表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたの声が怖くなった朝に、転生前の私が目を覚ました  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/10

第1話 あの声が聞こえる前に、目を覚ます

「何度言えばわかるんだ、イルゼ!」


 朝食の皿が一枚足りなかった。たったそれだけのことだった。


 ヴェルナーの怒鳴り声が食堂に響く。壁にかかった銀の燭台がびりびりと震えている気がする。いや、震えているのは私の方だ。指先。膝の裏。肩甲骨の間。そういう、自分では制御できない場所ばかりが反応する。


「申し訳ございません、旦那様」


 三年間、この言葉を何度口にしただろう。数えたことはない。数える気力がなかった、というのが正しい。


「客人の前で恥をかかせるつもりか。お前のためにどれだけ苦労しているか」


 お前のためだ。

 お前のために言っている。

 お前のためを思って。


 この言葉を、私は三年間、愛情だと信じていた。


 ヴェルナーの目は据わっている。社交の場では柔和な笑みを絶やさない人なのに、二人きりの食堂では別の生き物になる。声が低くなる。顎が前に出る。肩が上がる。そして必ず、テーブルを指先で二回叩く。こつ、こつ。


 その音が合図だ。ここからもっとひどくなるか、このまま終わるかの。


「……今日は客が来る。失態は許さん」


 今日は「終わる」方だった。ヴェルナーは舌打ちをして食堂を出ていった。革靴が廊下の石畳を叩く音。遠ざかっていく。遠ざかると、少しだけ肺に空気が入る。いつもそうだ。この人が部屋にいると、酸素が足りなくなる。


 一人になった食堂で、薄荷の煎じ茶を淹れた。


 手が震えている。


 湯呑みを持ち上げようとして、指がすべった。中身がこぼれる。熱い。テーブルに広がる薄い緑色の水たまりを、私はしばらく眺めていた。拭かなければ。でも体が動かない。


 胸元の鉄製のブローチに目が行った。嫁入り道具の中で唯一、自分で選んだもの。他のすべては母が選び、父が金を出し、ヴェルナー家が承認した。でもこの小さなブローチだけは、王都の露店で「これがいい」と自分の声で言って買った。銀貨二枚。安物だ。でも、私が選んだ。


 ああ、カレーパンが食べたい。


 唐突に、そう思った。前の世界のスーパーの惣菜コーナーに並んでいた、百五十円のカレーパン。揚げたてだと衣がざくざくしていて、中の具は甘口で、コンビニのコーヒーと一緒に食べると妙に贅沢な気分になった。この国にはスーパーもカレーパンもコンビニも存在しないのだけれど。


 前の世界。


 ……前の世界?


 私は手を止めた。こぼれた茶をそのままに、食堂の壁にかかった鏡を見た。


 鏡の中に、女がいる。

 二十五歳。栗色の髪。灰青色の目。

 表情がない。


 口角が上がっていない。眉が動いていない。三年前の私は、こんな顔をしていなかった。嫁いできた日、ヒルデに「奥様はよくお笑いになりますね」と言われたのを覚えている。


 その瞬間、頭の中で何かが弾けた。


 別の人生。別の名前。別の国。大学で心理学を学んだ。福祉事務所に就職した。DV被害者の支援相談員として、何百人もの女性の話を聞いた。


 相談室の安っぽいパイプ椅子。ティッシュの箱を差し出す自分の手。「あなたは悪くないですよ」と何度も繰り返した声。


 ああ。そうか。そういうことか。


 待て。待て待て待て。


 落ち着け。整理しろ。いや、落ち着いてなんかいられない。だって三年だ。三年間ずっと、これは、この生活は。


 三年分の記憶が、一気に塗り替わっていく。


 外出を制限されていた。「心配だから」と言われて。

 それは孤立化だ。被害者を社会から切り離す手口。研修マニュアルの三十二ページに書いてあった。


 友人との文通を禁じられた。「あの家とは付き合わない方がいい」と。

 交友関係の制限。相談先を潰す。外部の情報を遮断する。


 私がまとめた福祉事業の報告書を、ヴェルナーが自分の名前で王宮に提出していた。「お前の名前では信用されない」と笑って。

 功績の横取り。「自分には価値がない」と思い込ませる。あの時の笑顔。優しそうな笑顔。あれが一番たちが悪い。


 怒鳴った後に優しくなる。花を贈ってくる。「さっきは言いすぎた」と笑う。

 暴力のサイクル。緊張期、爆発期、ハネムーン期。研修で見た動画とそっくりだ。あの時は他人事だったのに。


 全部、知っている。マニュアルに書いてあった通りだ。一字一句。


 ふざけるな。


 ふざけるな、と思った。三年間、信じていた。この人に愛されていると信じていた。信じていたのに、いや、信じていたのではなくて、信じ込まされていたのだ。三年間、毎朝、毎晩、少しずつ、少しずつ。


 こぼれた茶が、テーブルの端から床にぽたりと落ちた。


 鏡の中の女を見つめた。この顔を、相談室で何度も見た。扉を開けて入ってくる女性たちの、最初の顔。「自分が悪いのだと思います」と言いながら座る時の、あの無表情。


 同じ顔を、今、私がしている。


 あなたは悪くない。そう言ってやらなければならない。この鏡の中の女に。


 奥歯の裏側が痺れている。怒りだ。叫びたいのかもしれない。でも叫ばない。叫んでも何も変わらないことは知っている。変わるのは計画を立てて、一つずつ実行した時だけだ。何百回も伝えてきた言葉の通りに。


 拳を握った。爪が掌に食い込んだ。痛い。でもこの痛みは自分のものだ。ヴェルナーに与えられた痛みではなく、自分で選んだ痛み。


 立ち上がって、こぼれた茶を自分で拭いた。


 侍女のヒルデが飛んできて「奥様、私がやります」と言ったけれど、首を横に振った。布が茶を吸い込んでいく感覚が必要だった。自分の手を動かしている、ということが。


「ヒルデ」


「はい、奥様」


「この屋敷の書庫に、婚姻に関する法律書はある?」


 ヒルデが目を丸くした。四十を過ぎた侍女の顔に、驚きと、ほんの少しの期待のようなものが浮かんだ。この人は三年間ずっとそばにいて、私が笑わなくなるのを見ていたのだ。


「お探しいたします」


「ありがとう。それから、ヒルデ」


「はい」


「明日から、私は少し変わると思います」


 ヒルデは何も言わなかった。ただ、深く頭を下げた。頭を上げた時、目が少し赤かった。泣いてはいない。でも泣きそうだった。この人も、ずっと何かを我慢していたのかもしれない。


 窓の外では、庭師が薔薇の枝を剪定していた。ぱちん、ぱちん、と鋏の音がする。不要な枝を、切り落とす音。


 鉄のブローチに触れた。冷たい金属の感触が、指先に残る。


 私は違う目で、この屋敷を見る。この檻の、鍵の在り処を探すために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ