第8話 泣いてもいいのか、ここでは
冬薔薇の花びらが、門前の石畳に落ちていた。
赤みの差した白い花びら。修道院の庭に薔薇は植えていない。銀柳と薬草畑だけだ。しゃがんで拾い上げた。花びらはまだ柔らかくて、冷たい朝露を含んでいた。鼻先に寄せると、かすかに甘い匂いがする。
翌朝も、花びらが落ちていた。今度は三枚。門の敷石の上に、偶然にしては丁寧な間隔で。
三日目には、一輪丸ごと。茎を短く切って、門柱の窪みに立てかけてあった。
誰が置いたのかは、聞かなくても分かった。
◇
コンラートが、話し始めた。
相談所ではなく、修道院の裏手の井戸端でだった。日が落ちかけていて、空が橙色から紫色に変わりつつある時間。二人とも特に用事はなかった。コンラートは部下の報告を終えた帰りで、私は夕食前の散歩をしていた。
井戸の石縁に腰かけて、コンラートが空を見ていた。
「南部の戦線にいた」
前触れもなく、そう言った。
「三年前だ。国境の砦を守る任務だった。部下が三十人。帰ってきたのは十八人」
声は低くて平坦だった。報告書を読み上げるような口調。でも、膝の上で組んでいる両手の指が白くなっている。爪が掌に食い込んでいるのだろう。私はこの仕草を知っている。自分もブラント邸で同じことをしていた。
「帰れなかった十二人の名前を、全部言える。顔も覚えている。夢に出る時は、いつも笑っている」
笑っている、とコンラートは言った。怒っている、でも泣いている、でもなく。笑っている。それが一番辛いのだということが、聞かなくても分かった。
「夜中に目が覚めることがある。砦が燃えている夢を見る。部下の名前を呼んでいる。返事がない。煙の匂いがする。目が覚めても、しばらく今がいつなのか分からない」
私は黙って聞いていた。相談員としてではなく。技法を使おうとも思わなかった。ただ、この人の声を聞いていた。
「兵士たちに話を聴くのが苦手だと言ったのは、自分が聴いてほしかったからだ。たぶん」
コンラートが私を見た。夕暮れの光で、鋭い目が少しだけ柔らかく見える。
「……泣いてもいいのか、ここでは」
その一言で、私の中の何かが軋んだ。
泣いてもいいのか。この人はこんなに大きな体をして、こんなに強そうな肩をして、たったそれだけのことが聞けなかったのだ。三年間、いやもっと長い間。泣くことの許可を、誰にも求められなかったのだ。
私だって同じだった。
「いいです。泣いても」
「そうか」
コンラートは泣かなかった。でも、組んだ手をほどいた。膝の上に乗せた両手が、かすかに震えていた。
しばらく、二人で空を見ていた。井戸の水が地下で揺れる音がする。フクロウが鳴いている。同情するより、分析するより、ただ事実として受け止められること。この人はそれを知識としてではなく、人柄としてやっている。
コンラートの横顔が暗がりの中に静かに見えて、この人の隣にいることが怖くない、と思った。それだけで何か大きなことのように感じた。
「あんた、イルゼ殿は」
「はい」
「……怒鳴られていたのか。元の夫に」
「ええ」
「そうか」
それだけだった。「大変だったな」とも「辛かっただろう」とも言わなかった。ただ「そうか」と言って、また空を見た。
◇
翌日、コンラートに連れられてリンデン領の視察に行った。相談所の公認に伴い、領内の状況を把握しておく必要があるとのことだ。建前としては。
馬で行くことになった。私は馬が得意ではない。ブラント邸にいた頃、外出を制限されていたから乗る機会がほとんどなかった。
リンデン領は辺境の小さな領地だった。冬枯れの農地が広がり、石壁の集落が点在している。戦後の復興途中らしく、壊れた柵や崩れかけた納屋がそのまま残っている場所もあった。
「右だ」
コンラートが前を行く馬の上から声をかけた。
「え?」
「今、左に行こうとしただろう。右だ」
「景色を見ていただけです」
「嘘だな。三回目だ」
コンラートは何も言わず、自分の馬のスピードを落として私の横に並んだ。自然に正しい方向へ誘導している。さりげなく。
「コンラート殿。私、人の心は読み解けるのに、道は読めないんです」
「知っている」
「いつから」
「厨房で迷った時から」
初対面の日だ。三ヶ月以上前のことを覚えているのか。
「……もう慣れた」
ぼそりと付け加えた声が、少しだけ柔らかかった。この人は感情を声の大きさではなく、声の柔らかさで表す。ヴェルナーとは正反対だ。
帰り道、冬の夕暮れは冷えた。私の灰色の肩掛けでは足りなかった。コンラートが黙って自分の外套を脱いで、私の肩にかけた。
外套は大きくて重い。革と馬と石鹸の匂いがする。別の世界の柔軟剤とは全然違うのに、体の力が抜ける。
「ありがとうございます。お返しします」
「明日でいい。落としただけだ」
落としていない。自分で脱いで渡してくれた。この人は嘘をつくと視線が泳ぐのだ。今、遠くの山をじっと見つめている。不自然なほど真剣に。
部屋に戻って、外套を椅子にかけた。
寝台に横たわって、目を閉じた。
好きだと思う。この人のことが。
嘘がつけなくて、不器用で、薬草を花束のように束ねて、道に迷う私を黙って正しい方向に導いて、泣いてもいいかと聞く人。
好きだ。たぶん。
でも、怖い。また誰かを好きになって、その人の顔色を窺うようになるのが。あの檻に、自分から入り直すのが。
依存と愛情の区別を、何百人にも教えてきた。でも自分のこととなると、その境界線がどこにあるのか分からない。
依存の特徴。相手がいないと不安になる。相手の顔色を窺う。相手の期待に応えようとして自分を曲げる。
今の私はどうだ。コンラートがいなくても不安にはならない。顔色は窺っていない。期待に応えようと自分を曲げてもいない。むしろ、この人の前でだけ、迷子になる自分を隠さずにいられる。
それは、依存とは違うもののはずだ。はずだ、と自分に言い聞かせている時点で、客観性には限界があるのだけれど。
外套の匂いが、部屋にかすかに残っている。
怖い。でもこの怖さは、ブラント邸の恐怖とは違う。あの恐怖は「逃げたい」だった。今の怖さは「踏み出したい」だ。
その違いだけは、分かる。外套を返すのは明日でいいと言ってくれた。明日、この人に会える。それが嬉しいのだと認めるのに、もう少しだけ時間が必要だ。




