一章②『陽の儀と、常葉の森』
ほんの少しでも読みやすくなればと思い、一章の分割と、多少の書き直しを行いました。このような小手先のテクニックに走らず、地力を上げるべきなのですが……。
未熟な腕は、コツコツ書き進めることで磨いていきたいと思います。
贅が尽くされた広い部屋に、二人の男女がいた。
一人は、神殿の巫女達が着るような緑の祭祀用長衣を着た、三十歳代後半の、美しい女だ。
他の巫女達に比べると、ローブの装飾が多く、樫の葉を模した金細工の環状額飾りを、負けず劣らず美しい至上の金髪の上から冠している。目を彩るのは、明るく鮮やかな黄色。
もう一人は、様々な色合いの布と宝石で派手に着飾った、肥満体型の四十歳代の男である。
砂色茶色混じりの金髪を背中まで伸ばしているが、癖が強く髪質が硬いので、油で固めている。こちらの目は、青みのある灰色だ。
女は、この国で〈常葉の乙女〉と呼ばれる巫女達の長、神事を司り、王権の片翼を担う女王、ベラだった。
一方、男は、有力諸侯の中でもとりわけ力のある大貴族、侯爵のオズワルド・オズボーンである。
「地鎮の儀は、予定通り今日でよろしかったですかな?」
彼の言う地鎮の儀とは、正式名称が〈赤陽地鎮の儀〉というものである。
この国では、太陽に関する祭祀を〈陽の儀〉と呼んでおり、その中でも特に重要な二つが、〈赤陽地鎮の儀〉と〈金陽天恵の儀〉だ。
〈金陽天恵の儀〉は吉事を招くためのもの。〈赤陽地鎮の儀〉は凶事を祓うためのものだと云われている。
たるんだ首の肉をふるわせながら、体に見合わぬ甲高い声で、オズワルドは念押しするように問うた。テーブルの赤ワインを一口あおる。
「ええ。これから向かいます」
窓辺に立ったベラは、振り向くことなく、希少なガラス越しに外を見ている。
「それは何よりですな。天恵の儀は既に行いました。もう直ぐにでも、恩恵が現れるでしょう。地鎮の儀の方は、すでにこちらから指示は出してありますからな。女王陛下は、足をお運びになられるだけで結構ですぞ」
なんと不遜なことに、オズワルドは臣下の身でありながら起立することもましてや跪く事もせず、女王に対して声をかけたのだ。不敬罪で手打ちにされてもおかしくはない事だった。
だが、女王は咎め立てすることはなかった。
ベラは、彼女が祈るべき天でも常葉の森でもなく、神殿がひっそりと建つ方角を、ただ表情もなく見ていた。
「外へ出ます」
ただそれだけ。
温かみのかけらもない、そっけない言葉だったが、アルテミシアにはとても懐かしく、胸の奥底をふるわせる声であることには変わりなかった。
しばらくぶりの――少なくとも今年初めて聞いた、実の母親の声だった。
昨日知らせを聞いた時、うっすらと考えないではなかったが、まさか今日、母に会えるとは思わなかった。それは、望んではいけないことだったから。
盲目の王子は、滅多なことでは使う機会のない杖を手に取ると、大理石の廊下を行く母の足音――皮と綺麗な布でできた靴の音を頼りに、後に従った。
共の者は、誰もいない。
コツコツと、母の足音。
カツカツと、子の杖の音。目の代わりに、杖で道を探る。
コツ、コツ、コツ。
カツ、カツ、カツ。
誰が付き添う事もなく、誰が見送る事もなく、人払いのされた広い廊下を、二人は歩く。
しばらくすると、外に出た。
「あぁ」
アルテミシアの口から、感嘆とも溜息ともつかぬ幽かな声が漏れた。彼が全身で風を受けたのは、実に数年ぶりの事だった。目が見えていれば、その明るさにも驚いた事だったろう。滅多にあの部屋から出ることはかなわず、外へとつながるのは、格子のはまった窓ひとつだ。
少年は、幽閉されていたのだから。
草の生えた土の地面の柔らかさにも驚きながら、その軟らかさに足を取られないよう気をつけ、母が地を踏む足音について行く。
「船に乗りなさい」
ベラの言葉の後に、木を踏む足音が少年の耳に届いた。
その足音がした方、水の匂いのする方に、慎重に歩み寄る。
杖が、船縁を探り当てた。
これまでよりもいや増して、慎重に、おそるおそる歩を進める盲目の少年。先に乗り込んだベラも、最初から船に乗っていた兵士も、誰も、手を貸さない。
兵士に到っては、アルテミシアに目を向けようともしない。その顔に浮かぶのは、驚愕と、嫌悪と、恐怖。
「出しなさい」
水に落ちることなく乗り込んだアルテミシアを一瞥すると、女王が命じた。あまり船をこぐ事に慣れていない兵士の櫂さばきに、バランスを崩してたたらを踏むアルテミシアだったが、なんとかこらえた。
ゆらゆらと、船が進む。
水上を冷たい風が渡り、親子の長い髪を揺らしていく。
ベラは、話さない。
アルテミシアは、話せない。
水をかく櫂の音だけが、音らしい音だった。
結局、誰も一言も発さぬまま、船は向こう岸へと着いた。
ベラが降り、誰も手を貸さぬままアルテミシアも続いた。
二人が降り立った岸には兵士達が整列していたのだが、彼らの顔も、先の兵士と同じ表情へとゆがめられた。
係留杭に係留索を繋ぎ終えた兵士が加わり、十人の隊となる。
「あとは上手くやりなさい」
そう言いつけ、兵士達の敬礼も捨て置き、ベラは去った。
アルテミシアが聞いたのは、四つの言葉だけ。そのうち、たった二言だけが彼にかけられた言葉であり、そのどちらも、母親が子供にかける優しい音色は含んでいなかった。
アノヒトガクル。
胸が躍る。
アノヒトガキタ。
だが、近付けない。必死に水をかこうとするが、うまく体が動かない。
あの人間のせいだった。
金の髪の、あの人間。頭に着けた金ぴかのせいで、近付けない。魔のモノを近寄らせない力があった。
マッテ。
あの人が行ってしまう。
イカナイデ。
湖から離れてしまう。
それでももがいてみたけれど……。
あの人は行ってしまう。白い髪の、あの人は。
〈常葉の森〉は、不思議の森だ。
神殿の裏手にあるこの山は、たくさんの木々が生えている。
楢の木や楡の木をはじめとする、色んな種類の木が植わっている。なかには、東の大陸の南方にしか自生しない樫の木など、本来は育たないはずの木まで見られる。
しかし、この不思議の森を不可思議なものとする要因は、もっと他のところにあった。
樫は落葉樹であり、秋には葉の色を変え、冬には葉を落とす。それが、この世の理だ。
だが、常葉の森の樫だけは、一年を通して瑞々しい緑の葉を生い茂らせ、陽光を照り返している。いや、樫の木だけではない。落葉樹――冬に葉を落とすはずの木々が、どれ一つたりとも例外なく、一年を通して緑の葉をつけるのだ。
昔々の人々は、その不可思議に神秘を感じ、神の畏敬を想像した。自然、敬うための巫女達が生まれた。
〈常葉の乙女〉達だ。
彼女たちは、貴族と並ぶほどの政治的権力を持ち、実際、乙女達が神事で出した占いの結果は、国王と言えどもみだりに覆す事はできない。
常葉の森は、常磐の森。
不思議の森の神秘が語られる、その裏側で、古くから言い伝えられる恐ろしい話があった。
常葉の森には、魔物が棲むと云う。
神事の対象たる山の森。その山を登り、木々をかき分け、ひときわ鬱蒼と茂る森の奥に、一カ所だけ、開けた場所がある。
そこにあるのは、青々とした清水を蓄える湖。
そこでは、恐ろしいまでに透き通った水が、滾々と湧き出ている。
そしてそこは、忘れ去られた場所。
水辺には、崩れて落ちた祠の残骸が、草に覆われていた。
常葉の森は、常磐の森。
人を、“常しえに磐へと変えてしまう魔の力”を持った存在が棲み着くとも、封ぜられているとも云われている。
『人を石に変え貪り喰う』
『なんでもバラバラにして吹き飛ばす』
『この世から消す』
そんな言い伝えを、この国の誰もが子供の頃に聞かされて育つのだ。
そんな、人々が足を踏み入れる事のない、神秘と恐怖が混在するこの森に。忘れ去られたその場所に、アルテミシア達は、いた。
「神事です。お許しを」
その言葉とともに、兵士が手にした短剣が閃き――鮮血が散った。
首を刃で貫かれたアルテミシアは、悲鳴も呻き声も上げず、ただ、くしゃりと顔をゆがめながら、湖に落ちた。
ぶくぶくと沈んでいく、小さな体。
逃げる事も、避ける事も許されなかった、か弱い体。
「……おい、もういいだろ」
誰かが言った。
「く、喰われるのも死ぬのも殿下だけで充分だ!」
誰かがそれに続いた。
「さ、さっきのが殿下だって、まだ限らないだろっ?」
「殿下に決まってるだろ! あの髪を見ただろっ? 噂の〈色なし王子〉だったんだよっ、俺達が殺したのは!」
「大声を出すなっ、化け物に聞かれたらどうする!」
緊張感が限界に達し、今まで抑えてきた恐怖が、兵士達を支配する。
彼らがこの場所に来たのは偶然だ。
アルテミシアを殺すのは、森の中ならどこでも良かった。だが、『とある人物を森で殺せ』という侯爵からの命令は、いざその『とある人物』を見てみれば、それは“忌み子”やら“怪物”やら噂される〈色なし王子〉その人だったのだ。
怪物とは言え、王族の一員だ。どのタイミングで任務を実行すれば良いか、誰も踏ん切りが付かなかったのだ。
結局こうして、“湖”という風景の変化に機を得て、短剣を振るった訳だが。
「任務は完了したんだ。おしまいだ。女王陛下万歳! 侯爵閣下万歳! もう戻るぞ」
その声に尻を叩かれるように、兵士達は一目散にやって来た方角へ逃げ帰っていった。
あとには、持ち主を失った杖がぽつんと水辺に取り残され、水に沈んだ王子の代わりに、赤いリボンがゆらりと浮かんだ。
オチテキタ。
待ち望んだ瞬間だった。
オチテキタ。
あれから――白い髪のあの人が悪いヤツラに連れ去られてから、その後を必死に追った。
幸い、あの人の家がある湖は、山から流れる川の終着点だ。そしてその川の始まりの一つは、この忘れ去られた湖なのだ。長い長い時の中、人間達が足を踏み入れる事のなくなった、森の奥の湖。昔、自分が棲んでいた場所。
オチテキタ。
悪いヤツラは、木々の間をウロウロし、あっちへ行き、こっちへ行きしながら、山を登り、森の奥へとやって来た。
その後を、見失わないようにしながら、川を上って追いかけた。
オチテキタ。
待ち望んだ瞬間だった。そのはずだったのに、あの人は血を流し、今にも死のうとしている。
だから、
シナナイデ、オカアサン。
体を捨てて、その人の中に飛び込んだ――
クラウズェアは、普段住まいの神殿騎士用宿舎ではなく、王都の別邸にいた。本邸は、父親が治めるノーザンコースト伯爵領にある。そして、今まさにその伯爵領から、伯爵夫人を伴ったノーザンコースト伯爵が来ていた。
「いい加減に聞き分けんか!」
割れ鐘のような声を響かせたのは、ノーザンコースト伯爵ヴィクター・セルペンティスだった。
赤みを帯びた金髪の持ち主で、がっしりとした体格はよく鍛え込まれている。
振り下ろされた大きな拳がテーブルを強か打ち付け、白ワインが満たされたグラスを倒すところだった。
「聞けません」
クラウズェアは、静かだが怒気のこもった言葉と視線を父親に向けている。
テーブルを挟んで相対する両者を交互に見ながら、伯爵夫人のイライザはこっそりと溜息をつく。彼女も夫と同じく、赤みのある金髪だ。
セルペンティス家の者は、長子も含め皆、この色だ。
身に金の色を帯びることは大変名誉なことであり、古く、力のある血統であると考えられる。――だが、クラウズェア一人だけが、金の全く混じらない、真っ赤な髪をしている。家族に共通しているのは、緑眼のみである。
「ミッドノール子爵は家柄も大変良く、侯爵閣下との血縁もある。剣の腕も立ち、金の髪の美丈夫との噂も名高い。どこに不満があるというのだ? お前には勿体ないくらいの条件だぞ」
怒鳴ってばかりではらちがあかぬと踏んだヴィクターは、努めて穏やかな声を作り、娘の説得にあたった。
「そうよ、ローズ。貴女だってもう年頃なんですから。親のひいき目かもしれないけど、器量だって充分、他家のお嬢さん方に決して負けてないわ。髪の事も、先方は気にしないと云ってくれてるし」
イライザも話しに加わり、娘の説得に当たる。
だが、とうの娘は先の言葉にカチンときたようだ。
「お言葉ですが父上、軽々しく『腕が立つ』などと申されるな。ただ力が強いだけのデカブツだと聞いております。それに美丈夫? 髪の色がなんですか。だいたいそやつ、手癖の悪い女たらしだともっぱらの噂ではありませんか。ほかにも、悪い話をいくつか聞きます。そんな不逞の輩、死んでもお断りです。そのような些事よりも、わたしにはやらねばならぬ事があるのですから」
緑の目が、父から母へ向きを変える。
「母上、赤い色は確かに“不吉を呼ぶ色”だと云う者もおります。ですが、髪の色でその者の価値が変わる訳ではありません。そもそも、わたしはどこにも嫁ぐつもりはありません。家の存続なら、兄が家督を継げばそれで事足ります」
きっぱり言い切ったクラウズェアは、もう話すことはないとばかりに腕組みをし瞑目する。
「馬鹿者! 親心が解らんのかっ?」
ふたたびヴィクターの怒声が響く。
「十七にもなってなんだ! 女だてらに剣なんぞにのめり込んで。神殿騎士など、花嫁修業の一環に過ぎんのだぞ。本気になってどうするっ?」
この言葉に、クラウズェアの瞼が開いた。
「いま、なんと?」
低い声が漏れる。
ヴィクターの目には、娘の緑の目が、炎のように揺らめいたように見えた。
「いかに父上と言えど、神殿騎士の任を貶められては、黙ってはおられません」
言葉が、レイピアのごとき鋭さを持って、伯爵に突きつけられているかのようだった。クラウズェアの怒りの強さがうかがい知れた。
しかし、ヴィクターも人の上に立つ者。剣の腕もある。娘の意気に気圧されるような小人ではなかった。
「もう、やめなさい」
先ほどとは打って変わり、静かな声だった。
「やめる? そのような権限、父上にはありません。神殿騎士の任は――アルテミシア殿下を守護するお役目は、サイラス陛下から賜ったもの。それを――」
「終わったのだ」
ヴィクターの言葉がさえぎった。
「なにを言われるか」
腰を浮かせかけたクラウズェアを、ヴィクターの言葉が押しとどめる。
「第二王子はな、お隠れあそばした。精霊になられたのだ。お前の役目は終わった。クラウズェア、お前は立派に王命を務め果たしたのだ」
しばし、静寂が訪れる。
「何を世迷い言を」
沈黙を破ったのは、クラウズェアだった。
「今朝がた、殿下のご尊顔を拝してきたばかりなのです。冗談にしては、あまりにもたちが悪い。不敬罪にあたります。殿下の騎士として、父上を斬り捨てても誰も咎め立てはしますまい」
実際、クラウズェアの左手は、傍らに立てかけた剣の鞘に伸びていた。
「神事の象が出たのだそうだ。『〈赤陽地鎮の儀〉を執り行い、第二王子を〈常葉の森〉に捧げよ』と」
「なっ?」
驚愕の表情を浮かべる娘に、伯爵は続けた。
「先日、太陽が赤く曜いた。あれが徴だ。どのような災厄がおとずれるかわからんのだ。国難を乗り越えるためだ。仕方がないのだ。殿下も、王家御霊の一柱として、祖霊の皆様方と共に護国の――」
「うるさいッ!」
椅子を蹴倒して立ち上がったクラウズェアは、最後まで話を聞くことなく、剣を引っ掴むと部屋を飛び出した。
「ローズ!」
「放っておきなさい」
後を追おうとした妻を止め、伯爵は溜息をついた。
「あの子自身の目で、現実を見てくればいい」
「そんな、残酷なことを」
部屋の出口付近で立ち止まったイライザは、非難の目で夫を見た。
「残酷なことを見届けるのも、貴族の大事な役目だ」
「どうして……。こんな事なら、あの子を殿下に引き合わせるのではなかったんだわ」
夫人の悲痛な言葉に、ヴィクターは視線を落とした。
「そうかもしれん。だがこれであの子も、第二王子から解放されたのだ」
零れた白ワインがテーブルから滴り落ち、涙のようにぽつりぽつりと、床に染みを作っていた。