第三章 女帝薨去(三)
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寝息をたてる間人を腕の中に抱いて、中大兄は枕辺に灯したままの灯明を、眺めるともなく眺めていた。窓の外には草木のざわめきが低く聞こえた。どこからか隙間風が入っていると見え、おもてに葉叢がざわめくのに合わせて、灯明の炎もゆっくりと身を揺らした。月はもう、吹き流された雲にすっかり覆い隠されているだろうと、そんなことを中大兄はふと考えた。
横たわる間人の面輪には火影が琥珀色に射し、そして時折影の薄いゆらめきが通り過ぎた。涙の跡こそ目元にはとどまっていたが、そこには先程窓辺に立っていた時にみなぎっていた緊張の色はもはやなく、無防備な安らぎだけが漂っていた。
中大兄は間人の手を取った。八年前の初夜を思い出し、二つの手を握り合わせて指を絡めた。爪の形、節のしわ、型で押したように生き写しの、二つの手である。血の絆の証であるその部分に、中大兄は唇を寄せた。爪の密やかな冷たさが触れた。
一つの血と愛と罪とを分かち合って来た、中大兄と間人であった。光も闇も、幸福も恐れも、飽満も寂寞も、心に去来するありとあらゆるものを、二人はかばい合って共に味わって来たのだった。いつかは別れねばならぬ、その忍びない痛みゆえに、二人は己の全てを傾けて絆を固く深く結び合わせて来たのであったが、その一途さはいつしか、通常の兄妹よりも、夫婦よりも、遥かに密な、堅牢な抱合を二人の胸の内に築き上げてしまっていた。皇位に就くべき時が来たら必ずしかるべき決断をすると、かつて鎌足に誓った自身の言葉を中大兄は忘れたわけではなかった。がしかし、二人の心はいつか境目を失って、二つながら一つの心であった。二人の人生は寄り添う木の根の如くに、互いの中に深々と食い入っていた。二人の間に張りめぐらされた抱合を解く術はもはや、中大兄といえども知らなかった。
夜の寒さが深まると共に、右腿の古傷が静かに疼いた。亡き父帝、舒明帝の誄をつとめた時の傷だった。誄とは殯で行われる儀礼で、死者の、生前の徳を称える文言を読み上げ、自らの体を刃物で傷つけて悲しみを表わすのである。
父帝が薨去した時、中大兄はまだ十六だった。当時、皇位継承の候補者としては、中大兄の異母兄である古人大兄皇子と、もう一人、厩戸皇子(聖徳太子)の嫡男で父帝即位の際には皇位を争った、山背大兄皇子が有力視されていた。が、それらの有力者を差し置いて、まだ少年の中大兄が誄をつとめたのは、皇后である母の命によるものだった。帝の誄は重責を伴う大役である。母は、夫の殯を利用して古人大兄や山背大兄だけでなく、自らの息子もまた、皇位を継ぐにふさわしい器量を備えているのだと、宮中に認めさせようとしたのだった。そして中大兄は、その母の期待に応えた。
誄をつとめたその時以来、中大兄の中にも皇位継承は明確な目標として強く刻み込まれた。それは望みではなかった。信念と言うべきものであった。山背大兄が蘇我本宗家と対立を深め、身が危うくなった時、刺客の一団が斑鳩に走るのを見て見ぬ振りし、見殺しにしたのはそのためだった。そして異母兄古人大兄を帝に立てようとした蘇我入鹿を暗殺し、返す刀で古人大兄までもを亡きものにしたのは、更に有間を罠に陥れ、処刑したのは、全て、自らが皇位に就くという、その信念のためであったのだが。
――皇位は大海人に継がせ、間人と添い遂げる道もある。
がしかし、いつの頃からか中大兄の心にはそんな思いが、浮かんでは消え消えては浮かびを繰り返しつつ、次第に枝を広げていた。
斉明四年(六五八)に左大臣巨勢徳太が没して以来、その空隙を埋めて来たのが大海人であった。皇族が大臣となる慣例がないために冠位はなかったが、しかし左大臣と同等の待遇を与えられ、鎌足共々片腕として中大兄を補佐して来たその政の手腕や武徳の優れていることは既に朝廷には周知であった。加えて、その人柄ゆえの人望も、大海人には厚かった。
『称制をとる間にしかるべき体制を整えることが出来たら、あるいは……』
腕の中で間人が身じろぎして、思考は遮られた。目覚めたのかと思ったがそうではなく、ただ口の中で何事か小さくつぶやいて、間人は再び、中大兄の胸に顔を埋めた。枕辺の灯明を引き寄せ、中大兄は炎を吹き消した。
年が明けて一月、中大兄は筑紫長津宮で群臣を前に詔し、唐、新羅とのいくさを理由に、即位の儀は行わず称制をとることを告げた。鎌足は何も言わなかった。
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五月。遠征軍の編成がようやく完了し、軍船百七十艘が筑紫の海に浮かんだ。船団は阿曇比邏夫連を将軍に海を渡り、別働隊を率いて先に百済に入っていた扶余豊璋、そして将軍鬼室福信らと合流した。百済、倭国両軍の見守る中、豊璋の百済王即位の儀が行われた。全軍の士気は大いに上がったのであったが、しかしその陰で、百済の王朝には不吉な雲が兆しつつあった。王、豊璋と将軍鬼室福信との間に対立が生まれていたのである。
王家の者とはいえ三十年もの間異国にいた豊璋と、義勇軍を率いて敵を駆逐し民の辛苦を救った鬼室福信とでは、その人望に差異が生ずるのは無理からぬことであった。鬼室福信もそれを察し、事あるごとに豊璋を立てていたのであったが、力ある者同士の対立はおのずから周囲を巻き込んでのっぴきならぬ方向へと二人を押し流し、翌年の六月に至って、豊璋が謀反の罪をもって鬼室福信を捕え、これを処刑するという最悪の事態に帰着した。
猛将、鬼室福信の処刑は唐、新羅軍にとっては吉報であった。そこに百済の戦力の低下と、王朝内の分裂を看破した新羅の文武王は、七月、唐軍と共に進軍して百済軍の本城、周留城を囲み、また唐の水軍は錦江の川口、白村江に陣を敷いた。
八月二十七日、倭国の水軍が白村江に到着し、二十七日、二十八日の両日、唐水軍との間に合戦が繰り広げられた。血気にはやり闇雲に唐の堅陣へ攻めかかった倭軍を、唐軍は左右より囲んで挟み撃ち、倭軍はたちまち混乱に陥った。数多くの兵が矢や槍に突かれて水中に落ち、兵の血の色を溶かし燃え落ちる舟の炎の色を映した白村江の水は鮮紅に染まった。
九月七日、周留城は陥落した。扶余豊璋は近習数名と共に高句麗へ逃れた。豊璋の息子、忠勝、忠志は降伏し、ここに百済の命運はついえた。城内では敵の手に捕らえられることを恐れた女官たちが城を逃れて次々と川に身を投じ、川岸は若い女人たちの目にも鮮やかな屍で埋まった。
白村江での大敗はすぐさま、筑紫の中大兄のもとにもたらされた。水軍が壊滅的打撃を受けたとの報に、中大兄は愕然として色を失ったが
「全軍を撤収する」
眉を上げ即座に命を下した。
「弖礼城に退いている軍勢、及び百済各地に布陣中の軍を集め、速やかに引き上げさせるのだ。また百済の王朝、民の中に国を逃れることを望む者があらば、その者らも皆共々に船に乗せよ」
近習に命じ、中大兄はくびすを返した。敗北に肩を落としている暇はなかった。朝廷に対し巻き起こるであろう批判の声にどう対処すべきか、方策を直ちに考えねばならなかった。彼は九州沿岸の防御を固めたのち、急ぎ飛鳥へ帰京した。
(第三章・了)