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大地への帰還  作者: 桐生真之
8/11

十五の春に私はあの方の許へ嫁ぎました。親類の縁を深めるために父と母は喜んで私をあの方の許へ嫁がせましたが、親族の都合で嫁ぎ先が決められていても、私は嫌に思ったりはしませんでした。なぜなら私は幼いき頃より、十五なればあの方の許へ嫁ぐと親たちの間で取り決められ、ずっとそのために育てられてきたのです。私は親族たちから愛され、可愛がられ、大事にされながら育ちました。

私は牛車に乗せられ、あの方の待つお屋敷へ、なだらかな山を越え、大きな橋を越え、町を越えて行きました。

付き添いには幼い頃からの私の遊び相手をしていた友人たちが付いていたので、私は彼らとの最後の、久しぶりの会話を楽しんでいました。

やがてあの方のお屋敷の城下町につきました。あと僅であの方のお屋敷だというのに、急に不安が胸の奥から込み上げてくるのを、私は気付かずにはいられませんでした。

 私自身すこし落ち着かねばならなかったのと皆の疲労を考えて茶屋で休息を取ることにしました。私は牛車から顔を出して、友人のひとりの寛仁に声をかけました。

私は自分の名には無頓着でしたが、親しい者たちに名をつけて呼ぶことは好いていましたので、身の回りの人々には、名前を付けて覚えておりました。寛仁も私が名をつけた中のひとりで、幼いころから彼とはよく遊んだことは、今でも昨日のように思い出されます。

寛仁に歩を止めるように伝えたのは、運よくちょうど茶屋の前でしたから、彼らは私が歩を止めさせた理由を邪推したようなそぶりで、うんうんと、妙に納得したようにわざとらしく首肯するのでした。私は婚姻の意味も知らぬ甘いもの好きの子供に思われたのです。私が牛車から出てくる間際、再び寛仁は私を茶化すのでしたが、そんなやりとりもすべてが楽しく。

店に入って、少しばかり空腹と喉の渇きを覚えていたので、私はこの時は葛餅と茶を頂くことにしました。品の良い器に乗せられた透明な菓子の中に、紅色の巴柄が彩られた葛餅は、私の空腹にさらに拍車を掛け、その美しさに見とれる暇もなく、菓子を口に入れた時の幸福を思い浮かべさせるのでした。透明な葛餅の中で泳ぐように尾を垂らした巴柄は、紅色の万華鏡のように美しい模様をしていました。朝露の雫を集めたような葛餅の表面は蛙の腹のように瑞々しく潤い、私はその葛餅の奥を覗き込むように見ていました。美しい葛餅を見れば見るほど、それを舌の上で溶かしたいという欲求が現れました。

しかし、ここで食べてしまうのは私の信条に反するので、私は茶が運ばれて来るまでの間、少しばかり私自身に我慢を強いるのでした。菓子を口に運ぶ前には茶を飲むのが私の決まりごとでしたから、茶が来るまでの間は葛餅を私の左側に置いて、私の右手にいる皆の方を向いて話しながら一時を過ごすことにしたのです。

 茶はすぐに運ばれてきました。

私は湯呑を手に取り、熱い茶を少しずつ冷ましながら味わっていました。ひとつひとつの味を分解するように味わうと、熱い茶が私の体中に沁み渡るのを感じました。茶を半分ほど残して、葛餅の乗っている小さな皿に手をかけました。しかし先ほどまで皿の上に上品に乗っていたはずの葛餅はどこかへ消えてしまっていたのです。

 私が不思議な感慨にとらわれていますと、私の左から茶を啜る小気味よい音が聞こえてきたので、その方へ注意を向けてみますと逞しい体に矢を背負った青年が、私の隣で茶を啜っています。青年の雨に濡れたような瞳の奥に、私は何か強く熱いものを見たような気がしました。

青年の横顔に少しばかり見行ってしまった私は言うべきことを忘れていましたが、青年がまた茶を啜り始めた頃、聞かなくてはいけないことをやっと思い出したのでした。

「申し訳ございませんが……ここに置いていた菓子をご存知でしょうか」

「俺が食ったが……どうかしたのか」

「それは……私の」

 言い終える前に、私のと同じ葛餅が、青年のもとへ運ばれてきました。

「ご注文の品でございます」

「さっきの葛餅は、お嬢ちゃんのだったのかい」

「ええ、あなたが一瞬でお腹の中に放り込んでしまった葛餅は私が食べるはずだったものです、さらに私は本日結婚するのでお嬢ちゃんなどとあなたに呼ばれる義理などありません」

「それは悪かった。てっきり自分の葛餅だと思っていた」

 青年は、運ばれてきた葛餅を口に運ぼうと、皿を持った手を胸に引き寄せました。

「この場合は、その葛餅は私の方に来ると思うのですが」

「そうか。駄目か」

「普通はそうでしょう」

 青年は私に皿を手渡しました。

 そして、まるで予期せぬことが起こりました。 

突然の悲鳴と怒号が店内を打ち鳴らしたのです。

「なにやってんだ、早く持ってこい!」

 茶屋の奥の大きな影が、のそのそと蠢いていました。赤黒い顔がちらりと見え隠れしています。

 店内の人々の視線を集めきったそれは、更にも大きな声を上げました。

「俺もうすぐ死ぬんだ。だから酒くらい好きに飲ませてやろうって気にはならねえのか」

 くすんだ分厚い黒い影が叫び、のそりと動いたと思うと、その正体がはっきりと見えるようになりました。とても体の大きな男でした。赤黒い顔をさらに黒くさせながら机に手を突き、ふらふらの足で何とか立っていました。

「お客様飲み過ぎでございます。部屋をご用意させて頂きましたので、そこで一時お休みになられた方がよろしいかと」と老女が慇懃に申し出るも、大男は気に食わない様子でさらに憤慨して、

「うるせえ、いいから酒をどんどん持ってきやがれ!」

「申し訳ございませんが、どうかお静まり下さい。後日再び御持て成しさせていただきとうございますので――」

「だから、今日死ぬって言ってるんだ!」 

 するとこの見苦しい状況を見ていられなくなったのか、寛仁が呆れながら、

「おい貴様、こんな真昼間から何事だ。迷惑だとは思わないのか?」と諭すように言いました。

「なんだ貴様は?」

 大男の目が、生気を失い、黒い筒のようになっていたのをこの時の寛仁は気がついていたのでしょうか。

「見苦しいな。迷惑だと言っているのがわからないのか? この臭い豚め」

 寛仁の顔からはもう、私と一緒に遊んでいた幼少期の面影は消えていました。あの頃の道化た表情からは、まるで別人の、兵の顔になっていました。私は、かつて子供のころから共に遊んでいたこの友人が、もう、すでに大人の男性になってしまったのだと思い、それに焦燥と愁いを感じていました。とても良いことには変わりませんが、私の怠慢な心は、かつて子供だった友人の、大人への変化を認められずにいました。私の心は少しばかり、寂しさを感じてしまったのです。私はまだ青く、何も知らなかったのです。

 寛仁の声で我に返ったのか、酔っ払いの大男は、寛仁を睨めつけながらも気を沈め、勘定を済ませました。それから帰り際にまた寛仁を一瞥し、茶屋から出るように思われました。しかし、すんなりと戸口へ行くと思いきや、酔った男は我々の前で立ち止まりました。それから、私の顔を、焦点の定まらないような目で、じっとりと舐めるように見てきました。

「肌は白雪、頬は桜色、髪は濡れた鴉の羽のごとく黒く鈍く輝き、背丈は十五の娘にしては小さく、顔も幼い、涼しげな目からは利発さが伺える、瞳は黒い真珠のよう、しかし大きすぎるために品性に欠ける」

「なんと無礼なことを、ただでは済まんぞ」

「寛仁、やめてください」

 私が声を張り上げて寛仁を止めようとしたのも束の間、大男の拳によって寛仁は頬を打たれ、地面に叩きつけられてしまいました。

 肉と骨が軋む音。人の体が痛む鈍い音がしました。

 私は、葛餅の皿を持ったまま恐怖で微塵も動けずにいました。ただ、体の先端から体温が消えていくのを感じ、寛仁に声をかけるので精一杯でした。

「寛仁、大丈夫ですか……」

 寛仁は頬を摩りながら立ち上がりました。

「大丈夫です。それよりも許せん……あなたを侮辱したことを……」

 茶屋の中が人々の悲鳴と怒号でかき乱されました。数人の男が酔っ払いの大男を取り押さえようとするも、大男の力の前ではほとんど無力でした。私はただ目の前の光景に恐怖し、呆然としていました。しかし、そんな事態にも関わらず私の左隣では、淡々と茶を啜る小気味よい音が鳴り続けていたのです。目線をその方へ向けると先ほどの青年が、この騒動だというのに我関せずといった様子で悠々と茶の時間を楽しんでいたのです。

青年は言いました。


「いつまでもぼうっとしているから、お前の菓子も俺が食ってやったぞ、まあこの騒動では菓子も埃まみれだ、そうなってしまうなら、先に食ってしまった方が菓子も喜ぶさ。お前も泥の付いた菓子など食いたくないだろう」

 食べようと思っていた緋色の葛餅は跡形もなく消えていました。しかしこの時ばかりはそんなことは気にしていられず、己の安全を一心に案ずるばかりで精一杯でした。

 私が動けずにいるのとは反対に、大男は取り押さえにかかった男たちを振り払い、私の眼前に仁王立ちして、ぎょろりと目玉を剥いたかと思うと、私の座る腰かけに突伏するように手をかけ、迫るように私の顔を凝視しました。拳ひとつ分の、鼻息のかかる距離でした。大男からは、獣臭と酒の匂い、そして少し、腐敗した肉の匂いがしました。大男が度々目を白黒させながら、口をだらりと開けては力なく閉じるのを繰り返す姿は、私をさらなる恐怖へ突き落とし、身を凍らせました。

「俺が殺すように言われた娘もちょうどお前のような子供だった。しかし俺は依頼をしくじった。俺を雇った奴は恐ろしい化物だった。俺はもうすぐそいつに殺される」

 大男が叫び声を上げると、その顔はさらに赤黒く変色してゆきました。しかし青年はそれでも悠々としていました。

 私が青年を見つめていると、青年は大きく息を吸いこみ、細い顎に指を当て、宙を見つめて、眉を顰め、何か考えごとをするような表情をしました。面を上げ、眼をカッと見開きました。口を鬼の様に釣り上げ、青年は咆哮するように言いました。

「莫迦が、こんな所で酒に浸っている暇があるならさっさと依頼主を殺しに行けば良い。お前は間抜けも間抜け。大馬鹿野郎もいいところ。なんなら俺がそいつを殺しに行ってもいい」

 嘲笑し、大男を挑発しているのは明々白々。私には、青年の張りのある声色が、大男のため店内に満ちていた汚れた気配を蹴散らす活力に満ち満ちているように聞こえたのです。然るに残念ながら、その青年の春風のような快い声色でさえも言葉が言葉なので、頭に血が上り切った大男の硬そうな耳朶には、後味良く残ることはなく、大男をさらに憤慨させてしまったのでした。

「なんだと……貴様何者だ!」

 大男は力任せに、私が持っていた皿を手刀で叩き割って、青年に怒鳴りつけました。それでも青年は全く動じません。青年はまるでこのいざこざとは別世界にいるようで、そればかりかまるで私たちとは違う世界から来た人間……天人のようにさえ思えたのです。

 青年は、その姿の通り、この凄惨な状況に合わぬ穏やかな口調で言いました。

「娘さん……いや、お譲ちゃん。うん、やっぱり、お譲ちゃんでいいよなぁ……」

 そうひとり呟いて、細い指を顎に乗せているのが横目に見えたら、

「お譲ちゃん、よくわからんことになってしまったが、どうだい、助けてほしいと思うかい、普通はそうだよなぁ、こんな無頼漢に謂れもなく襲われかけているんだ。いやぁ、すでに襲われている。難儀だが、助けよう。菓子の礼もあるからなぁ」

 何てことを面倒そうに言う人だろう、と思いました。

 青年は私の返答も聞かぬまま、背中にゆっくりと手をまわし、それから何か物を投げたような動作をしてまた茶を啜り始めました。背中に手を回してからの一連の動作が速すぎて、青年がいったい何をしたのか皆分からない様子で、私はこの騒動の玉響に、ぽかんと口を開けたまま、青年の姿に見入っていました。間もなく、青年の目の前で鈍く何かが打ちつけられた音がしました。皆が一斉に向けたその視線の先には、先ほどまで怒鳴り散らしていた大男が倒れていたのでした。右目には深く矢が刺さっていました。

「これでいいだろう、全て解決だ」

 青年は茶を啜りながら私を右目で一瞥すると、再び茶を啜り始めました。

「あの申し訳ありませぬが、あなたは何を……」

「矢を投げたのさ」

「殺めずとも、よかったのでは……」

「そいつも言っていただろう、自分はもうじき死ぬと。そいつの胸元を見てみろ」

 青年は細い顎で私の視線を誘導しました。大男の大きくはだけた胸の中心には見たことのない複雑な模様が色濃く刻まれていました。幾何学的な線で編まれた模様の中心に、人間の目を象ったものが描かれていて、とても不気味な様相を示していました。私は、その描かれた目の模様が、まるで私の方を向いたような気がして、魂までが怖気、凍りついたような気すらしたのです。本能だったのでしょうか、それとも魂がそうさせたのでしょうか、今ではこのことが、一種の暗示だったのではないかと思うようになりました。気がつくと私は、隣にいた青年の裾に力いっぱいしがみついていたのです。あなたがいなければ生きていけないというほどに。青年は怯える私を見て、先ほどよりもわずかに優しい声で言いました。

「そいつは呪いをかけられていた。おそらくそいつが言っていた通り、この男が殺しの依頼をしくじったので、依頼主にかけられたのだろう。これが欲に目がくらんだ者の末路だ、目も当てられん」

 そう言って青年は茶を啜りながら、囁くような口調とは相対して、酷薄な目で大男の死体を見下ろしました。血の気を感じられない無慈悲な瞳は鬼の瞳よりも惨いものに見えました。しかしその冷たい瞳は美しいのでした。

「誰が、こんなことを……」

「もうそれほど近くによるな。呪いが起きだすかもしれん」

 青年がそう言った最中、ただの肉塊となった大男の体は強い臭気を放ちながら溶けだしました。黒い汁を出しながら大男の体は溶け始め、最後には鈍く光る黒い骨だけが残っていました。

「触れるなよ。触れたら貰ってしまう」

 私は自分の目の前で起こった一連の恐怖にただ心を奪われ、青年の言葉に反応することすらできなくなり、呆然としているのでした。

連れの者たちが、私の許へ飛んできました。

「姫君」

「……あ、皆……」

「姫君、お怪我は」

「私は無事です、このお方が助けて下さいましたので」

「まことに申し訳ございません。姫君の警護を任せられたにも関わらず、姫君を危険にさらさせたままにしてしまいました。姫君に仕える者として失格です。まことに申し訳ございません。姫君を危険から救っていただいた方、真に感謝申し上げます。このご恩をどうお返ししたら良いことか」

「気にするな。これは菓子の礼だ。どうしても恩を返したいのならこれから精励すればいい。心配するな」

「と申しますと、貴方様に再びお目見えする日があるのでしょうか」

「まあ、よい。後に分かる。それにしてもこの手の強い呪いを使う依頼主とは、どういう者だろう。物の怪の類だとしたら、人間に依頼などせずに自ら殺しに来るだろうに。だとすれば人間か。近頃、どういうわけか鬼の力を手に入れた人間がいるという噂を聞いたことがあるが、この件と繋がっている可能性が大きいだろう。この手の強い呪を使いこなすのは低級な物の怪では無理だ。鬼と同等の能力を持っている者、それ以外にはあり得ない。おそらくはそういった奴等の仕業だ」

「鬼ですか……なんて、ひどいことを」

「因果というものはその人間の想念や行動にふさわしく与えられる。この大男はこのような最後を送るにふさわしい生き方をしてきたまでさ。おそらく老若男女問わず殺してきたのだろう。俺はこいつが地獄の苦しみでもがき死んで行く前に楽に死なせてやった。この男にふさわしくない幸せな末路だったさ」

「それでも人を殺めてしまうのは……」

「姫君、とても心苦しいのですが、実はひとつ、話さなくてはならないことがございます」

 女中の伊織が、申し訳なさそうに切り出しました。

「実は昨夜、身の丈の大きな男が、ひとりで屋敷の周辺に現れたそうなのです……不審な動きをしていたので門番が問い詰めたところ急に襲いかかり、重傷を負わせたとのこと。そばにいた別の門番が後ろから男に切りかかると、獣のような悲鳴を上げて走り去っていったといいます。その門番たち曰く、その不審な動きをしていた人物の目はまるで妖猫のように鈍く紅色に光っていたそうです」

「では、この大男が命を狙っていた娘というのは、私である可能性が高い、ということですね」

「申し訳ございません。婚姻前の姫君を、不安にさせとうございませんでした」

「なぜ、私など……このような小娘にどのような因縁があるというのです」

「因縁など自分の知らないところで無数に湧いてくるものさ。それに、この浮世に生きる限り、人の想念という無数の力に気付かぬまま影響されていることなどよくあること。それを知りながら気にしすぎず凛として生きることが、この世の因果と人の念に飲まれずに、それらとうまく付き合ってゆくための鉄則さ。お前が今の出来事がどの因果で発生した事などと考えたとしても、そうわかるものではない」

 隣で二杯目の茶を啜りながら青年は私に諭しました。

「ならば、あなたにも見知らぬ因果が働くことがあるというのですか」

「無論、全ての人間に当てはまることだ」

「では、ここで私に会い、私を助けたことも因果なのですか」

 青年は私の言葉を聞いても、無言で茶を啜りました。しかしすでに湯呑の中は空になっていたらしく、眉をわずかに蠢かせました。そして青年は湯呑を腰かけに置いて立ち上がり、それから「茶代だ。置いてゆく」とぶっきらぼうに言い捨て、小銭を腰掛に置いて、そそくさと見物人をかき分けて、外に出てしまいました。

「あのっ、お名前を。お名前を教えてはくださいませんか」

「名前か、知る必要はないさ」

「ならば、せめて住んでおられる場所だけでも教えてはいただけませんでしょうか。いつかお礼を」

「……またな」

 青年は切れ長の目を向けて呟くと、外に繋げてあった大きな馬に飛び乗りました。牡丹雪のように淡く膨張して、美しく整った白い毛並みの馬と共に青年は忽ち、見えなくなるほど早く遠くに去ってしまいました。それはまるで霧の向こうの桃源郷に身を溶かすようなもので、後には金糸を孕んだような青々とした風だけが道に吹いていました。

 先ほどの騒動の余韻もおさまり始めた頃、大男の骨はあとかたもなく消えて無くなってしまっていました。

 私たちは店を後にして、再びあの方のもとへ足を進めました。私は牛車には乗らずに皆と共に歩くことにいたしました。生まれて初めて歩くこの町は不思議なほど活気に溢れ、人々の生命力を感じさせました。人々が懸命に生きていく為の何かしらの目的と、意思を感じたように思います。然れども、そこに幾多の欺瞞と殺しと裏切り、不誠実がある事を、当時の私は全く知らずにいたのです。誰もが被害者であり加害者であるこの町に、何たる浅見を抱いていたことでしょう。その町の人々に私は空虚な微笑を押し売っていたのです。

 町を行き交う人々は私たちの姿を見るなり、各々の頭を地につけました。この出来事を通して私は、私どもの一族はこんなにも畏れられていたのだと改めて知ることになりました。しかし私は恥じ入ったのです。当時の私にそんなものがあったのか甚だ疑問ですが、良心が疼いたのでしょうか。これも私どもに課せられた宿命なのだとあの青年なら言うのかもしれませんが、私にとってそれは納得のいかない所見として解釈されたのです。

 ただ貴族の家に生まれただけの年端も行かぬ小娘に、頭を下げなくてはならない民の不運を私はどう拭うことができましょう。人間としての生活さえもさせてもらえず、もっと苦しく虐げられた生活を余儀なくされている人々がいることも知っていました。命はいつも平等であり、いつも太陽と共にある。そのことだけは決まりきったことなのに。いくら頑張れども生活の良くならぬ彼らと、悠々と怠惰に過ごしているのに優雅な生活を送ることができる私がいるのです。私は私に憤慨しました。太陽の下、光もあれば影もある。朝もあれば夜もあります。それらの光も闇も皆、平等に与えられなければなりません。私は弱き者たちのためにもっと多くの事を知らなくてはならないと、この時、強く悟りました。私だけのためではなく、この浮世に生きる多くの人たちのために何かできるようにと。

 しかし後年、私の考えなど甘かったのだと、私は自分の運命をもって知らされることになったのです。弱い者は彼ら民ではなく私自身なのでした。私は私に降りかかる過酷な運命を目の前にして何もできずにいたのです。ただ、できたことと言えば、愛する者にすがりつくことだけでした。あの方は、私をいつも快く、優しく受け止めて下さいました。あの方がいなければこんなにも苦しんだことはなくとも、あの方がいなければ、私は人の愛も、人生の素晴らしさも、何もかも気付けぬままだったのだと、いましみじみと感じております。

 しかし今でこそ私はこういった考えにたどり着くことが出来たといえ、当時の私は、己の愚劣さを顧みず、お節介にも、私の手でこの町の人々をどうにか今よりも幸せにはできはしまいかと、そんなおこがましいことなどを考えていたのです。優秀でもやる気の無い者はいけませんけれども、やる気のある愚か者ほど目も当てられないものはいません。

 町の様子を気にかけていた私に、寛仁は声をかけました。

「姫君の身の安全は我らが命に代えてもお守りさせていただきます。先ほどは不甲斐ない姿を御目にかけてしまいましたが、今度こそこの身の全てを使ってあなたを守りぬいてみせます」

「気を遣わせてしまってごめんなさい。でも、私が考えていたのは、私が襲われた時の心配ではなく、ここの人々のことと、先ほどの大男のことです。あの大男も、私にもっと力があったのなら、どうにか助けることができたのでは……そう思っていたのです」

「やはり姫君、貴女は高潔な御方。民を大切に思い、こんな私どもにさえも優しく接して下さる」

「あ、あの、私はただ己の価値を弁えているだけなのです。この身もこの心もみなに支えられて生きているに過ぎないのですから」

「姫君……あなたのお幸せを、心から祈っております」

「寛仁、ありがとうございます。皆にも、私は本当に感謝しています。私はとても良い友を持ちました。私は幸福です」

 町を越え、長い坂にさしかかると、あの方の待つ御屋敷はもう目前でした。寛仁たちは、私を牛車ではなく輿に乗せて坂を上がることを提案しました。

「姫君、輿にお乗りください。姫君が歩いていますと皆何事かと思うでしょう」

 私は輿に乗ることに致しました。見慣れぬ景色を目に焼き付けながら長い坂を登り、輿の中で揺られながら、私と結ばれるあの方の事などを心に思い浮かべておりました。会ったこともないのにもかかわらず物心がついてからの間ずっと許嫁として恋文を交わしてきたあの方の事、それから、今までの生きてきた私自身の人生の事、つらつらと考えていますと、しばらくして、私を乗せた輿の揺れが止まりました。御屋敷の前に着いたようでした。

「姫君はとても軽うございました」

 と寛仁が波打つような声で話すので、私は彼が笑っているのだと勘違いしていました。しかし私は彼の顔を直視できないわけをすぐに理解しました。私は、遠く西日に照りつけられた、ぼろぼろになり果ていまにも剥がれ落ちそうな木肌に、白々しくこの瞳の行き先を定めておかずにはいられませんでした。

「寛仁、それは私がまだ子供だということでしょうか」

「はっは、そういうことではございません。姫君はとても聡明な方で……」

 と言って、寛仁は小さく笑って吹き出しました。

「何を笑っているのです、私の事を微塵も聡明などとは思っていない証拠ではありませんか」

「いえ、ただ悪気などなく、姫君はいつまでも姫君ということを申し上げたかったのです」

 寛仁は笑っているのに、泣いているような顔をして、

「いつまでも、いつまでも、変わらずに……いて、くださいませ」

「寛仁あなた、泣いているのですか」

 寛仁の瞼の端から大粒の涙がとめどなく滴り落ちてゆきました。

 何人かは、この門での別れの後も再会することが出来ました。また何人かとは、日常的に顔を合わせることが出来ました。ですが今は、私の仲間と言える人は、ひとりもいなくなってしまいました。

 斜陽を背に、私は皆に思いを告げました。逆光のおかげで表情は影に隠れていたことが幸いでした。


「私は生まれながら恵まれていました。生まれた場所、両親、時期、両親、食べ物、着るもの、地位、学問、そして友、全てに恵まれていました。しかしこれらの恵みを受ける価値が私にはあったのでしょうか。すでに明確な答えは出てしまいました。私にはこれらの恵みを受ける価値は、ありません。己の愚かさを顧みることをせず、皆に迷惑をかけていた私はただの愚か者でした。でも貴方たちはこんな私にも絶えず親しい笑みを見せてくれました。心から感謝しております。

しかし今更そんなことに気づいても私はあなた方に何もしてあげられません。ですから私はこれから出会う人たちに、あなた方からしてもらったことを返そうと思うのです。

貴方たちからもらった楽しい時や優しさを人々に伝えて、繋がって、点が線となり、いつしか貴方たちにそんな楽しいことや優しさが舞い戻ってくれば、と願っています。

 私はあなたたちと再会した時に笑えるように、これから自分を誇れる人間になろうと思うのです。

私は闘います。自分と、私たちの幸せをこれから脅かすのであろう、何かと。そうして闘って、ずっと闘って、私が今よりもましな人間になれたら、またお会いしましょう。 

ですから私はその時まで……その時まで……その時まで。

 あなた方、あなた方の事は一生、死んでも忘れません! 今まで生きてきた喜びも、悲しみも、笑顔も、涙も。あなた方とともに生きてきた日々も。私は死んでも忘れません。だから、どうか、どうか、これからの日々も、こんな莫迦な小娘がいたと笑い飛ばしながら、どうか……私のことを忘れないでいて下さい……」

 皆、涙を拭い、鼻を啜り、その場に立ちつくしているように見えましたが、私の瞳はもう涙に溺れ、うまく見えなくなっていましたから、誰がどんな顔をしていたかなんて、今でも知りようがありません。

「姫君にこんな姿を見せてしまうとは。最後まで我慢していようと思っていたのですが……申し訳ありません」

「泣いてください、寛仁。もう私にはあなたの情けない顔は見えません」

 溺れる視界の中では何もかもがはっきりとせず、ただ繋がれた寛仁の大きな手の感触が、寛仁がそばにいることを分からせるのみで、その大きなごつごつした手からは、清らかな優しさとぬくもりが感じられました。仰向いたら、天で西日が線を引いていました。

 しばらくのあいだ別れを惜しんでいたのですが時間が来てしまいました。私は女中たちと共に門を抜けました。それから私たちは大勢の人々に出迎えられました。

 そして私たちが更に奥へ進み、廊下の入口に差し掛かったところでした。

「ようこそ、おいでなさいました」

 目的の大広間に向かう途中、緋色の着物の妖艶な女性がすれ違いざま、私ににこりと微笑みかけたのです。切れ長の目と、透き通るような美しい肌に彩られた顔でしたが、その姿からは微塵の生命も感じられないと、私は本能的に感じていました。ですから私はその女の人に恐怖を感じ、目を伏せなければなりませんでした。見てはならぬと、小娘の自分に誰かが説いたようでした。足が震えていました。

 長い廊下をさらに進んでゆき大広間に着きました。私はそこで待たされることになりました。私についていた女中の伊織たちは、私を大広間に連れてくると、仕事があるのでまた別の場所に移動しなければなりませんでした。彼女たちは、今日ここでの仕事を終えたなら、再びもといた屋敷に帰ってしまうのです。私たちはしばらく抱擁を交し合いました。それから、伊織たちは呼ばれてどこかへ行ってしまいました。ひとりになった大広間はしんと静かで、遠くで忙しそうに、祝いの準備が行われているのがよく分かるほどでした。

「あのう……すみません」

 この大広間は私には広すぎて、心が拡散して己の存在を見失いそうな不安に駆られて、空虚感と圧迫感の矛盾したふたつの違和感に、だんだんと胸を苛まれ始め、こぽりと口から滴る言葉の頼りなさと言ったら、己が親には死んでも見せられぬと赤面するほどの恥じっぷり、なんたる縮れた細い声。それなのに、

「はい。どうなさったのです」と、女中は意に介さず、といった声音でこちらの動揺など気にも留めず、あっけらかんと答えます。

「お外を、見て回ってもよろしいでしょうか」

「外はいけませんが、屋敷の中でしたらよろしゅうございます。ですが、すぐに式の準備が始まってしまいますのでなるべく早めにお戻り下さい」

「はい。承知しております。では一番広いお庭はどこでしょう」

 緊張が緊張を呼んで雁字搦めになってしまっては、一世一代の晴れ舞台を祝うなどとの試みは、朝靄の中を走り回ろうとするようなもので、一寸先に落とし穴があろうとも気付かずに落ちて、可笑しな場所にはまってしまうことになるのが落ち。震える足を励まし、励まし、開けられた戸の外に出ました。ちょいと進んで、裏庭に出ると、洗濯ものを干していた別の女中を見ました。私は、恐る恐る勇気を出して、声をかけたのでした。

「あのう。そこにいらっしゃる女中さん。よければ私にもお手伝いさせていただけませんか」

 振り向いたその顔は、当時の私とさほど年の変わらぬ、少女の顔でした。力強い眉からは、器量のよさが滲み出て、広い額と紅い頬、それに加えて大きな目には、あどけなさが鏤められておりました。春の陽気に一仕事、そのせいか、丸みを帯びた頬からは、振り向いた隙に、清々しい汗が、しとり、と落ちました。私は、土に落ちた彼女の雫から、飛び火する様に、波紋が生じるのを期待していました。雫が落ちたのは土の上でしたから、そんなことは当然あるはずもなかったのですが、私は波紋が起きなかったことに対して、少々がっかりして、水滴が滲んだ跡を見ていました。土に滲んだ汗は、黒ずんだ染みとなって、じわじわと苔のように面積を広げていくのでした。私はそれに見惚れていたのだと思います。目の前で徐々に広がっていく黒い点に、圧倒されていたのです。

 私が、一瞬間のうちに集中して見すぎていたせいでしょうか、いつのまにか、頭の前の方が段々とくらくらして参りまして、そうすると、土に出来た黒い染みも、夏の夜風のようにねっとりとした弱風に棚引いた赤砂に紛れて、風に曝した行燈のようにちらちらと揺らめいて、息切れするように段々と掠れて、仕舞いには跡形もなく消えて無くなってしまいました。

 足元の小さな出来事に見入ってしまって、ほとんど没我の状態となっていた自分に気が付いたのは、女中さんの返答が耳を揺らした時でした。

「どなたでしょう……存じ上げぬお顔が、おひとつ」

 薄闇に向かって問うような、沈静なささやきには、警戒心と言うよりも、純粋な好奇心の方が先に駆けていたようでした。

「今日からここでお世話になる者でございます。何卒、よろしくお願い申し上げます」

「ううふ。喜んで、私こそよろしく。あなた、洗濯物を干したいんですって?」

「ご迷惑でしょうか」

「いいえ。それなら。まだこんなにあるけれど、願ってもないお手伝いだから、頼んでしまいましょうかしらん。私の仕事が取られてしまうのは悔しいのだけれど。あはははは、ふふふふふ」

 あどけない顔の印象に合わぬ大人びた嬌声を笑い声に含ませ、快活な四肢の流れによって、余りの洗濯物の半分が入った籠を私に渡すと、何かに気が付いたのか、大きな目をさらに丸くした女中さんは、射抜くように私の姿をじっと見つめていました。初めに見せた笑顔とは転じて私の全身を隈なく見入るので、私の胸の中ではわずかながら不安がむくりと影を見せ、静謐に漂っていた周辺の空気に、凍った絹の糸の様な緊張が走り始めたのでした。

「あのう……どうなさったのです」

 声を出すも女中さんの耳には届かず、女中さんは私の着物を掬い上げるように手を差し伸べて、大きな目を近づけてまじまじと着物を見ていました。

「あなたのお召し物なかなか見ない模様と生地ね。あなたどこからいらっしゃったの」

「ここの坂を下りた、ずっとずっと、ずっと遠くから来ました」

 月までの距離を行くようなものと思っていたものの、世を知ればその狭さと広さがよくわかります。世間知らずの娘には、この浮き世はまだ広すぎたようです。

「ふうん、そうなの、でも、どこと言われても、私はここで生まれて今まであまり外に出たこともないし、自慢じゃないけど学もあったものではないの。だから実は何処と言われてもよく分らないわ」

「実は私も良く知らなくって。お父様に文を出して聞いてみます」

「ええ、よろしく」

 女中さんの闊達な笑みは私にも笑みを齎しました。

「はい、もちろん」

 私は安堵していました。私はこの女中さんと良い友人になれそうな気がしたのです。

「そういえば今日は大事な式があると聞いたので、早く洗濯物を終わらせてしまわないと」

 私と女中さんは、テキパキと洗濯物を干しました。

 洗濯物を終えるともうなにもすることがなく、知り合いができたからか次第にこの屋敷に慣れ始めて緊張も解れてきたので、私はもといた大広間に戻ろうと思っていました。

 しかしその時でした。茶屋で聞いた大男の怒号にも勝るケモノの鳴き声が、背後から私たちふたりを貫きました。振り返ると、当時の私はまだ見たことのない、黒い毛の動物が身を低くして構えていました。うめき声を上げ、潰れるほど喉を鳴らし、牙の間からあふれ出す唾液がボタボタと地面を容赦なく濡らす光景が、私の脳裏に激しく恐怖心を植え付け、私はまたしても動くことすら困難になってしまったのでした。己の心音が激しく耳許で鳴り響き、後で聞くと、この時あの女中さんは大声で何かを言っていたらしいのですけれど、あの時の私には女中さんが何を言っていたのか全く分かりませんでした。黒く醜いケモノは、体制をさらに低くして、じりじりと私を追い詰め、私が動こうなら今にも飛びかかりそうでした。

「動くな」

 男性の鋭い声が耳に届きました。心臓を握られたのではないかと思うほどに仰天してしまった私は、また動けなくなってしまいました。

 黒いケモノが私の体に飛びかかりました。

 見たこともないケモノに襲われた私は恐怖のあまり目を瞑ってしまいました。そんな状況で、私はなぜか先ほど茶屋で私を救ってくれた青年の事を思い出したのでした。生命の危機の瞬間になぜ青年のことを思い出したのだともし聞かれても、この時の私にそれを知るのは酷な事。

 瞼を閉じた暗闇の中で聞こえたのは、私の悲鳴ではなく、ドスッ、という鈍い、嫌な音でした。薄目を開けたら、私に死を感じさせた黒いケモノが、横たわっている姿がありました。死を目前に息も絶え絶え、細かく痙攣する腹部には深く矢が刺さっていました。私は深呼吸をして目をつむり、やっと冷静になって自体を把握したのでした。

「おい、大丈夫か」

「私は大丈夫ですが、このケモノは」

「ああ、この狗か」

「イヌ。このケモノはイヌという名なのですか。聞いたことはありましたが実際に見たのは初めてです。恐ろしい獣なのですね」

「お前冗談だろう、あんな状況のあとよくそんなことが言えるな、さっきまで震えていたのにたいした奴だ、ははははは」

 大きな笑い声です。私の隣で笑っていたのは狗に矢を放った張本人であろう人物でした。腰まで伸びた黒髪を振り乱し、腹を抱えて笑っていました。しかし私にはこの人がなぜ笑っているのか理解できず、横たわる狗の体を目の前にして笑っている彼に対し、苛立ちとも言える感情をこの胸に抱いたのでした。

「どうして殺したのです」

「俺がこの狗を殺さなければお前が殺されていたかもしれんぞ、第一、あの狗はお前を殺す気だった。そうは見えなかったか」

 この時、私は初めてこの男性の顔を見上げました。しかしその顔は太陽を背にしていたので私にはとても眩しく、はっきりとみえず、私は眩しさゆえに眉を萎めたのでした。私は顔を伏せました。そして已むに已まれず、瀕死の狗に視線を移したのでした。

「そんなに怒らなくてもいいだろう」

「怒ってなどいません。自分がどうすればよいのか分からないのです。私に力があれば私もこのイヌも無事でいられた運命もあったのだろうと、そう思ったのです」

「だとすればこれもあるべき運命だ。お前が狗に襲われ俺がお前を助ける。この時はこうなるようにできていた、そう考えれば大概のことは許せるようになるとは思わないか」

「ならば、命あるものを殺生したにも関わらず大笑いをするのがあなたの運命だと、そうおっしゃるのですか」

「そう皮肉を言うな。お前が可笑しなことを言うから笑ってしまっただけさ」

「可笑しなことなど申しておりません。とにかく、今後は殺生などしないでいただきたいのです」

 すると男性は急に真剣な声で、

「お前が殺されそうになってもか」と言いました。

「……それは……」

「俺にはお前を守る義務がある」

「一体、何の事でしょう」

 足はまだ少し震えておりましたが、私は息を引き取り横たわる狗の所へ歩き、しゃがんで、その首筋へ手を当てました。矢に射られる寸前に牙を剥き出しにして私に襲いかかってきた生命のひとつの塊が、段々と肉というただの物になってゆく様を、私は手のひらで感じました。首筋の脈が消えて、もう二度とこの命が戻らないことを私に教えたのでした。

「あなた、大丈夫?」

 一緒に洗濯物を干していた女中さんが私の許へ駆け寄り、私の手を握りました。

 私は、矢を放った男性を再び見上げました。彼の目は私の目を真っ直ぐにとらえていました。

「あなたは、先ほど茶屋で会った青年……」

 私はさっと目をそらしました。

「また会ったな」

 青年の顔を一瞬見ただけ。それだけで、青年の顔が脳裏に焼き付いてしまいました。心臓の音が耳の中で姦しく鳴り響いていました。

 茶屋で会った時は横顔を見ただけでしたから、改めて正面から顔を見つめられると、私の胸の奥に、先ほどまでとは違う新たな感情が顔を見せ始めたのでした。

「しかし、まぁ……」

 私は頭を撫でられました。大きな手でした。

「許嫁がお前のようにやさしい人間でよかった……」

 青年は柔らかな笑みで、私に囁いたのです。

 私の頭上から発せられた青年の言葉は、天啓のようによく響いたのですが、鼓膜を通過しても刹那にしてかき消えてしまったのか、私はこの青年がこの時何と言ったのか理解しきれず、曖昧な響きだけが頭の中でぐるぐると回っていたのです。

「えっ、いま、なんと」

「はやくこい。式の準備だ」

 この時の女中さんの驚きの声は、今でもはっきりと覚えています。その後の私といえば、思い出すのも恥ずかしいほどに動転しきって、先ほどの騒動からわずか一時の間に青年に手を引かれ、もといた大広間に戻されたのでした。

「お前はここで式の準備をしろ。さっきの事はもう忘れて落ち着くんだ」

「準備って……どうっ、あっ」

 私が尋ねる前に青年は私ひとりを大広間の前に置き去りにして、長い廊下の向こうに早足で去ってしまいました。何もわからぬまま仕方なく大広間の扉を開きますと、さきほどの殺風景な印象とは変わり、女たちがひしめき合って忙しそうに式の準備をしていたのでした。濃い女の匂いが立ち込めるその部屋に私が姿を現したとたん、女たちは一斉にその何十もの瞳を私の双眸に集めたのでした。猫のように上目づかいで睨め付ける目、駿馬のような朴訥な目、鷲のような怜悧そうな目、といった多様な色に満ち満ちていて、好奇の視線、憐憫の瞳、敵視の目、温かさと冷たさの入り混じった視線の、様々な視線を私はしかと受け止めました。そしてこの時私は感じたのです、この瞬間に私は子供の世界から大人の世界に来てしまったのだと。少なくともわずかに感じた敵視の目は、私の事を女だと認識していました。

「やっとお見えになりましたか。探していたのですよ。どこに行っておられたのです」

「……あ、いえちょっと」

「さぁ、早くここにお掛け下さい」

 私に好奇の視線を向けたひとりが、私の手を取って私を鏡の前へ引きずるように連れ出しました。

「そんなに引っ張らずとも、自分で参りますから」

 鏡の前で私はまたこれまでの人生を振り返っていました。十五年間という時の中でどれだけ人に愛されたか、どれだけ人に尽くされたか。一族の未来を繋ぐ女として育てられこの日の為に生きていました。子供として生きて女になる為に育てられました。今度は私が人を愛する番、そして私があの方に尽くす番でした。どれだけの喜びの中、私は祝福されたのでしょうか。式が終わった時から私は一族の娘からひとりの夫の妻として、また女として生きることになるはずでした。そしてその人の子を産むはずでした。母として生きるはずでした。そうなることが宿命だと思っていたのです。

 鏡の前にいるだけで、私の姿は見る見るうちに変わってゆきました。白い肌は不自然に白さを増し、色の薄い唇は赤く染まってゆきました。これが化粧というものなのですが化粧などそうしたことのない私は、どんどん変わってゆく自分の顔を目の当たりにして、羞恥を覚えるのでした。その私の顔を女たちは好奇の面持ちで覗き込むと、顔を隠してくすくすと笑っていました。

 少しばかり会話を楽しむと、すぐに式は迎えられました。多くの人々がお座敷に列をなし、あの方と私はその部屋の上座でふたり並んで座るのでした。先ほど会った青年があの方だったなんて、と戸惑いまじえた心と共、隣に座っている夫となるあの方の顔を見上げました。あの方は、あの腹を抱えて笑っていた時とは別人のような、神妙な面持ちで遠くを見つめていました。私はなぜかしらその時、胸を強く突き刺されたように感じて、途端に目を逸らしたのでした。

「どうした、緊張しているのか。顔が赤いぞ」

「いいえっ、なんでもありません」

「そうか。具合が悪くなったらいつでも言え」

「はいっ」

 小さく返事をしたつもりでしたが声が裏返ってしまいました。返事をしようと思った途端、あの方が私の手を強く握りしめたのです。大広間に連れて行かれる時に腕を掴まれた時は気が付かなかったのですが、その手はとても大きな手でした。着物のせいなのか、手を握られているせいなのか、私の体は熱くなり、頬はどんどん熱を帯びてゆきました。あの方はそれからしばらく、私が緊張で気を失うまで手を握っておられました。

 遠くで唄と悲鳴がおぼろげに聞こえました。


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