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あざみ野  作者: 李孟鑑
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第二章 有間皇子の変(一)

「民の声がまた、かまびすしくなっておるな」


 訪ねて来た鎌足に、中大兄は言った。


 女帝の治世は三年目の春を迎えていた。この間、帝の威は確かに高まった。しかし度重なる労役に疲れ果てた人民の間には、不満の声が高まりつつあったのも、まぎれもないことであった。特に香具山から石上山へ船で石を運んで垣を築くという例の普請は難航を極め、ようやく船で石を運んだと思えば垣が崩れ、その垣を直しているうちに今度は水路の何処かが壊れるといった具合で一向にはかどらず、一体防御の石垣とやらはいつ出来上がるものか、誰も見当もつかぬ有様であった。


狂心(たぶれごころ)の溝だとそしっておりまするな」


 朝廷を諷諫(ふうかん)する童謡(わざうた)なども、巷にはしきりに流行っていた。名もなき民に過ぎぬと侮っていると思わぬはずみに手を噛まれることになる、と鎌足は言ってから


「実は少々お耳に入れたき儀が。そのために今宵は参上致したのでございますが」


「まあ、待て」


 中大兄は珍しく、鎌足の言葉を遮った。ひらりと座を立ち、


「ちょうど鷹の様子を見に行こうと思っていたところであったのだ。そなたもつき合え。話はその後で聞く」


 と、差し招いた。


 地面に萌え始めたばかりの下草の夜露を踏んで、中大兄は鎌足と、宮の一隅にある鷹小屋へと向かった。既に夜を迎え鷹は檻の中で皆おとなしくしていた。横一列に並んだ檻を一つずつ覗き、一つの檻の前に立ち止まって舌を鳴らしながらえがけをはめた手を差し入れた。鷹は軽く羽ばたくような仕種を見せて手に乗って来た。中大兄が背や、黒い波文様を一面に連ねた胸を撫でてやると、鷹はしばらく心地良さげに目を細めていたが、やがて小首をかしげて中大兄の小鬢(こびん)の辺りに(くちばし)を伸ばした。ちょうど羽づくろいする時のように髪の間をしきりに嘴で掻いた。


「よく慣れておりますな」


 少しはらはらしながら鎌足が言った。


猛禽(もうきん)とてもこちらが手をかけてやれば応えるのだよ。そこは馬などと何も変わらぬ」


 鋭い嘴が掻くに任せながら中大兄は答えた。


 夜を迎えたと言っても宵の口であり、宮中に未だ人は起きている時分であったが、鷹小屋の中は包み込まれたように静かであった。鷹は神経質な鳥であるため、小屋には飼育役の鷹戸以外の者は滅多に近づかないし、外の物音に驚かぬよう壁を厚く作ってあるのである。それはつまり、小屋の中の音も、外へは洩れづらいということであった。


「内臣、わたしに話とは、有間(ありま)のことか」


 やがて低い声で中大兄が言った。鎌足は、お聞き及びでございましたか、と頷いた。


「皇子におかれましては、近頃事あるごとに屋敷に人を集めては朝廷のそしりを言いつのっておられると聞いております。捨て置くべきではないかと」


 有間皇子は一昨年薨去した孝徳帝の嫡男であった。母は左大臣安倍倉梯麻呂(あべくらはしのまろ)の娘、小足媛(おたらしひめ)である。父帝亡き後、有間は病と称して自邸にほとんど籠もりきりの日々を過ごしていたが、夜毎酒を呑んでは訪ねた客人相手に例の普請の難航をそしったり、または酔いに任せて巷で歌われている朝廷諷諫の童謡を大声で吟じたりしているとの噂を、中大兄も耳にしていた。


 先帝の遺児である有間には、皇位継承の権利がある。そうした立場にある有間が帝を批判するとは、捨てては置けぬ事態であった。治世は未だ安定したとは言い難く、民の間には朝廷への不満が高まっている今、もしも朝廷の不満分子が有間の下に集まるようなことがあれば、それは朝廷を二分する内乱につながる恐れすらあった。


「幸い、祖父である左大臣も、御母堂様も既に亡く、皇子には後ろ楯となるべきものがございませぬゆえ、たとえ酔いに任せて朝廷を誹謗(ひぼう)なさったとて、今日に明日にどうこう出来るものでもございますまい。しかし、皇子は来年、十九におなりあそばす。用心なされた方がよろしゅうございましょう」


 鎌足は意味ありげなまなざしを向けた。中大兄もまた思いあたることがあると見え、眉をぐっともたげた。中大兄が法興寺で出会った鎌足に導かれて、時の権力者であった蘇我鞍作臣入鹿くらつくりのおみいるかを討とうと決意したのが、まさに十九の年であった。その時の中大兄の年に達しようとしている有間に、野心が仄めいている。有間の前に、それこそ鎌足のような人物が現れたら――。中大兄は身の内に不気味なものを感じずにはいられなかった。


「出家させる手もある」


 中大兄はつぶやいた。


「しかし先帝のことでわたしに恨みを抱いている有間が素直に従うとは思えぬ。それに出家したとて先帝の血がなくなるわけではない。喉元の刃は残り続けることとなる」


 中大兄は鷹の油を塗ったような黒い背を撫でた。しばらくそうしながら、丸く見開かれた金色の目を見ていたが、やがて音の出るようなまなざしを、鎌足に向けた。


「内乱などという事態は何としても避けねばならぬ。乱をたとえ治めたとしても、皇家の力は大きく削がれる。そうなれば、かつての蘇我本宗家のように有力豪族が再び力を伸ばして皇家を脅かすこともあり得よう。今までの苦労は水の泡だ。――内臣、今宵有間の話を持って参ったのは、ただ噂話をしようというためではあるまい。策を講じよ」


「承知仕りました。――加えて、大田(おおた)皇女様のことでございますが」


 大田皇女は中大兄の娘だった。来年十五になるのを待って叔父である大海人の妃となることが既に決まっていたが、鎌足はそれを今年に早めてはどうかと言った。


「弟君によもや叛意はございますまいが、しかし反体制側に奉じられる危険があるという点では、立場は有間皇子と同じでございます。一刻も早く婚姻を結ばれ、お二方の縁を示されるべきと存じます」


「分かった」


 中大兄は頷いて、ならば菟野(うの)も、と大田と同腹の妹娘の名を口にした。


「菟野も共々に輿入れさせることとしよう。いずれはこちらも大海人の妃に入れるつもりであったのだ。それに姉妹一緒であれば当人たちも何かと不安が少なかろう。思うように致せ」


 鎌足はこうべを垂れ、そのまま鷹小屋から出て行った。手にとまった鷹はようやく見慣れぬ人間がいなくなって安心したのか放埓(ほうらつ)な身震いを見せ、甘えるように中大兄の口髭を嘴で突いて来た。中大兄は舌を鳴らして鷹の仕種に応えた。


 ――わたしは、軽皇子(かるのみこ)とは違う。


 中大兄ひとり残された鷹小屋は、手元の鷹が首を動かすたびに和毛がすれ合う、かすかな音さえもはっきりと聞き取れた。その静まり返った中、中大兄は心の内につぶやいた。


 それは遡ること十七代前、雄朝津間稚宿禰尊おあさづまわくごのすくねのみことの御世の逸話だった。帝の第一皇子、木梨軽皇子(きなしかるのみこ)は智と武雄に優れ、皇太子となったが、しかし同母妹である軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)を愛して情を通じ、咎を負った。軽皇子は皇太子であるために処罰することは出来ず、そのため軽大娘皇女は責めを一人で負い、伊予に流罪となった。そして一方の軽皇子もまた人臣の信を失い、父帝薨去ののち、弟の穴穂皇子(あなほのみこ)に討たれた。このように、二人とも最後は悲劇的な末路を辿ることになったのだと、かつて鎌足が諌めとして語ったその話が、ふと心に思い起こされたのだった。


「わたしには間人を守る力がある。軽皇子のようにはならぬ」


 穴穂皇子は有間に、木梨軽皇子と軽大娘皇女は自らと間人に、姿はおのずから重なって、中大兄は思わず語気鋭く言い放った。鷹は驚いて羽を震わせ、ギッと一声、高く鳴いた。鳴き声の余韻がしじまに消えると、入れ替わるように小さく穿った明かり窓から、何か花の香りが流れ込み薄暗い空間を満たした。

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