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あざみ野  作者: 李孟鑑
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第二章 有間皇子の変(二)

      * * * * *


 中大兄の息子、建皇子(たけるのみこ)が八才で病没したのは、翌年の夏だった。


 建の母は蘇我石川麻呂(そがいしかわのまろ)の娘、遠智娘(おちのいらつめ)であった。蘇我石川麻呂は乙巳の変における協力者でもあり、有間皇子の祖父にあたる安倍倉梯麻呂(あべくらはしまろ)とともに左右の大臣を務めた、朝廷の重鎮であったのだが、しかし大化五年(六四九)、中大兄に謀反の疑いをかけられ妻子と共に自害した。


 父が中大兄によって殺されたと聞き、遠智娘は驚愕して嘆き悲しんだ。身も世もなく痛嘆し、そのあまり次第に心を病んだ。建は、母親が心身を病んで行く中で身ごもり、産み落とされたのだったが、そのためか、生まれついての唖者(あしゃ)で、ものを言うことが出来なかった。


「建をもっと可愛がっておあげなさい」


 女帝はしばしば中大兄に頼んだ。中大兄とても息子を愛していないわけではなかった。しかし中大兄の中には、悲しみに半狂乱になり、夫の顔も、自らが生んだ皇女や皇子の顔すらも分からなくなって死んだ遠智娘の哀れな姿が、悲しみと共に未だに心に色濃く灼きついていた。妃の悲しみ苦しみの化現(けげん)であるかのように、身に不具を負って生まれた息子を眼前に見ることは、中大兄には耐え難かったのだった。


 そのように父との絆が薄く、母の愛情も知らぬ孫が、女帝には不憫でならなかった。建は生来気持ちが優しい少年で、そのために女帝は尚更に可愛がり、膝元から片時も離さぬように慈しみ育てていたのであった。その建が看護の甲斐もなくみまかった時の女帝の悲しみはひと通りではなかった。今来谷(いまきのたに)に宮を建て(もがり)(※1)を済ませても悲しみは去らず、冬に行くはずだった紀の国への行幸も取り止めるつもりだった。


「帝、紀温湯の明媚な風光は必ずや、帝のお心を癒すことと存じます。わたくしは行幸なされることをおすすめ致します」


 そう言って女帝に湯治を促したのは他ならぬ有間であった。元々、この湯治は有間がすすめたものだった。前の冬、自邸に引きこもり痛飲を重ねた因果から気鬱を病むようになった有間の様子を見かね、側近の塩屋連制魚しおやのむらじこのしろ(※2)が自らとゆかりの深い紀温湯に、有間を伴った。広々と開けた岩浜に白い波濤の次々と迫る、南紀の雄大な自然は、若い心にたまっていた鬱血をきれいに取り払ったようであった。しばらくの逗留ののち、見違えるように明るさを取り戻して飛鳥に戻って来た有間は、紀の国の景色の美しいことや温湯の素晴らしいことを女帝に語った。女帝は心動かされ、自らも赴いてみたいと彼の地に行宮を建てさせていたのである。


 詮方なき事であったとはいえ、弟である孝徳帝と晩年あのようにして袂を分かったのは、女帝の中に一つのしこりとなって残っていたから、その遺児である有間の示した心遣いは女帝にはやはり嬉しいものであった。有間の奏上を容れ、女帝はかねてよりの日程どおりに、紀の国へ向かう船の人となった。中大兄、大海人、妃たちに皇子、皇女から重臣らまで、宮中の主だった者を残らず従えての、大がかりな行幸だった。人々が出払ったあとの都の留守官は、中大兄の側近蘇我赤兄(そがあかえ)が命じられた。


 船は十月十五日、湯崎の津に入った。


 外海へ向かって開かれた異郷の景色は、四方を山に囲まれた盆地に住む飛鳥の人々の目を驚かせた。空は大和よりもずっと広かった。海は難波の内海よりもずっと荒々しかった。そうして果てもなく広がってゆくと思われる空と海の彼方からは、胸を不思議に震わせる冴え冴えとした潮の香が、風に乗って運ばれて来た。その風は冬とは思われぬほど、暖かだった。吹き渡る風に、見たこともない巨大な葉を梢に揺らす野卑な樹木の姿なども、見る者に異国情緒や旅愁めいた情感を覚えさせた。


      * * * * *


 湯崎に来て半月余が過ぎた。昼下がり、自室に行こうとして中大兄は、廊下で後ろから呼び止められた。通りすがりの部屋から大田と菟野(うの)の二人の娘が、二輪草のようにこちらに顔を並べていた。


「叔母上様が、皆で野菊を見に行こうとおっしゃっておられますの」


 姉の大田が言った。


「父上も皆と一緒に参りませんか」


 二人がかわるがわる話すところによれば、昼前、散歩に出た間人はたまたま出会った村の娘から、この近くに野菊の群生している浜があるとの話を聞いたのだった。浜の一帯が見渡す限りに花の色に染まるというその有様を是非見てみたいと、娘は行宮の門前にとどめておいて、急ぎ同行者を募っているのだということであった。


「折角だがわたしは遠慮しよう。少し用があるのだ。――しかしそなたたちはもう、大海人の妃なのだから、このような時は父ではなく夫に真っ先に声をかけるものだよ」


 中大兄は断りがてら、そんなつまらない諌めを言った。二人の少女は恥らった目を見合わせた。


「叔父上様は、もう誘いましたの」


 そう言ったのは、娘時代の習慣が直らず、未だについ、夫を叔父上と呼んでしまうことの抜けない、菟野の方だった。


「でも、こちらは午睡がしたいからと断られてしまって……」


「――ほら、だから申したでしょう。男の方など誘っても無駄ですよ。放っておおきなさい」


 部屋の奥から間人が笑いながら諫止するのが聞こえた。娘たちの肩ごしに覗くと、妃や皇女たち、女ばかり十人ほどが集まっていた。この顔ぶれが、共に野菊を見に出かける一団であるらしかった。間人の隣には女帝の姿もあった。ここへ来たばかりの頃は、美しい風光にも亡き建皇子の姿が思い起こされるのか、何かにつけ憂いがちであった女帝だが、案じた間人が毎日のようにのどかな浜辺の散歩に連れ出したり、村の語り部を呼んで珍しい物語を語らせたりしたおかげで、近頃は少しずつ、明朗さを取り戻していた。

 間人は部屋を覗き込んだ中大兄に笑みかけ、しかし仕種だけは憎さげに、犬でも追うようにしっしっと肩巾を振って見せた。女帝が脇から手でたしなめたが、その様子も如何にも華やいで、愉しそうだった。


「その浜と申すのは遠いのかね」


 中大兄は間人に向かって訊いた。


「遠くはありませんわ。先達の者は浜へ出て五町も歩かぬうちに着くと申しておりましたもの。わたくしがきちんと皆を連れ帰りますゆえ、ご安心を」


 やがて、御付の女官なども加わって更に数を増した女たちの一団は、花叢(はなむら)のようにあでやかに群れ集いながら門を出て行った。女帝は間人に腕を取られ、珍しく輿に乗らず(かち)であった。近場だからと言うよりも、それだけ今日は気分が良いのであろう。このような女帝を見るのは久し振りだった。後宮の女たちが女帝を囲み、冬の澄んだ晴空の下、野菊見物などという可愛らしい遊覧にはしゃいで出かけて行く――。それは美しい光景であった。


      * * * * *


 そろそろ日も傾こうという時分になって、女たちは遊覧から帰って来た。中大兄は間人が部屋に戻ったところを捕らえ、湯に誘った。


「母上は随分とお元気になられたな」


 潮風の中、湯に体を伸ばしながら中大兄は言った。ここ湯崎の温湯は波の洗う磯の岩間に湯が湧出している。湯口周りに掘り抜かれた岩板のくぼみがそのまま湯壷になっており、入湯しながら南紀の雄大な荒海の様を一望の下に眺めることが出来るのだった。


「ええ、本当に」


 間人は微笑んだ。濡れぬように髪を櫛で巻き上げておいて、するりと湯壷に滑り込んだ。


「お顔の色が良くなられましたわ。今日はね、浜で菟野に花輪を編んであげておりましたよ。ご気分がよろしかったのでしょう」


「そうか。そなたには礼を言わねばな」


「何でしょう」


「そなたが気遣ってくれたお陰だ」


「まあ。おやめ下さい、母上のお体を気遣うのは当然ですわ。わたくしだって娘ですもの。兄上、もしかしてお忘れになったの?」


 悪戯っぽく睨まれて、中大兄は苦笑したが、


「いや、わたしや大海人はそなたのようにはいかぬ。政の場で帝として接することが多いゆえ、母上はわたしと居てはどうしても気持ちが落ち着かぬのだ。そなたがそばに居て、煩わしい事を考えずに母娘として甘えることが出来るというのは、母上のお心をどれほど安らかにしているか分からぬ」


 間人は恥らったようにただ笑っていた。


「肝心の菊が浜はどうであった」


 中大兄は話を転じた。


「美しゅうございましたわ。あのような景色はわたくし初めて見ました」


 間人は目を少女のように輝かせて、皆で見て来た浜の様子をあれこれと語って聞かせた。そこは砂浜が海に向かってなだらかに落ち込んだ一帯で、菊花はその広々としたゆるやかな斜面を一面にうずめるようにして咲いていた。花の帯はところどころ、密になったりまばらになったりしながら、一町ほども向こうまで連連と連なっており、花の間に分け入ると


「前も後ろも花弁の黄一色で、陽の中に入ってしまったようでしたわ」

 と、目を細めた。


「それにね、花の形も可愛らしゅうございますの。大和の菊とはやはり少し違いますのね。花弁がうんと短くて、小さな黄色い糸玉のような……」


「藤菜(※3)の花のような感じか」


「そう、近うございますね。でももっと丸くて、小さくて。イソギクと、この辺では呼ぶそうですわ。磯辺に咲く菊ということでございましょうね」


「ひなびた、良い名だ。この暖かな異郷の地によく似合っている。その菊花の染める浜をわたしも見てみたくなった。間人、明日二人で見に参らぬか」


「よろしゅうございますとも。わたくし、道案内致しますわ」

※1 葬儀

※2 「制魚」の「制」は、正しくは「魚+制」

※3 たんぽぽ

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