魔女とダンジョン
ヤタが誰もいない店の片づけをはじめようとしたとき、壁掛け鏡に黒い女の影が映った。
それは鏡の中をずんずんと進み、鏡の表面から顔を外に出した。
「まだやってるね。うんうん。とくに用事はないけども」
そう言って光沢のある黒服を着た女は鏡から這い出てくる。
ヤタは女の傍若無人な言葉には答えず、無言で来客用の椅子を用意した。
「気が利くー。やっぱりここは居心地いいわ」
ヤタはぞんざいに扱ったら暴れられて店が半壊した時のことを思い出していた。
「当店では敷居をまたがない人を客とは呼ばないので、鏡からではなく玄関からお入りください」
「いいじゃない、私は特別で。鏡の中の世界は移動に便利なの。この世界の時空は移動した距離と時間は不可分だけれど。鏡の中の世界は同じ時間軸に鏡の数だけそれこそ無数に空間が存在するの。だから時間と距離を気にせず好きな時に好きな場所に行けるってわけ」
よくわからない理屈を唱える彼女は魔女のアトナ、ゴンゴゴンゴのダンジョンを作った人物である。
言うなればこの街一番の実力者であり、ヤタも含めこの街で生活するもの全員が彼女に頭が上がらないのだ。
「なんか西の魔女が面白いものを作ったらしいじゃない。対抗して色々実験してみて疲れてるの。魔女をするのも大変大変」
この世界では、ダンジョンは魔女の素材集めの場所として構築される。
まず魔女はダンジョンの最深部となる場所に次元の扉を開く。
次元の扉とは、万の境界線に繋がり森羅万象を超えて様々なものが打ち寄せられる、別次元の世界との出入り口である。
そして、打ち寄せられたものの中に含まれる邪悪なものを隔離するために魔女はダンジョンを設えるのだ。
そうこうするうちに冒険者たちが集まりダンジョンの中から玉石混交の獲物をとってくるようになり、やがては街となる。
この世界は魔女たちの間では素材集めのメッカらしくゴンゴゴンゴのほかにも魔女が作ったダンジョンが数多く存在する。
「失礼、します。お待たせしました、ご主人様。お飲物です」
ナターシャがトレーに酒を乗せて部屋に入ってきた。グラスは二つある。
「ふんふん。できておるのう」
「はい、光栄です」
アトナの襲来を察知して二人分の用意をしたナターシャが軽く礼をする。
ナターシャにとっても魔女のアトナは尊敬の対象なのだ。
「それなに」
唐突にアトナの表情が険しくなる。
アトナの視線の先にはあの指輪があった。
「今日は帰るわ。それじゃね」
別れのあいさつもそこそこにアトナは鏡の中へと消えていった。
何か分かるのかと問う暇もない。
ヤタは深いため息をついた。
「あの、グラスはいかがいたしましょう」
「やれやれ。そうだな、酒を二つのグラスで飲むのは厄介だな」
ナターシャは少し目を丸くさせたあと、いつも通りの表情に戻った。
「では、ご相伴にあずかります」
二つグラスを並べて、夜は静かに更けていった。