四章⑲『アタシ、人間になっちゃった!?』
深夜の茶会の翌日。
ここは、アルテミシアに宛がわれた客室。朝方の涼しい風が窓から流れ込む部屋で、クラウズェアが日課の髪梳きを行い、アルテミシアは夜更かしと梳る心地よさにうとうとしている。
ジャックは床に寝っ転がってあくびをし、三人の周囲をモリオンが回っている。空中をすいよすいよと飛び回ったり、床の上をごろんごろんと転がったり。
この部屋の者達にとっては長閑な風景だが、部外者が見れば不気味以外のなにものでもないだろう。クラウズェアも、随分と成長したものである。……いや、この場合、適応と言うべきか。それとも、麻痺と言った方が正しいのか。
クラウズェア自身はとっくに赤毛を梳いて三つ編みにしている。彼女が白い髪に黄楊の櫛を入れていると、扉を叩く者があった。
「お早う、アルテミシア。アタシ、ルクルクだけど起きてる?」
と、続いた。
その音にアルテミシアは違和感を覚えたが頭が上手く働いてくれない。
クラウズェアは王女を待たせてはいけないと素早く動き、扉を開けた。
「お早う御座います。ルク――」
そこまで言って、言葉が止まった。何故なら、クラウズェアの眼前には猫妖精の王女ではなく、可愛らしい人間の少女が立っていたからだ。
背はアルテミシアより拳一つ分くらい低く、クラウズェアと比べれば胸の辺りまでしかない。丸みを帯びた幼い顔立ちを、肩を越すくらいのダークブラウンの髪が縁取り、カッパー色の大きな目は、猫を思わせる。褐色の肌を青い膝上丈の短衣に包み、覗く手足はしなやかだ。
「お早う、クラウズェア」
ルクルクと名乗った少女が挨拶した。
「……え?」
挨拶された女騎士は、思考が追い付かない。ルクルクだと思って扉を開ければ、見知らぬ少女が居た。それも奇妙なことだが、猫妖精達が住まう妖精境に、人間が居るのだ。クラウズェアとアルテミシア以外の、初めての人間。
一方、少女は返答のないクラウズェアを不思議そうに見上げた後、その脇からひょいと顔を出し、室内を覗き込んだ。そして、目当ての相手を見付けると、
「お早う、アルテミシア。アタシ、人間になっちゃった」
屈託なく笑って見せたのであった。
やり取りに耳を傾けていたアルテミシアは、その挨拶に焦点を結ばない真っ直ぐな目を向け、
「おはよう、ルクルク。背が伸びたんだね? そうか、声の聞こえる高さが違ったから、不思議だったんだね」
そう言って、問題にすべき所以外の部分で納得をしたのであった。
「へぇ? 人間に、ねぇ」
ジャックが興味深そうに言った。声を発した本人は、アルテミシアの足下に寝っ転がったままの姿勢だ。だがもはや、誰も気にしない。
人間の三人は椅子に座っている。クラウズェアとしては、ルクルクの手前、椅子に座らず立って控えているべきかと思ったが、王女の気持ちをくんでやめた。
モリオンはアルテミシアの中に戻っている。ルクルクは当初、ごろごろ転げ回るモリオンを見てさすがに驚きで身を硬くしたが、すぐに笑顔で『お早う、モリオン』と挨拶をした。まだまだぎこちなかったが。
モリオンもちかちかと瞬いて応え、嬉しそうにぽんぽん弾んで、アルテミシアの中へと消えたのだった。
「ええ、そうなの。不思議なこともあるものだわ」
傾いだ首の動きに合わせ、褐色の肩をそれより濃い茶の髪が撫でる。
グリーンウェルのどの女性よりも短い髪だったが、決して少女の魅力を損なってはいなかった。むしろ、活発な気質のルクルクにはよく似合う。
「アタシ達銅の目族は大人になると《変化の術》が使えるようになるのね」
「変化?」
アルテミシアがオウム返しに問う。
「そう。普通は強い姿になる。バイガン将軍みたいな」
「ああ、あの豹。変身してんのか」
「将軍は変化の術が得意なの。それで、アタシもそういう変化をすると思っていたんだけどね。しかも、まだ術を覚えるには歳が足らないはずなのに」
そう言って笑う少女はアルテミシアと大差ない年齢に見えた。そして猫妖精の名残として、窓から差し込む朝日に、立てた麦粒みたいに瞳孔が狭まっている。
「それは……」
何か言葉をかけるべきか迷ったクラウズェアだったが、適切な表現が見つからない。変化の術とやらを使えるようになったことは、一人前の証として祝福すべきことなのかもしれない。だが、その内容が問題だった。ルクルクの一族からして、人間への変化は、喜ばしいことなのか、それとも。
「最初は戸惑ったわ」
クラウズェアの逡巡を読み取ったルクルクが言った。
「けど、いいのよ。嬉しいの。アルテミシア達と同じ姿になれることが、アタシには嬉しい」
屈託のない笑顔が、アルテミシアに向けられる。
「そうなんだ」
アルテミシアも、微かに笑った。
その、親密そうな二人の雰囲気に、クラウズェアは少年に友人ができたことを喜ぶと共に一抹の寂しさを覚え、ジャックは嫉妬に駆られてブリッジをした。昨晩よりも激しく、猛々(だけ)しく。
「そうだったわ、忘れてた。朝食の準備がすんだことを、皆に知らせに来たんだったわ」
王女の声で、朝の報告会はお開きになった。
『スイカ割りをしやしょう』
このジャックの言葉を受け、がぜん張り切りだしたルクルクを交え、城の中庭でスイカ割りが始まった。スイカは、練丹洞からいくつか持ってきていたので、そのうちの一つを使った。
「右だよ、ルクルク」
「右?」
「もう少し左、でしょうか」
「こう?」
「ジャンプ! そこでジャンプ!」
「え、ジャンプ?」
ジャックの声に従いジャンプすると、青いスカートがひらりとひるがえり、健康的な太股が陽光に晒された。
「そうそう、あとは真っ直ぐだよ」
「あと十歩ほどの所ですよ」
「キック! できるだけ大きく足を振り上げて!」
「キック!」
弧を描く足の動きに釣られ下着が見えそうになるが、ジャックの位置からは見えそうで見えない。
「あぁっ、場所が悪ぃ! シア嬢ちゃん、もっと正面に回り込みましょう! 早く早く!」
「やめんか!」
無垢な少年をそそのかす邪悪な影に、正義の剣が突きつけられた。切っ先からは、蛇の舌のように炎がちろちろと漏れ出している。
「すんません。調子に乗りました」
すかさずジャックは土下座した。
そうこうするうちに、
「えい!」
気合一閃。棒が振り下ろされ、スイカに叩き込まれた。真ん中からきれいに割ることはできなかったが、左半分を砕いている。それを、目隠しを外して確認したルクルクは、嬉しそうに笑った。
「む」
そして、割るのに何度かの挑戦を繰り返していたクラウズェアは、アルテミシアの時と同じように自尊心に傷を負い、唇を引き結んでいる。
「姐さんは右手の力が強すぎるんです。だから、目隠しをすると真っ直ぐに振り下ろせない。まずはその、右手の力みを捨てましょう」
「力みを捨てる、か。解った」
赤毛の騎士は、その言葉を胸に刻み込んだ。
「冷えているうちに食べましょうよ?」
ルクルクの言葉に誘われ、木陰でスイカを食べる事になった。もうその頃には、クラウズェアの表情も食べる喜びに緩んでいた。
「モリオンは、スイカは食べないの?」
「うん、ぼくが食べると、モリオンも一緒に食べてるみたいだよ」
ルクルクに返事をしながら、黒髪を束ねる赤いリボンの片方をほどき、三つ編みの解けた赤毛を纏めてやる。
「ありがとう、シア」
「姐さん、お願いしやす」
「力みを捨てる、力みを捨てる」
包丁片手のクラウズェアがぶつぶつ言いながら、欠けた大玉に刃を入れていく。
皆の視線が、赤い実へと注がれた。
その、楽しげな団らんの光景を、ナデファタ王と宰相スルトンが城の窓から眺めていた。
「楽しそうで何より。あの子には年の近い友人が居なかったのが気にかかっていたのだ。良い友人を得たものだ」
「まこと、そうでございますね」
頬を緩ませる猫妖精の王に、忠実な家臣は頷いた。
今朝早く、血相を変えたルクルクがナデファタの寝室へ駆け込んできた時、さすがの国王も驚いた。《変化の術》で人間になる者など、彼の知る限りでは居なかったからだ。
知恵者のスルトンを呼び、二人の前で事情を説明させると、宰相はこう言った。
『恐らく、アルテミシア殿の血をお舐めになったことが原因かと』
〈月の賜り物〉を体に濃く宿す者が産まれることがある。魔物や妖精に比較的多く、まれに人間にもいる。そういう者達は、生まれつき不思議な力を持っていたり、体が強かったり、〈彩化晶〉の使い方が上手かったりする。
そして、アルテミシアがそうなのではないか、とスルトンは推測したのだ。
『あの方は、銀月の賜り物を血に濃く持っておいでなのでしょう。山鬼と意思の疎通をなさったと聞きますし、ジャック殿達魔物を従えていることなど、それで説明がつくかと。力ある物を体に取り入れたことにより、王女殿下の変化の術は早く目覚めたのでしょう。人間のお姿になられたのも、血の提供者であるアルテミシア殿の姿に似たからではないでしょうか? このように愚考します』
続けて、血を飲んだ直後なのでしばらくは変化が続くだろうが、そのうち自然と元に戻るだろう。そうすれば、任意に変化と解除もできるようになるだろう、と述べられた。
この言葉を聞いて、それまで不安そうにしていたルクルクだったが、一転、安堵の表情を浮かべた。そして『アルテミシアにも見せてくる』と言って、部屋を飛び出して行ったのだった。
娘達の楽しそうに笑う声が風に運ばれここまで届き、心労で摩耗したナデファタの心を慰めた。
その横顔をじっと見つめていたスルトンだったが、胸の内の言葉を形にするべきだと決め、口を開いた。
「陛下、華燭の典をお挙げなさいませ」
「どうしたのだ? 藪から棒に」
ナデファタは驚いた。華燭の典とは結婚式のことだ。スルトンはナデファタに結婚しろと進言したのだ。驚かない訳がない。
「ワシが亡くした妻を今でも好いておることは、お前も知っているはず。跡取りがおらんなら話は別だが、ルクルクは元気に育っておるではないか。男児ではないが、それも婿養子を取るだけのこと。何より、この老骨に誰が嫁いでくれるというのだ?」
この、もっともな言葉に、
「はっ、恐れながら申し上げます。この国の未来のため、です」
「国の未来?」
スルトンは傅きながら述べ、ナデファタは先を促した。
「はい。ご令弟様のことです」
「バイガンか」
ナデファタは、思わず溜息を吐いた。ヒゲが項垂れ、一気に老け込んだ感がある。
「はい。将軍閣下のことです。閣下は野心がおありの方です。それは武を担う者として覇気ありと見ることもできますが、少々行き過ぎの嫌いもあります。あの過激さは、時代によっては必要となることもあるでしょうが、今は太平の世。ここ妖精境には劇薬となりかねません。劇薬は、毒と同義です。健やかな者が毒を飲めば、それは――」
「自ら進んで病を得るのと同じだな」
「はっ」
ナデファタが継いだ言葉に、スルトンが畏まる。
「方法は、二つに一つ。解毒するか、はたまた、毒に負けぬ強い身となるか、です」
解毒とはこの場合、バイガン将軍を妖精境から追放するか、もしくは処刑するか、ということになる。だが、ナデファタにとってバイガンは血を分けた可愛い弟なのだ、あれでも。
つまり。
「強くなるしかありません。陛下のご権勢を増し、将軍閣下を押さえつけ、国内の安定を図るための婚儀です。外の血、しかも英雄の血を入れたとなれば、必ずや王家の血統に良き変化があることと。陛下と、殿下のお二人に、あの者達はおあつらえ向きです」
スルトンは覚悟をしていた。分をわきまえない発言だ。首をはねられても仕方がない。だからこれは、忠義からの進言だった。
「ううむ……しかし」
ナデファタ王は迷った。スルトン宰相の言い分は解る。また、忠義を尽くすが故の発言であることも、痛いほど判った。
だが、相手は娘の命の恩人であり、剣を抜いた英雄であり、炎暑を和らげた救国の士である。その相手に、人身御供のような役を強要するというのは、あまりにも横暴だと思ったのだ。
ナデファタは、心根の優しい王であった。
「ご決断を。お国の大事、臣民の安寧のためです」
国王の迷いを察した宰相は、一段と声に力を込めて迫った。否と言われれば、切り落とした己の首を部下に献上させてでも、諾意を得るつもりであった。
「……わかった」
肌に伝わる、烈士たらんとの命がけに感じ入り、ナデファタ王は頷いた。
「では、星の司に良き日を占わせましょう」
子供達の知らない間に、大人達は動き出した。




