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あざみ野  作者: 李孟鑑
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第四章 永訣(三)

 夜明け近くなって病人の容体はとりあえず落ち着いた。薬師はようやく枕元から腰を上げた。


「太皇太后様(※1)は、虚労(※2)を患っておられます」


 先に立って廊下に出ると、薬師はそう、中大兄に告げた。早暁の寒さの中で、息が、かしらに置いた白髪のように白く凍てつき漂った。黙って、中大兄は足元に視線を落とした。廊下に敷かれた石だたみもまた、視線の先で一面に凍っていた。


 虚労という、その半ば死の宣告にも等しい名を、中大兄の体はしばらく理解し得なかった。ちょうどあの素焼きの鉢に貼りついていた血の痰のように、ただ音の塊となって耳の奥に引っかかっているばかりで、その意味するところは、心にも体にも容易に()し出されては来なかった。


「――それは、確かか」


 しばらくあって、全身の血が砂になってざらつくような感覚を引きずりながら、中大兄は低く声を発した。一瞬、薬師は言いよどんだ。中大兄の心中を察し何事か楽観的要素を述べようとしたのだったが、しかし結局何も見つからなかったと見え、は、と無機的な答えを返した。中大兄は小さく首を振った。咽の奥から苦しげなため息が洩れた。この、両の目に智の光をたたえた老薬師への中大兄の信頼は厚かった。そばに仕えて来た長い年月の間、見立てに誤りがあったことはなく、それは中大兄自身が誰よりよく知っていた。


「薬はないのか。どれ程貴重なものでも構わぬ」


「残念ながら、咳や痰を抑える薬はございますが、しかし根本から治す薬というものはございませぬ。無理をなさらず、滋養を摂られ、出来る限り、お体をいたわられることです。太皇太后様のお体が力を取り戻されることこそが、この病の薬でございます」


 薬師は、まるでそれが自身の手落ちであるかのように、深いしわの中にまぶたを伏せた。


「間人は――、自分の病のことを存じておるのか」


「いや、わたくしの口からは何も申し上げてはおりませぬ。ですが」


 と、薬師は痛ましい目を向け、太皇太后様ご自身は以前よりうすうす病に感づいておられたように思われますと言った。


「やはりそうであったのか。間人め。病ではないなどと、たわけた嘘を」


 中大兄は吐き捨てた。が、その声音はおのずから裂くような悲痛の響きを帯び、(かたわ)らの薬師ははっと、と胸を()かれる思いで中大兄の表情を窺った。が、中大兄は内庭の方へくるりと向き直り、下がるよう、鷹揚(おうよう)に手を振ったきりだった。


 深くこうべを垂れ、薬師の足音が遠ざかって行った。固く凍りついた石だたみから沈黙が湧き上がり中大兄を捕えた。静寂に(ふさ)がれた耳に、薬師と交わした言葉が繰り返し、重苦しく去来した。


 気がつけば空はいつしか明るくなっていた。しかし周囲の木々が日の光を遮るために内庭は未だ明け方の薄闇に沈んでいた。顎を上げ、中大兄は蒼い薄闇の底から空を仰いだ。赤地に金糸を織り込んだ鮮やかな朝焼けが射し、その向こうに白瑠璃のような透明な青空が伸びていた。朝焼けの色をへりに滲ませて、雲が薄く流れた。


 まばゆい彩りを惜しみなく目に映しながら、しかし中大兄はもはやそこに、自らとの如何なる繋がりも見出すことは出来なかった。この世の全てに中大兄は見捨てられていた。彼は今この世の孤児であった。水底の泥の中で暖かな空を乞う死者の心とはこのようであろうかと、ふとそんな思いが立ち尽くす胸をよぎった。


      * * * * *


 長い一日が終わった。夕刻、中大兄は間人の様子を見舞った。心身の安静のため臥所(ふしど)は明かりが落とされ、そのひどく暗い中に、間人は薄い影になって横たわっていた。中大兄の姿を認めると、黙って、漂うような笑みを、口元に浮かべた。静かに、中大兄は枕辺に座った。指先を触れると額が少し熱かった。熱のこもった額に中大兄は掌をあてた。熱とは言っても微熱であり、布を絞るよりも人肌をあてる方が間人には心地良いのだった。しかし熱よりも、このひと月ばかりの間に額や頬が急に痩せたように見えることの方が、むしろ中大兄には気懸りであった。


「――わたくし、痩せたでしょう」


 見つめる中大兄の目を察して、間人が言った。声が小さかった。


「そうだな。少し痩せたかもしれぬな」


 間人の言ったことはさらりと流しておいて、中大兄は逆に、飯はちゃんと食べているかと訊いた。


「食べるようにしてはおりますけれど……。でもあまり食べたくないのです」


「多少は無理して食わねばならぬ。体に力を取り戻すことが一番の薬だと、薬師が申しておったからな」


 間人は素直に頷いた。しばらく、中大兄が手で額や頬を冷やすのをぼんやりと眺めていたが、やがて軽い吐息と共に目を閉じた。手の下で眉間の辺りが二、三度、痙攣した。呼吸が苦しいのかと見守っていると、間人の目が開いた。


「――兄上」


 と、遠くから聞こえて来るような声で間人が呼んだ。暗く静まり返った瞳をじっと上げ、口を開いた。


「お願いがございますの。わたくしはもう、長くはないように思いますわ。ですから、どうかわたくしが死ぬまで、ここにおいでにならないで下さいませ」


「――間人!」


 間人の口からいきなり吐き出された死という言葉は、氷の刃となって中大兄の体をえぐった。目には見えない傷口から血の代わりに激しい怒りが脈打って溢れ出た。間人は枕の上で頭をねじり顔をそむけたが、中大兄は許さず、体をいたわらねばならぬことも半ば忘れて、両肩をわし掴みにして無理矢理自分の方を向かせた。


「死ぬなどと、そのような事を何故わたしに向かって言えるのだ。わたしはそなたがこの世に生まれたその日から、父母が慈しむより深く、そなたを愛しんで来たのだぞ。自らの命以上に、そなたを大切に思うて来たのだぞ。そなたはわたしの生そのものだ。それを知っていながら、何故そのような事を口に出来るのだ」

 背を焼く憤りに任せ、中大兄は厳しい口調で責めた。間人は(かたく)なに唇を引き結んで眉を上げた。目を大きく見開き、まるで挑みかかるようなまなざしを向けた。


「兄上にだけは、お見せしたくないのです」


 切り裂くように言った。目を見張り、間人は手を咽元にぐっとあてがった。


「体を病んでから、おもての物音が、耳にしきりに聞こえるのです」


 震える声で言った。


「臥所にこうしてひとりきりで横になっておりますと、雨、風の音、遠く廊下を行く人の足音、庭の木の葉がひっそりと落ちる音まで、まるですぐ耳元で響いたようにはっきりと聞こえるのです。不思議に思ううち、わたくしふと気づきましたの。これは、わたくしが死んでひとりお墓に横たわった時に聞く音に違いないと……。そうですわ。石の中にいるのだから、雨音などはきっとうるさいほどに響くでしょう? そして、もう体を失って魂だけになっているのだから、遠くの音も近くの音と同じように、はっきりと聞こえるでしょう? ――兄上、わたくしの身は、この先病みやつれて行くばかりですわ。わたくしの手を、御覧になって」


 間人は手を中大兄の目の前に突き出した。もたげた手は頬以上にやつれ、肉が落ちたために節が立ち、しわすら現れて、年よりもずっと老け込んでいた。


「わたくしは今も、娘の頃と変わらぬ心で兄上をお慕いしております。その兄上にだけは、醜く変わり果てた姿を見せたくはないの。分かって下さいませ、どうか……」


 心根穏やかな間人が見せた思いがけない激しさと、その激しさが語った少女のようないじらしさとに心打たれて、中大兄は咄嗟に返す言葉を失った。もたげた手がぱたりと落ちて、間人はそのまま両手で顔を覆った。掌の下に息が震えた。


 手を伸べて中大兄は間人を抱き起こした。力なく頭を振って拒むのも構わず、顔を覆っている手を無理にどけた。間人は目を固く閉じていた。醜くひきつれた表情に、自らに訪れる運命に対する恐怖が、むごいほど滲んだ。


「間人、我々の絆を望む者などこの世にはいないのだ」


 しばらく腕の中に抱きすくめたあと、中大兄は間人の耳元に低く言った。


「如何に真摯に思い合おうとも、この世では我々の契りは穢れだ。そしてまた、そなたが後宮にあってわたしを皇位から遠ざけているという事実は確かに、朝廷紊乱(びんらん)の元凶にもなり得る。あらゆる意味で抱合(ほうごう)を望まれぬ我々を守り、味方するのはただお互いのみなのだ。だからもしも、そのわたしたちが自ら互いの手を離そうとすれば、見えぬ力が明日と言わずたった今、否応なく我々を永遠に引き裂いてしまうのだぞ。そなたはそれを本当に望むのか」


 腕の中で間人はうなだれた。鼻先に髪が香った。息が咽元に生暖かく触れた。


「この絆を今日まで守って来られたのは、わたしがそなたを離すまいと努めたからだ。だがそれ以上に、そなたがわたしの手を離さずにいてくれたお陰なのだよ。それを忘れてはならぬ。何が辛くとも、わたしのもとにいてくれ。自ら離れようなど、誤っても考えてくれるな」


 うなだれた顔を持ち上げ中大兄は白い額に頬を押しあてた。額の熱さが肌に沁みた。閉め切った窓の外に音がした。さざれ石を撒くような乾いた音がぱらぱらとしたと思うと、それはたちまち冷たい冬時雨となって部屋にのしかかった。急な雨に慌てた女官たちが何事か言い交わしているのが、廊下を行く足音に入り交じった。風に煽られて強さを増した雨足が、窓を打っては頭上を駆け抜けた。


 中大兄の胸にもたれて、間人は身を震わせた。間人の耳は土を被せられた石室に打ちつける雨を聞いているのだった。赤土に雨水が沁み込み、石の隙間から滲み出す音、その水が石室の壁や床をしとどにつたう音を、聞いているのだった。(かび)や冷え切った苔の臭いを嗅いでいるのだった。雨音の降り込める薄闇の中に、中大兄は間人の体をしっかりと抱いた。間人の心を支配している恐怖を自らの体に通わせ、全身で、光も射さぬ石室に響く雨の音を聞いた。


 草木の葉叢を半刻ほども騒がせて、雨は上がった。間人が身じろぎした。見上げた目が、ふっと微笑んだ。


「兄上がいて下されば、もうどんな音も怖くない」


 その面輪には、先程まで血膿のように滲み上がっていた恐怖の色はもはや見えなかった。


      * * * * *


 就寝前のひと時おもての音を聞いて過ごすのが、中大兄と間人の新しい習慣となった。間人が起きていられる間は、物音がよく聞こえるように窓のそばに寄り添って座り、くたびれると臥所に並んで身を横たえ、二人は身の回りに過ぎて行く音に耳を傾けた。


 夜ごと、とりどりの音が、部屋を訪れては去った。風は木の葉をてんでに揺らして潮騒のように沸き立ち、静まったあとには土の湿った臭いや枯葉の暖かな匂いを置いて行った。雨は抑揚を持たない静寧(せいねい)な声を地表に遥々と広げ、二人の耳を遠く遠くへといざなった。重たく窓を叩いてまわるあられは、静かな夜を殊更に孤独なものにした。


 あの日二人を襲った鮮烈な死の影は、移ろいゆく日々の中で次第に薄らぐように思われた。しかしそれは二人のもとを去ったのではなかった。間人は毎日、明け方決まったように激しい咳に見舞われた。そしてそのたび、血の痰を吐いた。死は遠ざかったのではなく、むしろより身近なものになったのであり、そしてそのためにかえって気に留めなくなったに過ぎないのだった。


 ぬるい日常は、人生に降りかかるどんな衝撃も手なづけてしまうのだと、咳き込む間人の背をさすってやりながら、中大兄は思うのだった。ほんのふた月前までは、間人がこうして病の床に就こうなど考えられぬことであった。であるのに、今は、間人が病に侵されていることも、そればかりかこうして毎日のように痛ましい血痰を吐くことすら、あたり前の光景になってしまっている。思えば人の死ですらそうだ。亡くした直後は悲しみに心が裂かれるが、日々の中でその悲嘆は薄れ、その者がいないことが当然のようになる――。


 一瞬戦慄を覚え、中大兄は背をさすっていた手を止めた。背中の苦しげなわななきが手に伝わった。もしも間人を失ったら。それは耐え難い悲しみであった。がしかし、それ以上に、いつしかその悲しみが癒え、傍らに間人がいないことに心が慣れてしまうというのは、悲しみ以上の恐怖であった。

※1 先々代の帝の皇后

※2 肺結核

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