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01

 腕を伸ばせば届くような近さまで、ネズミ色の雲が迫っていた。水蒸気のかたまりから、やはり同じような色の水滴が顔の表面に落ちてきて気持悪い。払っても払ってもしつこく降りそそいでくるその水滴にわたしはうんざりしながら、小鳥のさえずりを遠くに聞いた。

 やっと目覚める時がきた。腕を伸ばしてケータイを布団の中に引きずり込む。重なりあった羽毛の中から、小鳥のさえずりは夢の中で聞いたよりもさらに遠く、力なく聞こえた。

 最近はつまらない夢ばかりみる。現実と寸分もかわらないものさえある。そんな夢をみた日は、まったく同じ日常を繰り返しているようで、何につけてもやる気が出ない。もう一度眠って、その日を夢の中からやりなおしたくなる。今朝、寝起きにみた夢は生理的に不快だった。それでも退屈することはなかったので、良いほうだろう。

 1DKのせまい賃貸マンションに一人暮らし。だれにも邪魔されずに一人で生活できるのは、わたしにとってとても重要だ。

 東向きの窓のカーテンを開けると、隣接する建物の隙間から昇ったばかりの太陽の欠片が目に刺さる。ミニチュア観葉植物の寄せ植えに水をやる。目覚めはじめた街に、新聞配達の自転車のブレーキ音が響いた。

 以前なら、休日は昼まで寝ていた。二度寝、三度寝すると夢の奇妙さが増してくる。続きものをみるのも、たいてい休日に限っていた。

 どうやったら変な夢をみるのか。起きているあいだは、そんな事を考えながら、夢にエサを与えるかのように物語を読みふける。そして夢をみるためにまた眠る。眠っても眠っても、まだ眠り足りないくらいだった。


 マンションを出ると、太陽はすでにビルの群れから頭ひとつ分高い所に位置していた。

 こんな天気のいい休日は、みんな何をするのだろう。わたしが知っていた『みんな』は、陽がすっかり傾いた頃にならないと活動しはじめない。朝帰りとか二日酔いとか疲労とか彼氏が泊まりに来ているとか、そんな理由で。

 土曜日はとにかく眠るためにあるの、と言っていた『みんな』のひとりは、土曜出勤にシフトが変更された途端に仕事を辞めた。金曜の夜に朝まで友人たちと思いっきり遊べないのは、職を失うよりも許せない事だったらしい。わたしも前はそんなだったから、その子の気持はなんとなくわかる。

 春らしくなったとはいえ、土曜日の、まだコンビニしか営業していないような時間の公園には誰もいない。すべり台の下に、ほんの少しだけ汚い雪のかたまりが解けずに残っている。通り抜ける風の中に、ひとすじの悪意みたいな冷気が混じっていて、わたしの肌を時おり刺した。

 三つあるぶらんこの一番右側に座ると、お尻のポケットに突っ込んできたケータイが邪魔になった。

『今週の土曜日会えなくなった、ゴメン。出張はもう勘弁してほしいよまったく……』

 サイトーさんからの最後のメールだ。先週も同じようなメールが来ていた。サイトーさんの仕事は大変だなぁと思うけど、会えないのはどうでもよかった。会いたいと言ったのはサイトーさんのほうだし、正直いってわたしは会いたいと思っていなかったから。

 サイトーさんのメールが届いたあとすぐに、メアドを着信拒否した。念のため教えておくよと言われたケータイ番号も、何が『念のため』なのかさっぱりわからなかったけれど、とりあえず『念のため』拒否しておいた。

 先週も出張で遠くの知らない街に行っているはずのサイトーさんを、朝の散歩途中で見かけてしまった。紺色のレンタカーで、助手席の女の子と信号待ちしていた。なんだ、出張も案外楽しそうじゃないの。ちらっとそんなふうに思っただけで、サイトーさんのことはそれっきり考えていなかったのだ。

 彼氏がいるとかいないとか、もうそんなことはどうでもよくなった。週末に遊ぶ女の子の友達がいるいないのと同じレベルで。ひとりでいるほうが、よほど気楽でいい。セックスした後なんか、特にそう。ジムに行った時の体力消耗とたいして変わりないはずなのに、あの清々しさはまるで残らない。疲れたからだにまとわりついてくる相手の汗とか、シーツ越しに伝わってくる体温とか、内容のないピロウトークとかばかりがわたしを支配する。そういうものをすべて洗い流すために大急ぎでシャワーに駆け込んでも、一度からだに染み込んでしまったものは、どうしても残ってしまう。一刻も早く相手と別れて、マンションに帰りたいと願うばかりだ。

 誰かと密度の濃い時間を過ごすと、どうしようもなくぐったりしてしまう。相手にエネルギーを全部持っていかれるような感じ。翌日に仕事があるのに夜遊びとかデートなんて、絶対に無理だ。

 つまらない夢ばかりみるようになってから、二度寝するのをやめた。誰も知らない朝の世界が、わたしの前に開いた。それは奇妙な夢の二番目か三番目くらいに、新鮮だった。


「きょうも早いね」

 すべり台のむこうから聞こえた。少しかすれた声にプラスして、彼はいつもとは違う空気をまとっている。

「おはよ。今日、なんか変」

「あぁ、夜勤明けじゃないんだ」

 いつもみたいに、ぼろ雑巾じゃない彼を見たのは初めてだ。スウェットの上下を着ている。寝癖なのか、中途半端に伸びた髪の毛があちこちぴょんぴょん跳ねている。ヒゲも剃っていないみたいだけれど、それでもいつもよりはかなりぴっとしている感じ。ぼろ雑巾みたいなのは、仕事のユニフォームのせいかもしれない。

「夜勤明けじゃないのに、来たの?」

 家がこの辺にある、と言っていた。この公園は近道なのだと。

「金曜日がいつも夜勤とは限らないんだよ」

 ふぅん。でもまったく答えになってない。ここで会話は止まってしまったけれど、それはそれで不自由なかった。

 夜明けとともに起きてしまうと、なにをしていいのかわからなかった。夏至に向かって夜は短く、まだ始発も動いていないような時間。ファミレスで、完全な寝不足と遊び疲れたからだにコーヒーを注ぎながら、友人たちと来週の予定を練り、ケータイに集合時間と場所をメモしているような時間だ。

 最初の日は部屋中を掃除してみた。次の土曜日は寝起き早々、洗濯に励んだ。だけどどちらもその後が困ってしまった。日中にやることがなくなったのだ。仕方なく外をぶらぶら歩いていたら、公園にたどりついた。誰もいない朝の公園は静かで、一日が本当に新しく思えた。それ以来ずっと、土曜日の朝は公園、と決めている。たとえ雨が降っていても。

「朝ご飯」

 目の前にコンビニの袋をつき出された。

「おにぎりとパン。好きなほう選んで」

 梅干しとチョコ。どちらも捨てがたい。

「両方おいしそう」

「半分こずつ食べればいい」

 プラスティックをうまく引き裂いたおにぎりを、まずわたしにくれた。空っぽのお腹を、米粒が隙間なく埋めていく。食べはじめると、急にもう何日も食べていないみたいに空腹を感じる。半分残しておかなきゃ、頭のうしろのほうでわたしがささやいたけれど、気にしなかった。

「お茶、あるよ」

 おにぎりの最後の一口を食べてしまってから、やっぱり半分残しておくべきだったと少し後悔した。

「全部食べちゃってごめん」

 お茶を受けとり、のどに流しこんだ。からだの奥深くからエネルギーが湧いてくるようだった。

「パンはどうする? コーヒーもあるけど」

 「それはきみの分」

 わたしは彼に初めて出会ったときから、『きみ』と呼んでいる。見かけで明らかに彼の方が年上とわかっていたけれど、学校をサボった小娘みたいに思われたくなかったので、意識してそう呼んでみたのだ。ただすぐ後になってから、年上の人をそんなふうに呼ぶ行為そのものが、自分から進んで自分を小娘と認めたようなものだということに気づいた。彼は呼び方についてなにも言わなかったし、名前を聞いてみようとも思わなかったので、なんとなくそのままになっている。

 無言のままチョコパンをぱくついている彼の横顔を、わたしはやはり無言でみつめた。夜勤のある仕事をしていることと、公園の近くに住んでいること以外、なにも知らない。具体的にどういった仕事をしているのか、あるいは年齢といったことは尋ねたことがなかった。彼の名前も。聞いてみようと考えたこともあったけれど、知らなくても困ることはない。それは彼も同じではないだろうか。わたしだって、彼にそういうことは聞かれたことがないから。知らないほうが自然なこともあるのだ。

「今日も掃除と洗濯?」

 いつもと同じ、わたしの土曜日の予定。朝ご飯を食べてしまったので、その分ひとつだけすることが減った。

「うん。きみは夜勤明けじゃないから、寝ないよね?」

「そうだね。なにをしようか考え中」

 そう言ったものの、考え中にはみえなかった。遠くにある水のみ場に集まった小鳥たちを、彼は眺めているだけだった。


 公園をはさんで反対側の道を散歩しながら、ときわ町内をぐるっと一周するようにしてアパートに戻ってきた。レンタルビデオ屋も、モーニングセットを出す喫茶店も、固くシャッターを閉じていた。

 夜明けとともに営業する店があればいいのに。わたしは一番の常連客になるだろう。小型のスーパーみたいな店だ。なんでも置いてある。食料品をはじめ、クリーニングやレンタルビデオ、喫茶店とおもちゃ屋さん。本屋さんも絶対にはずせない。夜明けとともに開店して、暗くなったら閉店する。もちろん年中無休。ボールドカラーの水玉模様の内装だったら、もっとすてきだ。そんな店内を、ぼろ雑巾みたいな彼が、夜勤明けの疲れたからだをナメクジみたいにひきずって歩いているところを想像してみた。

 洗濯機をまわしながら、部屋の掃除を済ませた。ほこりを払ってほうきで掃いて、あちこちをまっ白な雑巾で拭いた。部屋の空気が変わった。最後にベランダで、洗濯ものを干す。この天気ならたぶん、昼までにはすっかり乾いてしまうだろう。見あげた空には電線がカラスを一羽のせて、ゆらゆら揺れていた。

 インスタントコーヒーの顆粒をつかって、アイスカフェオレを作った。掃除したての部屋で飲むと、格別においしいから。いつもより甘くしようと思い、グラニュー糖をたっぷり入れた。牛乳は冷蔵庫にあったものをぜんぶつかった。からになった牛乳パックを洗いながら、グラスになみなみいっぱいのアイスカフェオレに口をつける。いつもと同じ味。

 グラスを持ちあげて、井戸の底を覗くようにして見ると、ペットショップの水槽で腹をみせて死んでいる白い魚みたいに、砂糖がごっそり溜まっている。コーヒーの顆粒という毒に殺られたみたいだ。毒を中和するには、カフェオレを温めて余った砂糖を溶かしてしまうか、さらに牛乳をそそいで余った砂糖の受け入れ容量を増やすしかない。わたしはでき損ないのカフェオレをちびちび飲みながら、しばらくのあいだ迷っていた。グラスの半分くらいまでは、味はいつもと変わらないと信じていたからだ。

 実際、グラスの半分以上を飲んでしまっても、それほど甘さは変わらなかった。掃除したての部屋を澄んだ空気が満たすように、コーヒーの毒と牛乳とうまく溶けたグラニュー糖が胃の中を満たしてしまうと、グラスの底にまだ溜まっている魚が死んだような砂糖のことはどうでもよくなった。アイスカフェオレを飲んで、お腹がたぷたぷになった以外、何事も事態は変化しなかった。グラスを電子レンジでチンするわけにはいかなかったし、冷蔵庫にはもう牛乳は残っていなかったから。

 溶けきれないくらいたっぷり砂糖が入ったアイスカフェオレを、公園に現れる彼が飲むだろうか。わたしはグラスを洗いながら思った。底に沈んでいたグラニュー糖は、あっけなく流された。わたしがおにぎりをすっかり食べてしまったあと、彼は茶色い缶のコーヒーを飲みながら、遠くの水のみ場をながめていた。無糖の缶コーヒーはたいてい黒い。彼が飲んでいたのは間違いなく砂糖入りのコーヒーだ。だけどもしかして、わたしが飲むことを考えて茶色い缶にしたかもしれない。彼は本当は、ブラックが好きかもしれない。

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