第一章 飛鳥還都(二)
* * * * *
その夜、二人は初夜の明けるのを惜しみ、片時も眠らぬままに時を過ごした。寝所の内に身を寄せて二人は、言葉やまなざしや仕種を交わしては、今宵自らが手にした幸福を確かめ合い、倦むことがなかった。部屋を囲む下草の茂みはもはやそよがなかった。草叢の囁きの代わりに、今は湿った土のすえた匂いと、冷えた野菊の匂いとがあった。狭霧と共に流れ込んだ匂いが、地を覆う静けさを更に濃いものにした。満ち足りた静寂を一筋裂いて、夜鳥の鳴き音が、闇を越えて行った。
「――あの鳥は何?」
床の上に身を起こしていた間人が訊いた。
「雁だ」
中大兄は先程から、間人の乱れた髪を櫛で梳き直してやっていた、その手を止めて答えた。
「西国の何処かの地へ向かう途中なのだよ。――もう、雁が渡るような時分なのだな。間人、寒くはないか」
「ええ、少し肌寒くなりましたわ」
と、わざわざ寒さを言いつのっておいて、二人は誘い合うようにして夜具に身を沈めた。温もりを通わせ、ちらと笑み交わした。誰はばかる必要もなくなったというのに、この、生まれたばかりの恋人たちの間には、自らの恋に対する恥じらいが未だに凝っていた。そんな二人であったから、夜気の寒さを殊更に言いたてるのは、互いに肌身を寄り添わせる、格好の口実となった。
胸元にくるまって、間人は中大兄の指先をもてあそんだ。臥所の周りにめぐらせた白い帷に、指の影が大きくうごめいた。枕辺に灯した火の色を映して、間人の額や首筋の肌は温かな琥珀色に染まり、その様は何かこの上もなく愛おしい情感を中大兄の内にかきたてた。
間人はしばらく、二人の指を様々にからめ、帷の上に揺れる影絵に他愛なく見入っていたが、ふと、手を止めて目を輝かせた。
「あら、わたくしたち、指が」
「指が、どうした」
「今まで気がつきませんでしたけれど、わたくしたち指の形がそっくりですのね。ほら、御覧になって」
間人は中大兄の手を取り、自分の手と、親指同士が並び合うように指を組んで目の前にかざして見せた。並んだ二本の指は、太さの違いこそあれ、間人が言ったとおり、爪の形から関節のしわまで、型で押したように瓜二つであった。
「これは、驚いた」
中大兄はつぶやいた。
「今しがたまで、わたしも気がつかなかった」
父母を同じくしていながら、中大兄と間人の面立ちは、男女の違いということを差し引いても、互いにほとんど似かよったところがなかった。中大兄の目は竹を削いだように切れ長であったが、間人のは椿の葉のようにぱっちりと丸かった。中大兄はどちらかと言えば彫の深い顔立ちをしていたが、間人は小さな鼻と薄い唇の、彫浅い顔立ちであった。その他、額の広さにせよ、眉や耳の形にせよ、およそ重なり合う部分を探すのが困難なほどに、身体の特徴を異にしていた二人であったから、火影にかざされた二つの手の、まぎれもなく別々の人間のものでありながら、同一の人間としか思われぬほどに酷似したその有様に、中大兄は不思議な感動を覚えた。
「同じ血が流れているのだな」
中大兄は言った。横から間人がくすりと笑った。
「だって、あにいもうとでございますのに」
中大兄は黙って笑みを返した。
傍らに寄り添っている女、今宵妻となったこの女と、情愛だけでなく血の絆でも結ばれているというその奇跡を、中大兄は改めて思ったのだった。こののち、二人の情が憎悪に変わっても、いや、それすらも失われて互いに対し如何なる思いも抱かなくなったとしても、血肉を分けた兄妹であるという事実は消えぬ。手に手を取って背徳の闇に足を踏み出した二人には、それは草花を編んだ匂やかな花鎖よりも、身を締め付ける冷たい革紐かもしれぬが、しかしそれでも、中大兄は、この世で誰より愛おしく思う妻と自らとが、決して断ち切ることの叶わぬさだめで縛られているのだという思いに、酔うような幸福を感じずにはいられなかった。
中大兄は間人の手を掌に包み込んだ。こちらを見つめる間人の瞳にも、満ち足りた光が明るく輝いている。しかし陶酔ののちには常に寒々しい空虚が訪れるように、その瞳の奥底には暗い予感が既に、さざなみのように寄せていた。
「間人」
勇気づけるように中大兄は言った。
「我々は許される限り、共に生きよう。人も国も、いずれは絶える。だが男女の間に通う情のみは、天上の世で千歳に残るのだ」
深さを増した霧と共に、野菊の匂いがまた臥所に忍び入った。
* * * * *
後宮における間人の立場は公には出来ぬものであった。しかし他ならぬ宮中で起こっていることでもあり、程なくして、二人の関係は宮中の人々の間に否応なく知られることとなった。皇太子が実妹と通じるという、有り得べからざる破倫の事態に、心ある人は皆眉をひそめた。また一方では、皇位のことは如何なさるおつもりかと、不安の念にも駆られた。
内臣中臣鎌足は、この件について最も気を揉んでいた一人であった。蘇我入鹿を討った乙巳の変を共に主謀して以来、彼は常に中大兄のそばに控え、中大兄が押し進める政治改革を補佐して来た。中大兄の一番の側近であり、盟友であったのだが、しかしそれだけに、知らぬ間に太子と皇后が相姦の関係に陥っていたと知った時は、これがあの冷静沈着な鎌足かというほどの、驚きと狼狽を見せた。
特に皇族においては近親婚の当たり前であったこの時代だが、しかし同父母のきょうだいの交わりは禁忌であった。禁忌の穢れを負っている者は帝にはなれぬ。つまり間人を妻とする限り、中大兄は皇位に就けないのである。鎌足の狼狽も無理からぬことであった。
「皇后様を、離宮に移されては如何でございましょうか」
とうとう、鎌足は中大兄にそう、奏上した。が中大兄は鎌足の方をほとんど見もせずに、そのつもりはない、と言下に退けた。
「内臣一人の意見ではございませぬ。群臣の多くがそれを望んでおります」
「これは奥のことだ。政ならともかく、奥向についてまで、群臣の総意を仰がねばならぬか」
「太子、奥向のこととは申しておれなくなり申した。実は、帝が難波宮で病に臥せっておられまする」
遠回しな物言いを捨て、鎌足は本題を口にした。思いもかけぬ話に、中大兄は目を見張って振り向いた。
「左様な話、わたしの耳には入っておらぬぞ」
「あのような形で難波宮に置き捨てられた手前、帝と致しましては病のこととても、おいそれとは太子の耳に入れますまい。これは、難波宮に出入りしておる者から内々に伝えて参ったことにございます。帝はお体もお心も随分と弱られ、病は決して楽観出来ぬものであるとか。内臣が先程申した意味が、お分かりでございましょう。皇位の問題は、はやもう、眼の前に迫っておるのでございます。何卒、太子のご存念をお聞かせ願いたく」
ひと息に申し述べると鎌足は、中大兄の決断を待つように口をつぐんだ。中大兄は、左様であったか、と口の中でつぶやいた。けおされたように床に視線を落としたが、しかしその表情は存外冷静で、鎌足がどこかで予想していた動揺はそこには見られなかった。ややあって、中大兄が鎌足の方へ顔を上げた。内臣、と落ち着いた声で言った。
「まだ誰にも申してはおらなんだが、皇位については、わたしは母上に今一度、就いていただこうと考えておるのだ」
「何と」
予想だにしていなかった中大兄の返答に、不意を突かれたのは鎌足の方であった。
「帝に背反し都を去ったわたしが皇位を継いだとあっては、要らざる反感を招くこともあろう。母上ならばそうした問題は起こるまい。我々はいわば先帝である母上に従う形で、飛鳥に還都したのだから」
「成程、左様なお考えであれば」
ようやく中大兄らしい政治思考を聞いたと、鎌足はほっと感情の矛を収めた。確かに中大兄の言うように、たとえ間人皇女の問題がなかったとしても、今は母君を帝に戴く方が、物事を穏便に進めるには都合が良いように思われる。一度皇位を退いた者が再び帝になるとは前例のないことではあるが、そもそも母君が、かつて存命のうちに皇位を譲られたこと自体、既に異例であったのだから、今更重祚(※)をとやかく申す輩もおるまいと、鎌足は賛同の意を示した。
「良き案と心得まする。左様に進めましょう。しかし、太子」
鎌足はそば近くに顔を寄せ、声を落とした。
「お忘れあるな。母君様とても、いつまでもご健在ではないのですぞ」
群臣あまたあれど、このような不吉事を中大兄に向かって口に出来るのは鎌足だけであった。中大兄はこの、十も年かさの盟友の手をいたわるように取った。
「内臣、分かってくれ。間人はわたしにとって誰より大切な者なのだ。我々は互いがこの世に生まれ落ちるその遥か昔より、ひとつがいの男女であった。妹や、妻や、そのような俗世のつまらぬ呼び名では、我々の絆は表わせぬ。――だが内臣、だからと申してわたしが皇位をおろそかに考えているとは思うてくれるな。その時が来たら間違いなく、しかるべき決断をしよう」
※ 一度退位した天皇が再び皇位につくこと