第10話 おはよう、と言える朝がある
春告げ草が咲いていた。
修道院の庭の片隅に、誰が植えたわけでもない小さな花。白い花弁に薄い紫の筋が入っている。冬の間ずっと地面の下にいて、誰にも気づかれないまま根を伸ばして、春になって勝手に咲いた花。
しゃがんで、指先で花弁に触れた。冷たい朝露がついている。別の世界では見たことのない花だ。この世界にしかない、この季節にしか咲かない花。
きれいだな。
そう思えることが嬉しかった。ブラント邸にいた頃、庭の花を「きれいだ」と思う余裕がなかった。花はヴェルナーが社交用に手入れさせているもので、私が感想を述べることは求められていなかった。
でも今、花を見て「きれいだ」と思っている。それだけのことが、自分の人生を取り戻した証拠のように思えた。
◇
リンデン領の「心の相談所」は、春になって来訪者が増えた。
兵士だけではない。農家の女性が「夫に怒鳴られる」と小声で話しに来た。若い使用人が「主人が怖い」と泣いた。年配の男性が「息子に手を上げてしまう自分が嫌だ」と俯いた。
「心の傷」という言葉が、少しずつ広まっている。名前がつくと、人は初めて「自分に起きていることは異常なのだ」と気づける。ブリギッテが教えてくれた。三十年前の自分に教えてあげたかった、と。今、同じことがこの領地で起きている。
別の世界で何百回と繰り返した仕事を、別の言語で、もう一度やっている。でも今回は自分の名前でやっている。自分で選んだ場所で。
インク壺が重い。この世界のインク壺は本当に重い。ボールペンが懐かしい。ノックするだけで書けるあの手軽さ。でもまあ、慣れた。
◇
午後、相談を終えた後、一人で庭に出た。
春の風が吹いている。冬の間ずっと灰色だったリンデン領の景色に、緑が戻り始めている。遠くの農地で人が動いている。
胸元のブローチに触れた。鉄製の、銀貨二枚の安物。嫁入り道具で唯一、自分で選んだもの。ブラント邸から持ち出した、たった一つの装飾品。
このブローチを選んだ時の私は、まだヴェルナーと出会う前だった。自分の意思で、自分の好きなものを、自分のお金で買えた頃。あの頃の自分が今の私を見たら、たぶん「よくやった」と言うと思う。
あの頃の私は強くなかった。でもブローチを選ぶ程度の意思はあった。その小さな意思が、三年間の支配の中でも完全には消えなかった。そしてその種が、別の人生の記憶と一緒に芽を出した。
自分を褒めるのは苦手だ。相談者には「自分を認めてあげてください」と言い続けたくせに、自分のことになると途端にできなくなる。
でも、今日くらいは。よくやった。よく、ここまで来た。
◇
コンラートは、相談所の前にいた。
いつものように壁にもたれている。外套の襟が風で少し翻っている。あの石鹸と馬の匂いがする外套。
「コンラート殿」
「ああ」
「昨日、お話ししたいことがあると言いました」
「覚えている」
こういう場面が一番苦手だ。相談員としてアドバイスはできる。「相手に素直に気持ちを伝えましょう」と、何百人に言ってきた。でも自分のこととなると、言葉が喉に詰まる。感情の専門家が自分の感情にだけは素人だなんて、笑えない冗談だ。
深呼吸した。春の空気は少しだけ甘い。春告げ草の匂いだろうか。
「私は、あなたの隣にいたいと思っています」
コンラートの目が少し見開かれた。
「それは依存ではなくて、選択です。自分をさんざん分析して、出した結論です」
言い方が理屈っぽい。分かっている。でも私はこういう人間なのだ。感情を言葉にする前に、まず分析してしまう。治す気もない。
コンラートは何も言わなかった。五秒。十秒。長い沈黙。
「……やっと言ってくれた」
低い声だった。
「追わなかったのは、あんたが自分で決めるのを待っていたからだ。追ったら、前の夫と同じになる」
その言葉で、目頭が熱くなった。
この人はちゃんと分かっていたのだ。私がなぜ怖がっていたのかを。「追わない」ことがこの人なりの誠意だったのだ。冬薔薇を門前に置くだけ。外套をかけるだけ。薬草を束ねるだけ。全部、近づきすぎない距離からの、不器用な好意だった。
鼻の奥がつんとした。泣きそうだ。泣いてもいい場所だと、この人が教えてくれた。でも今は泣きたくない。泣くより先に、笑いたい。
「コンラート殿」
「コンラートでいい」
「……コンラート」
名前を呼んだ。呼称が変わった瞬間、空気が変わった。
コンラートが笑った。初めて見た。この人の笑顔。眉間の皺がなくなると、意外と若い顔をしている。口角の上げ方がぎこちなくて、目尻の皺が左右非対称で、練習していないことが丸わかりの笑い方。でも好きだ。世界で一番下手な笑顔だ。
「外套、まだ返してもらっていない」
「返しましたよ、先週」
「別のだ。先月、落としたやつ」
「落としてないでしょう。自分で脱いで渡してくれたでしょう」
「……覚えていたのか」
「覚えていますよ。全部」
コンラートがまたそっぽを向いた。耳の先が赤い。この人は本当に分かりやすい。でも、その分かりやすさが好きだ。裏がない。
◇
その日の夕方、部屋の窓を開けた。
春の風。春告げ草の匂い。遠くの農地から、誰かが歌っている声が聞こえる。
「おはよう」
誰にでもない。自分に向かって言った。
朝ではなく夕方の「おはよう」。おかしいかもしれない。でもこれは「新しい始まり」の挨拶だ。
別の世界では「おはよう」を言える相手がいなかった。一人暮らしのマンションで目覚まし時計に起こされて、誰とも話さないまま出勤していた。ブラント邸では「おはよう」と言えば「うるさい」と返された。
今、窓の外に向かって「おはよう」と言える。明日はコンラートに「おはよう」と言える。きっと彼は「……ああ」とだけ返す。短くて、ぶっきらぼうな「ああ」を。そして視線を逸らして、報告書の角を折る。あの無意識の癖。
それで十分だ。
ブローチに触れた。冷たい鉄の感触。銀貨二枚の安物。でも、私が選んだもの。あの日、露店の前で「これがいい」と言った私の声が、三年間の沈黙を越えて、ここまで届いた。
この先の人生も、全部、自分で選ぶ。
窓の外で、春告げ草が風に揺れていた。誰にも植えてもらわず、勝手に咲いた花。私みたいだ、と思って、少し笑った。




