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大地への帰還  作者: 桐生真之
6/11

3 繙読

 あらゆる音のかき消された暗闇の個室は彼の心象風景と共鳴しているかのようだ。目覚めてはいたが、青年は未だそのことを強く意識してはいない。目前の景色があまりにも自身の心の深層と通じていて、外界を視認していると感じられなかったからだ。印象派の絵画を眺めるように夢を見ているようで、心は落ちついていた。

 部屋の装飾は、その住人の性質を写しだすものだという。簡素な部屋。有る物と言えば、寝具と机と座椅子。他の所有物は納戸行きになっている。ただ、彼は家具同士の配置に興味を示せなかった。点在した寝具と机と座椅子は、それぞれ無人島に幽閉されたように孤立している。しかし青年は寧ろそういった家具の配置に安心を覚えた。散在しているような家具は、青年なりの秩序によって配置されているのであった。

 目を閉じ、ゆっくりと開く。

「……………………………………」

 途轍もなく長い時間が経ったような気がしていた。気を失っていたことにも気付かせてもらっていなかったような焦燥を覚える。酷く粘性の強い汗をかいていた。

 いつものことながら寝不足の青年は、いつものごとく深夜に眼を覚ます。このような時間帯に眼を覚ましてしまうと、何かとんでもないことをしでかしてしまったような気にさえなった。

 息苦しい。このようなとき彼は、胎児の頃の自分の臍帯は母の胎盤とは繋がっていなかったような気になるのだった。かつて母と自身を繋げていたのは臍の緒ではなく何か冷たいプラスチックのような管だったような、或は、臍から伸びた管はこの口と繋がり、自分は独りで血液を循環させていたような気にさえなり、そう思うと途端にあばらが痛むのだった。

 薄暗いなかで、おかしな異変に気が付く。部屋で眠っていたはずが、今自分がいるのは食卓で、横たわっているどころか椅子に座っている。寝惚けか、夢見に体まで付いて行こうとしていたか、ここまで足を運んだ記憶は薄れているどころか、そもそも存在していないようにさえ思える。悪く言えば夢遊病、優しく言えば寝相が溌剌、といったところか、の判断を今は端へ打ちやって、ゆるりと腰を上げた。青年にとっては度々あることなので気にすることをやめ、顔を清めに洗面所へ向かう。

口腔に意識が向く。薄い、血の味がする。寝惚けているときに口内を切ったのだろう、と彼はぼんやり考える。

 洗面所から出ると聞き覚えのある声が耳に届いた。寒い朝に良く見ていた、水たまりの表面にできた氷のような張りつめた冷気が、誰かの声によってその静寂を破られた。

「いよいよ、ですね」

「待ったなぁ。長かったか?」

「ええ、待ちました。ずっと待ちました」

 雲が流れ、月光が縁側を淡く照らし、並んだふたつの後姿を浮き彫りにした。寝惚けて幻影を見ているわけではない。向きを変えてふたりの横顔を見た。同じ表情をした作りの違う顔のそれぞれの瞳は、眼差しの先にある桜を愛でるように眺めて、縁側の床に互いの手と手を重ねていた。大きな手が、小さな手を胸の高さまで引き上げ、両手で包みこむ。小さな手に静かに吐息をかけ、産まれたての赤子の手を撫でるように、優しく手を撫でる。

「震えているぞ……」

「何年も待っていたのにいざとなると、私はいつもこうですね」

「心配することはない。俺がいる。それに例え難しくともお前と俺の子供たちだ。きっとやっていけるさ」

「ええ、そうですね、きっと大丈夫。私たちの子ですものね」

「ああ、大丈夫さ。俺たちは家族なんだ。だから」

「はい」

「安心して、今日はもう寝よう」

「あ、あの」

「どうした」

「あ、え、あ、ああ……」

「なんだ」

「しばらくここにいても、よろしいでしょうか。このままふたりで、桜を見ていないと不安なのです。なんだかとても怖くて……震えが止まらない……」

「わかった……朝までここにいよう」

「ありがとうございます。ああ……」

 密やかな溜息と静かに陰る白い眉根、僅かな動揺を引き連れて、相手の男の表情も、鏡写しのように陰りゆく。

「喉元過ぎても治まらぬこの痛みを、いつかは愛せる時が来るのでしょうか。忘れてはならない、この痛み」

「来るさきっと。そうなっている未来を描くんだ。俺がその痛みごとお前を包むよ。だから……安心するんだ」

 肩と肩が触れ合う。手を重ね、ふたりは満開の桜の、つらつらと流れ落ちる花びらを眺める。

 青年はふたりから視線を外し、月を仰ぐ。

 月の明かりは命の温かみを感じさせぬもので、虹彩に無理を強いるような光度ではないことは重々承知なのに、月を仰いだ青年は眩しさに目がくらむ思いがした。眼球を絞るように強くひとつ瞬きすればやっと夜目が効いて、庭がほんのりと焔が降りたように明るい、燐光を浴びたように穏やかに淡い。

 萼から切り離されたひとつひとつの花弁が滑らかに廻りながら胞子のように漂っている。前髪を煽る夜風が吹いたがそれでも花弁はさらさらと流れ落ちた。

「――ふふふふふ」

 誰かの声が耳に触れたような気もするが、宴に胸躍らせる花弁たちのものかもしれず、見れば、身を翻しながら落ちて行く様は喜び踊っているかの如くで、青年は、花弁が落ちて行くのをただただ眺める。そうしていつのまにか時と土と風のなかに溶け、流されるままに流れ、時に豪雨のようにひとつになり、時に噴水のようにちりぢりになるようにさえ見えてくる。花びらの流れは名曲アルハンブラの思い出の如く、均一な大きさの水の粒がはじけ飛んで煌めくような繊細な響きを想起させる。

 これほど長らく舞い続けていられるものなのか、と思い見つめている、といくらかの花びらが縁側から家中へ舞い込んで、畳の香りと混ざった。

 深く息を吸い、空を見上げると月があった。月は低く傾き、おぼろに輝いていた。その輝きを見ていると、青年は、月が自分を見つめているかのような気持ちになった。月が人を見つめることなぞあるはずがないと理解してはいるが、このときの青年には、月が自分だけを見ているのだという感覚があった。その思いつきに根拠はなかったが、確信のようなものが胸中に芽生えていた。

 莫迦な考えだということはわかってはいたが、そんな気がしていた。人の考えなど当人が思っているよりも好い加減なものなのだから仕方がない。

 ふたりの様子が余りに静かであったために青年は畏敬の念さえ抱いたというが、敬慕の情に反するものを胸底に湧いていたことも意識していた。瞼を強く絞って思考を切り替えた。ふたりを起こしてしまうのもまずいと思い、その場を離れる。歩く毎に、家に迷い込んだ花びらが青年の足元で舞った。月が黄色く輝けるほどに夜というのは暗いものであるけれど、意識のほうは昼のように冴えて眠れぬから、青年は食卓の椅子に腰かけて、穏やかに息づくふたつの背を眺めた。

 それからしばらくして、影も淡くなり始めるという砌に、家の奥の方から物音が聞こえた。氷膜におおわれたようにはりつめていたわけでもないのに、森閑とした暁天のためか、その音は、きつく張った糸ほど振動が伝わるさまを連想させるほどに高く。

「ギッ……ギィッッッッ――――ギィッ――――」

 何の音だ、と独白でもやりそうになったほどにあからさまな、錆び果てた鉄の慟哭のような音だった。奥のほうで何か蠢くものがあるようで、断続的に鳴るそれは、何らかの意志に基づいて発信されているようにも思える。しかしこのような暗がりのおり、この想像の及ばぬ奇怪異様な音を鳴らすのは誰であろうという問題があるが、そもそも誰というより以前に、如何様な現象によるものであろうかとかく考える青年は、更に耳を欹て、音に法則性は無いようだとかしかし機械的な音でもあるとか洗濯機かなにかの誤作動だろうかなんどと考えてはみたが、誰がこのような暗がりの刻に洗濯なんぞするものか、と頭を振る、が、妹のどちらかが海やら河やら湖なんぞで溺れる夢を見てそれで、ということも考えられなくはない。や、あのように幼稚な女の童たちとはいっても、時は無常に巡るものとは言い習わしても、万物は流転するのみと神が唱えようと、日々の蓄積というものは確かにあって、今では高校二年生と中学三年生で、長女のあけびは本と文芸に取りつかれた少女で常から書籍の山に溺れているどころか自らもぐっている人間が夢のなかの海で溺れたとて粗相などすることがあるだろうかと思い、次女の柊は中学の生徒会長にまでなった身なので、そのような利発者が海に溺れてあるいは河に溺れて河童に助けられる夢なんど見て、明け方にその肌着を洗濯機に叩き込んで隠蔽工作を遂行するなぞ誰が信じられよう、そうそう、これくらいの年の頃なら夢魔にかどわかされたとて粗相することはあるまい、とひととき考えてもこれまでの妹らの稚気を見てきた青年である、もしかするともしかするかもしれない、と思い、妹らに対する過大評価を改め、ふたりの顔を思い浮かべながら奥へと進む。

 頭は冴えている、と思っていた青年だったが、今頃になって眠気がさしてきたか、ぼんやりとした宵だから頭もぼんやりとしてきて、半醒半睡、草木も眠る丑三つ時、再び、人間はこのような深夜に目を覚ましていてはいけないような気になった。

 音の生まれに決まった法則のないことや音の源と洗濯機の場所が異なる方角であるというのは、ただこのときの青年にとっては心地よくひっかかる違和感として脳裏にたゆたうのみに終わって音のするほうへ運ぶ足を止めるものに非ず、音が段々と現実味を帯びたものになるころには、形を持っているように錯覚されるほどはっきりと聞こえ、恰も鋭利な刃物で骨を切り刻んでいるようなさまを思わせる。

 じくじくと傷痕に染み入るようなあばらの痛みを感じながら青年は黒褐色の扉の前に辿り着いた。この扉の向こうはこの部屋の主ととある人物を除いてようよう人の立ち入らぬ書斎である。薄暗さと相まって、この冷たく硬い扉が異界への入り口のように思われた。

 立ち止まり、その下方のとある物に気付く。ぼんやりとしたままの青年にとってはじめその物は光の玉のように見えたのだが、しかしそれは光の玉でなく、猫だとわかった。

 この生き物の体内に流れる生命と目の強さが光を思わせたのであろう、この姿を目にすれば石段の果てで睨め付け合ったことなど忘れて見入ってしまう、この悠久の友のなんと可愛らしく滑稽な姿態……書斎の扉を一心不乱に叩いて、扉の向こうに入ろうとしているようだ。

 意図のつかめぬ動きではあるにしろ生物には無駄や余裕というものがあって人やこの猫に限らず生き物というのは生きていると必ず無駄なことをしてしまうことがあるが無駄な行為をするかしないかの問題に理性と本能の割合はさほど重要な問題では無いように思え、生物の行動の無駄こそが余裕があることの証明であるとし、よって無駄を愛し、本能に行動の殆どを支配されている者は愚かしいが、だからこそ愛らしいとも思う青年の、目の前の細身の流線が月光によく映えて白銀色に淡く照り輝いているのが日中と深夜での印象の相違を露わにしていて、青年の硬い頬に笑みをもたらした。それは美しい異性を目にしたさいに抱いた印象と同じもので、苦しみを覚えるほどに魅力を感じた。この物憂げな表情のなかに冷血な資質と激情とを同時に兼ね備えていると思うと又じくりとあばらに痛みが刺した。

(この子の名は何だったろうか)

 この家の周辺に住み着いている猫には母が名を付けているのであるが、やはり野良猫であるために青年は猫の名を思い出せずにいた。

 名を知ろうにも人の言葉を持たぬ動物に問うたとて返答を得られるわけもなく、一抹の希望を捏造して暗がりに光を当てる気にもならぬとは思っていたにしろ退屈そうにしている美しいものほど良いものはないので、剥製の如く確固と静止し怜悧さを潜めるも倦怠を露わにした瞳を見つめていると猫のそれは茫洋な海のようで、どれだけ覗いても奥底が見当たらぬから飲みこまれそうになっていたのであったが、そのまま絡みつく視線の濃度が高まり氷結を迎えそうになる頃には、猫は縮緬の音波の、飛んでいる蚊のような声を出し、かと思えば前足で書斎の扉をばしばしとやった。歯ぎしりのような乾いた音を立て、扉は僅かに開いた。

 そういえば……この猫は寛仁という名で数いる猫のなかでも母が最初に名を付けた猫だった。青年の家の周辺に住み着いている猫には母が全て名前を付けているのだが、付ける名前は古風なものが多く、青年の覚えにあるものでもこの寛仁、それに勘解由、さらには雅楽、みどり、伊織、夏野など、と平安の頃や戦国の世にいたようなものが目立つ。母には古風なこの国の情緒に溢れるものに惹かれる性向があった。

 と、考え事をしている間に、猫の姿が消えていた。

 神隠しにでもあったのかそれとも月明かりに溶けてしまったのか初めから猫なぞいなかったのかと疑りもしたがあの強い眼差しを覚えている、もういちどあの瞳に会ってみたいと書斎の扉に手をかけようと腕を伸ばしたら、扉の隙間から海底で揺れる藻のような白い尻尾がひょこりと顔を差し出した。淡い好奇心に背中を押された。

 今尚ひらひらと庭に舞う桜の花弁の如き軽やかな調子で猫は書斎に滑り入ると本の山をかいくぐって、体のしなりを眼一杯に使って机の上に飛び乗り、父の執筆中の原稿の上に座った。猫は青年をじっと見つめた。青年は猫を持ち上げ、原稿を取り上げた。

 創作物というものには作者の内面が広く反映されるのであるから、知己の心の内を覗き見ることは時に感興の湧く行為であるにしろ、それが近親者の、それも父親の心の内ともなればその深淵を覗いてもそう気持ちの良いものではないために、青年はいままで父の作品を忌んでいたわけでもないのに、読みたいという気になったことはないのだったが、いま青年が原稿の文字に視線を這わせたのは、自発的というよりも、この猫によるものが大きい。

 少しのあいだ読み流していただけと感じてもいたが、気が付いた頃には猫は姿を消し、代わりに朝の気配が匂うほどに。原稿には平安を舞台にした物語が書かれているらしかった。父の創作物について妹のあけびに聞いてみるか、と思い、原稿を机上に置いた。

 途端、眠気が訪れた。

「――もう、終わり?」

 冷やりと耳朶を撫でる、何処からともなく女の声。

「ああ、帰る」

 なんとはなしに答えるが小さな疑問は脳裡を零れ落ち。

 扉を閉め、食卓の椅子に戻る。そのまま疲労と恍惚の混ざり込んだ雑然とした心持ちのままに静かにしていた。

 遠くで誰かが呼んでいる。声は深い海の中で揺れているように響く。心地よく胸を打つ。

 別の声が聞こえる。少女の声。声は震え、泣いているようだった。

 少女の匂い。青年がよく知っている匂いだ。

「久しぶり、稔」

 呟いたのはかつての恋人の名だった。半身だった彼女を失ったのか、青年にはわからない。そもそも半身だったのかどうかさえ。彼女との関係がどういう意味を持っていたのか、青年にはわからない。


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