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三章⑤『瞳の放つもの。瞳から零れるもの。』

 時間は少しさかのぼり、もう一方の戦場。

「で? 具体的にはどうするつもりなんですかい?」

「うん。たぶんだけれど、モリオンは敵を“固める”ことができるみたい。そういうイメージが伝わってくるよ」

 アルテミシアに向かって、三方から悠然と歩み寄ってくる兵士達。誰も、剣を抜いている者は居ない。抜く必要が無いからだ。皆いちように、()()た笑みを浮かべて向かってくる。

 だが。

 アルテミシアが兵士達に向かって《視線》を向けた時。彼らの三分の二ほどが前進を()めた。いや、()められていた。

「足が動かねぇ!」

「なんだこりゃっ?」

 口々にあがる混乱の声。彼らには見えないが、アルテミシアにはその原因が見えていた。

 銀の霧と空気が混ざった物が、兵士達の足に絡みついて、(かせ)のようになっているのだ。以前、風の《槍》の共鳴術で起こっていた現象と似ていた。そもそも、アルテミシアは“それ”を真似ているのだ。

 モリオンに促されて“よく見る”と、辺りは一面、至る所に〈銀の霧〉が存在していることに、アルテミシアは気がついたのだ。(あまね)()るそれに《視線》を向けながらイメージをすると、アルテミシアの意思に反応して動いてくれる。そうして空気と混ぜた銀の霧を兵士達の足の周りで“固めて”いるのだ。

 その、アルテミシアが言った『固める』という事が、二〇人ほどの兵士達の間で起こっていた。

 だが、まだ動ける者も居る。これは、アルテミシアの視野の範囲に関係するからだ。見えていないものへの(かん)(しよう)はできないらしく、三方全てに同時に《視線》が向けられないが故の限界だった。

「ほうほう。よく解りやせんが、あっしも少しはお役に立つとしやしょうかね。姐さんに『ごくつぶし』やら『ドングリ以下』やら言われるのは勘弁ですし」

 そう、アルテミシアの影の中から話していたジャックは、ひらひらと立ち上がって(しゅう)(もく)にその姿をさらしたのだった。

「なっ、なんだあれはっ?」

 その姿にいち早く気付いた誰かが、恐怖の叫びを上げる。

「〈魔物〉なのかっ?」

 誰かが続いて叫んだ。

「魔物なんて、(ひる)()(なか)にうろつくもんなのかっ? 山奥や墓場じゃないんだぞっ?」

「じゃあ、アレはなんなんだよ! 魔術かっ? 色なし王子の呪いかっ?」

 恐慌が他の者へ(でん)()して行き、いつの間にか誰一人として前進する者は居なくなっていた。

「みんなの視線が痛いでやんすね。近くに来たら握手ぐらいしてやってもいいのに」

 ジャックの愉快そうな軽口が、《視線》に集中するアルテミシアの耳に届いた。赤い唇が微かに緩められる。

 この《視線》の維持にはかなりの集中が()いられる。それは、慣れないアルテミシアの精神力を()いでいた。額には汗が浮かぶ。

「射ろっ、矢を射掛けろ!」

 その叫び声に従い、背負っていた弓矢を構える兵士が五人。長剣をただ振り回す事に比べれば、弓の技術は習得に時間がかかる。三〇人中五人いれば良い方だろう。

 だが、それも無駄となった。アルテミシアが新たに枷の数を増やし、射手の腕を固めたからだ。幸いなことに、既に視線を向けていた視野内に五人全てが居た。

「弓が引けねぇ! 助けてくれ!」

 新たに生じた悲鳴に、兵士団はいよいよ混乱の様相を増していった。その時だった。

 自分が操る銀の霧とは別に、空中に集まる霧が《槍》の姿を(かたど)るのを、アルテミシアの赤い目が見つけたのは。


 その《槍》の下には、ヨドーク一味(パーティー)に居た共鳴術師ノーマンが、復讐に心を(たぎ)らせながら、(オレンジ)の目でアルテミシアを見据えていた。すきま風にも似た高音。口からは〈調律歌〉が紡がれている。言葉を伴わないその旋律(メロディー)が掌中の青い〈彩化晶〉に捧げられ、《槍》が放たれる――はずだった。

 だが、待てども憎き標的の体に風穴が空く事はなかった。

「何故だっ?」

 ノーマンは叫んだ。そして、あの時もそうだったと、訝しんだ。あの、人の(はん)(ちゆう)を超えた美しさを持つ〈色なし王子〉とやらは、確かにノーマンの共鳴術を見破っていたのだ。いま子爵と戦っている男装の麗人に、『避けろ』と助言をしていた。

 共鳴術師であるノーマンにすら見えない“何か”を、あの赤い目で見ているのだ。見破るだけでなく、どうやってか彼の風の共鳴術を不発に終わらせている。その推測に至った時、彼は恐怖よりもなお一層の怒りと憎しみを燃え上がらせた。

「殺してやる」

 低く(よど)んだ声で呟いたノーマンは、青い〈彩化晶〉を懐にしまい込み、代わりに(だいだい)の〈彩化晶〉を取り出した。青い物より少しだけ大きく、輝きも強い。

 ノーマンの奥の手だ。

 青い石より扱いが難しく、より一層の集中と時間を必要とするが、威力は段違いだ。これも不発に終わるかも、などと共鳴術師は思わなかった。“やる”のだ。“当てる”のだ。“殺す”のだ。もう、正常な判断などできていなかった。ただ、傷付けられたプライドを回復させる。たかがその程度の事を、ただそれだけの事だけを、(おも)っていた。


 一方、アルテミシアは激しい頭痛に襲われていた。

 《槍》の形の銀霧を、それ以上動かないように“固め”ていたら、干渉する力がなくなったのでこちらも固めるのを止めた。霧は勝手に散ってしまった。後もう少し敵が頑張っていたら、固め続けていられずに《槍》が飛んできていた事だろう。アルテミシアにはクラウズェアのようなフットワークはできない。放たれていたらと思うと、ぞっとする。

 だが、もう限界が来たようだ。

 両目から涙をこぼし、苦痛に歪んだ顔を手で覆って、それきり、アルテミシアは歯を食いしばって耐えている。

「シア嬢ちゃん?」

 ジャックの声にも反応できず、胸中のモリオンが心配そうにぐるぐる回っているのにだけ【だいじょうぶ】【モリオンは良い子】という思考を返せただけだった。

 やがて、恐ろしい事が起こった。

 アルテミシアでなくとも見える《炎の塊》が、兵士団の上空、唸り声(メロディー)を上げるノーマンの頭上二〇mに出現したのだ。直径は三mほどもある。

 まるで現実感がない。金の太陽と白い雲が浮かぶ青空。緑の草原を彩る花々。春の兆しを運ぶ涼やかな風が舞う中、一点だけ、恐ろしい業火が熱を発生させている。人を殺せる熱を、だ。

「ヤバい、ヤバいって! あれマジでヤバい! 逃げやしょう、シア嬢ちゃん! お嬢ちゃんっ?」

 ジャックの切迫した声にも、アルテミシアは反応しない。微かなうめき声を漏らしながら、浅い呼吸を繰り返すのみ。

「クソ! シア嬢ちゃんっ、嬢ちゃんっ? シア!」

 そのジャックの叫びを()()さんとするように、《炎の塊》は()()()にも撃ち出された。

 速い。

 みるみるうちに迫った《炎の塊》は、小さなアルテミシアを、ごうっ、と飲み込んでしまった。少年の(きゃ)(しゃ)な体がオレンジに消える直前、彼に飛びついた人影と、その後に上空に打ち上げられた黒い塊とがあったが、誰も目に追えなかった。

 地獄は一瞬で終わった。

 そのまま爆発するなり燃え広がるなりするだろうと思われた《炎の塊》は、あっけなく消え去った。そして、その炎の中心に焼死体などはなく、代わりに、白い髪をなびかせた黒い顔の異形が、猫のように(しゅん)(びん)に、幽霊のように(ひと)()れもせず、駆け去って行くのが見えた。

 異形が向かう先は、子爵と女騎士の戦場だった。


「騒がしい」

 タイタスは不機嫌そうに呟いた。

 部下には『好きにしろ』とは言ったが、盛り上がりすぎだと思った。自分が(ないがし)ろにされている気分だった。調子に乗りすぎだ。後で罰を与えるべきだろうと思った。指揮系統の乱れを、タイタスは嫌った。正確に言えば、彼の気を害する物が、彼にとって許せないだけだ。

 それはさておき。

 タイタスの眼前には、レイピアを折られ、何も握らぬ手を呆然と見つめるクラウズェアの姿があった。その哀れを誘う姿は、タイタスの心を満ち足りさせた。

「さあ、勝負はついた。降参しろ。地に(ひざまず)(ゆる)しを()うなら、愛する婚約者殿だ、手荒にはすまい」

 この言葉に、怒りで動揺を押し返したクラウズェアが、顔を上げた。

「死んでもご免だ」

「そうか。お前のお荷物は向こうで部下達に可愛がられているんだろうが、まだ死んでなかったら助けてやってもいいんだがなぁ?」

 口角をつり上げて笑うタイタスに、クラウズェアがはっとなる。

 そうして、アルテミシアがいるであろう方へ目を向けた時。彼女の視界に、白と黒の異形が飛び込んできた。

「なっ?」

 思わず声を上げたクラウズェアに釣られ、タイタスがそちらへ目を向けた時、彼の間合いへ異形が飛び込もうとしていた。

 反応できたのはたいしたものだった。黄色い〈彩化晶〉の力は、確かにタイタスの身体能力を底上げしていた。腕が、足が、そして胴の筋肉が収縮し、盛り上がり、無敵の剛剣クレイヴ・ソリッシュが振るわれようとした。

 だが。

 それより速く、滑るように、浮いているかのような身のこなしで間合いを詰めた異形は、重ね合わせた両の(しょう)でタイタスの金属装甲の腹部辺りを打った。

 驚くべき事に、タイタスの巨体が吹き飛ぶ。

 現実味が無かった。クラウズェアは、己が夢でも見ているのかと思った。

 総重量約一七〇㎏が、地面に対して水平に吹き飛び、地に落ちてからも緑の草原を滑っていき、そうしてやっと、一〇mほど向こうで止まった。

 タイタスは口から血を吐いており、緑のカーペットに点々と跡を残している。

「ずらかりやしょう」

 ジャックの声がした。

 アルテミシアと同じく、氷のように白い髪の下、下品な言葉を使うどこかの影人間みたいなのっぺらぼうの辺りから、ジャックの声が聞こえた。

「ジャック?」

 恐る恐るクラウズェアが問うと、

「ええ、ジャックですよ。ドングリじゃありやせんぜ」

 いつものおどけた声が返ってきた。

「よく解らんが、ジャックなのだな。そんな事よりも、殿下をお助けせねば!」

 腰のダガーを抜いて女騎士が駆け出した時、ジャックの声が止めた。

「シア嬢ちゃんはここです、ほら」

 そう言うのっぺらぼうが溶け落ちるようにずれた後から、アルテミシアの白い顔が出てきた。その目は閉じられ、顔は()(もん)(ゆが)み、玉の汗をかいている。

「シア!」

 そう叫んで駆け戻るクラウズェア。

 影が引いて首まで(あら)わになった時、気絶しているアルテミシアの首が、かくっ、と落ちそうになった。

「おっとっと」

 慌てたように、引いていた影が戻り、また白い顔を黒く(おお)()くす。

「なんだ、これは? なにが起こって……」

 呆然と声を漏らすクラウズェアに、ジャックが急かす。

「話は後ですぜ。今は逃げる(こう)()

「あ、ああ、そうだな。解った。殿下が無事ならそれでいい」

 答えた女騎士は一瞬、折られたレイピアが飛ばされた方へ目を向けた。だが、草の生い茂る中か、はたまたまばらに生えた木の陰か、緑の目に映る物はなかった。

 師の言葉が脳裏によみがえる。

『優先順位を(あやま)るな』

 その言葉と共に歯を食いしばって(しゅう)(ちゃく)を振り切った。彼女にとって、いつだって一番の大切は決まっていた。

 そうして、ジャック=アルテミシアと並んで駆け出し、遠くで草を()んでいる馬を目指したのだった。


「なんだったんだ、ありゃあ?」

 兵士の一人が、呆然と呟いた。

「おい、それより、子爵閣下(ししゃくかっか)が倒れてるぞ!」

 別の兵士が、泡を食って叫んだ。

 その混乱を極める兵士団を天から(へい)(げい)する者が在った。

 モリオンだ。

 モリオンは(ふく)らんでいた。少しだけだが膨らんでいた。アルテミシアにしか判らないだろうが、怒りで身を膨らませていたのだ。怒った猫が尻尾を膨らませるようなものだ。

 母親と(した)うアルテミシアが、ずいぶん(いじ)められた。許せないと思った。

 だから、その不気味に(とも)る赤い目を、力ある《視線》を、兵士達に向けた。

【イツ、イツ。クツ、クツ】

 兵士達のがなり合う声が、一瞬で消え失せる。

 そこには、ただ、兵士の姿をした石像が三〇ほど、静かに立ち並んでいるだけだった。その物言わぬ石像も、砂と崩れて地に零れた。

 モリオンはそれを見届けると、離れゆくアルテミシアに引かれるように、彼の方へ飛んでいった。

 後には、一面に広がる(すな)()まりと、ノーマンが居た辺りにころりと転がる二つの〈石〉。それと、倒れ伏したタイタスが取り残されるのみであった。



 一行は西に向かった。

 南の関所は(ふう)()される事だろう。北はクラウズェアの父が治めるノーザンコースト伯爵領がある方角だ。顔見知りに会うとも限らない。そして東は、イーストフットヒル侯爵の治める領地のある方角だ。侯爵は事実上、今のグリーンウェルを支配しているとの(うわさ)もある危険人物であり、その侯爵領周辺は、彼の息のかかった貴族で固められている。それに比べ西は、権力闘争に興味の無い貴族達が多く、まだしも隙があるかもしれない。

 自然、西へ馬を向かわせる事となった。

 そして今は、名も知らぬ山の中。日はすっかり落ち、枝葉を()って差し込む銀の月影だけが、頼りとなる明かりだった。

「まだ痛みますかい?」

 ジャックの声が、アルテミシアの直ぐ側、胸の辺りから聞こえる。

 今この場にいるのは、ぐったりと木の(みき)に背中を預けているアルテミシア。彼の首から下を(おお)ったままのジャック。そして、アルテミシアを見守るモリオンだ。

 クラウズェアは、『見回りをしてくる』と言って、今はこの場には居ない。

「あの時よりはマシになってるよ」

 そういうアルテミシアの白い顔は未だに苦痛で歪んでおり、時折痛みに歯を食いしばっている。ただ、喋る事はできるようだ。

 木の葉が風にざわりと鳴る下で、アルテミシアの浅く苦しそうな呼吸音が続いている。

「実はね、あっしは魔法が使えるんです」

 唐突だった。

「今からシア嬢ちゃんのその頭痛を、得意の魔法で治して差し上げますぜ」

 ジャックが(おごそ)かに告げた。

「……魔法? ……すごいね」

「ええ。あっしは凄いんです。いいですかい? あっしの言う事を、ようく聞いてください。それで絶対に治りますからね」

 そう言って、一度咳払(せきばら)いをすると、ジャックの言葉が続いた。

「まず、歯を食いしばったらダメです。口を大きく開けて。そう。次は閉じて。そうそう。それを三回、繰り返しますよ? 口をパクパク」

 ジャックに言われるがまま、少年は口を大きく開いたり閉じたりした。

「はい。そうすると、アゴが(ゆる)みました。次に、首を回しますよ? まず、首をだらんと前に倒して、力を抜きます。それから、首が無くなって、頭と胴体が細いヒモ一本きりで(つな)がっている感じで、そう、そのまま、大きく首を回します。一回、二回、三回。次は反対も」

 声に合わせ、アルテミシアは素直に従う。

「これで、首と肩が緩みましたよ。ずいぶん柔らかくなりましたね」

 ジャックの言う通り、本当にアゴから首を伝って肩までが柔らかくなったみたいだと、アルテミシアは思った。

「じゃ、アゴの力をもっと緩めましょう。そうすると、アゴが勝手に開いてきます。自分の力で開こうとせんでも、勝手に開きますよ。ほうら、開いた」

 アルテミシアの口が、緩やかに開かれる。

「ではでは深呼吸。鼻からユックリ吸ってぇ、口からユックリ吐いてぇ。はい次吸う時、背中から何か上ってきます。その上ってきたのが、首を通り、後頭部から頭の中に入ってきます。そして、吐く時に、頭の中にあるドロドロした悪い物が、押されて口から出てきますよ。はい、ドロドロ-、出てきました」

 本当に何か、吐息より少しだけ重い物が出てきたような、不思議な感覚だった。

「はい、吸って-。吐いてー。ドロドロー。ドロドロが出て行くと、痛いのも一緒に出て行きますよ-。出てきましたー。はい、繰り返してー」

 アルテミシアは驚いた。本当にジャックの言う通りだったからだ。吐く度に、頭痛が(やわ)らいでいく。

 そうやって、しばらくジャックの声と、アルテミシアの深呼吸の音が続いた。

 そうして時間がたった頃。頭の中全部が痛かったのが、どんどん痛みが引いていき、やがて()(けん)の奥だけとなり、ついにはそれも(うす)らいでいった。

「すごい」

 アルテミシアが、感嘆の声を漏らした。もうその顔は苦痛に歪んではいない。

「ジャックさんって、魔術師だったんだね」

「違いますよ」

 アルテミシアの言葉は、あっさりと否定された。

「でも、痛くなくなったよ? 魔術じゃないの?」

()(こう)です」

「きこう?」

 聞いた事の無い言葉に、アルテミシアは不思議がる。

「呼吸とイメージを(ともな)わせた、柔軟体操みたいなもんです」

「体操」

 体操という言葉は、アルテミシアにも理解できた。

「影の国の魔術体操なんだね」

 感心したような言葉に、思わずジャックは吹き出してしまう。

「魔術体操っつーか……まあ、それでいいです。シア嬢ちゃんは、面白い子ですねぇ」

 ジャックの珍しく穏やかな声と、聞き慣れない(ひよう)()に、アルテミシアが質問した。

「面白い? ぼく、面白いの?」

「ええ、面白い子ですよ。それに良い子だし。あと、かわい子ちゃんです。あっしは、面白い子も、良い子も、かわい子ちゃんも、みぃんな好きです」

 ジャックの楽しそうな声に、アルテミシアは黙った。

「シアお嬢ちゃん? あ、気ぃ悪くしやしたかね?」

 ()(かつ)な事を言ったかとジャックが気を揉んでいると、

「『好き』って、言われた……。誰かに好きって言って貰ったの、生まれて初めてかも」

 夢を見ているような声だと、ジャックは思った。クラウズェアにしか判らないはずの白い(そう)(ぼう)が、微かに嬉しそうに、緩んでいるように見えた。

 普段『可愛らしい』と思っていた別の所で、この盲目の白い子の、この程度の事で喜んでしまう子供に対し、なにか“保護欲”のようなものが己の中から湧き上がってくるのを、ジャックは感じた。

「ええ、好きですよ。大好きです」

 これほどストレートに言葉を発した事は、ジャックにとって初めての事だったかもしれない。少なくとも、何の飾りも無い、素直な言葉だった。そして、その言葉によって、劇的な変化が訪れた――アルテミシアに。

 白い顔は林檎みたいに真っ赤になり、口許をもごもごさせながら(うつむ)いてしまった。

「『好き』って言って貰うのって、こんなにも恥ずかしいものなんだね。知らなかった。それに、ジャックさんの声って、なんだか不思議。うまく言えないけれど、こんなにも近くで(ささや)かれると、さっきの体操の時みたいに、なんでも言う事を聞いちゃいそう」

 そう言って微かにはにかむアルテミシアに、今度は保護欲とも違う欲求に突き動かされたジャックが、すかさず叫んだ。

「じゃ、じゃあキスしてっ? ぶっちゅーって! ぶっちゅーって(せい)(だい)に、派手に、華々(はなばな)しく! あーっ、でもいま顔が無いっ? っていうか、顔があっても口はどこに? あっしの口って、いずこにっ? ()()な小鳥ちゃんを(ついば)む予定の罪作りな口はどこさ行ったーーー!」

 胸元辺りからの(ちん)(みょう)な絶叫に、アルテミシアが考え込んだ。そして、騒ぎ続けるジャックと自分の身が重なり合っている場所を、その感覚を見えぬ目の代わりに探った。

「ジャックさん。首から下は、ぼくたち重なり合ってるの?」

「重なり合ってます! どうにかやって唇も重なり合いましょう!」

 ジャックの言葉に満足すると、アルテミシアは己の右手の(こう)に、キスを落とした。

「へ?」

 ジャックの間抜けな声。

「キスって、『騎士がお姫様の手の甲にするものだ』って、ローズが()ってたよ。ぼくは騎士ではないから、きちんとしたキスはできないけれど。ごめんね?」

「……」

「……ダメだった? 失敗した?」

 アルテミシアの不安そうな声に、ジャックが答えた。

「いいえ。満足ですよ。シア殿下のキスを頂戴しました」

 照れ臭そうな声だった。

「今この時から、右手は決して洗わないと誓います」

「それ以前に、洗えるの?」

 この言葉に、「こりゃ一本取られたわい」とジャックが笑い、アルテミシアも微かに笑った。

「ねぇジャックさん。ぼく、ローズを探してくるよ」

 もうすっかり良くなった少年は、そう告げて立ち上がった。大切な幼なじみの事が気がかりだったのだ。

「ええ、そうですね。それが良いでしょう。……あっしは影に潜ってやすから、何かあればいつでも呼んで下さい。そうでなくたって、お嬢ちゃんのピンチには飛び出しますがね」

「うん。ありがとう」

 この、心強い影人間の言葉に、もう一度アルテミシアは微笑んだのだった。



「見つけた」

 彼女が声に驚いて振り返ると、黒髪赤目のアルテミシアが立っていた。近寄る音に気付かなかった事を、クラウズェアは恥じた。

「もう、お加減は(よろ)しいのですか?」

 主が苦しんでいる時に、見回りを理由にして側を離れていた事に負い目のある女騎士は、赤い目と視線を合わせられないでいる。いつだって相手の目を見て話す、生真面目で真っ直ぐなクラウズェアらしくない態度だった。

「ジャックさんのおかげで治ったんだよ」

 そのジャックは、今はアルテミシアの影の中に引っ込んでいる。

「そうですか。……あいつは役に立つ奴ですね」

 それに比べて、という言葉はなんとか口から出さず、クラウズェアは口許をゆがめた。

「うん。凄く助けられたよ」

 アルテミシアの素直な言葉が、生真面目な女騎士を追い詰める。

 そして、

「ローズにも助けられたね。お礼を言おうと思って。ありがとう」

 この言葉が、クラウズェアを(げき)(こう)させた。

「助けるですって? ありがとう? わたしが何をしたというのですっ? 何ができましたかっ?」

 知らず、握り締めていた右手を胸に当て、二つの感触がよみがえるのを、歯を食いしばって耐えた。

 一つは、レイピアの折られる感触。尊敬する師フィデリオから頂戴した、特別な剣だった。苦しい時も、悲しい時も、歯を食いしばって耐えた時も、そして嬉しい時も。毎日、剣の稽古に使った物だ。思い出が詰まっていた。そして、アルテミシアを守るはずだった剣だ。石の使えない少女にとって、たった一つの武器だった。

 もう一つの感触は……。

 固く握り込みすぎて白くなってしまった拳を、アルテミシアの白い手がそっと包んだ。

「殿下?」

 触れた手の温かさと柔らかさに驚き、そしてそれ以外の理由からも手を引っ込めようとしたその動きは、思わぬ抵抗に遭う事となった。

「ダメ」

 アルテミシアの静かな声が止めた。赤い目が、しっかりと緑の目をとらえている。彼女は、目をそらしたかったのにそらせないでいた。

「ねえ、手を開いて?」

 少年の言葉に、クラウズェアはかぶりを振った。だが、今まで目が見えていなかったアルテミシアには、その身振りの意味が解らない。

「どうしたの? お願い。手を開いて」

 なおも言葉を重ねられて、主の言にしぶしぶと従う女騎士。

 その、硬くざらついた掌を、人を殺した手を、アルテミシアは自分の頬に(あて)がった。

「あ、ダメ!」

 思わず手を引いたその動きに合わせ、アルテミシアが前に出る形となる。

 手は頬に宛がわれたままだ。

「いつも、ぼくを守ってくれる手だね」

 少年の静かな言葉に、何故だかクラウズェアの頬を涙が伝った。

「守れてない。守れなかった」

 なんて弱々しい声だろうと、アルテミシアは思った。だから彼は、なおも言葉を重ねた。

「ううん。今までも守ってくれたし、今日も守ってくれたよ? “この手”がぼくを守ってくれたんだ。ぼくは、“この手”が大好きなんだ。ありがとう、ローズ」

 この言葉はひどく少女を追い詰めたようで、いつだって真っ直ぐに進む彼女と同じ“心”が逃げ場を失い、とても沢山の涙を流させた。

 ずっと我慢してきたクラウズェアは、もう立っていられなくなり、その場にくずおれるように膝を突き、アルテミシアの腰にしがみついて泣きじゃくり始めた。

 アルテミシアの目は、姿勢の低くなった幼なじみを見下ろしている。自分より年上で、自分よりも背の高い、自分より頼りになり、自分の何百倍も強い少女。強すぎて、大切な髪まで切らせてしまった。

「ローズ、ありがとう」

 そう言って短い髪を撫でる度に、クラウズェアは大声で泣いてしまう。他人のために泣く事はあっても、自分のためには決して泣かなかった、強くて優しい女の子。

 彼女が自分を守ってくれるように、自分もこの大切な幼なじみを守っていこうと、アルテミシアは誓うのだった。




「色なし王子が生きていただとっ?」

 豪華な調度品が置かれた部屋に、甲高い声が響き渡った。

「声が大きいのでは? 誰に聞かれているやら」

「うるさい!」

 フィデリオの冷静な声に、ただでさえ沸点の低いオズワルドはますます声を荒げてしまう。酒によるものとは違う、怒りにより赤黒く変色した顔が、醜さを生み出していた。

 椅子を蹴立てて立ち上がり、倒れた赤ワインがテーブルクロスに染みをつくるのも構わず、広い部屋を行ったり来たりし始める。

 まるで人間の住処に迷い込んだ豚だと、フィデリオは内心で思った。だが、その豚に(くみ)しているのも自分だと、皮肉げな笑みを浮かべる。

「何がおかしいっ?」

「いえ、閣下のお役に立てぬ我が身を恥じていたところです」

 フィデリオの言葉に何か言い返そうとしたようだったが、別の事に思考が割かれているオズワルドは、また行ったり来たりを繰り返し始めた。

 そして、目に映ったガラス窓に拳を打ち付けようと振り上げ、だがその高価さを思い出した頭は別の命令を下し、壁に拳を打ち付けさせた。

 ごんっ、という鈍い音と、オズワルドの苦悶の声が部屋に響く。

「拳を鍛えるおつもりで?」

「う、うるさい!」

 ()れた拳を抱え込みながら、怒れる侯爵は(つば)を飛ばしてわめき散らす。

「ええいっ、忌々しい! 何もかも自由にならん! 王太子は仕損じ、第二王子には逃げられ、この国の連中は無能ばかりかっ? 地鎮の儀を執り行った兵士達は処刑だ! 皆殺しだ! そもそも、何故天恵の儀が失敗した? 確かに太陽は赤く(かがや)いたというのに。〈影の英雄〉が呼び出されるはずではなかったのかっ?」

「王太子殿下暗殺には、もっと金を掛けて腕利きの暗殺者を雇うか、または侯爵閣下の護衛から人員を割いて多くを動員して成すべきでした。それから、地鎮の儀の任に着いた兵士一〇名は、すでに処刑済みです。口封じのためにと、閣下自らご命令されたではありませんか」

「ええいっ、うるさい!」

「そしてまさにその〈赤陽地鎮の儀〉についてですが、やはりもっとよく文献をお調べになって、慎重に事に当たるべきだったと思います」

黙れ(、、)と言っている!」

 その侯爵の命令で、フィデリオはもう何も口にしなかった。ただ、一人で騒いでいる侯爵を尻目に、彼は弟子に思いをはせた。

 クラウズェアはアルテミシア王子を連れて、上手く逃げる事ができたようだ。この先どうなるかは判らないが、どうかこのまま逃げ切って欲しいと、剣の師匠は思った。

「女王陛下をお連れしろ。〈(たい)(かん)(しき)〉をできうる限り速やかに行うのだ。王太子が戻ってくる前に、絶対にその前にだ! それと、ミッドノール子爵もだ。奴にはせいぜい働いて貰わねばならんというのに。あの馬鹿、大事な兵士に逃げられおって! これだから生まれの悪い者はっ……無い人望を補うための婚約者だというのにっ、そのお転婆にまで逃げられるとは! つくづく愚かしい!」

 テーブルクロスを引っ張って食器をなぎ倒し始めたオズワルドに一礼すると、フィデリオは速やかに退室した。命令は出たのだ。一刻も早く部屋から出たかった。同じ空気を吸っていたくなかったのだ。


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