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あざみ野  作者: 李孟鑑
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第四章 永訣(二)

 ある時中大兄が部屋を訪れると、間人は身じまいをして出かけようとしているところだった。足慣らしに近くの村まで歩いてみるつもりだといった。


「急に無理をかけてはならぬぞ」


「大丈夫、少しでも疲れたと思ったらすぐ引き返して参りますわ」


 中大兄と女官と護衛の兵とにつき添われて間人は門を出たが、幾らも歩かぬうちに足どりが重くなり、とうとう道端の樹木の根方に座り込んでしまった。中大兄は兵に、輿(こし)を運んで来るよう命じた。


「ごめんなさい」


 余計な手を(わずら)わせたと間人はうなだれた。地面を見つめる目が少しうるんでいた。頬も心持ち赤いように思われた。手を取ってみると思ったとおり、掌が変に熱かった。


「また、熱が出ていますか」


 間人はぼんやりした目をしながら、自らの頬の熱さを確かめるように掌を押しあてた。


「――下がらないのです」


 心細そうにつぶやいた。座っている木の幹に木蔦が赤々と紅葉した葉を茂らせて這っていた。間人のつぶやきを聞き流すような振りをして中大兄は蔦の葉をむしり間人の頬にあてた。


「頬が火照るだろう。あてているといい」


 間人はようやく、弱々しいながらも口元に笑みを取り戻した。火のように赤い、しかしひんやりと冷えた木蔦の葉叢に頭をもたせ


「心地良うございますわ」


 小さく言った。


「輿が来るまでそうして休んでおれ。そなたの苦手な虫も、もうおるまい」


 何でもなさそうに言う中大兄に間人は黙って頷き、そして二人の周りは草のさざめきだけとなった。寒々と遠のいた空の青さが頭上を流れた。その、何か秋の頃よりも一層澄んで見える空を負って、遥か遠くには畝傍山の稜線が現れていた。力強く盛り上がった山体の裾には、紅葉の残り火がまだわずかに窺えた。遠くの田に人影が幾つか動いていた。落穂を拾う農夫のようだったが、手を動かしながら、あぜ道に現れた高貴な装いの一団を、時々物珍しそうに盗み見ていた。また風が立ち、そんなもろもろの景色を眺める二人の周囲に、草の音を沸き立たせた。


「――兄上」


 と、風の中で間人が急に、ぽつりと呼んだ。


「わたくしね、しばらく飛鳥を離れて静養しようかと考えておりますの」


「飛鳥を離れる?」


 思いもかけぬ言葉に不意を突かれ振り向いた中大兄に、間人は取ってつけたように頷いた。


「どこか暖かな土地、例えば昔母上のお供をして参った紀温湯でございますとか、そういう所でこの冬を過ごせば、体もすぐ治るように思いますわ。唐の使者のことがございますから、今すぐにではありませんけれど……」


 この時、旧百済に駐留する唐軍の将軍、劉仁願(りゅうじんがん)の使者として、郭務宗(かくむそう)(※)という百済人が来訪していた。白村江の大敗で百済が滅んだあと、唐は百済の義慈王(ぎじおう)の息子、扶余隆を熊津都督に任じて百済遺民の統治にあたらせ、かつ、新羅との間に和睦を誓わせた。今回の郭務宗来訪の目的は、唐の行った処置について倭国の了承を得ることであり、朝廷は最中対応に追われていたのである。宮中が立て込んでいる中であるため、今はとりあえず行き先だけ決めておいて、この件が片づいたら出発しようと思っていると間人は言った。


「しかし何故急に転地など思いついたのだ」


「急にではありませんわ。少し前から折々考えていたの。飛鳥の冬は寒うございますから。今のわたくしの体にはよろしくないと思いますの」


「そなたは幼い頃より寒さが苦手であったな。だが、理由はそれだけか」


「他に何がありましょう」


「病の身でそばにおってはわたしの迷惑になるなどと、余計なことを案じておるのではあるまいな」


「まあ」


 間人は少し驚いた様子を見せ、それから笑ってかぶりを振ったが、しかしその驚き方は大仰で、そして見せた笑みもどこか芝居がかっていた。それきり、間人はこの話を一方的に打ち切って、また木蔦の葉の中にもたれ込んだ。山吹色の(ほう)の上に白い手を重ね、ほっと目を閉じたが、疲れのためというよりも、こちらにこれ以上、あれこれと詮索させぬためであろうと中大兄は思った。


『どうしたものか』


 間人の体を思えば、暖かな地での静養は決して悪い案ではなかった。が、それが純粋に自分自身をいたわってのことではなく、あくまで足手まといにならぬために言い出したこととなると、そのような心持ちでいる間人を、たとえ冬の間だけでも他所へひとりで行かせるというのは、どうしても不安があった。


『もっと何もかも、わたしに甘えきってくれればよいものを』


 それが出来ぬ、間人であった。間人が愛を受けたために、中大兄は未だ皇位に就かずにいる。自分の存在が中大兄の人生を狂わせたのではという後ろ暗さが、間人にそうさせるのだった。


 赤々と燃える木蔦に埋もれながらじっと目を閉じる間人を見つめ、中大兄は愛しいような、悲しいような、ある種の苦しさに胸を突かれた。元々白かった肌は病を得てから更に白さを増し、今は固く閉ざされた、黒々と鋭いまつ毛とあいまって、面輪は(もろ)い陶人形のようであった。


      * * * * *


 十月四日、中大兄は郭務宗ら唐の使者を宮中に招き、饗応した。唐の申し入れを、中大兄は受諾したのだった。半島の勢力図から締め出されることを無念がる声も朝廷内にはあった。しかし百済王族の扶余隆を熊津都督に据えたことにせよ、新羅に、その扶余隆と和睦を誓わせたことにせよ、唐の半島経営が難航しているのは確かだった。


 倭国には扶余隆の弟扶余勇が亡命している。唐が今回使者を遣わして来たのは、倭国が再び扶余勇を押し立て旧百済の回復をはかることを牽制するためであったが、しかし翻って言えば、こちらが半島への野心を顕さぬ限り、少なくとも今のところは唐の侵攻もないと考えて間違いはなさそうであった。これで唐の脅威が完全に払拭されるわけではないが、今は国の防御をより強固に固めるため、時が必要だった。中大兄はそちらを優先したのである。


 ただし郭務宗のたずさえた書状については、これはあくまで劉仁願よりの牒書(ちょうしょ)であるとして受け取らず、更なる安全の確約のため、高宗よりの国書を求めた。


 ひと通りの交渉は無事に済み、郭務宗ら使者の一行は帰路についた。


      * * * * *


 それから数日後の夜半過ぎ。人の慌ただしく行き交う気配に、中大兄は眠りを破られた。廊下を幾人もの足音が行き来している。押し殺した声で何かしきりと言い交わしているのも、遠いさざなみのように耳に入った。耳を澄ますともなく澄ますうち、中大兄ははっと胸騒ぎを覚え床の上に身を起こした。隣にまどろむ妃を揺り起こすのももどかしく、手ずから衣を身につけ急ぎ部屋を出た。


 石だたみを蹴立てて廊下を渡って行くと、向こうに灯明の火が漁火のようにちらちらと揺れ、女官たちのぼんやりとした影絵が浮き上がった。影がせわしなく出入りしているのは、まさしく間人の部屋であった。


 中大兄の姿に気づいた女たちは一瞬、まるで罪を咎められた者のようにその場に凍りついた。


「何があった」


「咳き込まれまして――」


 一番近くにいた若い女官が、震え声でそれだけを言った。そこへ、間人のそばに仕えるうちで最も年のいった女官が部屋から出て来た。中大兄に気づき、居並んだ女官たちをかき分けて進み出た。


「咳の発作を起こされました。それで――」


 その女官は病人を気遣って、陰鬱なほどに声をひそめた。


「わずかでございますが、血の痰を吐かれました」


 そう言って、手にした素焼きの平鉢を傾けて見せた。鉢のざらついた底に、手燭の灯に照らされて親指の爪ほどの血の塊が一片、色づいた木蔦そっくりの鮮やかさで貼りついてあった。


「薬師は」


「もう、呼んでございます」


 女官の押しとどめるような目を振り切って、中大兄は部屋に入った。帷の中に間人は、身じろぎもせず横たわっていた。薄明かりの下でも分かるほどに顔からは血が失われ、しかし中大兄が覗き込むと、唇が咄嗟に何か言おうとかすかな痙攣を見せた。中大兄は唇に指をあてて制し、夜具の中で手を握ってやった。薬師は枕辺に座り、脈を見ながら、時折低い声で周りに何事か言いつけた。女官たちは言われるままに部屋を暖める火を運び、湯を沸かし、よく訓練された兵のように、てきぱきと機械的に動き回った。

※ 郭務宗の「宗」は正しくは「りっしんべん+宗」

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