第9話 私がいなくても大丈夫
今朝、誰かの声が聞こえる前に目が覚めた。
怒鳴り声ではなく、足音でもなく、扉の開く音でもなく。窓から差し込む薄い光と、鳥の声で。自然に。
ブラント邸にいた三年間、私は毎朝、ヴェルナーの声が聞こえる前に目を覚ましていた。体が勝手に身構えるのだ。今日は機嫌がいいだろうか。悪いだろうか。朝食に不備はないだろうか。そういう計算が、目を開ける前から始まる。
今朝、その計算がなかった。
窓を開けた。リンデン領の朝の空気はまだ冷たいけれど、冬の終わりの気配がある。遠くの畑に薄い緑が見える。
ただの朝だ。でも、この「ただの朝」がどれだけ尊いか、三年前の私は知らなかった。
◇
朝食の後、ヒルデが手紙の束を持ってきた。
「ブラント領から、また知らせが」
王都の知人からの手紙だった。ブラント公爵家の状況が、社交界でも話題になり始めているらしい。
ブラント領の福祉事業が停止した。領民への冬期の食糧配給が滞っている。孤児院の運営費が未払いになっている。私が三年間かけて整備した仕組みが、私がいなくなった途端に機能しなくなった。ヴェルナーは福祉事業の内容を把握していなかったのだ。すべて「妻がやっていること」として、中身を見ようともしなかった。
領民たちが王宮に請願書を出した。「公爵領の福祉が崩壊している」と。ヴェルナーの「模範領主」の仮面が、公的な場で剥がれようとしている。
ヴェルナーは弁明を試みたらしい。「妻が突然出ていった」「精神が不安定だった」。でも福祉事業の報告書にはすべて私の字で書かれた下書きが残っている。王宮への提出版にはヴェルナーの名前しかないのに、原稿は別人の筆跡だ。不自然さに気づいた認可局の役人がいたようだ。功績の横取りが、別の角度から露呈しつつある。
手紙を読み終えて、テーブルに置いた。
嬉しいとは思わなかった。ざまぁとも。ただ、そうだろうな、と。あの仕組みを動かしていたのは私で、ヴェルナーはそれを自分の功績として発表していただけだった。中身のない看板から看板屋がいなくなれば、中身のなさが露呈する。
でも、領民に罪はない。孤児院の子供たちにも。
ほんの一瞬、「戻って立て直すべきでは」という考えが頭をよぎった。困っている人がいると自分が何かしなければと思ってしまう癖。でも、あの領地はもう私の責任ではない。ヴェルナーの領地だ。私が三年間やっていたことを、ヴェルナーが自分でやればいい。やれないなら、それはヴェルナーの問題だ。
私のせいじゃない。
今度は、躊躇わずにそう思えた。
◇
もう一つ、知らせがあった。マリアンネがヴェルナーのもとに通い始めたらしい。使用人が辞めて困っているヴェルナーを「助ける」ために。
ヴェルナーは「支配できる相手」を必要としている人間だ。マリアンネが近づけば、同じことが起きる。怒鳴り、否定し、孤立させ、「お前のためだ」と言う。
関与はしない。マリアンネが助けを求めてきたら、その時は聞く。でも今は、私の問題ではない。
◇
昼過ぎ、コンラートが相談所に来た。普段より少し早い。
「リンデン領議会の承認が下りた。『心の相談所』は正式にリンデン領の公共施設として認可される」
公認。正式な肩書き。ブラント家の圧力が届かない場所で、自分の力で得た地位。
「コンラート殿が推薦してくださったんですか」
「領議会の決定だ。俺の推薦だけでは通らない。兵士たちの回復が数字で出ている。領議会の連中も認めざるを得なかった」
「ありがとうございます」
「礼はいい。これは正当な評価だ」
正当な評価。ヴェルナーは一度もそう言わなかった。私の仕事を「大したことない」と言い、成果が出れば自分の名前で発表した。それとは正反対の言葉が、ぶっきらぼうな声で届いた。
公認の書類にサインした。インク壺が重い。この世界のインク壺は鉄製で、ボールペンが懐かしい。ノックするだけで書けるあの手軽さ。でもまあ、重いインク壺にも慣れた。
書類を閉じた時、窓の外に目が行った。
コンラートが相談所の外で兵士と話している。マティアスだ。マティアスが何か長く話していて、コンラートが黙って聞いている。腕を組まず。遮らず。ただ、相手の顔を見て。
あれは、私のやり方だ。「話を聴く」の聴き方。コンラートがそれを見て、学んで、自分の部下に対してやっている。
まぶたの裏が熱くなった。
泣くような場面ではない。ただの日常の光景だ。領主代理が部下の話を聞いている。それだけのことだ。でも、「心の傷」という概念がなかったこの世界で、一人の軍人が部下の話を黙って聞いている。それがどれだけのことか。
私がここにいる意味が、あの窓の向こうに見えた。
同時に、いくつかの記憶が重なった。ブラント邸のあの朝、ヴェルナーの声が聞こえる前に目を覚ましていた私。ヒルデの「お茶の時間が好きでした」という言葉。コンラートの「人の話を聞くのが苦手だ」という嘘。「心の傷」という言葉を初めて聞いた時のブリギッテの涙。
全部、つながっている。あの朝から、今日のこの窓辺まで。
あの朝、鏡を見た。表情がなかった。今、窓に映った自分の顔を見た。泣いている。目尻に涙が溜まっている。ああ、泣けるようになったのだ。三年間泣けなかった私が。それが嬉しくてまた涙が出るという、わけの分からない状態になった。
◇
夕方、コンラートと並んで修道院に帰る道で。
「コンラート殿」
「何だ」
「少し、お話ししたいことがあるのですが」
「……聞く」
短い返事だった。でも足を止めて、こちらを見た。
まだ言えない。今日はまだ。
「明日、でもいいですか」
「ああ。明日でも、明後日でも。いつでもいい」
急かさない人だ。こういう人に出会ったのは初めてかもしれない。
帰り道、門前の石畳に冬薔薇が一輪、置いてあった。もう驚かない。拾い上げて、花びらの端に唇を寄せた。冷たくて、甘い。
部屋に戻ると、ヒルデがお茶の支度をしていた。薄荷茶と、干し林檎のコンポート。修道院に来てから始まった二人のお茶の時間。ブラント邸の頃と同じで、違う。ここには怯える理由がない。
「ヒルデ」
「はい、イルゼ様」
「……おいしいね、このお茶」
ヒルデが少しだけ目を細めた。奥様のお茶の時間が好きだったと、あの人は言った。今もまだ、この時間は続いている。




