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あざみ野  作者: 李孟鑑
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第三章 女帝薨去(一)

 有間皇子を首尾よく謀殺し、朝廷内の憂いを除いた中大兄であったが、しかし息つく間もなく、更なる脅威が国の外より迫っていた。有間皇子の変から二年後の斉明六年(六六〇)一月、高句麗の使者として来訪した乙相賀取文(おつそうがすもん)より、百済が唐と新羅によっておびやかされつつあるとの報がもたらされたのである。


 当時半島は、百済、高句麗、新羅の三国に分かれ、北の高句麗と南の百済が結び、一方で新羅は唐に接近して、互いに覇を争うという状況だった。唐はここ数年来、もっぱら自国と国境を接する高句麗と、主に遼東を戦場として攻防を繰り広げていたのだったが、その矛先を突如、百済へと向けて来た。それは同盟者である新羅よりの派兵要請に応じてのことであったが、しかしこの頃、百済義慈王(ぎじおう)には政に倦んで酒色にふけることはなはだしく、そうした内部の紊乱(びんらん)を、唐が百済平定の好機と見たためでもあった。


 百済は倭国とは多年に渡って朝貢の関係にあり、朝廷では百済を、いわば半島における重要な勢力拠点と捉えていた。百済が唐に侵されれば、すなわち倭国は大陸から勢力を失うこととなる。しかし、かと言って百済に援軍を送れば強大な唐と刃を交わさざるを得ない。前年の七月に唐に遣わした使者も未だ帰国しておらず、唐の動きが掴めぬ状況下では、如何に処するべきか朝廷は方針を定めかねた。


 朝廷は知るはずもなかったが、実はその頃、その遣唐使の一行は長安に幽閉の憂き目を見ていた。倭国が百済侵攻の妨げとなることを厭うた唐の高宗が、情報遮断のため一行を足どめした形であった。


 廟議(びょうぎ)は進まず、時ばかりがいたずらに費やされた。するうち、九月五日、今度は百済から使者があった。沙弥覚従(さみかくじゅ)というその僧がたずさえて来たのは、驚くべきことに百済転覆の報だった。ふた月前の七月、唐の将軍蘇定方(そていほう)が新羅軍と共に百済を挟撃した。三日の戦いののち百済義慈王は唐に下り、君臣共々捕えられて唐へ連れ去られた。しかし、王を失いながらも遺臣の中に立ち上がるものがおり、叛乱軍を動かして今は奪われた内の二百余城を回復するに至っていると、沙弥覚従は奏上した。


 使者のもたらした知らせが、朝廷に与えた衝撃は大きかった。唐の百済侵攻がこれほどの速さで現実のものとなろうとは、誰も思いもよらぬことであった。中大兄はそれまで態度を決めかねていたのだったが、電撃的な唐の動きを知るに及んで、心を決めた。


「朝廷は百済に救援の兵を送る」


 廟議の席で中大兄は告げた。


「百済が倒れればおのずから高句麗も倒れよう。新羅が既に唐の属国となった今、それは唐が半島の全土を手中にするということであり、今度は我が国が、唐の侵攻におびやかされるということだ。このまま百済が滅ぶに任せるべきではない。二百年の昔、大泊瀬幼武尊おおはつせわかたけるのみこと(※1)が(たお)れた百済に再び命を与えたように、我々も国をかけて百済を救わねばならぬ」


「わたくしも太子に賛同致します」


 女帝も立ち上がった。


「百済はただの隣国ではない。百済王は代々、我が国から妃を(めと)り、皇子の中には人質として我が国で育った者も多い。いわば血肉を分けた兄弟である。聞けば今、唐軍は軍紀が乱れ、狼藉は罪もない女子供にまで及ぶと言う。多年兄弟の交わりを結んで来た国の、かかる惨苦を見捨てたとなれば、我が国は義も何も持たぬ蛮国と見られよう。そしてそれこそが、他国の侵攻を許すものではないか。唐との戦いは難儀だが、危うきことを承知の上で、我々は信義というものを世に示すのである」


 翌十月、百済で叛乱軍を率いる、将軍鬼室福信(きしつふくしん)の使者が来訪した時、朝廷の方針は固まっていた。使者は、唐人の捕虜百余人を献じて来援を請うた。加えて、百済の王に戴くため、人質として朝廷に滞在していた、皇子扶余豊璋(ふよほうしょう)(※2)の帰国を願った。女帝は、百済再興に朝廷は労を惜しまぬことを告げた。


      * * * * *


 年も押し迫った十二月二十四日、女帝は難波に赴いた。長柄豊崎宮ながらのとよさきのみやで、集まった群臣を前に武器調達の(みことのり)を発すると共に、国をあげての外征にのぞんで自ら筑紫へ渡り軍の指揮を執ると告げた。外征のために帝が畿内を離れるのは、四百年前の神功(じんぐう)皇后以来のことである。


 女帝を乗せた船は、年明けて一月六日には早くも難波の津を発した。皇太子中大兄、大海人、腹心中臣鎌足を始めとする朝廷の要人から後宮の女たちまでが、付き従って船上の人となった。それは事実上筑紫への遷都と言ってもよかった。船団は吉備の大伯(おおく)、伊予の熟田津(にきたつ)を経て、三月二十五日、筑紫の那大津(なのつ)に到着した。


 女帝はまず那大津から程近い磐瀬行宮(いわせのかりみや)に入り、ここを本営としたが、翌四月、鬼室福信より、唐が大軍をもって高句麗の攻略を本格化させたとの報を受け、大事をとって南へ数里下った朝倉に、新たな行宮を設けた。


 宮を移すうちに筑紫は夏を迎えた。この年、暑さは常になく厳しく、加えて海からの風は湿気を含んで、朝倉の地は連日不快な蒸し暑さに覆われた。気候の悪いせいで、宮中には病が流行った。女帝は中大兄と共に気丈に軍務の指揮にあたっていたが、新しい行宮に入って幾らも日を置かぬうちに、とうとう女帝自身が、病に臥してしまった。


 女帝が病臥したことは宮中に不安の影を広げた。この朝倉橘広庭宮の造営には、朝倉社の神領の木を切って建材としたため、その祟りではないかと恐れる声がしきりと囁かれた。宮殿で鬼火を見たと訴える者もあった。


 また人々は、神功皇后の説話なども思い起こさずにはいられなかった。先のとおり、帝自らが畿内を離れて外征の指揮を執ったのは、女帝を除けば神功皇后ただ一人だった。神功皇后は夫である仲哀帝に従って熊襲討伐に筑紫に赴き、陣中で住吉大神より西海の宝の国を授けるとの信託を受けた。のちに皇后はその言葉の告げるところに従って新羅を攻めるのだが、神懸りした皇后の言を帝は信じず逆に住吉大神を非難したため、祟りを受けて急死したというのだった。


 そのように、二人の女帝の間に垣間見える奇妙な符合もまた、宮中に不吉の念をかき立てるものであった。

※1 雄略天皇

※2 百済義慈王の皇子。631年に人質として来朝した

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