表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたの声が怖くなった朝に、転生前の私が目を覚ました  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/10

第10話 おはよう、と言える朝がある

 春告げ草が咲いていた。


 修道院の庭の片隅に、誰が植えたわけでもない小さな花。白い花弁に薄い紫の筋が入っている。冬の間ずっと地面の下にいて、誰にも気づかれないまま根を伸ばして、春になって勝手に咲いた花。


 しゃがんで、指先で花弁に触れた。冷たい朝露がついている。別の世界では見たことのない花だ。この世界にしかない、この季節にしか咲かない花。


 きれいだな。


 そう思えることが嬉しかった。ブラント邸にいた頃、庭の花を「きれいだ」と思う余裕がなかった。花はヴェルナーが社交用に手入れさせているもので、私が感想を述べることは求められていなかった。


 でも今、花を見て「きれいだ」と思っている。それだけのことが、自分の人生を取り戻した証拠のように思えた。



 リンデン領の「心の相談所」は、春になって来訪者が増えた。


 兵士だけではない。農家の女性が「夫に怒鳴られる」と小声で話しに来た。若い使用人が「主人が怖い」と泣いた。年配の男性が「息子に手を上げてしまう自分が嫌だ」と俯いた。


 「心の傷」という言葉が、少しずつ広まっている。名前がつくと、人は初めて「自分に起きていることは異常なのだ」と気づける。ブリギッテが教えてくれた。三十年前の自分に教えてあげたかった、と。今、同じことがこの領地で起きている。


 別の世界で何百回と繰り返した仕事を、別の言語で、もう一度やっている。でも今回は自分の名前でやっている。自分で選んだ場所で。


 インク壺が重い。この世界のインク壺は本当に重い。ボールペンが懐かしい。ノックするだけで書けるあの手軽さ。でもまあ、慣れた。



 午後、相談を終えた後、一人で庭に出た。


 春の風が吹いている。冬の間ずっと灰色だったリンデン領の景色に、緑が戻り始めている。遠くの農地で人が動いている。


 胸元のブローチに触れた。鉄製の、銀貨二枚の安物。嫁入り道具で唯一、自分で選んだもの。ブラント邸から持ち出した、たった一つの装飾品。


 このブローチを選んだ時の私は、まだヴェルナーと出会う前だった。自分の意思で、自分の好きなものを、自分のお金で買えた頃。あの頃の自分が今の私を見たら、たぶん「よくやった」と言うと思う。


 あの頃の私は強くなかった。でもブローチを選ぶ程度の意思はあった。その小さな意思が、三年間の支配の中でも完全には消えなかった。そしてその種が、別の人生の記憶と一緒に芽を出した。


 自分を褒めるのは苦手だ。相談者には「自分を認めてあげてください」と言い続けたくせに、自分のことになると途端にできなくなる。


 でも、今日くらいは。よくやった。よく、ここまで来た。



 コンラートは、相談所の前にいた。


 いつものように壁にもたれている。外套の襟が風で少し翻っている。あの石鹸と馬の匂いがする外套。


「コンラート殿」


「ああ」


「昨日、お話ししたいことがあると言いました」


「覚えている」


 こういう場面が一番苦手だ。相談員としてアドバイスはできる。「相手に素直に気持ちを伝えましょう」と、何百人に言ってきた。でも自分のこととなると、言葉が喉に詰まる。感情の専門家が自分の感情にだけは素人だなんて、笑えない冗談だ。


 深呼吸した。春の空気は少しだけ甘い。春告げ草の匂いだろうか。


「私は、あなたの隣にいたいと思っています」


 コンラートの目が少し見開かれた。


「それは依存ではなくて、選択です。自分をさんざん分析して、出した結論です」


 言い方が理屈っぽい。分かっている。でも私はこういう人間なのだ。感情を言葉にする前に、まず分析してしまう。治す気もない。


 コンラートは何も言わなかった。五秒。十秒。長い沈黙。


「……やっと言ってくれた」


 低い声だった。


「追わなかったのは、あんたが自分で決めるのを待っていたからだ。追ったら、前の夫と同じになる」


 その言葉で、目頭が熱くなった。


 この人はちゃんと分かっていたのだ。私がなぜ怖がっていたのかを。「追わない」ことがこの人なりの誠意だったのだ。冬薔薇を門前に置くだけ。外套をかけるだけ。薬草を束ねるだけ。全部、近づきすぎない距離からの、不器用な好意だった。


 鼻の奥がつんとした。泣きそうだ。泣いてもいい場所だと、この人が教えてくれた。でも今は泣きたくない。泣くより先に、笑いたい。


「コンラート殿」


「コンラートでいい」


「……コンラート」


 名前を呼んだ。呼称が変わった瞬間、空気が変わった。


 コンラートが笑った。初めて見た。この人の笑顔。眉間の皺がなくなると、意外と若い顔をしている。口角の上げ方がぎこちなくて、目尻の皺が左右非対称で、練習していないことが丸わかりの笑い方。でも好きだ。世界で一番下手な笑顔だ。


「外套、まだ返してもらっていない」


「返しましたよ、先週」


「別のだ。先月、落としたやつ」


「落としてないでしょう。自分で脱いで渡してくれたでしょう」


「……覚えていたのか」


「覚えていますよ。全部」


 コンラートがまたそっぽを向いた。耳の先が赤い。この人は本当に分かりやすい。でも、その分かりやすさが好きだ。裏がない。



 その日の夕方、部屋の窓を開けた。


 春の風。春告げ草の匂い。遠くの農地から、誰かが歌っている声が聞こえる。


「おはよう」


 誰にでもない。自分に向かって言った。


 朝ではなく夕方の「おはよう」。おかしいかもしれない。でもこれは「新しい始まり」の挨拶だ。


 別の世界では「おはよう」を言える相手がいなかった。一人暮らしのマンションで目覚まし時計に起こされて、誰とも話さないまま出勤していた。ブラント邸では「おはよう」と言えば「うるさい」と返された。


 今、窓の外に向かって「おはよう」と言える。明日はコンラートに「おはよう」と言える。きっと彼は「……ああ」とだけ返す。短くて、ぶっきらぼうな「ああ」を。そして視線を逸らして、報告書の角を折る。あの無意識の癖。


 それで十分だ。


 ブローチに触れた。冷たい鉄の感触。銀貨二枚の安物。でも、私が選んだもの。あの日、露店の前で「これがいい」と言った私の声が、三年間の沈黙を越えて、ここまで届いた。


 この先の人生も、全部、自分で選ぶ。


 窓の外で、春告げ草が風に揺れていた。誰にも植えてもらわず、勝手に咲いた花。私みたいだ、と思って、少し笑った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
なんというか、夫の精神支配から逃れて自立していく女性を描かれていて、それは良いのですが、公爵夫人なのにも関わらず、ある筈の彼女の実家が少しも描かれていないのが気になりました。公爵夫人なら、上位貴族の実…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ