第1話 あの声が聞こえる前に、目を覚ます
「何度言えばわかるんだ、イルゼ!」
朝食の皿が一枚足りなかった。たったそれだけのことだった。
ヴェルナーの怒鳴り声が食堂に響く。壁にかかった銀の燭台がびりびりと震えている気がする。いや、震えているのは私の方だ。指先。膝の裏。肩甲骨の間。そういう、自分では制御できない場所ばかりが反応する。
「申し訳ございません、旦那様」
三年間、この言葉を何度口にしただろう。数えたことはない。数える気力がなかった、というのが正しい。
「客人の前で恥をかかせるつもりか。お前のためにどれだけ苦労しているか」
お前のためだ。
お前のために言っている。
お前のためを思って。
この言葉を、私は三年間、愛情だと信じていた。
ヴェルナーの目は据わっている。社交の場では柔和な笑みを絶やさない人なのに、二人きりの食堂では別の生き物になる。声が低くなる。顎が前に出る。肩が上がる。そして必ず、テーブルを指先で二回叩く。こつ、こつ。
その音が合図だ。ここからもっとひどくなるか、このまま終わるかの。
「……今日は客が来る。失態は許さん」
今日は「終わる」方だった。ヴェルナーは舌打ちをして食堂を出ていった。革靴が廊下の石畳を叩く音。遠ざかっていく。遠ざかると、少しだけ肺に空気が入る。いつもそうだ。この人が部屋にいると、酸素が足りなくなる。
一人になった食堂で、薄荷の煎じ茶を淹れた。
手が震えている。
湯呑みを持ち上げようとして、指がすべった。中身がこぼれる。熱い。テーブルに広がる薄い緑色の水たまりを、私はしばらく眺めていた。拭かなければ。でも体が動かない。
胸元の鉄製のブローチに目が行った。嫁入り道具の中で唯一、自分で選んだもの。他のすべては母が選び、父が金を出し、ヴェルナー家が承認した。でもこの小さなブローチだけは、王都の露店で「これがいい」と自分の声で言って買った。銀貨二枚。安物だ。でも、私が選んだ。
ああ、カレーパンが食べたい。
唐突に、そう思った。前の世界のスーパーの惣菜コーナーに並んでいた、百五十円のカレーパン。揚げたてだと衣がざくざくしていて、中の具は甘口で、コンビニのコーヒーと一緒に食べると妙に贅沢な気分になった。この国にはスーパーもカレーパンもコンビニも存在しないのだけれど。
前の世界。
……前の世界?
私は手を止めた。こぼれた茶をそのままに、食堂の壁にかかった鏡を見た。
鏡の中に、女がいる。
二十五歳。栗色の髪。灰青色の目。
表情がない。
口角が上がっていない。眉が動いていない。三年前の私は、こんな顔をしていなかった。嫁いできた日、ヒルデに「奥様はよくお笑いになりますね」と言われたのを覚えている。
その瞬間、頭の中で何かが弾けた。
別の人生。別の名前。別の国。大学で心理学を学んだ。福祉事務所に就職した。DV被害者の支援相談員として、何百人もの女性の話を聞いた。
相談室の安っぽいパイプ椅子。ティッシュの箱を差し出す自分の手。「あなたは悪くないですよ」と何度も繰り返した声。
ああ。そうか。そういうことか。
待て。待て待て待て。
落ち着け。整理しろ。いや、落ち着いてなんかいられない。だって三年だ。三年間ずっと、これは、この生活は。
三年分の記憶が、一気に塗り替わっていく。
外出を制限されていた。「心配だから」と言われて。
それは孤立化だ。被害者を社会から切り離す手口。研修マニュアルの三十二ページに書いてあった。
友人との文通を禁じられた。「あの家とは付き合わない方がいい」と。
交友関係の制限。相談先を潰す。外部の情報を遮断する。
私がまとめた福祉事業の報告書を、ヴェルナーが自分の名前で王宮に提出していた。「お前の名前では信用されない」と笑って。
功績の横取り。「自分には価値がない」と思い込ませる。あの時の笑顔。優しそうな笑顔。あれが一番たちが悪い。
怒鳴った後に優しくなる。花を贈ってくる。「さっきは言いすぎた」と笑う。
暴力のサイクル。緊張期、爆発期、ハネムーン期。研修で見た動画とそっくりだ。あの時は他人事だったのに。
全部、知っている。マニュアルに書いてあった通りだ。一字一句。
ふざけるな。
ふざけるな、と思った。三年間、信じていた。この人に愛されていると信じていた。信じていたのに、いや、信じていたのではなくて、信じ込まされていたのだ。三年間、毎朝、毎晩、少しずつ、少しずつ。
こぼれた茶が、テーブルの端から床にぽたりと落ちた。
鏡の中の女を見つめた。この顔を、相談室で何度も見た。扉を開けて入ってくる女性たちの、最初の顔。「自分が悪いのだと思います」と言いながら座る時の、あの無表情。
同じ顔を、今、私がしている。
あなたは悪くない。そう言ってやらなければならない。この鏡の中の女に。
奥歯の裏側が痺れている。怒りだ。叫びたいのかもしれない。でも叫ばない。叫んでも何も変わらないことは知っている。変わるのは計画を立てて、一つずつ実行した時だけだ。何百回も伝えてきた言葉の通りに。
拳を握った。爪が掌に食い込んだ。痛い。でもこの痛みは自分のものだ。ヴェルナーに与えられた痛みではなく、自分で選んだ痛み。
立ち上がって、こぼれた茶を自分で拭いた。
侍女のヒルデが飛んできて「奥様、私がやります」と言ったけれど、首を横に振った。布が茶を吸い込んでいく感覚が必要だった。自分の手を動かしている、ということが。
「ヒルデ」
「はい、奥様」
「この屋敷の書庫に、婚姻に関する法律書はある?」
ヒルデが目を丸くした。四十を過ぎた侍女の顔に、驚きと、ほんの少しの期待のようなものが浮かんだ。この人は三年間ずっとそばにいて、私が笑わなくなるのを見ていたのだ。
「お探しいたします」
「ありがとう。それから、ヒルデ」
「はい」
「明日から、私は少し変わると思います」
ヒルデは何も言わなかった。ただ、深く頭を下げた。頭を上げた時、目が少し赤かった。泣いてはいない。でも泣きそうだった。この人も、ずっと何かを我慢していたのかもしれない。
窓の外では、庭師が薔薇の枝を剪定していた。ぱちん、ぱちん、と鋏の音がする。不要な枝を、切り落とす音。
鉄のブローチに触れた。冷たい金属の感触が、指先に残る。
私は違う目で、この屋敷を見る。この檻の、鍵の在り処を探すために。




