやすし、そもそも俊敏さが桁違いです。人間が真似しても敵いやせんぜ」
「そんなアタシに追い付いたわ」
得意げに説明をするジャック先生に、今度は猫妖精の王女が質問した。
そして、その問いには、こう、答えがあった。
「それが、武術です」
一同、しん、と静まる。
「調子に乗って、偉そうな口を利きやしたね。すんません」
口が過ぎたと、己を恥じて黒い頭を下げた影人間に、
「いや、続けて欲しい」
とても真剣な、どこか挑むような色さえうかがえる緑の目が、言葉と共にジャックへと向けられた。
それを受けて、黒い講師は背筋を伸ばす。
「では、お言葉に甘えて」
また、咳払いを一つ。
「それと、姐さんの動きは直線的すぎやす」
この言葉には、ピンとこないアルテミシアとルクルクの二人。
だが、クラウズェアには思い当たる所があった。ミッドノール子爵タイタス・ゴードンとの戦いで、向かい来る剛剣の前に防戦一方に追い詰められた。その時、ただ後ろに下がるしかなかった自分。
自分より遅い者が相手なら、距離を離して仕切り直すことができる。または、ジグザグに下がって逃げることができるだろう。フィデリオから習った剣術は敵を圧倒する速度を生み出せたし、彼女にはその速さがあった。
だが、自分に匹敵するほどの速度で追い付いて来る相手には、直線的な回避は難しく、更に力で上回られれば押し切られる。ましてや、速度さえも負けてしまえば……。
それを、あの戦いで実感したのだ、彼女は。
(剣を振る速さのみならず、あの男は身のこなしの全てが速かった)
光の剣の柄頭に埋め込まれた黄色い〈彩化晶〉の輝きが、クラウズェアの脳裏から離れない。
いつの間にか強く握り込まれた拳。その手に、そっと触れる者があった。
「シア?」
クラウズェアより頭一つ分以上も背の低い男の子が、白い手をそっと伸ばし、赤い目で見上げている。少年は、何か言うでもなく、硬い拳をそっと撫でた。まるで、大丈夫とでも言うように。
赤毛の少女は、解きほぐされた心のまま、頬を緩ませた。
猫妖精の姫は、そんな二人をじっと見ている。
ぅおっほん、と、ジャックがわざとらしく咳をした。
「まったくもって羨ましい! ではなく。直線の動きしかねぇと、どうやっても動きが単調になりやすく、敵に動きを読まれます。また、自分以上に速い相手には、為す術が無くなりやす。そこで重要になってくるのが――」
「円の動き、だったな」
クラウズェアが後を継いだ。
「そうです。円運動であり、円の軌道を描いて動くこと。これを習得しましょう」
「円軌道歩法、か」
クラウズェアは現在、ジャックの指導の下、この円軌道歩法を練習している。およそ八歩で一周できる円周上を、決められた姿勢で歩いて回るというものだ。
“回る”という行為は、直線を歩くことに比べ、意外と難しい。それでも、大きな円を描いて回ることはさほどでもないが、小さな円を描いて回る、これがなかなか上手くいかないものだ。慣れない内はぎこちない。
クラウズェアもそうだった。
それを、足を上げる際も着地の際も、常に足の裏――親指の付け根、小指の付け根、踵の三点――を同時に上げ下げしなければならない。その上、姿勢は真っ直ぐに保ち、体が上下、左右、前後のいずれにも揺れてはならないのだから、これはなかなかに骨が折れる。
「踵を浮かさないこと。地面を蹴らないこと。そして円軌道。こいつをモノにすれば、姐さんはもっと“早く”動けるようになりやす。天地神明に誓って、ね」
これは、単純な速度の上昇の話ではない。体の使い方の話であり、速さの質の話であり、早さの話だ。
「早く」
噛みしめるように、クラウズェアは呟いた。
その時、固くなった空気を壊すかのように、弾んだ少女の声が上がった。
「ところで、ジャックの武術はなんていう名前なの? 流派名とかあるんでしょう? ジャックの国ではさぞや高名な流派なんでしょうね。それとも、門外不出の秘伝で、誰も知らないのかしら?」
猫妖精の姫君は、好奇心の塊になったみたいに、ワクワクを抑えられない。開いた瞳孔がきらきら輝き、のっぺらぼうを映している。
「流派名ですかい? えーと……一子相伝究極無敵天地開闢台風警報夫婦円満露天は混浴――」
「それはもういい! と言うか、台風警報からおかしいだろうっ? 嘘を吐くならもう少しまともなものにしろ!」
でたらめな言葉にたまりかねた真面目騎士は、師匠であるはずの影人間を一喝した。
「えぇ~? だってぇ。流派名とか言われてもなー」
「わかった、もういい」
そういえばこういう奴だったと、もう何も言う気力の失せたクラウズェアは、重い溜息を吐き出して、肩を落とす。
だらけきった空気が辺りに漂い、もはや練習する空気ではない。
ぽんと肉球を打ち鳴らしたルクルクが、皆の注目を集め、こう言った。
「ちょっと一息入れない? 喉が渇いちゃったわ」
「そうですね。それがいいでしょう」
クラウズェアも同意する。
ポケットから銀製の呼び鈴を取り出した姫君は、それを二度、三度と振った。
陶器の鈴とはまた違う、澄んだ高音が奏でられる。
風に運ばれた静音を聞きつけた侍女達によって、東屋に茶席が設けられ、午後のティータイムとなった。
間もなく、ハーブティーと焼き菓子の甘い香りが辺りに漂い始めたのだった。




