一章①『色なし王子様と、赤毛の女騎士』
このページを開いて頂き、まことにありがとう御座います。
つたない部分が目立つかと思いますが、もし読み進めて頂けたなら、とてもしあわせです。
アイタイ。
アノヒトニアイタイ。
近くに居るのに、会えない。近くに居るのに、触れない。
タスケタイ。
アノヒトヲタスケタイ。
あの人はイジメられていた。多くのモノからイジメられていた。なんにも悪くないのに、イジメられていた。
ユルセナイ。
アイツラガユルセナイ。
自分だったら、きっとあの人を守れると思った。
デモ、ドウヤッテ?
自分だったら、あの人を喜ばせる事ができると思った。
デモ、ドウヤッテ?
ここは、とても冷たかったから。
ここは、とても寂しかったから。
アイタイ。
あの人に、会いたかった。
その部屋の家具は、三つだけ。
小さなベッド、小さな机と、小さな棚の、三つだけ。
アルテミシアは、そんな殺風景でさびしい部屋にいた。
この世で二番目に心なぐさめてくれるであろう、小鳥たちのさえずりに耳を傾けながら。
唯一の明かり取りである格子のはめられた窓の枠が、可愛い歌い手達のステージだ。
ちゅんちゅん、ちちち。
ちちちち、ぴぃよろ。
暗い石造りの部屋を、柔らかい高音が二重三重に満たす。
けれど、部屋の暗さなんて、その主には全く関係がなかった。
何も見えなければ、暗いだの明るいだのは、意味をなさないからだ。
生まれついての盲目の、アルテミシアにとっては。
だがそれでも、この小さく可愛い友人達と、あともう一人。最も心許せる人がいてくれたら、それだけで良いのだから。
けれど、それも、
「今日でお別れだね」
朝食の時、お世話の巫女達に気づかれないようにと、こっそり取っておいた白パンを小さくちぎり、窓枠に置く。可憐な歌い手達を打ってしまわないように、慎重に、ゆっくりと。
「こんなにきれいな声なんだもの。きっと、とってもきれいな羽の色なんだろうね。いつもみんな仲良しで、外にもお友達や家族がいっぱいなのかな? ……一度きりで良いから、あなたたちを見てみたかったな」
小鳥たちがパンをつついたり、少年の、白パンよりもなお白い、雪のように汚れなく嫋やかな手に乗って遊んだりと、しばらく時間がたったあと。
コツリ、コツリ、コツリ。
少年の、人より優れた耳が音を捉えた。彼が最も待ちわびる、いつも心待ちにしている、靴の音。
それから、ドアを叩く音が鳴った。
こんこんこん。
規則正しく、丁度三回。
「ローズ?」
「はい。失礼致します」
部屋の主の問いかけに、生真面目そうな女性の声が答えた。
ドアを押し開いて入ってきたのは、腰までの赤毛を三つ編みで一つにまとめた、声にも増して真面目くさった顔の、背の高い少女だった。
クラウズェア・セルペンティスは、折り目正しくお辞儀をすると、丁寧かつ静かにドアを閉め、定規で測ったような均等の歩幅でアルテミシアへ歩み寄った。
コツリ、コツリ、コツリ。
皮でできた長靴が、石床を鳴らす。
飾り気のない礼装服とズボンできっちりと身を包み、腰には剣を吊している。彼女は騎士であり、さらには、この部屋に帯剣で入室できる権限がある。
整った容貌の中にある、緑の虹彩で縁取られた瞳が、パンをついばむ小鳥たちへと向けられ、ついで、とがめるような視線が少年に向けられた。
「殿下」
いつものお説教が始まる。
「お食事を残してはいけないと、あれほど申し上げているではありませんか。けっしてお体が丈夫ではないのですから、しっかりとお食べになりませんと。これでは、外出もいつになるか」
両者の身長差は、優に頭一つ分以上。
成人男性ほども上背のあるクラウズェアが、いかにも華奢で少女然としたアルテミシアを見下ろすと、まるで大人と子供だ。凜々しい騎士と儚げな少年の対比は、身分の差があったとしても、見る者に一方的な関係を想像させるかもしれない。
だが、二人の関係は、少し特別だった。
これまでなら、もっと長いこと続くお小言も、アルテミシアの幽かな笑みでさえぎられた。クラウズェアにしか判らない、彼女だけが知っている、かわいそうな男の子の、小さな小さな笑顔。
「何がおかしいのですか」
とがめる言葉に、
「ううん。おかしくなんてないよ。ただ、ローズはいつも優しいなって、思っただけ」
三つ年下の少年の言葉で頬を赤く染めるはめになった女騎士は、本来なら警戒心の強いはずの小鳥たちが、いまだのんきにパンをつついているのを恨めしげに見やると、咳払いを一つ。居住まいを正した。
「殿下、御髪に櫛を入れましょう」
「うん、お願い」
いつもよりも心なしか楽しげな色を含んだ少年の返答に、努めて気にしないようにしながら、赤毛の騎士は、髪を梳くための準備をする。
机に専用のクロスを敷き、床に届かんばかりに伸びた白い髪を、クロスの上に丁寧に置く。それから、九〇度向きを変えた椅子にアルテミシアを座らせると、その背後に立ち、戸棚にしまってあった櫛で梳いていく。
さらり、さらり。
しゅうるり、しゅるり。
薄暗い部屋の中、氷のように真っ白い髪の、その流れの中で、黄楊の櫛が、何度も何度も、上下する。
アルテミシアの髪は、とても長い。立った状態で、くるぶしを越えて本当に床に届く寸前くらいまである。
生まれて一度も切ったことがないからであり、それは、一切の刃物を通さない、不思議な髪だった。
さらり、さらり。
しゅうるり、しゅるり。
「今日は、お眠りにならないのですね」
先ほどの反撃と、少しばかりからかうような少女の声色に、アルテミシアは「うん」と答えた。
「だって、眠ってしまったらもったいないでしょう? せっかくローズに梳いてもらってるのに、ね?」
この、いちいち悪気なく素直な返答をよこす少年に、やはり、生真面目な女騎士は、どうしようもなく赤面してしまう。
けれど、けして居心地が悪いわけではなかった。
二人にとっては、とても心安らぐひととき。
「終わりました」
時間をかけて丁寧に梳いた後、首の後ろと膝裏辺りの二カ所を、二つの赤いリボンでまとめる。そうしないと、白い髪に全身がおおわれて、繭にくるまれたみたいになってしまうからだ。
「ありがとう」
一拍おいて、
「その櫛、もういらないから、ローズにあげるね」
そう続いた少年の、思いがけない言葉に相当びっくりしたのか、
「シア、でもっ」
口を衝いて出た言葉にクラウズェア自身が驚き、慌てて訂正する。
「殿下、ですが、その櫛は遠い異国から取り寄せた珍しい櫛で、たいそうお気に召していらしたはすでは?」
この、生真面目で心優しい幼なじみの言葉に、やっぱり彼女にしか判らない幽かな笑みを浮かべながら、アルテミシアは言った。
「うん。だけど、いらなくなっちゃった。……捨てるのはもったいないから、できれば、ローズにもらってほしいな」
懇願をにじませた言葉に、断ることなどできず、
「はい。ありがたく、頂戴いたします」
櫛を押し頂き、ハンカチで包むと、それは少女の懐にしまい込まれた。
「ところで、殿下。本日は所用で都の別宅へ帰らなければなりません。申し訳ございませんが――」
「うん、わかってる。後のことは側仕えの巫女達がやってくれるから、ローズは家でゆっくりしてきてね」
クラウズェアの言葉をさえぎって、
「気にしないで」
と伝えたアルテミシアは、いつも通り、生真面目な女騎士が止めるのも聞かず、ドアのところまでわざわざ向かい、彼女を送り出した。
「……」
閉まった扉に軽い背を預けた少年の口から、ふうっと、息が零れ落ちる。
「ばいばい、ローズ………………約束やぶって、ごめんね」
さざめく鱗葉大陸の西に浮かぶ島国、グリーンウェル。
東端を南北に走る不可侵山脈を始め、大小の山々、緑の高原、縦横に流れる川と点在する湖――草木の緑と水の青に満たされたその地は、非常に牧歌的な国であった。
そんな、山河ゆたかなこの国の、第二王子の身分にあるまじきアルテミシアの部屋を辞したクラウズェアは、いつもの彼女にしては精彩を欠いた――だが、同僚の騎士達や、神殿の廊下を行き交う巫女たちよりはきびきびとした歩調で、男子禁制の聖域である神殿の廊下を歩いていた。
また、巫女とすれ違う。
腰を越す藍色の髪と、同じ色した目を持つ、〈常葉の乙女〉だ。緑を基調とした祭祀用長衣に身を包み、瑞々しい葉の色を思わせる衣の、その上を流れ落ちる藍の髪の中で、銀細工の髪飾りが落ち着いた輝きを放っている。
お互い、会釈を交わす。
淑やかさを体現したような巫女は、だが、去りゆくクラウズェアの背に、少々不躾な視線を投げかけた。
その視線に込められたものの意味は、好奇と、同情。
それから、女騎士が来た方角を見やり、溜息を一つ吐いたのだった。
いっぽう。
一階、エントランスホールまで来たクラウズェアは、同僚の騎士達と出会った。
彼女たち三人とも、同じように腰に剣を吊している。どれも装飾性一点張りで、実戦は考えられていない得物ばかりだ。
それぞれ、橙、黄緑、薄紫の髪を長く伸ばし、複雑に編み込んだり、装飾品で飾り立てている。
服装こそドレスシャツとズボンだったが、フリルやリボン、あるいは袖口装身具や刺繍のあしらわれた華美な物で、腰にはスカートに見立てた装飾帯を巻いている。
それまでお喋りに興じていた三人娘は、同僚であるクラウズェアを目にすると、優雅に会釈した。
クラウズェアも、会釈を返す。
そして、
去りゆく彼女を見送る三人娘は、赤毛の少女に気付かれないよう忍び笑いをし、その姿が完全に見えなくなってから、またお喋りを始めた。
「何をしているのやら知りませんが、毎日大変よねぇ」
「どうせ、怪物の世話でしょう?」
「その噂、本当なのかしら?」
「例の、〈色なし王子〉?」
「そうです、それですわ」
「さあ? でも、ただでさえあんなみっともない赤毛なのに。あれでは嫁の貰い手は無いわね」
「ああ、可哀想!」
「なら貴女、代わって差し上げたら?」
「いやよ! 冗談でもそんなおぞましい事は仰らないで頂戴」
それから彼女たちは笑い合い、意中の殿方は誰だとか、腕の良い仕立屋にドレスを作らせただとか、いつもの話題に花を咲かせ始めたのであった。
神殿は島に建ち、島は湖の央にある。
神殿から出たクラウズェアは、巫女や神殿騎士が一般に利用する渡し船ではなく、予備の小舟で対岸へ漕ぎ出した。
交代制で渡し守をする神殿騎士と、顔を突き合わせていたくないというのが理由だ。
ぷかりぷかりと船は進み、船に押された水面が、ゆらりゆらりと波打つ。
まるで、渡る者の心を表すように。
女騎士は考えていた。最愛の、守るべき主人のことを。
アルテミシアは、訳あって男子禁制の神殿に巫女としてその身を封ぜられている。国中の民はおろか、要職に就く臣下でも、目通りがかなう者は少ない。
聖域の奥にまします、秘せられた姫なのだ。
この国の、第二王子は。
花の顔と華奢な体を巫の装束でくるんでも、彼はれっきとした男の子だった。ただ、その身に受けた呪いのせいで、男子として生きることを否定されたのだ。
アルテミシアは白き子として生まれた。
それは、あってはならぬ事だった。そもそも、髪が真っ白で、虹彩に色がない人間など、この世の誰も見たことがなかった。
人間は、色を持って生まれてくるものだ。
太陽を模した金色を最上とし、青、茶、緑、紫、橙、黑、種々それらの色を髪や目に持つ。クラウズェアの赤い髪も、あまり好かれる色ではないが、常識の範囲内だ。
だが、アルテミシアは異常だった。
その異常さは、天変地異にも等しいものだった。彼を取り上げた王室お抱えの産婆なぞは、赤子を見た瞬間に、驚きのあまり心の臓を止めてしまったほどだ。女王陛下は寝込んでしまい、国王陛下も、妻を言祝ぐ事も忘れ、恨み言しか口にする事ができなかった。
様々な手段が講じられたが、どんな薬も祈祷も意味はなく、どんな刃物も通さず、あらゆる染料にも染まらぬ髪に、秘密裏に集められた国中の知恵者がさじを投げた。
この事件は、秘せられた。そして、遠大なる禊の儀が執り行われた。
古来より、忌み子の呪いを解く風習として、『性を変えて育てる』というものがある。そして、穢れを落とす場所として、神殿ほど最適な地はない。
それから、十四年の月日が流れ……。
「殿下……わたしはまだ、貴方を連れ出せないでいます」
「危ないな」
低く豊かな男性の声が、クラウズェアの意識を記憶の海より引き上げた。
「心ここにあらず、か?」
そう声をかける男が立つ、その岸へと、小舟は流れ着いた。
細く引き締まった体と、理知的な顔に髭を蓄えた壮齢の男。名をフィデリオと言う。クラウズェアの剣の師だ。
「先生!」
慌てたクラウズェアは、大声を上げてしまう。
「そんなことでは、水に落ちるぞ?」
フィデリオの言葉にただただかしこまった女騎士は、慎重に岸へ一歩を踏み出した。
彼女は、鏡のように陽光を照り返す湖を渡りきり、俗事の待つ向こう岸へと降り立った。
「お目通りを?」
“誰に対して”が抜かれた問いに、「はい」と、弟子は神妙に答える。
思案げに神殿を見やった後、フィデリオが唐突に言った。
「剣を抜きなさい」
この言葉に驚くクラウズェアだったが、師の命に従い剣を抜く。
レイピアという種類の、刺突用の片手剣で、すらりとした細身の直剣だ。柄を覆う、複雑で優雅な曲線を描く護拳と相まって、非常に美麗な印象を与える剣だった。
だが、人を殺せる鋭利な切っ先を持つ、紛う事なき“剣”であった。
フィデリオも剣を抜いた。クラウズェアの物と作りは同じで、彼の物は、彼女の細剣と比べると剣身がやや長い。
お互い距離を取り、半身――敵に対して体の側面を向ける姿勢――で中段に構える。
「来なさい」
師の呼びかけに応え、突きかかるクラウズェア。
軽快なステップに乗った素早い突きを、剣先の角度を変えながら腕を左右に水平移動させる事で難なくいなすフィデリオ。
果敢に攻撃を繰り出す弟子。喉を、腹を、あるいは胸へ突き込んでいく。そして、ときおり師匠が繰り出す突きを、レイピアで左右にいなしたり、ステップバックで躱し、素早くステップインして反撃。
クラウズェアが小刻みなステップで前後運動を繰り返すのに比べ、フィデリオはほとんどその場から動いていない。
フィデリオが突きを繰り出す。
今までのものよりも鋭く。
いなしきれないとふんだクラウズェアは、|ステップバックで攻撃から逃れる《、、、、、、、、、、、、、、、》。ついで、ステップインして反撃の突き。
それをフィデリオは、下がる事なく、腰を落とす事で生まれた体の重みを剣に乗せ、クラウズェアの剣を斜め下にいなす。そのまま、低い姿勢からの大股のステップインで、瞬時に間合いを詰める。
集中するあまり、視界が狭くなっていたクラウズェアには、師の姿が消えたかのように見えた。
「ッ?」
彼女が気付いた時には、下から跳ね上がったレイピアが、喉元に突きつけられていたところだった。
「――参り、ました」
荒い息をつきながら、クラウズェアは声を絞り出す。
それを合図に、師弟は剣を収めた。
「帰宅は今日だったか?」
「はい」
「時間を取らせてしまったな」
「いえ、そんな」
否定するクラウズェアに、
「すぐに帰るのだろう? ご両親も、さぞや会いたがっておられるだろう。一刻も早く、帰りなさい」
その言葉に多少いぶかしく思うクラウズェアだったが、素直に、
「はい」
と答え、その場を去った。
赤毛の揺れるその背をを見送りながら、
「ここで会ったのも、運命か。さて、間に合うか」
ぽつりとつぶやき、剣士は右手首のブレスレットをひと撫でした。
アイタイ。
アノヒトニアイタイ。
水の中から見上げながら、今日も想う。
イイナ。
アノヒトニアエテイイナ。
今日も、赤毛の人間が来た。あの人に会っていたのだ。うらやましい。
あの赤毛の人間は、ほかのモノ達のように、あの人をイジメない。悪いヤツではない。
デモ、ウラヤマシイ。
何よりも、自分とあの人を巡り合わせてくれた人間だ。
デモ、ウラヤマシイ。
あの人に会いたかった。
優しい人。温かい人。
もう一度、抱きしめて欲しかった。
アノヒトニ、アイタイ。