第6話
「……竜神の巫女?」
沈んだ空気の中、愛を抱えるように座っていたオズウェルがぽつりと呟く。
まるで重たい空気をひとすじの風で切るように、その声はどこか無垢で、不思議そうだった。
ユリスは顔を上げ、涙を指で拭うと、気丈に微笑んで彼に向き直る。
「お二人は旅の方なんですよね。……竜神の巫女というのは、明日から行われるアクルナ聖祭の最終日に、竜神様へ舞を奉納する大切なお役目のことです。このルメリアで最も美しい舞を披露できる舞手を選ぶ選考会が、祭りの三日間で行われ、四日目に結果が発表されます。その後、選ばれた巫女はルメリアの中心にある魔力湖――ルメリア湖で奉納の舞を披露し、次の祭りまでの期間まで、竜神の巫女として国中を巡り、各地の神殿で舞を披露して過ごすのです」
そもそもアクルナ聖祭とは、この地に「魔力湖」をもたらした竜神へ感謝を捧げるための祭りであるらしい。
この土地を治めているのはルメリア公爵家で、ここはそのルメリア公爵領の領都にあたる。
伝承によれば、ルメリア公爵家の遠い祖先が荒廃した大地に絶望していた時、天より一体の竜が現れ、その涙を大地に落としたという。
竜の涙は大地を割り、そこから清らかな水が溢れ出して湖となった――それが現在のルメリア湖、すなわち魔力湖の起源である。
以来、この地は代々ルメリア公爵家の庇護のもとにあり、竜神への感謝の祭りは途絶えることなく続けられてきた。
「父は保守的で、女は家にいてこそ幸せになるのだと、そう信じて疑わないんです。女性的な趣味を持ち、女性らしく生きるのが当たり前――確かに、それは間違いではないのかもしれません。でも……私は、ただ気兼ねなく外に出たいだけなんです。自分の足であちこちを巡って、世界を知りたい。そして商会のためになるようなものを見つけて、少しでも支えたい。それだけなのに」
ユリスの声は静かに震えていた。
竜神の巫女になれば、国中を巡ることが許される。
誰かの妻として家に閉じ込められるのではなく、巫女としてさまざまな経験を積むことができる。
それがどれほど商会の未来にとって有意義なことなのか、どれほど真剣に訴えても、父には理解してもらえなかったのだという。
舞の稽古だけは「女性らしさを磨くため」と許されていたが、その努力の成果も、今回の縁談ひとつで水泡に帰してしまうかもしれない。
「あなたの事情は分かったわ。でも――それとオズウェルを巻き込もうとした理由が、どう繋がるのかしら?」
愛がそう問いかけると、ユリスはばつの悪そうに苦笑し、頬をかすかに掻いた。
「その……縁談相手の男、スネウィルというんですが……昔、大きな山羊の魔物に襲われて、角で大怪我を負ったらしいんです。それ以来、角の生えたものを見ると遠ざけるようになったみたいで……だから、つい……」
そう言いながらユリスが視線を向けたのは、オズウェルの頭から伸びる立派な角だった。
艶やかな漆黒を纏うその角は、ゆるやかに捻じれながらも力強く天を指している。
よくよく見れば――確かに、山羊の角にも似ていなくはない。
「山羊……?」
オズウェルがぽつりと呟き、自分の角を手で撫でながら愛を見る。
まさか自分が山羊獣人と間違えられるとは思ってもいなかったのだろう。
そのあまりに素直でキョトンとした表情が妙におかしく、愛は思わず吹き出してしまった。
別に場を和ませようとしたわけではない。
だが、突然笑い出した愛を見て、ユリスは驚いたように目を丸くし、ぽかんと口を開けていた。
ひとしきり笑った愛は、先ほどまで漂っていた冷たい空気をすっかり霧散させ、ユリスを穏やかな眼差しで見つめた。
「まぁ、今回のことは――焦りから出た行動だったってわかったから、もういいわ。でも、これからどうするつもり?」
愛はテーブルの上に並べられた菓子をひとつ摘まみながら、柔らかな声で問いかける。
「そうですね……後ろの三人が父に報告しなければ、私の居場所は知られないでしょうけど……無理でしょうね」
ユリスが肩越しに振り返りながらそう言うと、背後に立つ男たちは気まずそうに目を伏せ、返す言葉を失っていた。
「一度、家に帰ります。どうにか父を説得して、明日の選考会には出られるようにしないと。……逃げてばかりじゃ、ダメみたいですから」
「それがいいかもしれないわね――あっ!」
話が一区切りついたその時、愛はふと窓の外に目をやり、夕陽に染まる橙の光を見てハッとした。
今日の宿がまだ取れていないことを、今になって思い出したのだ。
ユリスが不思議そうに首を傾げて尋ねると、愛はルメリアに着いてから宿を探していたが、祭り前日とあってどこも満室だったことを説明した。
「それでしたら――今回のことへのお詫びも兼ねて、ぜひ我が家にいらしてください。屋敷には客人用の部屋もありますし……それに、私も……正直、帰るのが少し怖いんです」
屋敷へ帰った途端、問答無用でイラセント商会へと引き渡されてしまうかもしれない――そんな考えが脳裏をよぎっては消え、ユリスは小さく肩を震わせた。
彼らを招いたのは、単なる謝罪の意だけではない。
客人を伴っていれば、商人である父も体裁を気にして、軽々しく騒ぎを起こすことはないだろう。
そんな打算が、心のどこかにあったのも確かだった。
「せっかくだし、お邪魔しようか。今から宿を探すのは難しそうだし……これも何かの縁だろう。ね、アイ?」
愛の機嫌がすっかり落ち着いたのを見て、オズウェルは安堵したように柔らかな笑みを浮かべながら言った。
その声音にはどこか甘やかさが滲んでおり、恋人を気遣うような優しさがあった。
「ちょ、ちょっと、近すぎるわ、もうちょっと離れて……」
今さらながら、ふたりの距離が恋人のように近いことに気づいた愛は、頬を赤らめて身をよじった。
だがオズウェルはどこ吹く風といった様子で、涼しい顔のまま愛を抱き寄せ、離れようとしない。
吐息が肌にかかるほどの距離。
いくら個室とはいえ、さすがにこれは恥ずかしすぎる――。
愛がアワアワと慌てる様子を、ユリスたちは不思議そうに眺めていた。
まるで「今さら何を照れているの?」とでも言いたげに、首をかしげながら。
そうして、愛たちはユリスの提案に乗っかることにし、ユリスたちと共に彼女の住む屋敷へと向かうことにした。




