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あざみ野  作者: 李孟鑑
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第二章 有間皇子の変(三)

 語らううちに空はいつしか赤錆色に灼けた。海のおもては紅蓮の色に染まり、おちこちに波がしらが金色に泡立った。灰青色の雲が一片、また一片とちぎれては、沈みゆく陽に吸い寄せられるように、沖の彼方へと流れ去った。間人は語るのをやめ、海の方へ目をやった。湯壷のへりに肘をもたせると、背が豊かな湾曲を見せて湯から乗り出した。夕映えの残り火が肌を流れ、沫雪(あわゆき)を赤く浸した。命絶えて行く者を見守るような荘厳(そうごん)な美しいまなざしが、暮れなずむ冬の海を見つめた。


 人々が事あるごとに口の端にのぼす誹謗(ひぼう)が、間人の耳に入っていないはずはなかった。皇后の身でありながら帝に不義をはたらいた女であると、恥知らずにも血のつながった兄と通じた女であると、そして自らの邪欲のために太子の即位を阻んでいる女であると、そうした囁きを知らぬはずはなかった。


 人々が中大兄の威を恐れたために、中傷の声はいきおい、間人一人の上に集まった。間人にとって皇太后(※)という地位は、身を守る何の鎧にもなり得なかった。むしろそれは不義の証として額に刻まれた入れ墨に等しかった。間人は、あざみの藪を素足で歩む者だった。鋭い棘から身を守るものは何一つなく、踏み出す足元には道すらなかった。そして手足を傷つけ血を流してあざみ野を越えたとて、そこに待つのは安らぎではなく、いつの日か訪れる別離であることも、間人は知っていた。


 人々の容赦ない指弾(しだん)に晒される苦悩を、人生の行く先に幸福の見えない不安を、しかし間人は一度としておもてに表わしたことはなかった。背徳に身を汚しながらも(けが)れを知らぬ、犯し難い清らかさをたたえた横顔は、中大兄の胸に一つの痛みとなった。


「兄上、どうかなさったの?」


 ふと間人が振り向いた。何でもない、と、中大兄はわざとふざけた仕種で間人の方へ湯のしぶきを飛ばした。くすりと、間人は笑った。指を差し伸べて、中大兄の髪に触れた。


「砂がついておりますわ」


 そっと髪を撫でた指には、沁み入るような優しさがあった。中大兄の心に射した翳りを間人は察したのだった。間人の巻き上げた髪が湯気を含んでほつれ、後れ毛が首筋に黒くうねって落ちていた。その頭上には夕闇が影を広げていた。夕映えの色は徐々に闇に呑まれ、代わりに波の音が耳に迫った。陽が落ちた薄闇の中に、間人の高く張った肩の先だけが、暮れ残ってうっすらと金色に光っていた。


 二人の上に闇がしめやかに満ちた。夜は二人を抱いて水底へ深まり、そして朝へ向かって再び泡のように浮かび上がった。


 急使が、息せききって行宮に馳せ参じたのは、鮮血のような朝焼けが二人の頬へ滴ったのと、ほぼ同時であった。


      * * * * *


 女官が小走りに来て、飛鳥からの急使であると告げた。間人は一体何事かと顔色を変えて身を起こしたが、中大兄に驚いた様子はなかった。


「案ぜずともよい」


 一言言ったきり、(とばり)をかかげ手伝わせて衣を身に(まと)った。謁見の間では先に来ていた鎌足が、使者と共に中大兄を待っていた。


「有間皇子、謀反にございます」


 使者は言った。


「して、捕らえたか」


 中大兄に代わって鎌足が問うた。朝廷の一大事が告げられたはずであるのに、口調は気味悪いほど落ち着き払って、問うと言うよりは、あらかじめ使者の返答を知っているかのようであった。


「捕らえましてございます」


 果たして使者は言った。


「昨夜のうちに、有間皇子は守君大石(もりのきみおおいわ)坂合部連薬さかいべのむらじくすり塩屋連制魚しおやのむらじこのしろらと共に捕らえられました。既にこちらへ向かって護送されておるものと思われます」


「飛鳥からここまでは、四十里ばかりの道のりにござりまするな」


 中大兄の方に視線を返して鎌足は言った。


「うむ、二、三日の内には着くであろう。――使者」


 頷いて見せてから、中大兄は床に平伏している使者に向き直った。


「使い、大儀であった。飛鳥に戻り、蘇我赤兄(あかえ)には、帝への忠勤に太子は殊の他満足していたと、そのように伝えよ」


 三日ののち、謀反人の一行は湯崎に到着した。有間はすぐさま中大兄の前に引き出された。両手を後ろ手に縛り上げられ兵士の野蛮な腕に両脇を固められて、有間は引き立てられて来た。床に、折るように両膝をつき、目の前に立つ中大兄に顔を上げたが、その顔はわずかの間に別人のように面変わりしていた。目は落ちくぼみ、頬は土気色にあせ、力も、若さも、父帝から譲り受けた高貴な面立ちも全て剥げ落ちた、虚ろな老人を思わせる面輪は、有間が味わった絶望というものをどんな言葉よりも雄弁に物語っていた。


      * * * * *


 六日前、有間のもとを都の留守官である蘇我赤兄が訪うたのだった。赤兄が屋敷に来たのは初めてであったが、有間は数日前にも一度、機嫌伺いと称する赤兄からの使者の訪問を受けていた。突然の訪問を嫌がりもせず、有間は赤兄を招き入れた。帝の嫡男に生まれ、権力というものに身近に接して育った有間は、自らに取り入ろうとする者のにおいに敏感だった。しかも赤兄は蘇我氏の長だった。乙巳の変で本宗家が倒れ、そののちも右大臣蘇我石川麻呂が処刑されるなどのことはあったが、蘇我氏は未だ朝廷に強い影響力を保っている。後ろ楯のない有間にとって、赤兄の接近は喜ばしいものでありこそすれ、決して厭うものではなかった。


 果たして、赤兄の用件は有間に助力を頼むことであった。が、その中身は、有間の想像を越えていた。人払いを願ったあと、赤兄は、現朝廷の行っている無益な普請とそれに伴う重税をなじり、民に不満が高まっていることを述べた。そして、自分は同志と共に謀反の兵を挙げるつもりだと、有間に打ち明けた。


「帝や太子が都に不在の今をおいて他に、好機はございませぬ。皇子、我らと共に立っては下さいませぬか」


 それは、内乱で今の朝廷を倒し、有間を新しい帝に戴くということであった。始め、有間は少しいぶかった。


「しかし赤兄、そなたは太子の近習ではないか。そのそなたが何故に、挙兵などはかろうとするのか」


「私の異母兄、石川麻呂は太子にはかられたのでございます」


 赤兄は声低く言った。驚いて目を見張った有間に赤兄はぐっと膝を進め、言葉を継いだ。


「あとになって兄の無実が分かったなどと言われておりまするが、真実はそうではございませぬ。政において兄は太子の妨げとなっておりました。それを除くため、太子は帝に偽りの讒訴(ざんそ)をなされ、謀反の罪を着せ、自害に追い込んだのでございます。心密かに太子に恨みを抱くということでは、私は皇子の友でございます」


 蘇我石川麻呂の事件があった時、有間はまだ十才だったが、当時のことはよく覚えていた。おちこち行き来する不安げな足音、宮中の人々のただならぬ様子、やがて隠しきれず洩れ聞こえて来た血なまぐさい顛末。のちに石川麻呂の娘、中大兄の妃の遠智娘(おちのいらつめ)が父の死を悲しんで狂死したとの哀れな噂も、少年時代の暗い記憶だった。


 なまじ当時の記憶が鮮やかであっただけに、あの事件の黒幕が中大兄であり、その中大兄に恨みを抱いているとの赤兄の言葉は、有間の心に深い衝撃と共に強い真実味をもって響いた。この若く一途な、そして孤独な皇子はそのまま、蘇我赤兄という人間を信じたのだった。


 一日置いて、今度は有間の方が赤兄の屋敷を訪ねた。有間の側近である塩屋連制魚、守君大石、坂合部連薬を加えた五人は、人目を避けて楼に上り密議に入った。


 赤兄は既に挙兵の具体的な段取りをまとめていた。まず、手薄になった宮殿に焼き討ちをかけ、続いて兵五百をもって女帝らのいる湯崎を攻める。その一方で淡路と湯崎を結ぶ航路を遮断すれば


「あちらはもはや身動き叶いませぬ」


「水軍が要りますな」


「舟ならば私が集めましょう」


 紀の国の塩田管理の任にあり、海人族を統べる立場にあった塩屋連制魚がうけがった。


 ひと通り話し合ったのち、五人は誓いをたて別れた。そしてその夜半。有間が就寝したあたりを見はからい、赤兄は配下の物部朴井連鮪もののべのえのいのむらじしびに命じ有間の屋敷を囲んだのであった。


      * * * * *


「何故に帝に対し謀反を企てたのか」


 足元の床にひざまずく有間に、中大兄は厳しい口調で問うた。有間は一瞬、何事か言おうとする素振りを見せたようだった。が、見下ろす中大兄の目を見ると、そのまま口を閉ざし在らぬ方を見つめたきり黙り込んだ。中大兄は続いて、有間が朝廷の普請について批判を繰り返したことや、挙兵の計画、密議の日に取り交わした誓紙などについても、真偽を問い、かつ詰問したが、何を問われようとも、有間は頑なに口を閉ざして一言も発しようとはしなかった。


 信ずる友と頼んだ蘇我赤兄の手に捕らえられた時、有間は、全ては中大兄が張りめぐらせた罠であったと悟ったのだった。帝への謀反は大罪であった。その大罪が中大兄の手で仕組まれたとは、すなわち、これは始めから、有間を殺すつもりで書かれた筋書きであったことに他ならなかった。今、中大兄がしたり顔で行っているのは事件の詮議などではない、有間の首を刎ねる刀を研いでいるのである。赤兄が語り聞かせた蘇我石川麻呂の話は、愚かしくも有間自身がたどりゆく運命であった。


「有間、何か申すことはないのか」


 虚ろな目で在らぬ方を見つめたまま、阿呆のように黙りこくっている有間が少し薄気味悪くなり、中大兄は声を荒げた。有間の目が揺れた。孤独と絶望に(さいな)まれた瞳をゆっくりともたげ、初めて中大兄にまっすぐ、まなざしを向けた。


「何故にと、お尋ねになりましたな」


 震えを悟られまいと、有間は精一杯、声を張り上げた。


「皇太子中大兄、いや、間人皇太后の夫――私が何故朝廷に叛意を抱いたか、謀反の企てに身を任すに至ったか、それは誰よりもあなたが存じているではありませぬか」


 その場に居合わせた者は凍りついた。息を呑んで有間を見つめ、それから草が風になびくように、皆は一斉に、中大兄の方を窺った。眉ひとつ、中大兄は動かさなかった。先刻詰問を繰り返していた時とまるで変わらぬ、落ち着き払った冷徹な表情で有間を見つめ、更に何事か言うのを待っているかのようですらあった。有間は食い入るように中大兄を見上げたが、やがてがっくりと力なく首を折った。


「有間皇子の謀反を企てたることは明白だ」


 それが合図であったかのように、中大兄は隆々たる声で言い渡した。


「帝への叛逆は最も重い罪であり、温情の余地はない。自らの死をもって(あがな)いとするがよい」

※ 先帝の皇后

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