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あざみ野  作者: 李孟鑑
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第四章 永訣(四)

 時に、草木すらも深い眠りに陥ったかと思われるほどに、夜がしんと静まることがあった。そんな雪の夜は、二人もまた語らうのをやめ、臥所に横になって静寂の音に耳を傾けるのだった。傍らに寄り添う間人の体は熱かった。冬が深まるにつれ、熱は少しずつ高くなって行くように思われた。


「苦しくはないか」


 額に手をあてて訊くと、間人は首を振って、火照るだけだと答えた。中大兄は間人をそばへ抱き寄せた。呼吸がまじり合って、二人の間にぬるくよどんだ。


 抱きしめるうちに、夜気に冷えていた中大兄の体は間人の熱に温められ、熱を帯びていた間人の肌は中大兄の体に冷やされて、二人の体温は等しく通い合った。窓の外に布を打つような音が一音、くぐもって響いた。


「ああ、雪が落ちましたわ」


 目を閉じて間人がつぶやいた。それきり、再び世界から音は絶えた。しんしんと降り積もる静けさの中、中大兄は胸の上に間人の鼓動を聞いた。中大兄は、間人の胸に巣食う病を思わずにはいられなかった。病が、分かち難く結び合ったはずの二人を裂く一本の暗い(くさび)となる、その不安を思わずにはいられなかった。


 中大兄は間人を抱いた腕に力をこめた。互いの胸が貝のようにぴったりと合わさって、同じ呼吸を刻んだ。あたかも二人の体が同じ生きものに融合したかに思われて、中大兄は目を閉じた。水面の油膜のように、寄り合ったまま体も魂も一つに溶けてしまえたなら、病は間人だけのものではなく、二人のものになる。もはや如何なる病魔も我々を引き離すことは叶わぬのだと、そんな幻想に中大兄はひと時酔うた。間人はうっすらと目を開け、中大兄を見つめていた。二人の息の音が身をひそめるようにさやかに漂った。


 そして、冬が終わりを迎える気配を見せ始めたある朝、咳き込んだ間人は初めて、軽い喀血を見せた。


      * * * * *


 喀血を繰り返すようになってから、間人の体は目に見えてやつれたようだった。痩せ方が一段と進み、体力が衰えたためにまどろむことが多くなった。頬は今にも透けてしまいそうに白くなった。一方で髪はずっしりと黒みを増し、黒髪に埋もれて仰臥(ぎょうが)していると、蒼ざめた面輪(おもわ)は夜の海にいっとき浮かんだ泡のようであった。


 宮中の一角では病平癒の祈祷が続けられていた。また中大兄の命により国中から様々の薬も献じられていた。が、それらは皆間人の体を素通りし、祈祷の声も薬湯も何の効も表わさなかった。


 枕辺に座り、中大兄は小さく揺れる火影の下に間人の寝顔をいつまでも見つめるのだった。病みやつれたその顔は顎が尖り頬が高くなって、しかし黒いまつ毛に守られて閉ざされたまぶたには、静謐(せいひつ)な美しさが漂っていた。そして唇には神さびた静けさが現れ始めていた。間人の体は既に、この穢れた俗世とは異なった時の中を生きているのかもしれなかった。そしてその時は、間人をある一つのさだめに向かって、少しずつ、しかし確実に押し流しつつあるのに違いなかった。


 枕元に髪が乱れて広がっていた。触れてみると、健やかであった頃と変わらぬ匂やかな手触りを、長い髪は指先に伝えて来た。間人が無意識に首をよじらせた。黒髪の陰に水鳥のような細い首が覗いた。(おとがい)の下にほくろが見えた。


『このほくろも、もうじき見れなくなるのだな』


 ふと思った。白い肌の上にぽつりと置き忘れられた小さなほくろは、明の明星のように寂しかった。耐えきれず、中大兄は両手の中に顔を沈めた。


『間人を愛するべきではなかった』


 初めて、切るような悔いが身を絞めつけた。間人の病は、中大兄との破倫(はりん)の関係に長年悩み続けた、その心痛が招いたものであることは疑う余地はなかった。十二年前、飛鳥への還都を強行したあの時、間人を難波宮に残して行くことは、帝のみならず間人とも袂を分かつことに他ならなかった。中大兄には、それは考えられることではなかった。そして間人もまた自分と同じ思いを抱いている以上、後宮から奪い去る以外の、如何なる選択もあり得ないと中大兄は思ったのであったが、


『難波にひとり残されたなら、間人はわたしの裏切りに傷ついたであろう。だがそれとて間人にとってまことの不幸であったかは分からぬ。叔父上との夫婦仲が悪かったわけでもない。むしろあのまま皇后として日向を歩ませた方が幸せであったかもしれぬ。わたしは自らの身勝手な恋情を遂げるために、最も大切な者に辛い目を強いて来たのではあるまいか――』


「――兄上」


 間人の声が小さくした。はっと、中大兄は顔を上げた。いつの間に目を覚ましたのか、間人が床からこちらを見つめていた。


「ああ、目覚めたか」


 と、咽から絞り出した声はひどくかすれた。内心の憂いを悟らせまいと、中大兄は口をつぐんだ。間人もまた中大兄を見上げたきり何も言わなかった。不自然な沈黙が二人の間にこもった。中大兄は軽く咳をした。間人の額に手をあて、それから脈を見た。間人は何か気遣わしげな目で中大兄のする様を追っていた。その澄んだ視線が中大兄には心苦しかった。風に、窓ががたがたと不安な音をたてた。


「間人」


 とうとう気づまりな沈黙に負けて、中大兄は口を開いた。間人の目がちらと動いた。


「間人そなたは――、わたしと共に生きて幸せであったか」


 行き場を失ったような声が、問うた。間人はまぶたを押し上げじっと目を開いた。沈黙があった。


「兄上は、わたくしとのことを悔いていらっしゃるのですね」


「悔いているのではない」


 言下に、中大兄は間人の言葉を打ち消した。


「わたし自身は悔いも、恥じもせぬ。――だが、夫として、兄として、わたしは考えずにはおられぬ。そなたにとってまことに幸せであったのは、果たしていずれの道であっただろう。そなたはわたしとは違う。事を好まぬ、優しき心根の女だ。後ろ暗さを負って日陰を歩むなどそなたの生き方ではない。むしろ帝と共に――」


「何故そのようなことをおっしゃるの」


 叫ぶように間人が遮った。透きとおった瞳の中に傷ついた色があった。その瞳をまっすぐ向けながら、間人は肘に力をこめて床の上に身を起こした。


「悔いておられるではありませんか。――兄上、兄上の幸せはそのままわたくしの幸せではないのですか。わたくしたちの心は如何なる時も一つと思うておりましたわ。何故それをお疑いになるの? そのような悲しいお顔をなさるほどに、わたくしは不幸せに見えるのですか」


「そうではない、逆なのだ。幸せだと申してくれたその言葉を、わたしはあまりに無垢に信じ過ぎた。こうして病に侵されるまで、わたしはそなたの不幸に気づいてやれなかった」


「いいえ、いいえ、違います。兄上は間違うておられます」


 熱のために、間人の唇には熾火(おきび)のように赤々と血が射した。


「この恋をやるせなく思うたこともございます。密かに兄上をお恨み申上げたことも本当はございました。でも、わたくしの命を明るく照らして下さったのは、他ならぬ兄上なのですよ」


 間人は小さく咳き込んだ。何度か続けざまに咳き込み、咳き込むはずみに痛みが来たのか、そのまま胸を押さえた。これ以上喋らせては良くないと、中大兄は間人の体を支えて寝かしつけた。胸に手をあて間人はしばらくじっと目を閉じていたが、再び、中大兄が目で止めるのも構わず口を開いた。


「もし自ら手を離そうとすればわたくしたちの絆は目の前で失われてしまうと、兄上は諌めて下さったではありませんか。兄上、あの時兄上は、絆を守って来られたのはわたくしが手を離さずにいたおかげだと、こう申されました。でもそれはむしろわたくしの言葉です。兄上はわたくしを導く日でございました。天から日が失われることがないように、兄上のお心も決して変わることがないと知っておりましたゆえ、わたくしは何惑うことなく兄上のあとを追って参りました。そして日の恵みで地に花が満ちるように、兄上のためにわたくしの人生は実りあるものとなりました。わたくしの人生は日陰ではありませんわ。常に、日の光と共にあったのですもの。だから悔いないで下さいませ、どのようなことも……」


 間人はふいと顔をそむけた。顎の下にほくろが覗いた。間人は目を閉じ、じっと目頭を指先で押さえているようであった。中大兄は何かのしるしであるようなそのほくろに目を落としていたが、


「すまなかった」


 ようやく、かすれた声で言った。

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