第四章 永訣(一)
百済遠征の失敗に対する批判は厳しかった。派遣した兵の数だけでも三万二千にのぼり、その他租税、労役の形での徴収も含めると、人々が強いられた負担は文字通り膨大であった。しかしそればかりではない。百済征服の余勢を駆った唐が攻め寄せる危険が生じた。民の間からはもちろん、朝廷内にも中大兄への糾弾が噴き出し、一つ間違えば朝廷の内部分裂すら招きかねない非常な苦境に、中大兄は立たされた。
「兄上、これ以上、皇位を空位のままにしておくのは危険です」
大海人は言った。
「民の動揺は敗戦への不満によるものばかりではなく、国を束ねる帝がおわさぬという不安によるものも大きいと思われます。このように国が危うき時に皇位を空けては、動揺は広がるばかりでございましょう。兄上にも存念はありましょうが、そこを曲げて何卒、即位の儀を」
姉、間人のことにはさすがに触れなかったが、大海人はそう言って強く即位を促した。しかし中大兄はうべなわず、代わりに政治改革の法令を宣布する考えのあることを語った。
その内容は次のとおりであった。
第一に冠位をより細かく分け、官職、官人を増やすこと。
次に各氏族の氏上(※1)の地位を朝廷が保証すること。これは氏上に後ろ楯を与えて氏族統制の強化をはかったものであり、また氏上は朝廷に出仕して官人となるのが慣例であったから、第一の法令と共に、内政の充実をも意図した方策だった。
最後に有力氏族が保有する部民をを安堵すること。乙巳の変直後の詔によって、民は全て帝に属することとなり、氏族が隷属民を有することは禁じられたのだったが、しかしそれは徹底されたものではなく、尚多くの私有部民が存在した。それら部民を朝廷が改めて氏族に賜るという形で所有を認めたものであり、いわば財産を保障し氏族の不満の柔化をはかったものだった。
「そして大海人、この法令はそなたが宣布するのだ」
中大兄は命じた。本来ならば法令は中大兄が詔すべきものである。それを大海人が代行するとは、すなわち大海人の待遇を左大臣から更に引き上げるということであり、そして中大兄の後継者と目するということであった。
この時代、有力の豪族といえども自力で朝廷を覆す力は持たず、叛乱はもっぱら皇位継承権を有する皇族を奉じるという形でのみ、起こった。中大兄を除けば継承権を持つ者は大海人一人である。中大兄は大海人との結びつきを緊密にし、また同時にそれを広く喧伝して、反体制勢力の叛乱を未然に防ぐ手立てとしたのであった。
敗戦の翌年、この法令は大海人によって宣布され、豪族らの不満を鎮めるのに一応の成果を上げた。豪族の地位や財産を安堵するのが朝廷である以上、朝廷の権威が弱まれば豪族の地位もまた危うくなる。朝廷を構成する豪族は、何よりも自分自身のために、協力の姿勢を示さざるを得なかった。
豪族の不満をとりあえず収拾すると、中大兄は急ぎ、唐の侵攻を想定した防衛策に着手した。唐が海を渡って攻め寄せるならば、まさに百済遠征の際に水軍の本営となった筑紫の那大津が、地形から見ても敵の上陸地点となる。そのため、まずは対馬、壱岐、筑紫の三ヵ所に防人の軍勢を置いた。先の百済遠征で全国から徴集された兵のうち、西国の者は船の扱いに長けているために遠征軍として百済に派兵されたが、海に慣れぬ東国の兵は九州にて帝の親衛軍とされた。その軍勢は百済の役終結ののちもなお、防衛軍として九州に留め置かれていたのだが、それを、辺境を守備する防人として改めて編制し、各要所に配置したのだった。また各地の山頂には烽(※2)が据えられ、唐の水軍が侵攻した際には狼煙を上げついで変事を九州から大和の都まで伝える機関が整えられた。
筑紫大宰府には防御の砦が築かれた。大宰府は「遠の朝廷」と呼ばれる朝廷の出先機関で、九州統治の重要拠点であるのだが、防御ということに関しては周囲の地形ゆえにいかにも手薄であった。近郊を流れる御笠川が、前述の那大津へ向かってまっすぐに注ぎ、しかも川に沿って平野が細長く伸びているのである。敵が侵入したならば間違いなくこの平坦部が、大宰府への侵攻を許す通路となる。それを阻むため、中大兄は大宰府の北にそびえる大野山の丘陵端と、西方の丘陵地を結ぶ形で、平野を横切る全長半里にも及ぶ長大な土塁を築かせた。
これらの大がかりな普請は無論、外征に疲れ果てた民により一層の苦痛を強いるものであったが、中大兄はそうした不満の声を力づくで押しつぶし、国防策を進めた。
間人が病に倒れたのは、そのように朝廷が内部分裂と外敵の脅威を乗り越えようと必死にもがいていた、そのさなかであった。
* * * * *
ある夜、激しく咳き込む音に、中大兄は目を覚まされた。気づけば傍らに寝ているはずの間人の姿が見えず、帷の向こうにひどく苦しげな咳が聞こえた。中大兄は飛び起きた。帷をかかげると、部屋の隅にひとかたまりに崩折れた白い影が目に飛び込んだ。
「間人、如何した」
驚いて中大兄は駆け寄った。体の下に腕を差し入れ抱き起こすと、間人は肩を震わせて一段と激しく咳き込み出した。途方に暮れながらも、中大兄は苦しむ間人を抱きかかえ背をさすった。
しばらくしてようやく、発作は鎮まった。
「水を飲むか」
間人はわずかに頷いて、椀に汲んだ水をほんの二口ばかり、咽に流し込んだ。抱き上げて、中大兄は間人を臥所に運んだ。汗に濡れてぐったりと横たわった姿を、灯明の火が容赦なく照らし出した。
「いつから悪かったのだ」
様子が多少落ち着くのを待って中大兄は尋ねた。この半年ばかりの間、多忙のゆえに中大兄は間人の体にほとんど注意を払っていなかった。それが悔やまれるばかりに、口調はつい、詰問するような厳しいものになった。
「病などではないの。心配なさらないで」
と間人は、血の気の引いた唇につくったような笑みを浮かべた。
「この幾日かで急に寒くなったでしょう。そのせいで少し調子を崩しただけですわ。心配なさらないで」
そう答えたものの、しかし間人は起き上がって寝衣を替える力もなかった。中大兄は殿居の者に布と新しい寝衣を命じた。手ずから汗を拭い着替えをさせてやったが、絞るばかりに汗をかいているにも拘らず、触れてみると肌は氷のように冷たかった。
朝を待ち、中大兄は薬師を呼んだ。白髪の薬師は間人の脈を取り、問診など行って丹念に体を診たあと、しばらくの安静を言い置いた。様子が気に懸かってならず、中大兄は暇を見つけては部屋を見舞った。
「お忙しい時ですのに。わたくしのことまで気に懸けられてはお体に障りますわ」
足繁く訪う中大兄を間人は逆に気遣って諌めた。
「国の全ては兄上の肩にかかっていることをお忘れにならないで。兄上が倒れては、この国も共々に倒れてしまうのですよ。どうか御自身のお体を第一に考えて。わたくしは大丈夫ですから」
「懸念は無用だ。むしろそなたの様子が分からぬ方が、よほどわたしにはこたえるのだよ」
間人が諌めるたび、中大兄は額の上にもつれた髪をかき上げてやりながら、そう答えるのだった。
数日の安静ののち、間人は床を離れた。久し振りに夜具を片づけさせ、白色の寝衣を色物の袍に着替え、間人は冬の朝日のようなすっきりした笑みをおもてに浮かべたのだったが、しかしあの夜襲った発作は、ちょうど刃の一閃が醜い傷痕を残すように、間人の体に不吉な暗い影を焼き付けていた。
※1 氏族の族長
※2 狼煙