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あざみ野  作者: 李孟鑑
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第二章 有間皇子の変(四)

      * * * * *


 詮議を終えて部屋を出ると既に辺りは宵闇であった。夜風の涼しさにほっと気が緩むと共に、中大兄には、飛鳥から使者が駆けつけたあの朝以来会っていない、間人のことが気遣われた。血のつながりはなくとも、皇后と帝の嫡男という互いの立場上、間人は有間とはそれなりに近しかった。その有間が謀反を企てたとの報に、心穏やかでいるとは思われなかった。


 中大兄は間人の部屋を訪ねた。間人は開け放った窓辺にたたずんでおもてを眺めていたが、入って来た足音を背後に聞いて振り向いた。中大兄を待っていたと言うよりは、中大兄が来ると知っていたような表情だった。


 間人が誘うような仕種を見せた。誘われるまま、中大兄は間人と共に部屋を出、門をくぐった。海岸へ通じる野辺に出ると鼻先にもう、潮の香が届いた。砂地を選んで生える丈の低い下草を踏んで二人は砂浜へ下りた。


 月に照らされて海は影のように静まっていた。時折、波音と共に波がしらが刃のように白く瞬いたが、しかしすぐに黒い潮の中に溶けて消えた。月の周りに雲がわなないた。月が明るいために夜にも拘らず雲はくっきりと白く、空だけが昼の余韻に浸っているようだった。


 二人は波沿いを歩いた。風に(あお)られて肩巾の裾が藻のように夜陰を漂った。間人の体を冷たい潮風に晒してはと、中大兄は海側に壁になって歩いた。足元には波が砂を舐めて泡立つ可愛らしい音がしていた。一方で沖には潮流のうねる重い水音がしていた。遥か遠方の波音と、すぐそばの水音とが、まるで同じ明確さで耳に入って来るのが不思議であった。


「何処へ行く」


 傍らを歩く間人に中大兄は訊いた。菊の花を見に、間人は一言答えた。


「約束致しましたから……」


 そう言われて、中大兄はようやく、イソギクを見に行く約束が、有間の事件が起こったためにすっかり流れてしまっていたことを思い出した。


 やがて二人は菊が浜に着いた。下草を踏みしだいて間人は花に分け入った。中大兄もあとに続いた。花叢(はなむら)の中に踏み入るとたちまち波の音は咲き群れる花々のそよぎに変わった。潮の匂いは、大和の野菊とはどこか違う、野趣の強いつんとした菊花の匂いに変わった。小さな毬のような菊花が見渡す限りの彼方まで、浜を一面に埋めている。たたずむ二人の足元に、匂やかな花の波が柔らかくうねっては押し寄せた。花叢の間に立つと陽の中に入ったようだと、あの時間人は言った。しかし今、黄色いはずの花弁は月の光の下で皆蒼白く色あせ、二人の周りには、雪原の如き荒涼とした有様が広がっているばかりであった。


「――皇子は」


 初めて、間人が訊いた。


「死罪と決まった。帝への叛逆は最も重い罪だ。加えて、以前より朝廷の批判を繰り返していたこともある」


「皇子は、何事か申されましたか」


 言うべきかどうか、中大兄は一瞬迷った。が、心無い風聞(ふうぶん)の形で耳に入れば、かえって間人は傷つくであろうと思い返し、そのままを伝えた。


「わたしの問いには、有間は何一つ答えなかった。しかし最後に、自分が何故謀反を企てたかは、皇太后の夫である中大兄が知っているはずだと、こう言いおった」


「そうですか。そのようなことを」


 間人は目を伏せた。潮風に、周囲から花のそよぎが湧き上がり、後れ毛が揺れた。近寄って、中大兄は額にこぼれた髪をかき上げてやった。


「そのような顔をするな。これは(まつりごと)だ。わたしが負うべきことだ。そなたが責めを感ずる必要はない」


「いいえ」


 目を伏せたまま間人はかぶりを振り、折角かき上げた後れ毛はまた、はらりと額にこぼれかかった。


「皇子の死は、兄上お一人ではなく、わたくし一人でもなく、わたくしたち二人が背負うべきものですわ。皇子の言葉の意味を兄上もお分かりでございましょう? わたくしたちの契りのために、皇子は死ぬこととなったのです」


 顎を上げ、水が引いたように間人は中大兄に両の目を開いた。


「帝が(こう)じられたところで、皇子は一度皇位の望みは捨てたと思いますわ。父帝と、皇太子である兄上との間があのように深刻なことになっては、即位した兄上の皇太子に立つことが出来ようなど望めませぬもの。けれど……」


 しかし、孝徳帝薨去(こうきょ)ののち、その後を継いだのは何故か斉明女帝であり、中大兄は即位することなくそのまま皇太子の地位にとどまった。その不可解を聞いた時、有間は周りの人々が気遣ってひた隠しにしていた、中大兄と間人皇后の道ならぬ関係に、おのずから思いあたったのに違いなかった。そしてそう思って周囲の囁きに注意してみれば、自らが察したところを確信に変えるような話は幾らでも耳に入って来た。


 あの時、父帝の悲嘆は群臣の背反よりも皇后の裏切りの方に、より深かった。そしてその心痛が遠因となって父帝は憤死したに等しかった。間人皇后が何故帝を捨て中大兄に従ったかを悟って、有間の、中大兄に対する憎悪は尚一層、強いものとなったのだったが、しかし同時に、憎しみよりももっと厄介なものを有間の中に植えつけることとなった。それは、希望だった。


 皇太子中大兄が即位出来ぬなると、当然有間に皇位の可能性が出て来る。加えて、重税に対する民の不満、朝廷の政に対する批判、そして中大兄と間人への誹謗は、有間の耳にも入っていた。朝廷の弱みを突き、つけ込めば、もしや中大兄を追い落として自分が帝となることも可能なのではないか。それは父の無念を晴らすことになる。間人皇后の裏切りに報いることも出来る――。


「希望は時に、絶望よりもむごいものでございます。皇位への望みが芽生えたがために、皇子にはお心を病まれるばかりに、御自身の無力が耐え難くなったのでございましょう。そして皇位を望んだがために、自ら進んで罠に陥ることにもなったのでございましょう。希望が、皇子の目を(めくら)にしたのですわ。そしてその、抱くべきではない希望を抱かせたのは、他ならぬわたくしたちです」


「そなた――」


 ぎくりとして、中大兄は間人の目を覗き込んだ。


「そなた、気づいておったのか」


 静かに澄んだ瞳のまま、間人は頷いた。


「知っておりましたわ。兄上は皇子を、恐らくは謀反の咎を着せて亡きものにするおつもりであろうと思っておりました。でも知ってはおりましたが、わたくしは何の手も差し伸べませんでした。皇子を見殺しに致しました。皇子が生きております限り、いつ如何なる形で、兄上の身を危うくするか分かりませぬ。皇子が朝廷に不満を抱いているとは、既に周知でございましたから」


 口中に苦いものがこみ上げた。有間を陥れ、処刑することも、それにより先帝の遺児を殺したとの暗い汚名を着せられることも、中大兄にとっては何ほどのことでもなかった。がしかし、気づかぬうちに間人までもを、有間謀殺の共謀者に仕立てていたという事実は、中大兄には耐え難かった。唇を噛みしめ、中大兄は血の吹き出るような目を間人に向けた。間人はそんな中大兄の手を取り、掌に包み込んだ。


「兄上、皇子の命を奪ったのは、兄上だけではありません。わたくしでもあるのです。皇子の死はわたくしたちが二人で負うべきものですわ。――ただ、わたくしたちだけが。如何に兄上の寵を受けていようとも、他の女人には、この闇を兄上と共に分かつことなど出来ませぬ。わたくしただ一人ですわ。兄上も分かっておられるはずです、負わせて下さいませ。兄上、わたくしは、光ばかりではなく闇も、兄上と分かち合いとうございます。父母の血だけではなく皇子の流した血でも、兄上と結ばれとうございます」


 訴える間人の声は熱を帯びた。見上げるおもては薄闇のために化粧の彩が除かれ、幼い頃の面立ちを彷彿とさせた。浮かされたように輝く目は、中大兄に小さな手を引かれて野遊びに出かけた、はしゃいだ瞳と重なった。唇が語る言葉とはあまりに不似合いな、そのいとけない思い出の影が咄嗟に痛ましく思われ、中大兄は腕の中に細い体をかき抱いた。間人はよろめいて、もつれた足が花を幾本か踏み折り、菊の香りが鮮やかに足元から立った。嗅ぎ慣れぬ異郷の野菊の香りの中に、慣れ親しんだ間人の肌の匂いが、くっきりと輪郭を描いて、中大兄の鼻を打った。


 二日後の十一月十一日、有間は藤白坂で絞首となった。塩屋連制魚しおやのむらじこのしろは斬首、守君大石(もりのきみおおいわ)坂合部連薬さかいべのむらじくすりは、上毛野国と尾張国に、それぞれ流罪となった。


(第二章・了)

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