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大地への帰還  作者: 桐生真之
9/12

4 幽邃

 いつのまにか、穏やかな雑音が硬質なものに転じていた。母胎に住んでいた悠久のまどろみに耳にしたあらゆる音の並びが一足遅れて鼓膜に訪れる琴のような響きが、閑散とした昼の住宅街で唸る羽虫の群のような五月蠅い音に侵食されていた。音の変質は状況の変化を意味していたが、青年は自らの足でどこかへ行った覚えもない。夢幻の異界に埋没していたことはあったが。

 目を覚まし、蛹の殻のような己の肉体に魂が縛り付けられているのを半醒半睡のうちに諒解し、あの夢はいかなるものだったかと思いなおす。

 見覚えのあるような容貌が幾人かちらほらと出てきたような気もするし、それらが古めかしい風土のなかでなにやら挙式のような……とここらでつらつらと流れていた映像がぷつりと途絶えて、以降、思い出せぬ。アア、それと鬼の顔……少女とすれ違った恐ろしい女の奇怪な相貌の変容に気の付いていたものはひとりたりともいなかった。

 魂だけが到達できる夢幻の高楼から退けられたこの体、路傍に投げ出されて挙句、手を伸ばそうと陽炎を掴まされている如く、遠ざかる想いだけが虚しく、根雪に埋められたように体が重く凍えて、自分のものではないような、全身があの夢の間に肉腫と入れ替わったような思いがする。しかし左の下部の肋骨が痛むのにつれそれは常の寝起きの悪さのせいだと思い、活力が芽吹くよう努める。

 現と幻のあわいに夢見の余韻は長々と揺曳していたものの、益体ない思索の沼から抜け、瞼を開けてみるかと試みたのだがあたわず、するとどこかで耳にしたような、少女の声が聞こえてくる。息が苦しく、紗幕を気管に張り付けられているような心持ちになり、肉体と外界が分断されているような気さえする。夢中にて、青年の眼を奪った美しい少女。あの子は何者だったのかと再び考え始めた頃、

「ねえ」

 稚気と悲哀と熱と冷静が細かに入り乱れた妹の、鼻にかかったような声がする。

「お兄ちゃん、お兄ちゃんてば」

 声高になった折り、香りが増した。楚々としたスミレの匂いが藍を思わせた。そして、スミレとは別の鼻につんとくる香りがあるかと思えば、唇から舌までひりひりと痺れる。ぼんやりとしていた脳が閃くように覚醒に向かう。飛び起きると柊の、悪巧みの表情が。どうやらこの次女、寝ている青年の口に辛子を塗ったようで、兄を見て笑い転げている。双眸には螺鈿を鏤めたかのような雫が輝き、それが良く動き回る瞳のせいで、流星のような光りの群がりを見せていた。

 青年は転がる妹を押さえつけて顎を持った。ひっ、と短く悲鳴を上げた頃には遅く、妹の唇は青年の唇と接合して、妹の口腔にはじわり、と、刺さるような辛子の痛みが広がった。青年の唇の縛めを解いて解放すると、柊は至極当然な帰結として叫ぶのであったが「これは愛の鞭であるから、虐待ではない」と青年、加虐者お決まりの言い分で。

「痛みなど電気信号だ。遮断してみよう。気合で」

「無理ですの、情報量が多すぎて処理が間に合いませんの」

「くそ、脊髄が短いぶん伝達速度が速いのか」

「そんな理屈はないと思われます、というか、それより助けてくださいお願いします。ひりひりしますのです痛いのです」

「ならばもうこんな悪質な方法で俺を起こさないと誓うかね」

 鞭打ちになりそうなほど縦に首を振る妹であった。

 再び口を吸って辛子を処理した。

「気分は爽快?」

「そりゃ……もう」

「顔面がタコみたいに青ざめたり赤くなったりしていたように見えたけども」

「ぜ、ぜんぜん、平気だもんね」

 と強がるものの、

「足ふらふらだから」

「くそぉ……コーキュートスでまた会いましょうって感じだから」

「お前だけ先に行って。僕はヘブンに昇天するから」

「会えないじゃん、私だけ逝き損じゃん」

「お前は本当に残念だよな。美形で、スリムで、歌とピアノが上手くて、合唱部のキャプテンで生徒会長なんだから、もう少し静かにしておいてそれで男なら、モテると思うんだ」

「わざと、わざとだよね? 今言った条件のなかに女だったらモテない理由はないよ?」

「たいがいの男はできすぎな女より少しあほなくらいのかわいいのが好きなのよ」

「それならだいじょうぶ!」

「なぜ」

「私ばかだもん!」

「は?」

「そういえば! モテるかモテないかはわからないけど、私が体育館で演説し始めたら男の子たちが私の写真と名前がプリントされた桃色のハッピを着て踊り出すんだけれどあれ、なんでなんだろうね。収集がきかなくなっちゃって私が怒っても効果がなくて、むしろ喜ばれるの。先生も一緒になっちゃってるからもうどうしたらいいのかわからないわ」

「ちょっと待て嘘だろ何それ」

「お兄ちゃん知ってる?」

「何を」

「お仕置きキボンヌってなに?」

「キボンヌなんて死語だと思っていた」

「私は虐められているの?」

「いや、虐められてはいないが、お前に虐められたがっている者は多数いると思う」

「なにそれ、お兄ちゃん。意味がわからない」

「まだお前には早いんだ」

「友達に聞いても誰も教えてくれないんだけど」

「とにかくお前は体育館を紳士と玄人の社交場に変えてしまう能力があるのさ」

「なんなのですか、それは」

「シンクロニシティ」

「あは、お上手ね。それはそうとおふたりとも、ご飯の時間ですよ」と母、ふたり分の飯を寄せながら、ぽつり。つくりの小さな、桃色の頬の、絹のような乳白の肌の、やや畏まって笑った、母の立ち姿。

「嘘だって教えてあげる人はいないのね」と青年。

 意図を理解していたのかいないのか、その場しのぎかなんなのか、柊がにこにこと笑んだ。

「珍品を見るようなお顔になっているけれど、どうしたのです」

 天国と地獄がある種、別のものではないように、老成と無邪気が共有する母は、恭しく問うた。

 花が薔薇色に咲いて弾けるその色濃さ美しさ。母が微笑んだのだ。意味も無く。

 青年はそっぽを向いて片手で顔を覆った。そして、翳した指の股から、青年は、歪な輝きを放つ妹の双眸を見たような気がした。辺幅だけでは済まされぬ、暗い焔を伴う猜忌の念の。

「いや。なんでもない。なんでもないさ」

 母の顔は、やはりどう見ても夢のなかの少女の顔と同じで。

「ささ、皆さん席について下さいな」

 鳴る銀鈴の涼しき声、朝を運んで耳朶を震わせた。深く吸う。味噌の香りに、焼き魚の油と塩の香りに、白飯の甘い香り、唾液が溢れる、腹の虫が鳴る。五感を朝に埋め尽くされ、生まれたばかりの大気と淡い日の光が肌に溶ける。幾代にも渡り生まれ変わり、人々に光を分け与える。生きる限りいつもある朝の、清らかな大気を一杯に吸い込む。

 夢と現実の曖昧な境に高い壁が設けられた。改めて、夢から覚めたと理解した。

「空腹だ。さっそく飯にしよう」

「飯にしよう」

 父の言葉を妹のあけびが復唱するのは式神の如くで、その仲の良さを母は優しい目で眺めて、それから青年と柊に「あなたたちも一緒にご飯、食べますよ」と和やかに、手渡すように告げた。そしてしばらくして、この母には珍しくも、頼みごとを切りだした。

「みなさん、ちょっと頼みごとがあるのですけれど」と、母が慇懃に投げかけると「うん、なに」と柊、箸で魚の小骨を綺麗に取り分けながら恭しい挙措で問うた。

 母に向けた淡い灰色の双眼は縁側から滑り込む陽光の恩恵を受けて瑠璃色に明滅を繰り返し、「なぁに、お母さん」と、白米を咀嚼しながらの、上手く呂律の回っていない物言いのあけびまで、一連の会話が結び上がる。この子には何の桎梏も無いように思える。

 会話を繰り広げる三者の言葉も今は遥か、彼方の春霞の遠景に溶けるようで耳に残らぬ。

「あの、お昼すぎにお使いを頼みたいのですけれど、誰か行ってくれますか。柳さんと私は大切な用事があって夕方まで行けないのです」という母の頼みにあけびがにこやかに首肯し、青年も頷いたが、柊は前期の生徒会の集まりがあるとのことだった。壁掛け時計を一目して半分上の空で呟く柊の大きい涙袋が、睡眠不足のために生まれたくまのせいか炭を擦りつけたように影の黒ずみをさらに濃くしている。いつものことながら次女の柊は寝つきが悪いのか睡眠不足気味で朝にはめっぽう弱い。眠そうでだらしのないあけびこそ寝不足であってしかるべきなのだろうと思うけれども、睡眠はしっかりととっているようで、あのだらしのなさは母の子宮のなかに精進だとか努力だとか覇気だとかいうものを置き忘れてきた彼女ゆえの資質なのだと決めつけた。

 ここで、青年とあけびがふたりでお使いに行くこと、あけびの書店巡りに付き合わされるとこと、が決定した。

「お使い係りは俺とあけびか」

「そうです、トワ・エ・モアです」

 toi et moi。フランス語。あなたと私を意味する言葉。

「お前と俺ね」

「ウィ」

「なぜフランス語なんだ」

「昨夜マルキ・ド・サドの作品を読みましてー。ソドム百二十日ね。佐藤晴夫の訳で」

 この虚けがそんな嗜虐性の強いものを読んでいるなんて、と少々虚を突かれた気になる青年であったが、たいして気に留めず、

「なんでそんなもの。フランス文学読むならカミュくらいが適当だろう」と又、何の感慨もなく問う。自らはマルキ・ド・サドが愛読書だということを忘れていながら。

「うーん、異邦人とか?」

「そうそう、と言っても、カミュも優しいものではないが」

「私はカミュではカリギュラが好きかな。戯曲だけど」

「お前はそういうのしか読まないのか」

 全て人殺しを含む話である。

「そういうわけじゃないけど」

「なら、最近他に何読んだ」

「小栗虫太郎の」

「いや、もういい」

 尋常ではない多読家の本屋巡りに付き合わされるということは、少々、精神的に応える行事である。青年も読書は好きだが、あけびの次元はそもそもが、青年とは異にする位にある。早々と、己の身に課せられた今日という日の過酷さを呪った青年であった。腹癒せに三杯目の茶碗の飯をかきこむ。

 飯を胃の腑におさめ終えると、朝食をあまさず食べ終わった者たちが各々、食器を台所へ運び自室へ散らばった。常の通り、川面へ落ちた笹の葉が、清らかな湧水に沿って、源から遥か遠い彼方まで流れゆくように、彼等は極めて静かに、自分だけの、誰もいない場所へ足を運んだ。道は裂け、清水は決まった方へ流れた。まず柳が消え、次にあけびが消え、そして柊が消え、しまいに居間には静けさだけが降り立っていた。最終電車の終点に着いたような、終結の間を思わせる。そこでは美しい滅びの闇が待ち構えているようである。ここから先にはどこにも行けない。しかしどこにいかなくても良いのだ。

 目線をスクロールさせる。気になるところが数か所あった。自室へ消えた三人が座っていた場所だ。彼等は影を残さぬかわりに、目に見えぬ何かを残していった。それは余情といったものかもしれない。しかしそれもおそらくは、青年の心の中で編集され、象られたものにすぎない。肉体で感知できる事柄で例えるならば、それは彼等の体温のようなものだとも言える。彼等はその存在していた証をもと居た場所に滞らせて、自らも枝分かれした末で滞って、しかし畢竟はいつも決まった頃合いになれば、再び源に集う。そういうことになっている。

 母を向かいに添え、今し方、目の前の幽邃を眺め遣る。

 飯を食らう青年と、ゆるやかな様子で茶を啜る母が対坐して、大して会話は無い。口を開いたかと思えば、それは微笑みの予兆で、その極めて柔和な裏切りが青年を嬉しくさせた。言葉なんていらない。入らない。母をずっと見ていたかった。ずっとというのは、この朝食の間というような時間でもなく、草花が背を伸ばすまでの時間でもなく、この山周辺に咲いている花々が闇を迎えて萎んでいくまでの時間でもなく、文字通り永遠に、終わりなく、瞳の中に母の姿を映していたかったのだ。

 忙しげに飯を胃に納める青年の目は、隙を見つけては、母の姿を目に納めた。度々、ふとすると、虚ろな目でいるこの我が母が、存在感の希薄な人に思えてしまって、青年はいつか、今にでも、うっかりしていた折に、この人を見失ってしまうのではないかという焦燥に駆られるのだった。

 ならばいっそ初めからいない方が良いかと言ったらそうでもなく、

「ねえ、正樹」

「ん」

「……」

「なに」

「うん、あのね」

 この佐保姫にはどこか、新しい春の到来を待たずして遠方へ飛翔してしまいそうな焦燥があるようで、それがなぜか青年にだけはよく見つかることがあった。

「どうしたの、言ってみて」

「いえ、たいしたことではないんです」

「うん」

「ただ」

「うん、ただ?」

 一呼吸置いて、母は、

「今夜は月が、綺麗だと思いますか?」と困ったように聞いた。

 別の事を聞きたがっていて、しかし聞けず、仕方無しにどうでもよい問いにすり替えたような。本意が気になるが、しかしそれについての問いをかけるのは無粋以外の何ものでもあるまい。

「そうだな。綺麗だといいね」

「誰かが、今夜の月は、とても綺麗だと言っていました」

「誰かって?」

 言ってしまってから、いらぬことを聞いてしまったと思った。

「え? う、ううん…………誰だったでしょうか」

 ひやひやと助け船を出す。

「庭の猫たち、かな?」

 猫、と言って、母は目を細めてはにかんだ。それはまるで、大好きな玩具を手渡された幼子のように無邪気な笑顔だった。

「そうです、そうです。うふふふ」

 閑散とした空間で、心地よいひとときを感じ、ふう、と息をつく。胸に和やかなものが満ちた。


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