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大地への帰還  作者: 桐生真之
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28 観測者

「我が恋人は

 死して母に会いに行く

 蒼き死相は笑みの色

 生まれ変わりの萌葱の如く

 踏みつぶされてもそこに在れ

 安らかな寝息を海に捧げて」

 

 

 晩年、死期を迎えた高咲正樹は己の死に場所に降り立った。母を見送るあの朝に、夢で見た荒野である。

 前後に赤い土の平原が天と地を分けて渺茫と絶えなく広がり、左右は鰐の背のようにごつごつした肌をむき出しにした岩々が聳えている。赤土のような色の太陽が空に浮かび大地に熱線を渡らせ鉄板のように焦がしているが、谷底のここは多くの生物が死滅するほど煮えるように熱くとも、影になるだけいくらかましだった。

 風にさらされ流れた赤砂が老いた肌を削りとるように打ち、じわじわと水気を奪う。既に力尽きていたということも重なって、目的地への到達を果たして安堵していた老人は、頽れて大地を抱く。

 老人の上空を旋回している猛禽の鳴き声が高く響く。遠くなった耳で、猛禽の意図を受けとり、仰向けに体勢を変えた。

 そして――――

「どういうことだ…………なぜ……なぜ…………君が此処にいる」

 彼は【私】を見た。

「……お久しぶりね」

 驚愕の表情を浮かべる彼を見下ろしながら、私はその場に佇んだ。彼の驚きは無理もなかった。私はあの頃のまま何も変わっていないのだ。

「……君がなぜここに」

「ずっと愛していると言ったでしょ、私。ずっと愛していた。だから、ずっとあなたを見ていた。あなたの見るものを見て、あなたの感じることを感じた。

 こうやって逢引きするのも久しぶりね。

 でも、いまはそれよりも、人の顔を識別できなくなったあなたが、なぜ私の顔を認識できているのか、あなたはいまそこに関心を寄せるべきでしょう」

「そうだ……その姿……」

「そう、この姿……人は死ぬまで誰にも見せない顔があるものだけれど、さすがに驚いたようね。当時の私は、私であるが私ではなかった。かつての私はあなたの目を引くために私が自己のなかに生み出した別の人格で、この顔形もあなた好みに変えた物でしかない。全てはあなたの観測者であるために」

 彼は観念して、悟ったように深いため息をつき、青年時代の彼のように初々しい悲壮を込めて言った。

「君の名前の意味を考えてみるべきだった。朽木稔という君の名は、無から果実を創造する特性を表していたんだね」

「あなたは悪夢のなかで自らの欠けた骨を取りもどし、完全な存在となったが故、人間が蟻の顔を判別できないように、人間の顔の区別が出来なくなった。しかしあなたは私の顔は認識できている。これは何を意味するかしら」

「……それは意地の悪い質問だね」

「あなたの母が前世において大量の人間を殺した罪で罰を受けるのは道理でも、何もしていないはずのあなたが、なぜあれだけ苦しみ続け、愛する人を殺さなければならなかったのか。答えは単純明快なもの。

 あなたは、あなたの母親とは比べ物にならないほどの罪を犯したの。

 あなたこそが人類の父。

 この大地に広がる子供たちの種。それがあなたなの」

「そんなの、でたらめだ」

「認めなさい。本当は分かっているのでしょう」

 彼は虚空を見つめて呟いた。

「神のような存在になりたいと思っていたかつての私を愚かしく思うよ。過去に行って忠告してやりたいくらいさ」

「そんなことをすれば大変なことになるわ。嫌いではないけれど。あなたはさらに美しくなるだけ。あなたは悲しみのたびに美しくなっていったから」

「君は昔からそうだね」

「あなたもね」

「そうみたいだね……」

「あなたの更生、それはすなわち人類の救済を意味していた。黒い本能を分厚い水銀のような理性で覆っただけの心。彷徨い続けた果てに弾けて全てを葬り去ることだってできたのに、あなたはそうしなかった」

「それは、私が人間を愛するようになったからだ」

「そう、早く最愛の人に会えると良いわね。桜さん、彼女はあなたにとって、どんな人だったの」

「彼女は私の全てだった。いつまでも素敵な人だった。年を重ねるほど彼女が愛おしくなった。ずっと一緒にいてくれた大切な人なんだ」

「お母様……榧さんのことは、まだ気になる?」

「出来れば知りたいさ。彼女も私の全てだったから。初めて私が心から愛した人さ」

「安心して、すぐ知ることになるわ」

「どういうことだい」

 私は彼の唇に最後の口づけをした。

「眠りなさい。少しのあいだだけ眠ったなら、あなたはまた人の子として生まれるでしょう。記憶が繋がったままの人間として。そしてたくさん胸を痛めなさい。これまで貴方が産み出し踏みにじってきた数々の命に償うのです。これからあなたはまだまだたくさん苦しまなくてはならない。でも、私はいつもあなたを見守り続けているわ」

 あなたは始めから私を好きではなく、好きになろうと決めたのでした。しかし、私はあなたを愛していた。

「私の愛する人よ。がんばるのです。人と手を合わせて。私、待っていますから」

 鳥の一群れが空から滑り降り、彼を啄み始めた。

「ああ、また会おう」

 谷の上から、彼の母の姉が、涙を流しながらこちらを見ている。それを見て私はいつになく取り乱していた。

「あなたが人の心がわかるようになったって何の意味もなかった! あなたみたいな人のことを誰がわかると言うのですか! 共感なんて望めるわけもなかった。あなたが人類すべての意思を汲み取れるようになって半世紀以上が過ぎても何も変わらなかった! 神に戻って力を得ても、何も変わらなかった!」

「いいんだよ……」

「え……」

「いいんだ」

「私や誰かが神にならなくても……」

「なぜ……」

「人の顔の区別がつかなくなった時、桜に人類すべてを愛することを頼まれた。そして私はそうした。個人の判別のできない私には、それは容易いものだった。これまで通り、家族を愛するように私以外の人間を愛すればよかったのだから。それは私を知らぬ者からすれば、聖者のように映ったかもしれない。しかし万人がそうする必要もないし、万人が私を愛する必要もない。個人にできることなど限られている。だからね、私がそうしたように、人は誰か大切な人を大切にする、それだけでいいのだ。衝突もあるかもしれない。だが、その集合に平和が実現され、神が現れるのも事実なんだ。誰でもいいのだ。自分でも良い。誰か大切な人を大切してほしい。君もね……」



 肉体を鳥に喰われ息も絶え絶えだったが、彼の目には幸せな日々の夢が映っていた。まるで家族に会っているような嬉しげな顏だった。

 彼の肉体の一部は既に空に散っていた。

「そう、言い忘れていたわ。言ったことがあるかもしれないけれど。ひとつ言っておくことがあったわ。……あなた……」

「ああ……」と彼は返事ともつかない声を上げて、次に。

「なんだい―――」

 とやっと久方ぶりに、妻に呼びかけるように私を呼んだのだった。

 私はかつてのふたり食い違いの原因を指摘した。

「私、正常位が嫌いなの」

 しかしすぐに忘れてしまうことだろう。

 彼はすでに大地への帰還を果たしていた。

 そしてまたすぐ生まれることになる。蜘蛛の糸のような母の黒髪を大切そうにつかんで産まれる胎児として。


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