四章⑤『天焦山』
円環状の不思議な雲が見下ろす場所に、天焦山はあった。
そこは、〈異界〉と呼ぶに相応しい場所であった。
「ジャングルだなぁ、こりゃあ」
ジャックが独り言ちた。
裾野あたりから密度の薄い林を形成し始め、やがて密林へと至っている。木の生い茂る密度が高くなるにつれ、気温も湿度も上がっていった。
「なんだこの蒸し暑さは」
クラウズェアがたまりかねて呻く。
極彩色の鳥たちが鳴き声を上げ、見たこともない珍しい動物や昆虫たちが樹上や地面を横切る。
「こんなにたくさん動物。それに賑やか」
首筋を伝う汗を無意識にぬぐいながら、色彩と音の洪水に圧倒されるアルテミシア。
やがて、下草の少なさからまだしも走りやすかった地面は、様々に生い茂ったツル植物が犬妖精達の足をとるようになり、びっしりと生えたコケ植物が彼らの足を滑らせかねなくなってきていた。
そうして、足が止まった。
「ここまでが限界です」
『行ける所まで行ってくれ』とのジャックの言葉に従い、ここまで運んできてくれた境内走狗隊輸送班のタッタルガルが、申し訳なさそうに言った。
「いえ、見事な働きです。感謝します」
心からの感謝と賞賛を込めて、クラウズェアは述べた。結局、彼らはここまで速度を落とすことなく来たのだ。千の言葉を駆使したとしても、この感動を納得のいくまで表現できはしないだろうと、彼女は思っていた。だから、言葉ではない礼を、彼女は選んだ。
地に降り立ったクラウズェアは、アルテミシアの手を引いて下ろしてやった。それからタッタルガルとヒューヴァウワーに体全体を向ける。
走狗隊員二名の視線が女騎士へと向く。
その二名に向かい、まず右足を引いて左足の後ろに着けた。足が交差する形になる。同時に、両の掌を上に向け、右手は胸の前に、左手は横に伸ばして地面と水平に、その状態で斜め四五度に身を折った。
騎士の礼であり、立礼で行う物の中では最敬礼になる。実に優雅だが、それだけではない。
騎士は皆、左腰に剣を吊る。また、組み討ちに備えて腰の後ろ側に短剣を差す者が多い。つまり、腕を上げて腰から離すことは“武器を抜くつもりが無い”という意思の表れだ。更に、両の掌を開いて見せることで“手に何も持っていない”事を知らせる。そして、右足を後ろに引いて更に交差させることは“容易に前に踏み込めない”事を示す。頭を下げるのは勿論、相手から視線を外して“無防備”を伝えている。総じて、“私は貴方を害するつもりは一切無く、信頼し、尊重します”という意味になる。
今では吊す剣の無い身だったが、それでも女騎士は騎士の礼を選んだ。
「貴殿らに、星の数だけの感謝を」
頭を下げたまま、クラウズェアは謝意を述べた。
この礼に対し、隊員二名は四つ足を折りたたんで地に伏せ、揃えた前足の間に鼻を突っ込み、耳を伏せることで応じた。“飛びかからない事”“匂いや音に警戒する必要が無い事”を表したのだ。クー・シーの敬礼である。クラウズェア達を背中に乗せたことが既に信頼の証でもあったのだが、それは仕事として行った事であり、彼らは今、自己判断で無防備を晒して見せたのだ。
「恐縮です」
タッタルガルが短く答えた。実直さのうかがえるその言動に、クラウズェアはこの犬妖精という種族を好きになった。
「ありがとうございました。素敵な風景が見られました」
「妖精境の疾風太郎たぁ、アンタらのこってす」
アルテミシアも礼を述べ、ジャックは意味不明なことを言った。
そうして彼らは別れた。
アルテミシアは、ヒューヴァウワーの背嚢に入っていた竹で編んだ手提げ鞄を受け取っている。中には、木製の弁当箱と竹の水筒、〈火指盤〉という登山道具、それに『下山や、何かしらのご用命の際に吹いて下さい』と言って渡された笛が入っている。
クラウズェアが荷物を持つと主張したのだが、彼女は既に馬に積んでいた分の荷を背負っている。必要のないものは置いてきたので軽くはなったが、それでも充分に重い。アルテミシアは頑として譲らず、女騎士は渋々引き下がった。
「先に寝床になりそうな所を見付けやしょうぜ」
ジャックの言を採用し、一行は辺りを探索する事にした。
「とはいえ、どちらに進んで良いやら」
鉈を手に持ったクラウズェアが、困惑した声で言った。彼女は騎士であって、戦闘技術や礼法には明るいが、登山術やサバイバル技術は持ち合わせていない。まさか、これほどまでに彼女の知っている“山”という物の概念を超えているとは思っていなかったのだ。
困惑顔の女騎士を、茹で上がらんばかりの暑さと湿気が襲い、気力と思考能力を奪っていく。服も汗で体に張り付いて、気持ち悪かった。
一方アルテミシアは楽しんでいた。彼も暑いことは暑かったのだが、それ以上に初めて見る光景に圧倒され、未知への冒険に心躍らせていた。表情こそ普段とあまり変わらなかったが。
遠くから鳥の鳴き声がする。
ピョーウッ、ピィーヨゥッ。
ピィピィホゥホゥ。
あちこちで笛を吹き鳴らしているみたいだった。
近くの地面では黄色く透き通ったまん丸のカエルが鳴いている。
ホロロロホロロォ。
クルルリクリリィ。
オレンジの実の中身だけくり抜いて手足を付けたようなカエルは、のっそりぺったり、草の間を歩いている。
「きれい。それにかわいい。リスかな?」
クラウズェアが云っていたのだ。『リスは、小さくて、まん丸で、愛らしく、可愛い声で鳴く』と。
アルテミシアがカエルに近寄って行くのを、クラウズェアがめざとく見とがめた。
「シア? どこへ行くの?」
アルテミシアはカエルに近寄りながら答えた。
「リスを抱いてみようと思って」
「リス?」
少年が向かう先を見て、赤毛の少女は絶叫するところだった。
「シ、シ、シアっ。シアだめ! だめだめだめぇ!」
慌てて駆け寄り、少年の腕を引っ掴む。
「ローズ?」
不思議がるアルテミシアに、クラウズェアは怖い顔で言い含めた。
「アレはきっとアレよ。カエルよ。カエル、カエルだわ! 見てあの色! ありえないわ! あり得ない色よっ? たぶん……たぶんだけど、魔女の使い魔か何かよ。その類い! でなければ、魔女に姿を変えられた哀れな犠牲者よ! この山、魔女が居るんだわ」
そう言ってアルテミシアを引っ張ってカエルから引き離し、鉈を中段に構える女騎士。
「魔女って……。いやまあ、この世界にゃそういうのも居るのかもしれませんがね? ありゃあ単なるカエルでしょうや。ちょっと珍しいってだけの。触るくらいで――」
「だまれ! 魔女の手先!」
言葉を遮り、影人間をつり上がった目で睨み付けるクラウズェア。
『どちらが魔女やら』とは思うに留めて、ジャックは懐柔する方向に転じる事にした。
「ま、まあ確かに、やたらと触るのもアレですよね? 毒でも持っているかもしれやせんし。色が鮮やかな連中は警戒色で毒を――」
「それ見たことか!」
「いや、まだ触った訳でも、ましてや実際に毒が――」
「おぞましい影人間の罠に危うくはまる所だった! シア、向こうへ行きましょ」
いつの間にやらジャックが毒ガエルを放した事になっており、一刻も早くこの場を去ろうと急かすクラウズェアに手を引かれ、アルテミシアは連れ去られて行ってしまった。
「……まあ、あっしも一緒に引きずられるんですがね?」
アルテミシアの影ごとついて行くことになるジャックが、どことなく寂しげな声で呟いた。
それをオレンジのカエルがホロリロと見送った。