第三章 女帝薨去(二)
* * * * *
「兄上、母上は――もう長くはないかもしれませぬ」
ある時、大海人が不安げな面持ちを運んで来るなり、中大兄に不吉を言った。
「何かあったのか」
驚いて中大兄は訊き返した。
「つい先程、母上の寝所の方で何やら声がしたので、行ってみたのですが」
声をかけて帷をかかげると、女帝はひどく取り乱した様子で臥所の上に半身を起こし、左右の女官に何かを言いたてている最中だった。女官がどうにかなだめようとしているのだが、女帝は蝋のように蒼ざめながらしきりに首を振って、首を振りながら明確には聞き取れぬ言葉を、うわずった声で繰り返していた。大海人は女官の脇をすり抜けて女帝の体を抱いた。
「母上、如何なされました」
「ああ、大海人」
いきなり強く抱きかかえられて女帝ははっと我に返り、大海人の姿を認めるとすがりついた。指が食い込むばかりに息子の腕を掴み、鬼が、と一言、声を震わせた。
「鬼?」
「帷の間から鬼がこちらを窺っていたと申されて」
女官の一人が困惑したような、しかし恐ろしげな様子で帷の合わせ目の一ヵ所を指した。帷はきちんと閉じられていて乱れはない。ただ、夏場のことでめぐらせた帷は麻の薄布である。向こうがわずかに透けるため、何かを見違えたのだろうと大海人は思ったが、
「ただの影などではなかった。帷を少しかかげて隙間からわたくしを見ていたのだよ。その恐ろしい目をはっきり見たのだよ」
女帝はおびえて訴えた。大海人は立ち上がって周りをひと通り調べた。無論、怪しい物の怪など見つかるはずもなく、鬼と見違えそうな何物も辺りに見出せなかった。
「母上。鬼神は悪しきものを喰らうと申します。鬼が現れたとはまさしく、病が回復する証ですよ」
努めて快活に笑いながら大海人は女帝を寝かしつけた。手を握って傍らに付き添ううち、女帝は幾分落ち着き、眠りに落ちて行ったが、大海人はたった今目にした痛ましい姿に、尚しばらく枕辺を離れられなかった。
「わたくしはあのような母上のお姿は初めて見ました。病で心身が弱られているという、ただそれだけではないように思われてなりませぬ」
大海人の話を、中大兄もまた痛ましい思いで聞いた。国の大きな転換期につごう十一年もの間帝として朝廷を支えて来ただけあって、女帝は常に気丈な人であった。そして理知的な人であった。何事かに取り乱すことすらなかった人が、物の怪の幻を見て子供のようにおびえるなど、常の女帝とも思われなかった。女帝を女帝たらしめていた魂がもはや半ば体を離れ、抜け殻の肉体が勝手な振る舞いをしているような気味悪さと悲しさとを、中大兄は同時に感じずにはいられなかった。
「兄上、母上をこの出兵に伴われたのは、やはり間違いだったのでは」
そう言って、しかし言ってしまってから大海人は恥じたように目を伏せた。
「言葉が過ぎました、申し訳ありません。筑紫へ来ることを望まれたのは母上御自身です。百済の救援に母上は大変意欲を見せておられましたゆえ。兄上が責めを負うことではございません」
分かっているというふうに中大兄は頷いて、大海人の背を撫でたが、しかし咄嗟に言うべき言葉は何も出て来なかった。筑紫への出陣は女帝の意志であり、そして兵の士気を考えれば、帝が自ら軍を率いたのも決して間違いであったとは言えない。がしかし、女帝の高齢を思えば、大海人の言うとおり、言葉を尽くして思いとどまらせるべきであった。長い船旅と筑紫の気候とが母帝の命を縮めたのは間違いなかった。
女帝が死の床についたのはそれからひと月ののちであった。中大兄、大海人、間人、三人の子供らが枕辺に集い、死に行く母帝を見守った。中大兄と大海人は左右から手を握り、間人は小さく泣きながら母の頬を幾度も撫でさすっていた。遠巻きに控える妃たちや女官のすすり泣く声が、さざなみのように部屋を行き来した。
一刻が経ち、二刻が過ぎた。深く眠る女帝のおもてからは苦しみの色が次第に去り、代わりに犯し難い威厳の光が射し始めた。このひと月、病苦の中で全て奪い尽くされたかに見えた女帝の誇りであったが、今、死という更なる苦痛と相対するに及び、その高貴な魂は息を吹き返し、帝としての誇り高い姿を取り戻したのだった。そして皆が見守る中、一息、細く長い吐息を洩らし、女帝の息は静かに遠のいて行った。
斉明七年(六六一)七月二十四日、朝倉橘広庭宮で、女帝は六十八才の生涯を閉じた。八月一日に喪の儀が行われ、ふた月後、その屍は船に乗せられ飛鳥への帰路についた。
* * * * *
女帝の船を見送ったその夜、中大兄の影はひとり行宮の庭にあった。人々の皆寝静まった宮に物音はなく、あるのは薄雲に襟をうずめて中天に漂う弓張り月ばかりであった。月の投げかける曖昧な明るさゆえに、地表を覆う静けさは尚のこと、際立たせられているようだった。
気がつけば季節は既に秋も過ぎ冬を迎えていた。樹上を燃やしていた葉叢はいつしか失われ、筑紫の地を丸ごと灼き尽くすかに思われた天空の炎も衰えた。草の葉はもはや照り映えず、代わりに霜が枯れ草を刃のように鋭く光らせていた。
と、窓を突き開ける軽いきしり音がどこかでしたと思うと、視界の隅に白い影がちらりと揺れた。影を中大兄は目で追った。庭の遠くに見える窓が一つ開き、寝衣を纏った人影が窓辺にもたれた。それは、間人だった。額を窓枠にもたせ、物憂げな様子でまなざしを庭に向けていた。解きほぐした髪が墨のように白い寝衣に流れていた。ちょうど月があたっているのか、蒼い闇の中に窓框に置かれた指先がくっきりと白かった。
「間人」
近づいて声をかけると、間人の姿は驚いて窓の中の闇に沈んだが、声の主が中大兄と気づき、白い面輪はすぐまた月明かりの下に浮かび上がって来た。
「兄上、まだ起きていらしたのですか」
と、気遣わしげに小首をかしげた。
「寝るつもりであったのだが目が冴えてしまってな。庭を歩いていたのだ」
「気が高ぶっておられるのでしょう。疲れのせいですわ。でも寝つけぬからと言ってこのような寒夜に出歩いては、それこそお体に触りますよ」
「着込んでいるから心配はない。そなたこそ寝衣などで窓に出てはならぬ。筑紫は南国と言っても、冬は大和と同じくらい冷えるのだから」
口から洩れる息の白さを見て、中大兄は今更のように夜の寒さに気がついた。手で触れてみると、たった今窓辺に出たばかりなのに、間人の髪も頬も既にひんやりと冷たかった。
「これ以上夜気にあたっては毒だ。もう中に入れ」
「兄上も部屋にお戻り下さい」
「わたしはもうしばらく庭を歩いてから休む。まだ眠れそうにないのだ。わたしのことは気にするな」
「いけませんわ。また忙しくなるのですよ。眠れなくとも体だけでも休めて下さい」
間人は中大兄の手を取って窓框から引き離すと、胸板を軽く押して部屋に戻るよう、仕種で促した。が、中大兄と視線がぶつかると、その目は急に翳った。月が雲に呑まれるように、すうっと間人の顔がうつむいた。背中から髪が滑り落ち、表情を隠した。
「間人、如何した」
間人は一瞬子供のように首を振って顔をそむけた。が、すぐに向き直り、今度は自分から、中大兄の肩に額を押しあてて突っ伏した。
「兄上、わたくし……」
髪の向こうから小さくした声は、しかし途中で引きもぎったように唐突に絶ち消えた。間人はそのまま黙り込み、うつむいた陰で指が震えながら中大兄の手をきつく握りしめた。肩の上に思いつめたようにわななく吐息が聞こえた。
中大兄は間人の震える手を握り返し、もう片方の手を背に回して体をしっかりと抱いた。中大兄には間人の胸が分かっていた。この七年の間、母を帝に戴くことで中大兄は皇太子の立場を保って来た。しかし女帝が薨去した今、もはや皇太子にとどまることは出来ない。禁忌の妻である間人を遠ざけ皇位に就かねばならないのだった。
女帝が病に倒れた時、間人は覚悟を決めたに違いなかった。そして自ら別れを告げるべく密かな決意を固めたに違いなかった。女帝が病床にあったこの半年、間人は中大兄に皇位の話をさせなかったが、それも別離の決意が揺らぐのを恐れてであったのだろうと思うと、その心がいじらしく、哀れであった。
「間人、飛鳥へ帰ると言うのだろう」
先手を打たれて間人の唇は、今まさに言おうとしていた言葉を失った。代わりに当惑した喘ぎがかすかに洩れた。中大兄は間人の冷えた髪に指を滑り込ませ、静かに愛撫した。優しい、しかしどこか有無を言わさぬ仕種だった。やがて中大兄は肩に伏せていた間人を抱き起こし、濡れて震えているその目を覗き込んだ。
「その必要はない。わたしはまだ即位はせぬ」
間人は大きく目を見張った。黒い瞳の上に驚きや恐れや悲しみや、様々な感情がもつれ合って駆け抜け、一時のざわめきが過ぎたあとには一点の不安が、くっきりと映し出されていた。
「しばらくは称制(※)をとるつもりだ」
「でも、兄上……」
ようやく、間人は少しかすれた声を絞った。息が咽の奥で竹笛のような細く鋭い音をたてた。続けて何か言おうとした唇を中大兄の指がふさいだ。
「今は唐、新羅とのいくさに全力を傾ける時だ。鬼室福信らが盛り返したと言っても未だ戦況は予断を許さぬ。即位の儀にはそれなりの準備が要る。一刻も早く軍を整え派兵せねばならぬこの時に、そのようなことに人を使うべきではあるまい。このいくさが終わるまで、いや、終わったのちも後の始末が多々あろうから、少なくとも数年の間は即位の儀を行うつもりはない。――間人、これは皇太子中大兄の言だ。この儀に関してそなたが異を唱えることは許さぬ」
見開かれたまま止まっていた間人の目が、蝶のように激しく瞬いた。帝より詔を賜る時のように間人はこうべを垂れた。
「――何事も、兄上のお言葉に従いますわ」
間人の目から初めて涙の粒がこぼれ、窓框にぽつりと落ちた。
※ 先帝崩御後、主に皇太子または皇后が即位の式を挙げないまま政務を執ること