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あざみ野  作者: 李孟鑑
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第一章 飛鳥還都(三)

      * * * * *


 ――分からぬものだ。


 中大兄のもとを下がり廊下を一人歩みながら、鎌足はしきりに首を振った。その時が来たらしかるべき決断をする、先程そう言った中大兄の目には、一瞬まるで少年のような、初々しい沈痛の色がよぎった。それは鎌足が初めて見た、中大兄の一面であった。


『太子は、あのような目をなさるお方であったのか』


 いらだちにも似た驚きがあった。国造りという難事業において長年に渡り苦楽を共にし、中大兄の股肱(ここう)にして最も良き理解者と自負して来た彼の、それは間人皇女に対する嫉妬の感情であるかもしれなかった。


『分からぬ』


 もう一度、鎌足は口の中で独りごちた。確かに皇后は情深く、(よわい)二十六を迎えた今も、面輪にむすめむすめした愛らしさをたたえてはいたが、しかし心根の優しい女など珍しくはない。何より中大兄に仕える妃、采女(うねめ)を見渡せば、皇后よりも遥かに美しい者が幾らもいた。(はなは)だ無礼ながら、皇位と引きかえにするような妖しい魅力を皇后がそなえているようには、鎌足にはどうしても思われなかった。とどのつまり、皇后だけが有する魅力とはやはり、同母妹という禁じられた恋の相手であるということに尽きるのであろうと思わざるを得なかった。


 もしくは戦利品という意識が太子にはあるのやもしれぬ。太子は帝と刃を交わしたのではないが、群臣と共に背き、政治権力を奪ったという点では帝を打ち負かしたと言ってよい。太子の野心的な人柄を思えば、自分に屈した帝の皇后を奪い、妻とするという、そこに魅力を覚えたということも、ないとは言えない。


 いずれにせよ、背徳の美酒にのぼせているだけのことであろう。今は放っておくことだ。燃え上がった炎はいずれ鎮まるものだ。目くるめく陶酔はいずれ覚めるものだ。皇后様についてはお二方の間が疎遠になった頃おいを見計らい、改めて太子を説いて離宮に移っていただけばよい――。人の歴史が始まって以来、幾多の人がその謎に挑んでは(たお)れて来た、相恋の神秘というものから遠ざかって久しい鎌足には、中大兄と間人の恋は、ただそのように思われただけであった。


      * * * * *


 中大兄と間人の心の内は、しかしおよそ惑溺とは程遠かった。むしろ別離こそが、最も親しい友であった。二人を結んでいるものは人々が考えるような情痴でも快楽でもなく、いわばごく凡庸な兄妹愛であった。ただあまりに無垢な、激しい形で表に現出したために、世人(せじん)の目にはかつて見たこともない異形の愛と映ったに過ぎなかった。


 内に通い合うものに(けが)れがないその分、二人は自分たちを取り巻く外部に否応なく鋭敏にならざるを得なかった。この契りの祝福されざる危うさを、世の聡き人々の無慈悲な目を、二人は誰よりもよく知っていた。如何に思い合おうとも決して添い遂げることの叶わぬさだめを、焼けた刃が身に迫るような切実さで感じるが故に、中大兄も間人も、尚更、互いに対して一途になるより他なかった。


 ただ二人の生母である皇祖母尊(すめおやのみこと)のみは、息子と娘の間に通う情愛の何たるかを理解していたように思われる。


 鎌足が密かに帝の病を中大兄に伝えた翌月、ようやく難波から使いが来て、中大兄は母や間人、大海人など主だった者たちを伴って難波宮を訪れた。やつれた様を見せまいと、帝は気丈に起き上がって中大兄たちの見舞いに応えたが、病のひどく重いことは誰の目にも明らかだった。


 その夜、中大兄は母に、帝がみまかられた際は、群臣を束ねる必要からも今一度皇位に就いていただきたいと、初めて打ち明けた。


「分かりました」


 皇祖母尊は何も問い返すことなくうべなった。


「即位致しましょう。太子、わたくしの命が続く限り、皇位のことは案ぜずともよい」


 母の言葉の意を悟り中大兄は胸打たれた。彼は母の膝元に身を投げ出すようにして、こうべを垂れた。


 それから十日ののちの十月十日、帝は難波宮で孤独と失意の内に世を去った。


      * * * * *


 孝徳帝が薨去した翌年の一月、皇祖母尊は飛鳥板蓋宮で即位の儀を行い、再び女帝となった。斉明女帝である。

 即位に伴い、小墾田(おはりだ)に皇居の造営が始められた。宮殿は瓦葺(かわらぶき)となるはずだった。この当時の建物は皇居といえども茅葺か板葺が主であり、瓦葺は寺院などにようやく見られるだけの、未だごく珍しい様式であった。瓦を一面にふいた重い屋根を支えるには、太く堅牢な柱が要る。今までのものよりも遥かに巨大な柱の立ち並ぶ宮殿をもくろんだのであったが、思うような良木が得られず、やむなく場所を岡本に移し、屋根も従来どおりの板葺にして、皇居はようやく完成にこぎつけた。


 皇居がひととおり完成すると、朝廷は休む間もなく立て続けに大がかりな普請を命じた。飛鳥東方の田身嶺(たむのみね)の頂上に垣をめぐらせ楼閣を造り、内乱に備えた山城とした。香具山から石上山まで水路を通し、船で石を運ばせて皇居東側の山肌に巨大な防壁を築くことを計画した。また吉野の山深い山中にも離宮を造営した。


 それらの普請には、女帝自らの発案したものも含まれていたが、しかしほとんどは、鎌足の奏上をもとに中大兄が進めたものであった。


 鎌足が矢継ぎ早の普請を強く奏上したのは、単なる都城の建設にとどまらぬ、朝廷内に存在する反発への対抗策でもあった。


 朝廷は必ずしも一枚岩ではなかった。中大兄は数年に渡り様々な政治改革を押し進めて来たが、それを皆が皆もろ手をあげて歓迎したわけではなく、反発を抱く者は豪族、群臣の中に少なからずいた。鎌足は、中大兄と間人皇女との道ならぬ関係が、そうした一部群臣の冷ややかな感情を後押しすることを懸念したのだった。


 壮麗な宮殿の数々は、人々の目に帝の権威を揺るぎない強烈さで灼きつけることとなる。皇家の威を高め、天下に広く示すことで、鎌足は朝廷内部の動揺を押さえ込もうとしたのである。


 中大兄と間人の仲を鎌足が快く思っていないことに変わりはなかった。しかし女帝が重祚(ちょうそ)を諾し、中大兄が引き続き皇太子として政を執るという体制が確立された以上、鎌足としてはいずれ中大兄が即位するまで、この治世を何としても守らねばならなかった。そのようなわけで鎌足は今、心ならずも中大兄と間人の恋の、最も強力な庇護者であった。


 鎌足の策はとりあえず効を奏したと言ってよかった。女帝の即位ののち、高句麗、百済、新羅の国々、国内では越や陸奥の聞いたこともない辺境の地からまでも、調を奉る使いが次々と出来たばかりの岡本宮を訪れた。女帝はそれらの使いの者たちを饗応し、冠位を与え、国をあまねく統べる権力者の宮殿にふさわしい、華やかなにぎわいが続いた。


(第一章・了)

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