四章⑫『誰が一番遠くまで飛ばせるかな?』
「お早う。よく眠れた?」
気がつくと、アルテミシアはベッドで横になっていた。
ここは書庫兼本草庫。その、部屋に一つだけあるベッドの上で、アルテミシアは目覚めたのだ。
少年は、むくりと起き上がる。
「ぼく、寝てたの?」
いつ寝たのか覚えていなかったアルテミシアは、不思議な感じがした。
「覚えてないの? 昨日、そこの机で本を読んでいる最中に、眠ってしまってたのよ?」
そう言って微笑む幼なじみの少女と視線を合わせると、胸中のモリオンがガタガタと小刻みに震える感覚があった。なんだかそれは、とても大きな獣に襲われた仔犬のような感じで、まるでモリオンがクラウズェアを恐れているかのようである。
「シア? どうしたの? なんだか顔色が悪いわ。もしかして体が悪いの?」
心配そうな少女の声に、アルテミシアは「だいじょうぶ」と答え、靴を履いた。
「ぼく、顔を洗ってくるね」
「わかったわ。はい、タオル」
「ありがとう。……ねぇ、ところでどうしてジャックさんはそんな所でそんな格好をしているの?」
視線の先には、腕組みして椅子に座る女騎士の足下で、土下座をし続けるジャックの姿があった。
「……」
ジャックは黙して語らない。
「ジャック、シアと会話することを許可する。ただし、必要最小限で済ませるよう」
クラウズェアの厳しい声が発されると、
「へへぇ! 発言をお許し頂き、まことにありがとうございやす! アルテミシア殿下、この下賤で破廉恥で品性が下劣で浅ましいドングリ以下の影人間めにお声がけ頂きやして、まことにっ、まことに有り難うございやすぅ!」
そう言いながら床に額をこすりつけるジャックに、アルテミシアは驚き、クラウズェアは苛立った声で急かした。
「早くなさい」
「ひぇっ? は、はい! アルテミシア殿下、あっしは罰を受けてこうしているんです、はい」
「罰? 罰って? それと、殿下って呼んで欲しくないよ」
「滅相もございやせん! あっしは昨晩から真人間になると誓ったんでやんす! そのためには神殿騎士様のお言いつけを守らねぇと。そうしねぇと」
そこから先は、ガタガタと震えるばかりで要領を得ない。
「ねぇ、ローズが何か言ったの? お願い、ジャックさんにやめるように言って? こんなのヤダよ」
そうやって潤んだ目でお願いされると、クラウズェアは弱かった。昨晩、アルテミシアに何か不埒なことをしていたようだったので、散々に説教をした挙げ句、一晩中土下座をさせたまま寝たのだ。もう、許してやっても良い頃合いかと、神殿騎士は判断した。
「ジャック、この度の所行、シアの寛大な心に免じ、恩赦を出す事にする。以降、性根を入れ替えて精進に励むように」
「ははぁっ、寛大なお計らい、まことに有り難うございやす! このご恩は一生忘れやせん!」
これにて、お白州はお開きになった。
「あまいね」
小さな口でさくりとかみ付いたスイカは、甘くて水気たっぷりで、アルテミシアの喉を潤した。一晩滝壺に浸けておいたので、よく冷えている。
「うん、甘くて美味しい」
クラウズェアも満足げに、しゃくしゃくと頬張っている。
恩赦により刑期を終えたジャックが、『スイカ割りをしやしょうぜ』と提案したので、炎天下でスイカ割りをしたのだ。目隠しをして、立てた棒きれに額をつけて三回回る所からきちんとやった。
いざやってみると、これは、アルテミシアに分があった。割ったのもアルテミシアだ。クラウズェアは悔しそうにしていたが、スイカに齧り付いたら機嫌が直った。
スイカの他にも、竹筒に入れられたヨーグルト飲料と、二度焼き堅パンや乾燥果物、羊乳のチーズ、豚の塩漬けもも肉も並んでいる。
ヨーグルト飲料は、甘酸っぱくて仄かにしょっぱい味がした。
それ以外の物は、もとから保存食として持っていた物だ。
ビスケットは硬いのでヨーグルトに浸して食べた。
羊乳のチーズはヨーグルトのような甘い香りがし、食べると濃厚で癖のある味がする。
ドライフルーツはベリー系の実を乾燥させた物で、アルテミシアの好物の一つだ。
ハムは――というか、肉類はクラウズェアしか食べない。アルテミシアは小さな頃から肉が苦手で、幼なじみを心配させたものだ。
だが、やはり今まで食べたことのある物よりも、今日初めて食べたスイカは二人に感動を与えた。
「帰る時、ルクルクにも持って行ってあげよう?」
「それは良い考えだわ」
ここは洞窟入り口付近。昨日、食事を摂った場所だ。
割ったスイカを中まで持ち運ぶのが面倒だったし、景色を見ながら食事をした方が美味しいと思ったからだ。実際、熱帯雨林然とした森の風景と比べ、ここは長閑ですらあったし、滝の音が耳に心地良い。
また、入り口近辺とは言え、洞窟内に一歩でも入ると驚くほど涼しくカラッとしており、とても快適なのだ。
髪も一晩で乾いた。それなのに、乾燥しすぎて髪や肌を傷めたりはしていない。
二人が仲良くスイカを食べている時のことだ。アルテミシアが、上目遣いで隣の少女にこう言ったのは。
「それでね? その……してもいい?」
クラウズェアを見上げる赤い目は心なしか潤んでいる。不思議と、婀娜っぽいのに媚びの色はなく、清らかな艶やかさがあった。
その仕草に、ジャックの視線が釘付けになる。
いっぽう、少年のお伺いに、少女はそこからうずうずした雰囲気を感じ取っていた。
「でも、やっぱりはしたないわ」
どうせ最後には屈するのだろうが、一応渋ってみせるクラウズェア。
「少しだけ。ね? 少しだけなら良いでしょう?」
「うーん」
腕を組んで考え込むそぶり。ちらりと少年を見ると、祈るように両手を組んでいる姿が緑の目に映る。仕方が無いと、赤毛の少女は溜息を吐いた。
「もう、しようのない子ね」
そのお許しの言葉に、
「やったぁ」
と喜ぶアルテミシアと、
「ごくり」と唾を飲み込むジャックとの二つの反応があった。
そして勿論。
「あれ? うまく飛ばない」
スイカの種飛ばしが始まったのであった。
ぷっ、と呼気によって吹き飛ばされた種は、洞窟を出ることも無く、あえなく地に落ちた。
「ローズもやってみてよ?」
「わたしも?」
抵抗はあったが、どうせ最後には押し切られるのだ。ならば楽しむより他は無いと割り切り、クラウズェアはスイカに齧り付いた。そうしてぷっと勢いよく種を吐き出す。
「すごぉい」
年上の少女の肺活量は少年を圧倒しており、洞窟を出て何メートルも飛び、炎天下の草の中に落ちた。少年の素直な賞賛の言葉と尊敬の眼差しに、スイカ割りで傷ついた自尊心も、たちまち回復した。
その、楽しげに児戯に興じる純真な少年少女の隣で、不純で浅ましい影人間は体育座りでいじけていた。
「いやね? そりゃね? こうなるだろーなーたぁ思ってやしたよ? けどね、ちっとばっかり……こう……色っぽい展開と言いますか、夢見さして貰っても良かったんじゃぁねぇですかねぇ」
全く学習していない脳足りんは、神殿騎士に聞かれれば一晩土下座では済まないだろう危険な独り言を漏らしている。だが、その破廉恥ワードは幸か不幸か聞かれることは無かった。
「あ」
最初に気付いたのは、またもアルテミシアだった。
森の中から、琥珀色の目がアルテミシアを見つめている。
「青い、狼」
アルテミシアの視線につられて目をやれば、昨日の青い大獣の姿が木々の向こう側に見え隠れし、暑くもないのにクラウズェアの額に汗が浮き始めた。
「どういうつもりでしょうね? 昨日は奴さんのおかげでここを見付けた訳ですが」
胡座をかいていたジャックが、油断無く獣を視界に入れる。
「スイカが欲しいのかな? お腹がすいているのかも。おいで?」
琥珀色から目が離せないでいるアルテミシアが、まだ口を付けていないスイカの断片を手に取り、前へ差し出して見せた。
「狼は肉を食べるから、スイカは食べないと思うわ」
クラウズェアのもっともな言葉に、だが、その青い獣はゆっくりと洞窟に近づいてきたのだった。
「来ますね」
ジャックが低い声で呟く。
クラウズェアは言葉もなく、片膝立ちになりながら脇に置いた鉈に手を伸ばす。柄を握って初めて、掌に汗が滲んでいるのに気付いた。スイカを食べた後だというのに、喉が渇く。
二人の緊張をよそに、アルテミシアは獣の美しさに目を奪われていた。
昨日、遠くから見た〈夏の間〉の海を思わせる、緑がかった明るい色や、黑を含んだみたいな濃く深い青まで、青という青を一身に集めたその毛色が、光と風に撫でられて波打つようになるのを、瞬きもせずに見ていた。
いっぽう赤毛の少女は恐れていた。
故郷のノーザンコーストで見る真冬の海よりも凍えそうな冷たい青に。触れれば全てを――命を呑み込んでしまいそうな深淵を窺わせる青に。空の青とは違う、海の青に。
ジャックが言った。
「あの世みてぇな色してますねぇ」
その言葉に、音も無く近寄ってきていた大獣は、すい、と、ジャックの方を見た。
犬とは全く違う、鋭くつり上がった切れ長の目が、黒い人影を見る。
寒い、と、クラウズェアは思った。少し歩けば真夏の炎天下が広がっているのに、それがとても遠く感じられた。アルテミシアを守るという使命感が無ければ、みっともなく泣き出してしまっていたかもしれない。
凍ってしまったように動かない体を少年の前に差しだそうと、気力を奮い起こした時だった。
「あの世って、とても寂しくて怖い所だって聞いていたけれど、こんなにも綺麗なんだね。【モリオンもそう思うでしょう?】」
赤い目をした男の子が言った。
琥珀の目がその子を見た。
クラウズェアは呼吸を忘れ。ジャックは身じろぎ一つしない。
そんな中、モリオンが弾む感触が伝わってきて、アルテミシアは微かに笑んだ。
獣が――直ぐ側まで寄ってきていた巨体が、後ろ足をたたみ、座った。大きな獣だったので、洞窟の入り口がふさがれたみたいになって、中は暗くなった。
「この世界じゃあ、あの世は怖くて寂しいとこなんですかい?」
どこか、いつもより道化師じみたジャックの声に、一瞬だけ獣の耳が動いたが、目も顔もアルテミシアを向いたままでいる。
「うーん……あの世にもいくつかあるみたいなんだけれどね? 神様達が居る天の国に行って楽しく過ごせる人もいるし、ぼくみたいに暗くて寂しいとこにいっちゃう子もいるんだって。こんなに綺麗なら、天の国の色なのかな?」
大きな獣の前の儚げな少年が言うのを聞いて、クラウズェアは頭の中が燃えたのかと思うほどに怒りを覚えた。
「誰が、そんな事を云ったの?」
もう、恐怖など無かった。それより大事なことがあった。
だが、彼女は怒りを抑えるのに必死で、問うた先のことまでは考えが至らなかったのだ。だから、幼なじみの返事を聞いて、これ以上なく後悔した。
「……お父様とお母様が云ってた」
それは、少年がもっと幼かった頃。牢屋みたいな暗い部屋の前で、両親が話すのを聞いたのだ。
万が一にでも呪いの解ける兆しが見えやしないかと、たまに部屋を訪れる父と母。二言、三言の事務的な、親子の会話とは思えぬような、それでも男の子にとっては待ちわびたその時間が終わり。別れがたさと寂しさをどうにかしたくて、せめて遠ざかる靴の音でも聞きたかった少年が、扉に耳をあてて聴いた音が、
『あんな呪われた罰当たりな子供、死んだら地の底に落ちるだろうよ。あの部屋よりも、暗く、寂しく、おぞましい場所にな。だいたいあれは、本当に俺の子か?』
という、苛立った父親の言葉と、すすり泣く母親の言葉にならない声だった。
親と言えど人の子だ。それが王族だとしても、人間が持つ当たり前の感情を持っている。優しい時もあれば、醜悪な心が表に出る時もある。子の前で言わなかっただけ、まだ親心なり理性なりが働いたのだ。結局、むごい事になりはしたのだが。
『暗い』というのは、目の見えぬ少年には理解できなかった。
『おぞましい』というのも、難しくて解らなかった。
だが、『寂しい』というのは解った。少年はいつだって寂しかったからだ。そして、死ねばもっと寂しくなるのかと思い、恐ろしくなった。
……もっとも、『死』の意味すらよく解っていなかったのだが。
ぎりッ、と、クラウズェアの奥歯が鳴った。圧力に砕けそうになった。いま彼女の眼前に国王サイラスと女王ベラが居たら、どうなっていただろう? 忠義の騎士はどうしていただろうか?
クラウズェアは神殿騎士の任に誇りを持っている。
『有名無実のお飾り騎士団』
『花嫁修業の一環』
『家格に箔を付けるのが目的』
などと周りから――特に男から馬鹿にされる事の多い神殿騎士団は、実際にお転婆が過ぎる貴族のご令嬢達を閉じ込めて、少々厳しく躾け、お行儀の良い大人しい淑女になるようにと教育を受ける場所でしかない。
だが、女の身で騎士になるためには、そしてアルテミシアの側に居続けるためには、神殿騎士以外の道はなかった。
他国と違い、女王が単なる王の配偶者でしかない“王妃”ではなく、王と同格の存在である“女王”として君臨するグリーンウェルでは、女性の地位が比較的高い。また、身分の別なく能力次第で召し抱えられる〈常葉の乙女〉の存在も大きい。女性が騎士になれるというだけでも、驚くべき事なのだ。
騎士叙任権を持つのはサイラス王だ。彼から神殿騎士の任を授かった日を、クラウズェアは忘れない。また、アルテミシアの遊び相手として彼女を選んだのも、両陛下だ。この運命の導きと、王子の両親に深い感謝をしていたのだ。
それなのに、これはなんだ?
クラウズェアは思った。
授かった任とは? 守るべきものとは? 騎士とはいったい何なのだ?
女騎士は判らなくなった。
こんなむごい仕打ち、親が子にして良いことなのか?
幼なじみの少女は、悔しいのか悲しいのか、判らなくなった。
己の中で渦巻く思考と感情に呑み込まれそうになった時、ふと、今では髪の黒い男の子の姿が緑の目に映った。
アルテミシアは、普段通りだった。さっき見せた一瞬のかげりは、今はもう見えない。心の中から無くなった訳ではないだろう。だが、あの暗い部屋に居た頃よりは微かな表情に明るさが見え隠れする。
「食べる?」
白い手が、狼の顎門の前に赤い実を差し出した。
止めるべきだろう。悠長に思考している場合ではない。
だが、ふっと、あの恐ろしい獣が、人など丸呑みにしてしまうだろうこの恐怖の塊がどんな反応をするのか、少女は見てみたくなった。親からも捨てられたこの何の落ち度も罪も犯していない男の子の贈り物を、どうするだろう?
クラウズェアは、張り詰めた念いで見つめた。祈る時の気持ちに似ていた。
青い獣は――高い位置にあった顔をアルテミシアの方へ寄せたかと思うと、大きな口をがばりと開いた。ダガーみたいな鋭い歯や、ハンマーみたいな頑丈そうな歯が並ぶ中、上下一対ずつの牙がサーベルみたいに突き出し、この世に引き裂けぬ物などないとばかりに、その存在を誇示していた。
地獄のような光景であった。あの世に繋がる門のようでもあった。
その、危険きわまりない門の内側へ、嫋やかな手を差し入れたのだ、アルテミシアは。
獣は、琥珀の目でそれを見下ろした後――ややあって、ゆっくりと口を閉じた。閉じる時、鋭すぎる牙で食いちぎってしまわぬよう、慎重にスイカの実だけをかじった。
「おいしいでしょう? そこの畑で採れたんだよ。この洞窟に住んでいた人が作ったんだと思う。きっと、スイカ作りの名人なんだろうね」
人形みたいな男の子が見せた他愛の無い興奮は、なんだかクラウズェアの心に救いをもたらしでもしたかのようだった。
ジャックは、黙ってじっと推移を見つめている。
そして青い獣は、大きな口には小さすぎる実を飲み込むと、間近で見るとなお強調される巨体を、重さを感じさせる事なく横に動かした。
洞窟の入り口が半分開き、向こうが見えるようになった。
それから、森の方を向いた獣の口から鋭く風を切る音が聞こえたかと思った時には、大量のスイカの種が矢のように撃ち出されて、それぞれ森の中に消えたり木にぶつかって幹に突き刺さったり砕けたり、賑やかな音を奏でたのだった。
「……すごぉい」
無邪気な賞賛の言葉に、アルテミシアの方を向いた獣の唇がめくれ、牙をむき出しにした。それは、人間の笑った顔に似ていた。
「まるで手裏剣術ですねぇ。一気五剣も目じゃねぇや。それとも、マシンガンって言った方が近ぇかな?」
このジャックの言葉に今度は、視線一つ、青い耳一つたりとも動くことは無かった。
ちなみに[一気五剣]とは、一息に五つの手裏剣を打ち込んでしまう、早業のことである。
それはさておき。
「ねえ? やっぱりお腹がすいてたんだよ」
というアルテミシアの言葉に、頷いて良いものか判断に困ったクラウズェアは、
「そう、かもね」
とあいまいな返答をし、残りのスイカを与えることに同意した。
獣は、割れたスイカをぺろりと平らげ、その度に種を飛ばして少年を楽しませた。
大きな体でもっと食い足りないだろうと、広げられた籐の上に並ぶ食事を勧めたところ、ドライフルーツとビスケットは食べた。ヨーグルトも、チーズも、ハムも食べず、背負い袋から出した豚の燻製バラ肉や腸詰め挽肉には見向きもしない。
「変わった狼だな。こんな話は初めてだ」
クラウズェアは価値観の崩壊に戸惑っている。
「肉や乳……動物性タンパク質は食べねぇのか?」
ジャックは思案げに独り言つ。
「ちょいと質問ですが、そのビスケットにゃあ乳や卵は混ぜてありやすかい?」
ジャックの唐突な問いに、
「いや。できるだけ保存がきくように、ミルクや卵を使っていない物を選んだ。その方が安いというのもあるし、あとは」
クラウズェアの視線が、獣の口にドライフルーツを入れるのに一生懸命な少年を向いた。
「あの子は肉や卵が食べられない。知らずに口に入れても吐き出してしまうのだ。少しだけ混ぜて調味料で味を誤魔化しても、気付いてしまう。正確に言えば、体が勝手に反応して、吐き出させてしまうようだ。困ったものだ。人の気も知らないで」
口調こそ愚痴めいた物だったが、その視線は心配と慈愛に満ちている。ジャックの脳裏に、風呂場での『大切だ』と言っていた少女の言葉がよみがえった。
「なぁに、ミルクと豆と、あとは果物、野菜、穀物――白パンだけじゃあなくって黒パンやら他のもんやら食ってましたらね、全く問題はありやせんよ」
「まことか?」
振り向いた女騎士に、
「誓って。ただ、ミルクは火を通さねぇ方がいい。滋養が減りやすからね。これはあらゆる食いもんがそうなんですがね? ただまぁ、なんでもかんでも生ものばっかじゃあ、食うのに不自由だ。それに、体も冷えやすくなっちまう」
力強いジャックの言葉が答え、彼女を感心させた。
「お前は、まこと博識なのだな? 影の国で学者でもしていたのか? いや、本草とやらにも詳しかったな。薬師か何かか?」
「なあに、そんな大したもんじゃあありやせんよ。ただ、ちぃとばかり心得があるってぇだけで。ババアにイヤイヤ仕込まれただけです、はい」
手を大げさに振って謙遜してみせるジャック。
「ご母堂は、さぞやご高名な方だったのだろうな」
昨晩の土下座刑を申し渡した時とは真逆に、今やクラウズェアは尊敬の眼差しで影人間を見ていた。
今日は、クラウズェアの中で大きな転換が行われた日になった。……いや、旅に出てからそういったものの連続ではあったのだが。
ともあれ。
照れ臭そうにへへと笑うジャックとクラウズェアが話していた頃。少年と獣もやりとりをしていた。
「ねえ、あなたの事、ツユクサって呼んでもいい?」
アルテミシアの問いかけに、琥珀の目が静かに見返した。先を促すように。
「遠い遠い国で育つツゲっていう珍しい木でできた櫛があってね? それを包んでいた布がツユクサっていう青い花で染められた物だったらしいの。凄く凄く綺麗な青だったみたい。ローズが……あの、ぼくの幼なじみがしきりに云ってたよ。……すぐに色が褪せちゃったみたいで、お世話してくれる人が捨てちゃったんだけれど」
残念そうに語られた露草という植物は、夏頃に咲く青い花のことである。日の昇る前から咲き始め、日の強くなる頃には萎れてしまう、朝顔に似た可憐な花だ。花弁からは、明るい青から暗い青まで、色んな青が取れるのだが、色褪せやすく水にも弱い。儚い染料なのだ。千草や月草、蛍草、藍花などの名でも呼ばれる。
勿論、こんな事まで少年は知らない。ただ、一番仲の良い人物がしきりに『きれい』と繰り返すので、露草色は青の中で一番綺麗な青になったのだ、アルテミシアの中では。
「すごぉく綺麗なんだって。この世で一番綺麗な青だよ、きっと。きっと、あなたの色のことだよ。きっときっとそうだよ」
身振りを知らない少年は、表情も声も変化に乏しかったが、精一杯の思いを乗せて露草の美しさを力説した。
青い獣は、年経た琥珀の目でアルテミシアの赤い目を見ている。
クラウズェアとジャックも、一人と一頭を見守っていた。
獣は――片方の目でジャックとクラウズェアを視界に入れたまま、もう片方の、アルテミシアだけ映す目は閉じて見せた。そうして、少年の腕一本分の距離を更に詰め、白い顔や首筋の匂いをかいだと思ったら、真っ赤な舌で白い顔をべろりと舐め上げたのだった。
大きな舌だったので、一舐めで顔中がベチョベチョになった。
クラウズェアは悲鳴を呑み込むのに必死だった。ジャックは「いいなぁ」などと呟いている。
とうのアルテミシアは濡れた顔できょとんとしていたが、ややあってから、ふふっと小さく笑った。
それで、獣は去った。




