四章⑰『もてなしましょう、剣を抜いた英雄達を!』
「無事だったのねっ?」
会うなり、ルクルク王女が駆け寄ってきた。
「はい。ご心配をおかけし、申し訳ありませんでした」
人の手前、クラウズェアは言葉遣いを選び、頭を下げる。
「ううん。無事なら良いのよ、それで」
ホッと胸をなで下ろすルクルクを見て、アルテミシアは、ああ、やっぱりこの子は良い子なんだな、と改めて思った。
モリオンも胸中で、
【イイコイイコ】
と、それに同意した。
ところで、猫妖精の姫や犬妖精の班員達が慌てていたのには、実はこういった訳がある。
アルテミシア達が天焦山に行った翌日。
その日は朔日で、金色の太陽のすぐ側には銀色の月が寄り添っていた。
だが普通、新月は人の目には見えない。それは、猫妖精であっても同じこと。
しかし、その見えないはずの新月が、火の玉みたいに真っ赤に赫くのを、皆が見たのだ。まるで、太陽が二つあるかのように。
そのタイミングが、クラウズェアが剣を抜いた直後なのだ。それは、誰も知る由のないことではあったのだが。
ともあれ、不吉の徴と皆が慌てる中、ルクルクは居ても立ってもいられず一行を探しに行こうと城を飛び出した。だが、家臣に見つかり連れ戻され、不吉を払う禊のために一日中を拘束されていたのだった。誰かを代わりに使わそうにも、皆、恐れて、あるいは外出禁止令で外には出られなかった。
そして翌日、タッタルガル達を山まで行かせ、笛の音をいち早く聞き取れるよう、麓で待機させていた、という訳だ。
タッタルガルから事情を訊いていたクラウズェア達は、ルクルク王女の素早い対応に感謝していた。こうして、日が完全に落ちる前に、城まで戻ってこられたのだから。
……まあ、〈四季の間〉で遊んでなければ、もっと早く帰ることはできたのだが。
「ところで」
目を輝かせたルクルクが、クラウズェアの方を見上げている。瞳孔が興奮で丸く開いていた。
「剣を抜いたのでしょうっ?」
「おや? どうしてお分かりになったんですかい?」
ジャックが問うと、
「だって、こんなに涼しくなったんですもの! お山の天辺から毎日毎日立ち上っていた煙も今では見えないし。雲の形も変わってる」
王女の声に促されてそちらを見ると、なるほど確かに、天焦山の上空に浮かんでいた円環状の巨大雲が姿を変え、今では大きな入道雲になっていた。
だが、しかし。
「涼しくなった……かなぁ?」
「さあ? もしかしたらばそうなのかもしれやせんが、そいつぁ、四〇度の気温が三八度くらいになった、程度のもんでげしょ?」
二人が疑問を確かめあっていると、
「確かに、涼しい」
クラウズェアがさらりと述べた。
実は彼女は、薄紅の持ち主になってからというもの、妖精境の酷暑を一切感じなくなっていた。非常に快適なのである。体質が変わってしまったのだ。日に焼け、黒くなるはずだった肌さえ、白いままである。
「でしょうっ? ああ、続きはアタシの部屋で話しましょう? いえ待って。その前にお父様にご報告しなくっちゃあね。でもでもそれより、いったいぜんたい剣はどこ?」
「見事! 実に見事だ。いや天晴れ!」
ナデファタ王は、玉座から身を乗り出してクラウズェアを褒めた。
「よもやあの炎獄から剣を抜く者が現れようとは」
「お父様!」
「む、これは失言であったな。どうか許して欲しい」
万が一にもそんなことはあり得ないと、面と向かって言ってしまったのだ。浮かれすぎて口が滑ったようである。
「いえ。わたし達も、あの火の海を目の当たりにした時は、肝をつぶしたものです」
右膝を突いて畏まったクラウズェアが答えた。
実際、アルテミシアが『剣を取りに行く』と言った時、相当に取り乱したのだから。
「それで、その抜いた剣はいずこに?」
興奮冷めやらぬ猫妖精の王は、小さな体をうずうずさせながら問うた。
「はっ。ではこれより、天焦山の剣をご覧に入れましょう」
そう言ってすっくと立ち上がった女騎士は、左手を眼前に突き出した。
背に流れ落ちる赤毛が消え、換わりに、切っ先を下にした刀が姿を現す。
おおっ、というどよめきが起こり、
次いで、
ほうっという感嘆の声が、猫妖精達から起こった。
「鞘のない剣でありますので、柄を握ることをお許しください」
普通、剣を見せる時の礼儀として、鞘に収まったままの剣のその鞘を持ち、柄の方を相手に向けて差し出すものだ。そうでなければ、斬りかかる意思のあるものと見なされてしまう。この場合、それができなかったので、せめて剣を利き手の逆側、更に逆手に握ることで礼儀としたのだ。
だが、誰もそんなことには気を留めていなかった。
「なんと、美しい剣だ……」
「きれい」
王と姫は、やっとそれだけを述べ、他の者達は言葉も出ない。
「刀、と呼ばれる珍しい種類の剣で、名を〈薄紅〉と申します」
「薄紅……。炎の燦めきを集めた様でいて、それなのに花に似た繊細さがある。水の様に滑らかにも見え、伝説に聞く竜の爪みたいな鋭さと力強さも感じられるわ。凄い」
ルクルクは、薄紅の異様な美に、奇しき麗しさに、心を奪われていた。
人の思いの及ぶ綺麗ではなく、人知の及ばぬ奇麗に。
「うむ。善き哉! 我が国は、英雄達を歓迎する! 暑さも穏やかになり、過ごしやすくなった。これも其方達のお陰だ。祝いの宴を開きたい所だが、今日は準備の時間がない。宴は明日に回し、ひとまずはゆるりと休まれよ。ルクルク」
「……は、はい!」
「英雄達をご案内して差し上げなさい」
「承知しました、お父様。では皆さん、こちらへ」
こうして、一行は正式に妖精境に迎え入れられることとなった。
王と姫が歓迎ムードを作るなか。
退室するクラウズェア達を、バイガン将軍は、鋭い目で見送っていた。
「ご馳走、という訳にはいかないけれど」
通された客間に腰を落ち着けると、すぐさま料理の数々が運び込まれた。
茄子、トマト、椎茸、竹の子などの具材を浮かべた。さらりとした甘酢スープ。
人参、玉葱、牛肉を炒めて香辛料をたっぷり加えた、とろみのある煮込みスープ。
塩湖で採れた塩と小魚の粉末を振りかけた、川魚の香草焼。
米と豚肉と細かく刻んだ野菜を胡麻油で炒めて、塩と香辛料で味付けした物。
冷やしたココナッツミルクに、切り分けたバナナやパイナップルを浮かべた物。
茹でたジャガイモをすりつぶして、山羊の乳、バター、ニンニク、塩胡椒を混ぜ込み、黄色いもちもちパンで包んだ物。
羊の乳で作った練乳に甘竹の竹糖を混ぜ、切った果物が浮かぶヨーグルトにかけた物。
他にも、弁当に持たされたサンドイッチや芋の饅頭もある。
酒も、甘竹酒のほか、ココ椰子の樹液で造った酒や、米から造った酒なども並んでいる。
「どうぞ、召し上がれ?」
ルクルクの言葉をきっかけに、目を皿のように大きくして料理を見ていたクラウズェアは、食前の祈りを捧げるやいなや、素早く手を伸ばしていった。
次々に口に運ばれ、次々に胃袋へと消えていく。
決して下品な食べ方ではない。貴族のご令嬢としての礼法に適ったものだった。
ただ一つ。
食べる速度があまりにも速いのだ。上品な分だけ、その異様さが目立つ。鬼気迫るものすら感じられた。
「た、たくさん、あるから、ね?」
少しだけ及び腰に声をかけたルクルクは、クラウズェアから視線をそっと外し、甘酢スープをスプーンですくっているアルテミシアを窺い見た。
側のジャックが何やら言っているようで、口の食べ物を飲み込んでから、いちいち相手をしている。褒められた事ではないと思いながらも猫の耳をそばだてると、どうやら肉料理とそうでない物の予測をしている話だった。アルテミシアは肉が食べられないのだ。ルクルクは、客人達の好みを訊かずに料理を出した事を悔いた。
幸い、クラウズェアの方は好き嫌いはないようで、精力的に料理に口を付けている。
実は、ルクルクはずっと後悔していたのだ。料理のことではない。モリオンのことだ。
アルテミシア達は命の恩人だ。種族の壁を越え、仲良くもなれそうだった。
それなのに、軽い気持ちで『モリオンを見せて欲しい』と自分から頼んだ挙げ句、あんな態度を取ってしまったのだ。最低だった。だから、謝る機会が欲しかったのだ。
けれど、言い出せないでいる。
今だって、勇気を出せばその機会を得られるだろうに、言葉が出ない。ルクルクは、自分の臆病さに悲しくなっていた。
一方、アルテミシアとジャックと言えば。
「酸っぱいですかい?」
「うん、酸っぱいし、甘くもあるし、ほんの少しだけ辛い。不思議な味だよ? でも、美味しい」
「そうですかい。きっと酢を使ってるんでしょうね。酸辣湯みてぇなモンなのかねぇ? ともあれ、甘酸っぱいもんは体に潤いを与えてくれやすから、食べとくといいですよ。ここ数日で一杯汗をかきましたし、肌も乾燥したでしょうから」
「うん……【なんだかこの赤いの、モリオンみたい】」
溜息みたいな微かな笑い声が、スプーンにすくわれた赤い野菜に誘われて、深紅の唇から零れた。
【モリオントイッショ、モリオントイッショ!】
モリオンも、少年の目を通して赤い実を見て、弾んだ。とにかく、母親と慕うアルテミシアから構ってもらえるのが嬉しいのだ。そういうお年頃なのだ。
「トマト、でしょうね。体を冷やし、潤いを与える野菜です」
ジャックの説明に、アルテミシアは疑問を口にした。
「こんなに赤いのに? 雪みたいに冷えちゃうの?」
焚き火みたいな色をしているのにと不思議がっていると、少年の問いに答えが返ってきた。
「仰る通り、赤いモンってぇのは陽の属性を持つんで、体を温めるモンが多いですがね? トマトは陰の属性が強いんですよ。まあ、雪ほどにゃあ冷やしませんが」
影人間が口にした奇妙な言葉に、アルテミシアは目をぱちぱちさせる。
「陽? 陰?」
赤い目が、赤いトマトから黒い人影に向く。
「こりゃ失敬。この世のあらゆるモンは、〈陽〉と〈陰〉の二つの属性を持ってるんです。〈陽〉ってぇのは、“温かい”だとか“明るい”だとか“辛い”だと“火”だとかの特徴を持つんです。季節で言えば夏、色で言えば、黑、赤、橙なんかですね。逆に〈陰〉は、“冷たい”や“暗い”や“甘い”や“水”とかですね。季節だと冬で、色だと白や青なんかです」
ジャックの話に興味をひかれたアルテミシアは、スプーンを置いて聴く姿勢をとった。
「そいで、そのトマトは“赤い”んで陽の属性を持ってるんですが、こっからが複雑で、暑い時に採れたモンには〈陰〉の属性が付くんです」
「暑いと? ……暑いのは〈陽〉じゃないの?」
ジャックの説明を思い返しながら出した答えに、影人間は手を打って喜んだ。
「よく聴いてましたね。えらいです!」
この褒め言葉に、アルテミシアの白い頬が緩む。
「ご推察の通り、暑い季節自体は〈陽〉なんですが、暑い季節に採れた物は〈陰〉の属性を帯びるんですねぇ、はい」
「逆になっちゃうんだ? 不思議」
「ええ、ええ、不思議です。で、このトマト君は、“赤”という陽の属性を一つ持ってやすが、“暑い季節に採れ”て、汁気がたっぷり“水”たっぷり、味は“甘い”と三拍子揃って陰の属性です。そっから考えると、〈陽〉より〈陰〉の要素が多いでげしょう?」
「〈陽〉が一つに、〈陰〉が三つ。本当だね」
「つまり、トマトはものすっげー〈陰〉寄りの属性っつー事ですね、はい。〈陰〉の食いモンは体を冷やします。暑い季節、暑い国では重宝しやすね。ま、そもそも暑い季節や国にゃあ、〈陰〉の属性を多く含む食いモンがたくさん採れるようにできてんですがね。良い塩梅にバランスがとれてやすねぇ」
「そうなんだ。うまくできてるんだね。……あ、じゃあスイカも?」
「正解! トマトと一緒で“赤”いですが、“暑い季節の野菜”“水分たっぷり”“甘い”ってーことで、〈陰〉が強いですね。トマトより甘ぇんで、もっと陰が強いです」
「すごいね。ジャックさんは物知りだね。ジャック先生って呼ばなくっちゃ」
少年の純粋な褒め言葉に、ジャックは薄っぺらい胸を張った。
「呼んで呼んで! ジャック先生って呼んでっ? なんならこの後、保健体育も教えちゃってもイイんでゲスよ?」
下衆な影人間は、ゲスゲス言いながら煩悩をダダ漏らした。だが、未知の情報に興味津々な少年は、ジャックの振りまく邪オーラに気付かない。ジャック先生に無邪気な質問をぶつけていった。
「それじゃあね、あのヨーグルトは――」
結局、保健体育の時間が訪れる事は無かった。




