四章⑬『報われた少女と、叶った少年の願い』
アルテミシアが顔を洗い、クラウズェアが食事の後片付けを終えた頃。ジャックが切り出した唐突な言葉は、出立の準備を止めさせた。
「お山のてっぺんに行く必要はねぇんじゃありやせんかい?」
この言葉に、アルテミシアは目をぱちくりさせ、クラウズェアは頷いた。
「シア、ジャックの言う事はもっともだわ。わたし達の目的は剣を抜くことではなく、永住できる住処を確保する事よ? 幸い、ここには家もある。食べ物だって、スイカの他にも、来る途中の森の中には果物らしき実もあった。あの妖しげな四つの扉を使えば、もっと楽に食べ物が手に入るかも」
生真面目な騎士は、王命を尊重して頂上の剣を見に行く努力はすべきだと思っていた。だが、話によるとそこは火の海だという。人の身でそんな場所を行き来できるはずもない。
だから、頂上に着いたらジャックと同じ事を言うつもりだった。彼女の目的は、アルテミシアが安心して住める場所を見付けることなのだから。
だが、アルテミシアはクラウズェアとジャックを交互に見ながら言ったのだ。
「ううん、ぼくは剣を抜きに行きたい」
この言葉にクラウズェアは驚き、ジャックはすかさず反論した。
「どうしてです? 姐さんも言ってやしたが、ここには生活に必要なもんが揃ってるみてぇですよ? ここにずぅっと住めばいいじゃあねぇですか」
優しい声だな、とアルテミシアは思った。
二人とも優しい。二人ともアルテミシアの身を案じてくれる。だから、尚更行かなければならないと思った。
「ううん。ぼくはどうしても剣が欲しい」
剣をなくしたクラウズェアに、新しい剣をあげたかった。
バイガン将軍が云っていた『名剣』を。
そして、ジャックの故郷を探すためには、ずっとこの洞窟に隠れ住む訳にはいかない。
少年の気持ちは、幼なじみの少女には察せられた。長い付き合いだ。ずっと見てきたのだ。
「シア。なにも、この洞窟にこもって一生を過ごそうという話じゃないの。影の国を探す手伝いは、わたしも考えてる。けど、ジャックには申し訳ないけれど、今すぐには無理よ。わたし達には追っ手がかかってる。ほとぼりが冷めるまでは迂闊に外に出られないわ。それと、剣の替わりならいくらでもある。この鉈だって立派な武器よ? すぐに使い慣れてみせるわ」
そう言って女騎士は鉈を軽く振って見せた。
「あっしも、今すぐに故郷に帰れるたぁ思っていやせん。気長に探すつもりでさぁ。……ま、お二人の気持ちは嬉しいですがね、はい」
ジャックが照れ臭そうに言った。
それで、少年はますます剣を取りに行きたくなった。
「行こう? お願いだから」
頑なに訴えるアルテミシアの熱意に折れ、一行は山頂を目指した。
〈火指盤〉は盤面の中央から針が突き出しており、その針の上に棒を乗せた物だ。棒の中央はくぼみがあり、針にかぶせると安定する。棒の先端は赤い〈彩化晶〉でできており、火に反応するようになっている。
つまりこの場合、常に山頂を指すようになっており、道に迷わないという寸法だ。洞窟内の湯の出る赤い筒に反応しないかが心配だったが、杞憂に終わった。
熱帯雨林を抜けると、木がまばらになるにつれて空気は乾燥し、気温は更に上がった。植物の様相も変わってきている。
「ジャングルの次はサボテンかよ」
数メートルもの高さのあるサボテンが、まるで樹木のように乱立している。地面は乾いた土と石が転がり、乾季のサバンナのようだ。
「暑い」
口を開けば口内が乾く。喋るべきではないのだが、思わずクラウズェアの口から呻くような声が漏れた。
昨日の日焼けに懲りて、二人ともクロークを羽織りフードを頭からすっぽり被っているのだが、いかんせん暑すぎる。グリーンウェルの人間には地獄だ。
いや、たいていの人間にとって地獄なのかもしれないが。
「シア? 我慢せずに水を飲むのよ?」
甘竹酒やヨーグルトが入っていた竹の水筒に水を詰めてきたのだが、この分では直ぐになくなりそうだ。水がこんなに美味いと思ったことはない。逆に、酒など飲みたくもなかった。
「うん」
少し遅れて少年が返事をし、水を口に含んだ。もう、残りの水はアルテミシアにあげようと、女騎士は考えた。
そうして、幸か不幸か。すぐに山頂を知ることとなった。
クレーター状にくぼんだそこは、まさに火の海だった。
直径約五〇〇m、深さ二〇〇mほどもある落ちくぼんだ土地は炎で満たされ、その中心地に柄以外を地に埋めた剣があった。
「あそこに剣があるよ」
アルテミシアが指さした方を見るが、クラウズェアには見えない。
「わたしには見えないわ」
「ぼくも剣が見えてる訳じゃないんだけれど、銀の霧が剣の形に集まって、はっきりと見えるんだ。それを取り巻くこの炎自体も銀の霧のかたまりみたい」
「しかし、どうしやす? これ以上ねぇくらい火の海ですぜ? 引っ返したらどうです?」
この世のものとは思えぬ光景に、もはや驚きを通り越して呆れた心境のジャックが、二人を促した。
「そうね、これは――」
ナデファタ王への義理も果たした。ここまで来て、この地獄のような有り様を見ればアルテミシアも納得して帰るだろうと、少女は思っていた。
だのに、
「ぼく、あの剣を取ってくる」
「シアっ?」
何を言い出すのかと、驚きの声を上げるクラウズェアと、
「どうしても?」
赤い目を覗き込みながら問いかける、ジャック。
「どうしても」
アルテミシアの返事は簡潔だった。
「よござんす。ほいじゃあ、試してみやしょうか」
「何を言ってるの、二人ともっ?」
もう、クラウズェアの声は悲鳴に近い。
「試すですってっ? いったい試すべき何があるというのっ? 剣を取る? 馬鹿を言わないで!」
クラウズェアは、アルテミシアの細い肩をがっしりと掴んで抑えた。
「見なさい、あれを。火の海とはよく云ったものだわ。炎以外、なんにも見えない。あの、大きな湖みたいになってる火の底なんて、見えやしない。子供の頃、火事になった家畜小屋から仔山羊を助け出そうとした人を見たことがあるわ。水でびしょびしょの布を被っていって、それでもあちこち火傷を負いながら、やっと出てきた。可哀想に、仔山羊は死んじゃったけど。でもそんなの比較にならないくらい、ここは広いのよっ? 被る水も無い! いえ、水があったからって、それがどうなるっていうの? シア、馬鹿なことは言わないで。わたし、本気で怒るからね」
一気にまくし立てた女騎士の顔は汗だくで、熱さと興奮であえいでいる。でも、彼女にはそんな事は重要ではない。今は、馬鹿なことを考えている幼なじみを止めなければいけなかった。聞き分けがなければ頬を打ってでも、気絶させて担いで帰ることも辞さないつもりだった。
アルテミシアが死ぬことに比べたら、嫌われる方が耐えられるから。
だが、ジャックがこんな事を言い出したのだ。
「焼け死なずに剣の所まで行く方法があるんです」
「ほんと?」
アルテミシアは素直に驚いた。
そしてクラウズェアは、
「ジャック。お前が博識なことは理解しているつもりだ。また、楽しい奴だという事も。だが、今は冗談はやめてくれ。シアが本気にする。それとも、影の身のお前ならば焼け死なずに済むという話か?」
アルテミシアの心を惑わして欲しくないクラウズェアは、ジャックののっぺらぼうに非難混じりの目を向けた。
「いいえ、いえいえ! あっしじゃあなくって、シア嬢ちゃんとクラウズェア姐さんの二人が、ですよ、はい」
揶揄するようでもなく、冗談を言う時とも違った、真剣さと熱誠さの感じられる声だった。
「どうすればいいの? 教えてください、ジャックさん」
アルテミシアはジャックを見つめ、クラウズェアはひとまず少年の肩から手をどかした。
「ええ、ええ、お話ししやすとも。それはね? シア嬢ちゃんのお目々の力を使うんです、はい」
「ぼくの? ……モリオンの力のこと?」
「そうです」
ジャックは言っているのだ。『共鳴術を見破り、固めてしまえる視線の力を使え』と。
それは、アルテミシア自身も考えていたことだ。全く何も考えずにここまで来た訳ではない。育った境遇のせいで、世間知らずで心も幼い部分があるが、決して愚かな訳ではないのだ。
そしてクラウズェアは、アルテミシアの不思議な力については簡単な説明を受けてはいたのだが、いかんせん、〈石〉の使えない人間からすれば、〈魔法〉は深遠で理解が及ばない。その上、アルテミシアの力は未だかつて聞いたこともないものだった。
「それは……確かにシアには不思議な力があることは認める。けどそれは、こんな状況でもどうにかできるものなの?」
緑の目が、赤とオレンジの海を映す。
熱が上空の大気を揺らめかせている。
ふと、そのまま視線が上を向いた。遙か高い空の上には、白く大きなリング状の雲が浮かんでいる。その大きさは、クラウズェアをとてもちっぽけな存在に思わせた。
「ためしてみるね? 【モリオン、いくよ?】」
「ちょっと待ったぁ!」
アルテミシアが火の海に《視線》を向けようとした時、ジャックの待ったがかかった。
「まだちょいとお待ちくだせぇ。お嬢ちゃんのお目々の力はすげぇんですが、この火の海は勢いが強すぎる。もしも頑張りすぎて、この前みてぇに頭イタイイタイになったら大変ですからね?」
おどけるように言ったジャックは、
「シア嬢ちゃん、姐さんの髪はまだお持ちですかい? それとクラウズェア姐さん、ルクルク王女から頂いたお守りを貸してはいただけやせんかね?」
二人を交互に見ながらそう言ったのだ。
「持ってる」
アルテミシアは服に手を差し入れて、赤いお下げ髪を取り出した。大事そうに、両手で持っている。
「この、賜ったお守りか?」
中にルクルクの両手の爪が入れられた小袋を、クラウズェアは首から外した。
「よござんす。その二つを、この火の海に投げ入れるんです、はい」
ジャックの言葉は、二人にそれぞれの感情を生じさせた。
つまり、
アルテミシアは幽かなかげり顔でお下げを両手で抱き込み、
クラウズェアは、はっきりと怒りを表しながら。
「待った! 待って待って、待ってくださいよぅ」
二人が何かを言う前に、ジャックが慌てて止める。
「理由があるんです、ええ。〈練丹洞〉の洞主の手記にこうあったんです。『おもいの籠もった女の爪と髪を投げ入れろ』って。そしたら火勢が弱くなって剣を手に入れやすくなるって。あ、ちなみに練丹洞ってぇのは洞窟の名前ですね。〈方士〉……まあ、共鳴術士みてぇな頭のおかしい偏屈者がそう名付けて住んでたようですぜ?」
昨晩、土下座刑を申し渡したクラウズェアが眠ってしまった後、一人寂しく刑に服していたジャックの耳に、風もないのに本がめくられる音が聞こえたのだ。
その、机の上の本のめくられた辺りを見ようと、アルテミシアの影から精一杯に身を伸ばして読んだ内容が、丁度、天焦山の剣に関して記された場所だったのだ。
「爪と、髪を」
呟いたクラウズェアの視線が、二つの物を行き交う。
アルテミシアの方は、胸に髪をかき抱いて黙っていたが、おもむろに顔を上げてこう言った。
「それで、剣が手に入るなら」
そうして、手放しがたさに赤毛にほおずりし、キスを落とした。
クラウズェアの方は、何事かまだジャックに反論しようとしていたのだが、目の前でこんな事をされてはたまらない。顔を真っ赤に染めて黙ってしまった。
「じゃ、景気良く、力一杯に投げてください」
その声に促され、アルテミシアと、まだ頬の赤みが消えないクラウズェアがそれぞれ髪と爪を投げた。
放物線を描き、最初に髪が、次に爪が火の海に消える。腕力の差だ。
炎が揺らめき、確かに、いくぶんかは火勢が弱まったようである。
その時、朗々たる声で、歌うような調子で、ジャックが言葉を紡ぎ出した。
「いま、孔雀は見届けた。幾筋もの乙女の髪と、幾振りもの乙女の爪が、一口の剣に捧げられたのを」
いつもの、薄い布越しのような少しハッキリとしない声ではなかった。男のように力強く、女のように高く澄んだ、不思議な声だった。
「竜の口よ。断つ口よ。お前の主人が参ったぞ。お前の体が参ったぞ。炎で鍛えて待っておったな? 火之尾に巻かれて待っておったな? 闇い底から昏昏と湧かせて待っておったな? 玄い炎と黎い炎の向こうで待っておったな? 今からお前の主人が向かう。水竜の息で冷やしてやろう。雲海の中で遊ばせてやろう」
奇妙不可思議な光景であった。
赤とオレンジだった炎が、声に合わせて、まるで夜に向かう夕暮れを濃くしたような玄い色になり、次第に夜明けを一つに集めたような黎い色へと変じゆく。
アルテミシアとクラウズェアは、霊妙なる神秘の現象に、言葉もなく、熱さも忘れて見入っている。
「冴え冴えと目覚めよ、竜の口。炎の様に柔らかく、氷の様に堅いもの。霞の様に気配なく、水の様に粘るもの。熱気の様に立ち上り、光の様に進むもの。潮の様に寄せて引き、影の様に落ちるもの。軽妙なる時は羽毛の如き働きを、荘重なる時は鱗の如く働く竜の口、今から行くから待っておれ!」
最後の一声に合わせ、まるで潮が退いていくみたいに炎の水位が下がっていき、換わりに、剣のある辺りから火柱が天高く吹き上がった。
だが、まだ完全に火の海がなくなった訳ではない。
二〇〇mの深さを満たしていた炎が、五〇mほどに減っただけだ。四分の一になったという言い方はできるが、それでもなお、人間の踏み入れる場ではない。
「……ジャック……お前、共鳴術師だったのか?」
奇跡のような光景を目の当たりにしたクラウズェアが、その恐怖とも感動ともつかぬ思いをそのまま畏敬の念に変じて、影人間の方を見た。
「へ? いや、そんな事ある訳ねぇじゃねぇですか! 共鳴術なんてぇ胡散臭ぇ、おっと失敬。奇妙奇天烈で小難しいモン、使えるわきゃあありやせんよ。ただ、なんつーか……シア嬢ちゃんが見ている風景とか、洞主の書いた手記とか読んで推測したんですがね? この世界の〈魔法〉に干渉するにゃあ、音というかリズムというか、そういったもんが関わってんのかなぁ、と。ダメ元で試してみたというあんばいです。言葉は、まあ単なる演出です。おっと間違えた。我が国に古来より伝わる〈言霊〉ってやつです、はい」
テヘリとばかりにあっけらかんと語って見せたジャックだったのだが、それでもクラウズェアの敬意が薄れる事はなかった。
「感服した」
言葉では足らずに頭を下げようとした女騎士に、慌てたジャックが両手を振って止めさせる。
「待った待った! ちょいちょいお待ちになったぁ! あっしはそういうのは苦手なんです。やめてくださいよ。今まで通りが一番です。あっしになにがしかの事を思ってくださるってぇんなら、今まで通りにしてください。この通りですから」
クラウズェアよりも先にジャックの方が頭を下げた。拝むように両手も合わされている。
「わかった! もう頭は下げぬから、そちらこそ頭を上げてくれ!」
慌てたクラウズェアによって、この奇妙なやりとりはひとまず終わった。そして、上がったのっぺらぼうの顔には赤い目が向けられている。
「クジャク、さん?」
少年の問いかけに、影の身がびくりと震えた。
「いやいや、なんちゅーか……」
返事にならない言葉が漏れた。
「そういえば言っていたな? 本名がクジャクなのか?」
クラウズェアの問いに、
「いやぁ、そんな本名ってぇ訳じゃあ……」
歯切れが悪い。目があったら視線をさまよわせているのが見えたことだろう。
「ちがうの?」
無垢な瞳が影人間を追い詰める。
「いや、違わないんですがぁ……」
「はっきりせんな? 言いたくないのであれば、これ以上は追求せぬが」
女騎士の言葉に、逃げるように向けた視線の先には赤い目があって、挙動不審な影人間は往生際に臨む覚悟をした。
正確に言えば、諦めた。
「本名です」
力なく言って、こう付け加える。
「恥ずかしいんですよね、その名前。似合わねぇっていうか。よくもこんな名前つけやがったなあのクソババア」
ジャック――改め孔雀にしては珍しく、本音のうかがえる恨み言であった。
「素敵なお名前だと思う。クジャクさん」
「良い名ではないか。これからは本名の方で呼ばせて貰おう、クジャク」
「ぐぁーーー! よしてくだせぇっ、あだ名のジャックで呼んでくださいよ、お願いですから! それより、炎が弱まってる今がチャンスです。シア嬢ちゃんのお目々パワーで、このクソ熱いのをどうにかしてください」
取り乱した孔雀に促され、そういえばと状況を思い出した二人は、とりあえずこの話は後に回すことにした。今は剣を取りに行くのが先決だ。
「【モリオン?】」
胸中の子に呼びかけ、アルテミシアは《視線》を使った。
濃い銀の霧が渦巻く中、その中心から吹き上がる炎の柱の根元には、確かに剣が埋まっているのが見える。
だが、最初に見た時よりも形状が変わっているのに気付いた。地中深くに真っ直ぐ突き刺さっていたのが、短くなり、多少曲がっている様に見える。
不思議に思いはしたが、今はそれよりもこの炎だ。
もっとよく見ると、火の海も、吹き上がる火柱も、全て剣から出ている。それならばと、やる事が見えてきたアルテミシアだった。
彼は、剣だけを見た。強烈な存在感を放つ銀の塊に《視線》を合わせ、その動きを“固め”てみた。
すると、
「熱気が……」
クラウズェアは目を丸くしている。それもそのはず。今さっきまで肌を焼く様だった火の熱が、一切なくなったのだから。
火の海も、火柱も、依然として在る。だが、ゆらりとも揺らめく事なく、まるで凍り付いてしまったかの様に、その活動を止めていた。
大気をあぶる陽炎も無い。岩肌を焼いていた余熱すらもが消えてしまっている。ただ、夏の日差しが残るばかりだ。
「今のうちです、下りられそうな所を探しやしょう」
「あ、ああ」
熱気で顔を近付ける事ができなかったクレーターの中を、クラウズェアと孔雀は覗き込んだ。だが、どこも急勾配で降りられそうな場所が見つからない。道具があればクラウズェア一人ならなんとかなるのかもしれないが、その道具も無い。
妖精境の者達は、誰もこんな風に下を覗き込んだ者は居なかったので、このように深く急斜面なすり鉢状になっているとは思いもしなかったのだ。
だが、ここで諦める訳にはいかなかった。
ジャックがここまで準備し、アルテミシアが頑張っているのだ。この状態がいつまで続くのか、判らないのだ。早くしなければならなかった。次は自分の番だと、クラウズェアは覚悟を決めた。
女騎士が動くのに邪魔になりそうなクロークを脱ぎ捨てた時だった。
すぅ、と。音も気配もなく現れた青い大獣が、アルテミシアの側に在るのを、クラウズェアは気付いた。
『いつの間に』という言葉は飲み込まれた。
目に鮮やかな青。
赤で炙られた目に優しい青。
アルテミシアが『ツユクサ』と呼んだ獣が、今は何故だか以前のような恐怖を呼び起こさなかった。……全く、ではなかったが。
「加勢でもしてくれるつもりですかい? 狼さん。……加勢と火勢って、音が一緒だな」
一人でウケている影人間を一切無視し、《視線》を遮らないように注意深く動いた獣は、アルテミシアの隣で地に伏せた。
「乗せてくれるの?」
視界の端に獣を捉えて、青の涼やかな色に心癒やされるのを感じながら、アルテミシアは、そっ、と、問うた。
獣の長い尾がゆうらりと動き、少年の頭をふわりと撫で。
それだけでアルテミシアは嬉しくなった。
「ローズも乗せてくれる?」
この言葉には、獣の琥珀の目は少女を一瞥もしなかった。
だが、
「おねがい、ツユクサ。あの剣を、どうしてもローズにあげたいの」
少年の懇願に、琥珀の目が初めて赤毛の少女を捉え、ついで、小さな鼻息を漏らした。まるで、人間のする溜息みたいに。
「ありがとう、ツユクサ。ローズ、乗せてくれるんだって」
「……えっ? そう、なの? 有り難う、ツユクサ」
クラウズェアの礼に、長い尾がおざなりに振られた。
そうして、ツユクサの青い背に乗った一行は、何の揺れも感じることなく、一飛びで剣の側まで降り立ったのだ。
本当に一飛びだった。約二五〇mを、だ。気付けば、四方八方を取り囲む止まった炎の中だった。
そこは、赤で満たされた異界。
「頭が壊れそうだ。死なないのが不思議」
とっくの昔にクラウズェアの理解は追い付いていなかったのだが、もう、色々と心の限界を超えていた。
「剣を抜きやしょう」
孔雀の言葉に促され、ひとまず一行は獣の背から降りた。
辺り一面が赤いので、どこに火柱があったのか判らない。
押し寄せる赤の情報に頭の中を占拠され、戸惑いと心細さで足の重くなっていたクラウズェアに、アルテミシアの声が掛けられた。
「ここだよ?」
いつもと同じく抑揚に乏しい声だったが、その声は、赤毛の少女に冷静さを与えた。
少年の白い手が、彼女の手をそっと引く。
「手を伸ばしてみて?」
声に導かれ、クラウズェアは手を伸ばした。
するとそこには、手に触れる硬い感触があった。その確かな感触を、剣ダコのできた手が、しっかりと握り込んだ。
その途端。
「熱い!」
叫び声と同時に、辺りを埋め尽くしていた動かぬ炎が一瞬で消え去った。いや、剣に吸い込まれた。そして、剣の柄から熱が流れ込み、クラウズェアの手を、そして身の内を焼き始める。
「ローズ!」
「ダメ、シア!」
あまりの熱さに離そうとした手が離れず、一瞬で死を覚悟した瞬間。柄を握るクラウズェアの手に、アルテミシアが両手で取り付いて引きはがそうとした。
その時の事だった。それが起こったのは。
爆発に似ていた。
クラウズェアを焼き殺すはずだった恐ろしい熱量が、彼女の手を通してアルテミシアに流れ込んでいた。
少年の華奢な体に熱が渦巻き、駆け上り、髪と目を炎の赤で染め上げる。
目は爛々と燿き、火勢に押し上げられ逆立った赤髪は、燃え盛る炎のよう。眩く燿きながら赤く立ち上ったその流れは、天を衝かんばかりであり、
そして、
その頂点から圧力に押し出されたモリオンが、ぽぉんと、空に打ち上げられた。
それは、ノーマンが火の共鳴術でアルテミシアを焼き殺そうとした時の再現だった。とはいえ、あの時とは熱量が桁違いなのだが。
「シアっ、手を離しなさい!」
耐えられる熱さになった訳を直感したクラウズェアは、大量の汗を吹き出し始めたアルテミシアに叫ぶ。
「離しちゃいけやせんぜ!」
すかさず割って入った孔雀の声に、クラウズェアが怒りの目を向けた。
「シアが!」
「お嬢ちゃんなら大丈夫です! 信じてください」
「だいじょうぶ。ちょっと熱めのお風呂に入ってるぐらいだから」
ジャックの切迫した熱誠さと、アルテミシアの健気な言葉が、クラウズェアから言葉を奪う。
いつのまにか上空から降りてきていたモリオンが、心配げな風に、少年の側でくるくる回っている。
――やがて。
剣から流れ込む熱がなくなると、色こそ深紅を保っているが、天を衝いていた髪は自然と地へ向け流れ落ち、熱さも和らいだ。
今では逆に、少年の体から、クラウズェアの体を通し、その掌中の剣へと、緩やかに熱が移動している。
「昨日入ったお風呂くらいになったね」
「ほんとう。温かくなった」
苦痛ではない熱さが二人の身の内を温め、汗が滲む。
そうやって、しばらくの時が経った頃。
アルテミシアの体から熱が流れきり、髪が白く、目が黒くなったのを確認したモリオンが、母親の体内に入っていった。
【オカアサンオカアサン】
「【ごめんね、モリオン。心配しちゃったね】」
胸中の子をあやしながら、視力を得た少年が見たものは、ありえないはずの、
そして、
奇跡のような嬉しい光景だった。
「ローズ……髪が」
アルテミシアは見た。
少女が握っていた剣は、いつの間にか消えていた。その替わり、猟師小屋で切ったはずの髪が、彼女の背に流れ落ちているのを。
「え?」
手に吸い付いたように離れなかった剣が消え去っているのを呆然と見ていたクラウズェアは、幼なじみの声に促され、反射的に手を後頭部に回した。
「あ」
それだけの音が漏れた。
背中の方にも手を回す。切ったはずの髪の感触があった。お下げはほどけているが。
「うそ?」
体の前に、髪をかき寄せてみた。
いつも見慣れていた、けれど、ここ数日は軽さと引き替えにその存在を失っていた赤い髪が、手に重さを、目に赤を、感じさせていたのだ。
「どうして?」
ただただ不思議だった。それしか浮かんでこなかった。
少年が言葉をかけるまでは。
「よかったね、ローズ」
『よかった』と言われた。反射的に、認めてはならないと思った。
「わたし、べつに。ちがうの! 気にしてなかったの!」
選ぶべき言葉が判らない。気ばかり焦って、言ってはいけない、言いたくない言葉が出ているような気がした。
「ちがう! 後悔なんてしてない! 髪なんて、べつにどうだって! べつに……あ」
頬を伝う感触に、少女はますます焦ってしまう。
「ちがうの、これは」
そうして一生懸命に言い訳をする相手――アルテミシアの方を見た彼女は、幼なじみの男の子が微かに笑うのを見た。
「いいの、ローズ。喜んでいいの。ローズが嬉しいと、ぼくもうれしいから。いいの。髪が戻ったんだよ? よかったね」
そう言って精一杯背伸びした少年は、背の高い少女の頭に手をのっけ、よしよしと、頭をなで始めた。
それで、もう駄目だった。
せき止めていたものが決壊し、ぼろぼろと大粒の涙が零れ始めた。
あふれ出る嗚咽を聞かれたくなくて、目の前の男の子にすがりつき、肩の辺りに顔を埋めて泣いた。アルテミシアが頭を撫で、長くなった赤い髪を指で梳く度に、泣き声も涙も沢山出てしまう。
クラウズェアは泣いていた。
涙に濡れた頬に白い手で触れると、あの日の晩、決断の夜に感じた強ばりは無くなっていた。
アルテミシアの願いは、叶ったのだ。




