27 肯定
母を失ってからしばらくは、彼らの生活は淡々と過ぎて行った。劇的な喪失だったにもかかわらず後を引かぬのは、消失の必然性を皆が肌で感じ取っていたからに他ならなかった。
実生活の変換は実に自然に行われた。母がしていた分の家事は各々平等に分配された。変わった仕事量を実感する度に母を失ったことも思い知らされたが、慣れるうちに感情の揺れ動きは静かになった。感情が揺れ動いたことさえも気づかぬほど小さなものになるのに多くの時間はかからなかった。それに母は【向こう】で達者にやっているのだろうとか、見守っていてくれているだろうと思うと、人智を超越した者の存在を知った彼らだから、心配に思うことは少なかった。
世間では、元々母はいないことになっていた。でもあんなことがあったからこんなこともあるだろうと納得した。父に聞いたが、彼にもわからないと言う。凛にも聞いた。上のことはわからんと言われた。
それからまたしばらくすると、なんだか母を身近に感じるようになった。忘れかけていた、母に会った時の安心感だとか親近感を、家庭にいるときに覚えるようになった。まるで母が家の中に住んでいるような気がするのだ。ある時、台所から料理をする音が聞こえてきて、これは母の音だ、と思い、確かにいるであろう母の姿を見るために台所に行くと、そこには料理をしているあけびの姿があった。そしてそれは何度かあり、桜や柊だったりした。しかし母でなかったとわかっても、あまり落ち込むことはなかった。理由はよくわからなかったが、母みたいなものを感じると安堵したので、深く考えることはしなかった。
「君、料理上手になったよね」
青年は作りたての煮物を味見して言った。
「私は、元々料理はできるよ。お菓子ばっかり食べているイメージかもしれないけど、お母さんの手伝いはよくしていたもの」
「そうだったか」
「そうよ、忘れちゃったの?」
「いや、そんなことはない」
「もう……お父さん呼んできて。ご飯だから。ふたりはもうすぐ来るって言っていたからいいわ」
「わかった」
青年は台所を出た。そして廊下に出て、父の書斎前に来たところで気が付いた。
「あれ……今、誰としゃべってたんだっけ……?」
一瞬、思案。
「ま、いっか」
青年は父の書斎の扉を叩く。
「飯できたってさー」
返事が返ってくる。
「おうよー」
廊下にでると、白くて髪の長いのに会う。
「飯できたってよ」
「わかった。すぐに行くから先に行ってて」
「おーけー」
「ありがとう、お兄ちゃん」
「早く来いよー」
「はーいよ」
青年は食卓へ向かう。
「ん……お兄ちゃん……? この家では俺をお兄ちゃんと呼ぶ人間は何人いるんだっけ? この家の雌個体は皆俺をお兄ちゃんと呼んでいたような気もするけど……」
少し気になったが、考えても疲れるのでやめた。
その夜、青年は布団の中で、ゆらゆらと海を漂っているような心地よさを覚えながら眠りについた。
あくる朝、ふたりで買い物に出かけたはずの青年だったが、よそ見をしている間に同伴者を見失しなった。電話するのも面倒だったので、しばらく周りを見渡して、見つけた。目当ての人物は、人を待っている風で、壁に寄りかかっていた。青年は小走りで近寄って、声をかけた。
「そこにいたんだ。どこに行ったのかと思ったよ」
動揺しているのか、相手はどもりながら返答した。
「え、何ですか……?」
「何ですかじゃないよ、他人行儀な」
相手の声に疑いの色が混じる。
「……誰ですか……?」
すると背後から。
「正樹、何してんの?」
「はい?」
音の方に振り向く。発見された個体は、何だか細くて白かった。青年は、何だかこれは細いが柔靭そうな材質だ、との感想を持った。
「え、じゃないだろ。隣に私がいるのに他の女性に声をかけるとはなにごとだ。それも嬉しそうに……まるで恋人を見るようにさ」
「え、え……え?」
「あの……何か御用でしょうか?」
「いえ、なんでもありません。すみません。この人ちょっと疲れているみたいで」
「は、あはは……」と記号みたいな音声を発して、それは去った。
隣のそれは、肺の空気を大量に排出した。
「はぁ……正樹、一夫多妻制がいいなら外国に引っ越しますか、ええ?」
「え、え……?」
「なんだ?」
「………………?」
「……どうした?」
「い、いや……なんでもない……」
「ふーん。ま、帰ろうか」
その日の帰りの電車の中、隣には愛しの人が座っている。車内トイレで用を足すために一時席を立って元の場所に戻ってきた時だった。彼女は疲れて眠っていた。青年はその隣で彼女の美しい眠りの顔を見つめていた。至福の時だと思った。電車の揺れが因となり、彼女の頭部は青年の肩に乗った。青年は少し赤面し、喜びを噛みしめた。その後しばらく、眠る彼女の愛しい顔を見つめていた。それは目に見える安寧だった。反対側から誰かの肘で小突かれるまでは。
「あのさ……さっきから何してんの?」
「何って、寝顔を……」
「おじさんの寝顔を慈しみの目で見るのが趣味なの……正樹?」
「は……? え……っ?」
「私にはその人みたいな男性的なヒゲは生えてこないと思うが、お前が求めるなら努力しよう」
「は、はい……?」
「もう……どうせなら私の顔を見てほしいよ」
別の日、また白くて細長いのと出かけた時だった。またはぐれた青年だった。近頃はよく迷子になる青年である。ショッピングモール内で迷子になり、ひとしきり探して、ようやく相手を見つけたのだった。洋服売り場の前だった。
「ごめんごめん、そこにいたのか。いやぁ、焦った焦った」
「――――」
笑う青年に対し、相手は氷の無表情である。
「最近はなんでか迷子になることが多くてねー。なんでだろうねー。いや、困っちゃうよ」
「――――」
「ごめんね。何かおいしいものでも食べに行こうよ」
「――――」
「やっぱり怒ってるよね」
「――――」
「これからは離れないように手でも繋いで歩きますか」
「――――」
「君が怒るのも当然だ。一方的に僕が悪い。償いがしたい」
「――――」
「もう、君は謝らせてもくれないのか」
「正樹、何してんだ?」
背後から声がした。細くて白いのがそこにいた。
「ちょっと目を離したすきにナンパし始めるんだもん。我が想い人の行動力には本当に驚かされるよ」
「は……はい?」
「それで? その子は何て?」
「え、えーと……」
「恋人を間違えたりマネキンに話かけるギャグがいまの正樹のマイブームなのか?」
「…………」
帰宅して夕食を終えると、白いのに呼ばれてちょっと怒られた。
「お姉ちゃんに、何かした?」
「いいや、なんで?」
「何もしてないならいいけど。泣いてたから」
「えっ、心配だな。見に行ってみようかな」
「うん」
白いのと別れて廊下にでた。
「あれ……えっーと……誰を見に行くんだっけ……」
(ていうか……今の誰だっけ……)
(ま、いっか……)
後日、白いのから絵を描いてほしいと頼まれた。青年は絵が上手いので、【私】の肖像を描いてほしいというのだ。顔を見ながら描こうと思ったが、頭に霞がかかったようにぼんやりとしていたので、頭のなかにあるものを描いた。写真のように上手く描かれた肖像画が完成された。白くて細長いやつの絵だった。
「できたよ」
「あ、ありがとう……」
白くて小さいやつは泣いた。
「泣くほどうれしいのか」
「お兄ちゃん……いや、正樹は……本当に絵が上手だよ……」
白いのは、普段呼ぶことのない兄の名を呼び、白くて細いやつのふりをして、青年を安心させた。
後日、青年は街へ買い物に出かけた。姉妹たちはなぜかやたらと青年を心配してついてこようとしていたが、雲隠れして街に出た。なぜだかひとりで歩いてみたい気分だった。良く晴れた日だった。休日ということもあって、街にはたくさんの人がいた。
その中に、ふと、【あの子】を見つけた気がした。
「まさか……」
青年がかつて恋し、愛しきれずに打ち捨てたあの青年の美しき襤褸人形……朽木稔の姿を、人ごみのなかに見た気がした。
今さら会わせる顔などない。会って謝ったとて何の解決にもならない。烏滸がましく許しを請うなどできるはずもなかったし、許される権利もその価値もないこの身だと自覚している。
「彼女は僕を憎んでいる。僕が彼女に対してできることなどない」
話さなくてもいい。ただ、もう一度、彼女の顔が見たかった。元気なのか、どんな顔をしているのか、どんな歩き方をしているのか、見たかった。そして未練がましい一方的な今生の別れを終えるはずだった。
(どこに行ってしまったんだ……)
逸る心に反して、稔は見つかる気配すらしなかった。
(さっきは確かにいたと思ったのに……)
そして青年は気づく。稔という少女を探し、でも会えず、与えられた結果。人を探すために、一生懸命に人の顔を見た成果。かつて鬼だった頃の青年が、紙だと呼び、彼の持てる愛憎の極限を注ぎ込んだ人間たちの顔を見た帰結を迎えて、青年は混乱した。
「なんだこれは……」
街中で顔を覆い、指の隙間から世界を眺めた。
(気づかなかった……僕は……いつから……)
そうしなければ、悲鳴を上げて、それでも精神の崩壊は止められず、失神してしまいそうだったから。
(そんなわけはない……なにかの間違いだ……)
無意識に足は家へと向いていた。とにかく一秒でも早く皆に会いたかった。青年は走った。薄目で、視線を下げて帰りを急いだ。
山道を駆け上がり、足はガタガタになり、心臓は爆発しそうになりながらもやっと門までたどり着き、玄関から家に入る。父と姉妹たちの靴がある。どうやら皆家にいるようだ。居間に行くと本を読んでいるのがいた。青年は遠目からそれを見て安堵した。
(よかった……いた……)
胸を撫で下ろし、一度落ち着くために自室へ戻ろうとした。
(あれ……いたってなんだよ……僕が気にすべきは……)
今、恐れるべきは――――。
「おかえり……正樹」
そうだ、家に帰れば、あの美しい顔がいつでも見られるはずなんだ。
「ああ、ただいま……」
背後から呼ばれた。その声に振り向いた。愛しい家族の声だ。喜ばれるべきものだったはずだ。だが、愛しい者の声、愛しい者であるのはずの姿だからこそ、今の青年の目には残酷な現実として映る。
青年は気を失い、倒れた。しかしそれでよかった。このまま意識を失っていなかったら、咄嗟に自分の目を潰していただろうから。
叫び声をあげて青年に駆け寄る人の顔が、青年には誰なのかわからなかった。顔だけではない。なんだか白くて細い姿をしたものが、青年の体を抱きしめていた。
――――霞みかかる視界をはっきりさせようと目を擦ったがまだぼんやりしている。
(……いま、ここはどこだ……)
家に帰ってきたところで記憶が途切れていたがそうそう忘れられる事態ではない、目がはっきりと見えて、匂いも、肌の感触も、この場所を思い出させる。青年は自室の布団で横になっていたのだった。となりには白くて細長いのが座っていた。顔を見ても誰かわからない。現実味が失せている。実感が湧かず、感情が追い付いてこない。故に、この状況に恐怖しているのかさえ、自覚しきれていない。
(この白くて細長いのはおそらく……)
桜か柊……かもしれない。ここが高咲の家で、こういうことをするのはふたりのどちらかだ。おそらく桜である可能性が高い。相手の顔を見る。わからない。その造形、その表情、その人の顔を形作る目・鼻・口などがひとまとまりの顔として認識されず、ただの模様に見える。相手は青年が起きたことに気が付いていない。
相手の顔を見つめていると何となく相手が誰なのかわずかに推測できるようになってきた。おそらく桜なのだろう。しかし、相手が少しでも眉を傾けたり、口を固く縛ったりするだけで、また模様として認識されていた顔は姿をかえた。日に照らされた海面を見ているようだった。ひとつとして同じ模様はない。青年には相手の顔がころころと不規則に変わる雲のように思えた。つかみどころがなかった。故に、相手の推測はできても、確信を得られなかった。そうして改めて、青年は自身が陥った事態の深刻さを痛感した。かつてない恐怖が訪れることになるかもしれない。青年は、覚悟を決めた。苦痛でしかなかったが、よりましな不幸の受け入れ方をするためにそうするしかなかった。
(とにかく自然にしていよう)
相手に声をかけた。
「おはよう」
相手が振り向く。顔が動くたびに、別々の人間が現れているような気になってしまう。青年は動揺をうまく隠す。相手は泣き笑いのような表情をしているが、青年にそれを理解できるわけもない。
「おきたか」
「うん、どうしたんだろう。いきなり倒れたんだね」
「ああ、びっくりしたぞ」
ここまで会話してわかった。
(おかしいのは目だけじゃないのか……)
口調からして桜なのかもしれないが、声の識別ができていない。
「ごめん、驚かせたな。でも心配しなくていい。最近いろいろあったから、いまになって疲れが出たんだ」
「そうか……じゃあしばらくは安静にしないとな」
「うん、そうかも。ゆっくりしておくよ」
対策の立てようもなかった。ただ、思えばこのような事態はつい最近にも経験していたことだった。とても、あの事、に似ていた。
母のみに抱いていた認識の欠損が、全ての人間に対して表れ始めたのだ。青年は人間の顔の見分けがつけられなくなっていた。
(人の識別ができていないことに気づいていなかったなんて……)
相貌失認だけでなく、声すらも皆同じに聞こえて、人を判別する材料ではなくなった。静止したままでさえ相手が誰か分かりにくいのに、ひとたび動いて話し始めころころと表情を変えだすと全く誰なのかわからない。怒った顔と泣いた顔と笑った顔の全てが同一人物のものであっても、共通性が見出せずに全てばらばらに見えてしまう。
彼は他者の識別が出来なくなった。蟻の顔が全て同じに見えるように人の顔が全て同じに見えるようになった。皆にはなかなか言い出せなかった。
街に出ると困った。姉と歩いているときも、ちょっと気を逸らせば、街を歩く誰が姉なのか分からなくなった。
青年はふさぎ込むようになった。話の相手が桜だと分かっていても、その確信が掴めない。それどころか表情が変化するたびに誰だかわからなくなってしまった。覚悟はしていたが、恐怖と戸惑いに襲われるばかりだった。
潮時は近づいていた。
「正樹は最近、私の顔を見てくれないよね」
「え、そんなことないけど、なんで」
白くて細いのが言う。脳に霞がかかったようになって、よくわからない。
「よく私を置いてどこかいっちゃうし、正樹から私に話しかけてくれないし」
「……」
「これはそういうプレイなんだ……プレイなんだと思って心を強く保っていたけど、もう無理だよ……正樹、思っていること、いうよ」
青年は、関係の終わりを悟った。理由は十分すぎるほどにあった。嫌われて当然のことをした。そう思った。
(終わった……嫌われた。ふられるのか……)
言い返せることなどない。何を言われても受け入れようと決めていた。しかし――――
「正樹は……人の区別ができなくなったんだよな?」
予想に反した問いに、耳を疑った。
「え……」
「人の顔がわからなくなったんだよな?」
青年の変化に、この姉が気付かぬわけがなかった。
「い、いや、そのくらいわからなかったら人として終わってるでしょー」
青年はおどけてみせた。
「え、わかるの?」
でも相手が笑っているのかわからないので、おどけるのをやめた。極端に人の気持ちが汲取りにくくなっていると感じた。
「いや、わからないけど」
「おい、わからないのかよ。ちょっとわらいそうになっちゃったけどぜんぜん笑えないから」
「うそだよ」
「え、どっち」
「いやあ……」
いつから人の顔がわからなくなったのかわからない。自覚症状がなかった。もともと人の顔をまじめにみていたわけではなかった。
「ねえ、いつからなの」
「いつからって……」
「いつから……人の顔が区別できなくなったの」
潮時だ。これ以上は無理だ。青年は白状した。
「たぶん母さんがいなくなってからだんだんと進行していたんだと思う。自分でもきがつかなかったんだ。特定の色だけがある日見えなくなっても気づかないと思う。そんな感じだ……庭の木の葉っぱが一枚減っているのになんて、人は気が付かないようなものだった……」
「そう……」
「顔だけじゃない。体にも認識にぼかしがはいったみたいに見分けがつかない」
「そうか……じゃあどの程度、人の顔の個性を識別できるの。例えば、街中で特定の人物を見つけるのはどれくらい難しい」
「そ、そんなのか、簡単だよ……広大な砂漠に砂粒を投げて、目をつぶってぐるぐる回って、そのどこかに落ちている投げた砂粒を見つけるくらいだよ」
「ぜんぜん笑えないこと山のごとしじゃないか」
「いいんだ。心配しなくて。君を好きなことにはかわらないから」
「人の区別がつかなければ、私を特別に想うこともなくなるんじゃ……」
「毎日、愛してるって言うよ。能動的な確認作業だ。他にも、ふたりだけの共通言語でも作ってみたらいい。それができるのは世界で僕たちふたりだけだ。そうすれば、僕はいつでも君を君だと認識できる」
「そっか……やっぱり頭のいい人は違うね」
「はは、君のために覚えやすい簡単な言葉を作っておくよ……だって、今の君の言葉をたぶん僕は君の物だと認識できない」
「そこまでか……」
「たぶんこの症状だけじゃなくて、他にも原因はあると思う。これはね、喜ばしいことなんだけど」
「な、なんだろう。いいことなのか」
「ああ、桜、君には、初めて会った時よりも、この土地の言葉が馴染んできたんだ。以前はもっと、どこの国の人間かわからない西洋の外国人が日本語を使用しているような印象だったけど。でも今の君はどう見ても日本人で、君の綺麗な髪をやさしく揺らしているのは、桜の花を舞わせている風と同じ風なんだ。僕はそのことをとてもうれしく思う」
「本当にそう思う?」
「僕の記憶がそう言っている」
「記憶が?」
「……正確じゃなかったな。僕が君を僕以外の個体として完全に認識できていた過去の記憶を基に、今の君がどんな状態なのか考えてみたんだ」
「正樹……泣いてる……」
「今の君は、僕が思った通りの人間なのか……?」
「そうだよ、当たり前じゃないか」
桜は正樹を安心させようと嘘をついたが、それすらも正樹は見抜いて。
「そうか、よかった……君は僕の思い通りにはなってくれていない……本当によかった……」
「…………」
「僕はもう、美しい君の姿を見ることができない……」
姉は、まるで母が乗り移ったように笑い、青年に優しく告げた。この言葉を青年は天啓のように思った。
「人の見分けがつかないのなら、お前が私を愛するように、人類全てを愛してくれないか?」
この提案を拒む道理はなかった。青年は首肯した。
青年の世界から三人称が消えた瞬間だった。
「わかった。でも家族でいる時だけは実務的な問題からなるべく判別できるようにしたいんだ。頼めるかな……」
姉は快く受け入れ、試みは成功した。これは大きな行幸であり、この姉はとうとう文字が読めるようにはならなかったが、しかし父を失ったことによる悲しみから立ち直り、人の顔を描けるようになっていた。彼女は家族全員分の正確な似顔絵を描き、皆はそれを衣類に貼ることで青年の識別を助けた。青年は姉のために本を読んでやり、姉は青年のために絵を描いた。
それから青年は、土の中で眠っているような安堵に浸り眠れるようになった。
夜、快眠続きの青年であったが、肌寒くて目を覚ました。肌寒かっただけではない。何か予感のようなものを青年は感じていたのだった。今日、何かがある。どこからともなくそれは姿を現す。彼は心の準備をして眠りについていたのだった。そして起きて、庭に出て、空を見上げた。
それは、確かにそこにあった。
「なんなんだ、これは……」
思い出す、以前にも見たことがある。あれは確か、初めて凛がこちら側に現れて、森へ行く前、月夜の庭に出たときだった。巨大で、極彩色で、形無く四次元に伸び続け、増殖し、どこにでもないようでどこにでもあるもの。人の歴史と同時に生まれ、人々の意識に侵食し続けるもの。
それは虫のように蠢き――――
「ウソだろ……」
いつしか人の形に見えるようになった。夜の空中に浮かぶ、巨大な極彩色の人間だった。
「予感の正体はこれだったのか……」
雲のように浮かび、ゆらめき、形を変えながら生き続けるもの。
それが、青年を見た。巨大な目が青年をとらえた。(飲み込まれてしまいそうだ……)
そう思ったときには、その巨大な極彩色の人間は、青年の体に入ってきていた。青年は膝から崩れ落ち、地に這い蹲る。脳裏を人々の歴史が駆け巡る。今まで生まれて生きた人々すべての記憶が入ってくる。
(ログアウトしなきゃ)
青年は、意識を断ち切った。
あくる朝、青年は抱き起された。何があったのか、青年は覚えていた。頭の中がいままでにないくらいクリアに感じる。常々重いと感じていた頭は爽快感に溢れ、全能感さえ覚えるほど。
「だ、大丈夫? 何があったの?」
青年を抱き起した個体が言う。
予感はしていた。改めて驚きはしない。
青年を抱き起したのは、人の形をした極彩色の個体だった。背格好がよく分からない。細いのかどうかさえわからない。どんな服を着ているのかもわからない。桜が描いた似顔絵さえ見えない。人の形をしてはいるものの、その人物のまわりを極彩色が包み込んでいる。触れてみても、よくわからない。
「最近、いろいろあったからさ、疲れがでたんだ……心配しなくていい……」
「そ、そうなんだ……」
二、三会話して、その極彩色の個体はどこかへ行った。
周囲を見ると、樹木や建造物はそのままの姿に見えた。だが、庭の隅に数個の極彩色の個体がある。大きさとその数からなんとなく猫か犬かと推測した。気持ちを落ち着かせるためと、もっと調べたいことがあったために森へと入った。樹木はいつも通り極々自然に見えるが、ちらほらと極彩色の物がじっとしていたり駆けたり飛び回ったりしているのが見える。おそらく鳥や犬猫などの小動物だろうと思う。
しばらく歩いて、異質なものを見つけた。
それは動物の個体であったが、極彩色は薄まり、元々それが何だったのかかろうじて視認できるようになっている。触れてみると冷たい。動かない。それは猫の死骸であった。
ブーンという音が聞こえる。おそらく蜂であるが、強い極彩色に包まれておりはっきりとそれが何かはわからない。
ひらひらと舞っているものがある。おそらく蝶であるが、先ほどの蜂らしきものよりは薄いとはいえ、色に包まれており中身の確認はできない。
地面に注目する。小さな個体が集まって列を作っているのが見える。(蟻かな……)と思うが色が強すぎてよくわからない。
木に張り付いているものがある。静止したり、かと思えば高速で動くものだ。色が薄いのでそれが何なのかわかりやすい。おそらくトカゲかヤモリ辺りだろう。
家の鏡で自分の顔を見てみる。どうやら自分の顔は見えるようだ。
(なんとなくだが、わかってきたようだ……)
食卓で、家族らしき極彩色の個体たちに倒れていたことを心配されたが、適当に受け流してテレビを見た。海外のニュースをしている。テレビを通してみても、人は極彩色に見えた。しかし、極彩色とは言っても、色彩が微妙に違う感じがした。特にとある文化圏では色の数は少なく綺麗で恐ろしい感じがした。とある国のニュースでは、見るのが辛いほどまぶしい色で、色も多く、気持ちが悪くなるほどだった。色酔いしたので部屋に戻った。
部屋の様子は普段と変わらない。寝転がっていると極彩色の個体が入ってきた。誰かはわからない。相手の行動を見てから誰か判断するため、寝たふりをした。桜は青年の症状を知ってはいるが、他の皆はどうかわからないからだ。しかし杞憂だった。
「正樹、私は桜だ。寝てるか?」
「いや」
「みんなにも正樹のこと教えたぞ。いままでのこともあって、一応信じたらしい。意外とリアクション薄かったぞ」
「なんか皆もういろいろと超越してしまったんだな」
「かもしれないな。どうだ、ゲーセンでも行かないか? 暇なら」
「まぁ、行きますか」
家を出て、歩く。
「そういえば、なんかまたさらに人の区別がつきにくくなった」
「え、どうなったんだ……どういうことだ? 白くぼんやり見えるんじゃないのか?」
「なんか人とか動物とかがカラフルに見えるようになった」
「なんじゃそりゃ」
「自分でもよくわからん。ちなみに人がどんな服着てるのかもわからん。どんな体系してるのかもわからん。人がカラフルなものにまとわりつかれているように見える。触っても感触がごわごわしててよくわかんない。死んでるものとか元々命のない物体とかはそのまま見えてるみたい。でも生き物によっては色が濃かったり薄かったりする。
あと、君にせっかく描いてもらった似顔絵も、人が身に着けているとカラフルにおおわれて見えなくなっちゃうんだ」
「へー……じゃあ今、私だってわからない?」
「声もわからないから動き方とかしゃべり方とかでしか判断できないなー。むずかしいから桜だって宣言してもらうしかない。というか君、冷静だね意外と」
「それはあなたもでしょ。私はあなたの特別にならなくてもいいって決めたから。心に予防線を張ってあるからね」
「うーん……ちょっと不健康……」
「私の決意をむげにしないでおくれ」
「君は本当にそれでいいの?」
「それって?」
「わかってるくせに。君が僕にとってのオンリーワンではなく、多くの中のひとりになることだよ。……あー……ごめん。僕は本当にひとの気持がわからないんだな」
「いいや、いいんだよ。私が何を言ったって言わなくたって、きっといつか正樹は人を平等に見るようになるから。時間の問題だ。だからせめて、大衆と同じように私に接するのではなく、私を愛するように大衆を愛してくれと言ったのさ」
「それって、もっとあれだよなー……」
(浮気っていうか……七十億股?)
桜が爆発しそうだ、と青年は思った。
「もう、いいんだよ。難しいことは。これからどうなるかもわからないんだから。症状が治ることもあるわけだし、別の方向に進むかもしれないし、変わらないかもしれない」
「そうだね、その時考えるか」
「そうだ、今は遊ぶぞ、遊ぶぞ!」
と言って、盛り上がって歩いていると、青年が桜の手を引いた。
「え?」
「いや、自転車。危なかったから」
桜の背後から横を自転車が通った。
「会話に夢中になってて自転車の音なんてわからなかった。聞こえた? 音?」
「うーん……わかんない。でもなんか自転車が通りそうだったから」
「へー……」
街に出た。大勢の極彩色の物体がいる。
「こりゃー迷子になるわ。桜、手を挙げてー」
「はーい」
「これが桜かー」
「はい、では手を繋ぎましょー」
「そうしましょー」
手を繋いで歩く。速さは同じ。周囲にはたくさんの人がいる。すれ違う人々は、青年と桜の顔を見る。彼らは美しいふたりだった。
アーケードからそれて小道に入る。そこに目的の場所がある。そろそろ到着するというとき、青年は不審な極彩色の個体を見た。
(外国人か……?)
目の前には極彩色の個体が二体。色鮮やかなのが前にいて、その後ろに少し色のくすんだのがいる。なんだかおかしいな、と思っているとそのくすんだのが、目の前の極彩色が持っていたバッグを背後から奪った。
短い悲鳴と共に。
「ひったくりか」
隣にいる桜と思わしき極彩色の個体が言う。桜は青年に荷物を預けて走りだした。バッグを奪われた個体は驚きのあまり腰を抜かしていた。
「おい、おい。僕に追わせた方が効率がいいぞ」
二人分の荷物を持った青年が桜の後ろから追った。桜の倍の速さで走り、あっというまに追い付き、抜きさる。
「あとは僕が追う。持ってて」
(嫌な予感がする)
後ろの桜に荷物を投げ渡し、目の前を走る個体に接近する。
「うおっと! 正樹……区別つくのか?」
「目を離しとかなければ大丈夫! 桜はバッグ取られた人を見ていて」
「オーケー! 任せんしゃい」
追い付かんと、さらに速く走る。が、気づく。
「桜と話してるときから見失ってたわ」
いままで【なんとなく】で追っていたことに気が付く。なぜ確信を持ってこの道を追っていたのだろう、という気になる。そしてそう思いながらも走り続けた。犯人に追い付くためというよりも、とある場所に行くためだった。曲がり角を二回曲がり、目的の場所につく。
(もうすぐか……)
青年が待機していた場所に、先ほどのバッグを持って走る個体、犯人が現れた。
(来た)
青年は電柱の陰に潜み、走る犯人に足をかける。犯人は転倒した。転ぶ際に手をついたのにもかかわらず、バッグを持っていたのと、走っていたのと息が上がっていたのもあって、膝・肩・顔を打ったようである。犯人は外国語で罵詈雑言を放った。不思議なことに、言葉はわからないが意味はわかった。
青年はゆっくりと犯人に近づく。
青年は菩薩のような表情をしていた。それが犯人には余計に恐ろしかった。
犯人にとって青年は、とんでもない速さで自分を追いかけ、まいたと思ったら先回りして潜み、足をかけて転倒させた挙句、菩薩のような慈悲深い柔和な笑みで近づいてくる美青年、ただの化け物である。
青年は極彩色の個体に話しかける。
「さあ、置いて」
犯人はバッグを置こうとする。犯人は少しだけ言葉がわかるようだった。
「それもだけど、ポケットのナイフだよ。僕にバッグを拾わせて僕が下を向いた瞬間に、グサーっとやる気だったんでしょう? もしくは単純に怯ませて逃走を図ろうとしたはずだ」
犯人はナイフを手に持った。
「置こうか。さすがにはした金のために人に刃物を向けるのはリスクが高すぎて割にあわない」
犯人はナイフを振りながら立ち上がり、青年との距離を測りながら再び逃走しはじめた。犯人は明らかに怯えていた。
「おい、ちょっと待て……」
犯人は青年の言葉を聞かず、走る。
「あ、まずい……そっちには……」
イメージが浮かび上がる。
(おそらく、もうすぐ桜が出てくる……)
犯人はナイフとバッグを手に持って逃走している。
青年の声掛けに応じるわけもない。
「おい、待て……待てって……」
(そこを曲がるな!)
そして、大声で言った。
「…………止まれ!」
すると、怯んだのか、犯人は青年の呼びかけに応じ、走るのをやめた。青年が小走りに駆け寄る。
「なんだ……素直に止まってくれるじゃないか」
近づいて、異変に気付く。犯人は不自然に、停止していた。動きをやめ、微動だにしなくなっていたのだった。
「なんだこれ……?」
犯人は、呼吸はしているものの、蝋人形のように固まってしまっている。
(これは、どういうことだ?)
そして、ふと周囲を見渡す。
「あっ、やっぱり」
桜がいた。青年と桜の荷物を持っていた。となりにいるのはおそらく先ほどのバッグを奪われた個体だろう。彼らは青年と犯人のいる小道に出ようとしていたのだった。が、何かがおかしい。近づいてよく見てみると。彼らもまた、停止していたのだった。
(どういうことだ……呼吸はしているのに、停止している……)
話しかけてみても応答はない。ただひたすら止まっているのだ。しかし空を飛ぶ極彩色の鳥や遠くに見えるおそらく人である個体は動いているのがちらほらと見える。
時計を見てみる。
(う、動いているじゃないか……)
時計は動いている。風も吹いている。雲が流れる。道路から音が聞こえる。アーケードの音楽は伝わっている。世界は動いている。時が止まったのではなかった。
(この周辺の人だけが止まっているのか……?)
だが、事態の収拾に驚くよりも、今はすべきことがある。青年は犯人からナイフとバッグを奪い、倒して手足を縛り、通報の準備をした。
そして頭の中のスイッチを入れるイメージをすると、再び犯人と桜たちは動き始めた。犯人たちが停止して再び動き始めるまでの間、ほんの二、三分くらいのものであるが、彼らはどうしてか、止まっていた。
「ま、正樹……どうなっているんだ?」
「犯人を捕まえたよ」
倒れた犯人は、芋虫のようにもがいている。
「そうか、で、でもどうやって?」
「いまのこと覚えてる?」
「いまのって?」
「いま何があったのか、わかる?」
「いや、何も……ただ私は……正樹はきっと無事に犯人を捕まえるだろうから連絡は後からして、とにかく落ち着ける場所に移動しようと思って、それでこの人を連れて歩いていたら、犯人の男が現れて、現れたと思ったらいつのまにか倒れて縛られていて、正樹がいた。もしかして私は頭でも打たれて一瞬の記憶障害を起こしているのか、そう思った」
呆然としている被害者に対して、
「冷静だね」
桜は戸惑いながらも状況把握ができているようだった。
「だって、近頃不思議なことばかりだったから……驚くという感覚が麻痺しているのかな」
「なるほど、とにかく冷静そうなのは助かる」
青年はバッグを被害者に返し、通報をした。電話先との意思疎通はできるようだ。事件の経緯と場所を伝え、電話を切った。
警察がきて、事件について答えた後、すぐに解放された。被害者に礼を言われた後、被害者とも別れた。警察には、犯人が転倒して気を失った際に逮捕した、ということにした。
その日の夕方、青年は森のなかへ入っていった。試したいことがあったからだった。今日、自分が起こした出来事が、どういうことだったのか、確かめに行きたかった。森に入ると目的の物はすぐに見つかった。
非常に濃い極彩色の鳥がいた。おそらくカラスだろうと思う。
(来い……)
伝える。偶然か必然か、カラスが青年の傍に寄ってきた。
(回れ)
カラスは歩きながらその場で回った。
「うーん……じゃあ、これはどうか……」
思い浮かべるのは、カラスの脳に指令を送るイメージだ。
「テ、スト、テスト……テスト、チュウ……デ、ス……キコ……マス、カ……」
ぎこちなくはあるが、自分が指令したとおりにカラスが言葉を放った。
「ワタシは、声を、ダ、シ、て、いる」
しかしカラスの意思によってカラスがしゃべったのではない。
「これは、私が、話している、のでは、ない」
カラスの脳に指令をだし、筋肉を動かすことによって、カラスに言葉のような音を発させたのだった。
(だいぶコツがわかってきたな……)
彼は、カラスを操ることに成功した。
(楽器を操るみたいなものか……)
枯草を分けるとトカゲがいた。トカゲはあまり極彩色に包まれていないようで、元々の形と同じくらいによく見えた。手を差し伸べる。登るように念じると、トカゲは青年の手に乗った。
他にも数種の昆虫を使って試してみた。昆虫と言っても、極彩色が濃いものと薄いものがいることがわかった。が、どれも同じように操ることができた。
続いて木や石などの生物ではない物質を動かせるか試してみたが、これは予想通りできなかった。
(うーん、なるほど少しずつわかってきたような……)
この日の夜の事、青年は再び強い予感を覚えて、眠りについた。そして夢を見た。奇妙な夢だった。あまりにも啓示的な夢である。青年は、かつて恋し、愛しきれなかったあの稔が、青年の子を産み、その子が榧を食らう夢を見たのだった。
そして飛び起きる。汗をかいている。心臓の鼓動は速く強い。体が熱い。本当に、燃えるように熱いのだ。熱を測る。
「そんな馬鹿な」
計測不能だった。
(冗談きつい……)
「少なくとも四十二度以上ってこと? 人間じゃないじゃん……真夏のボンネットくらい熱いんだけど」
その時だった。
「正樹――――――」
誰かが青年を呼んでいる。
「ここだ――――――」
(なんだ?)
「おいで――――――」
脳裏に直接呼びかけているような声だ。
すでに通常の人体としては死んでいてもおかしくない体のはずなのに、力が漲る、五感が冴える。
「やっと会える――――」
「誰だ……?」
「早く来て――ここだよ――」
青年は部屋を出る。廊下に出るも、誰もいない。
「違うよ――――ここだ――――」
「どこだ……」
「こっち――――」
青年は外に出た。
「やあ――――やっと会えたね――――」
「会えたって……? お前はどこにいる」
「ここだよ、ここ――――」
「どこだ……?」
「どこって、ここだよ――ほら――――」
そして青年は、
「上だよ――――――」
そこにいるわけではないが、どこにでもいるもの。青年の意識の中にもいて、それが空中にいるように見えるもの。人の歴史だけ伸び続け増え続ける、巨大な自分の姿を見た。
「ウソだろ……」
「嘘じゃないよ」
「これが……極彩色の正体なのか……?」
「違うよ。あれはあれで完成されたものだ。人や生物がコミュニ―ケーションを取る限り永遠に増えたり減ったりを繰り返しながら成長し続けるが、完成されたものだ」
「ではなぜ、いまそれが自分の姿をしている……?」
「恐ろしい質問だねー。聞くのかい? わかってるくせにいー」
笑っている。顔がよく見える。空を覆う雲より大きく、月より明るく、絵のように漂う、自分の姿。
「この姿になったというより、戻ったという方が近いかもしれないね。いや、どうかなー」
「言わなくていい。余計なことだ。わかったから」
「そう――――」
「そうだ」
「で、どうするの?」
「考えるさ」
「大きな力には大きな義務がある。ということをよく考えておいてほしい」
「余計なお世話だ」
「いいじゃないか。君が誰かから世話を受けることなんて、これが最後かもしれないのだから」
「やめろ」
「これからは君、いや、僕が――――」
意識が飛ぶ。
「おはよう」
いつもと変わらぬ朝。近頃、寝起きはいい方だ。昨夜は不愉快なことがあったというのに、爽快な朝であった。彼は元気である。頭も体もエネルギーで満たされているのが実感できる。鏡を見る。生き生きとした表情。どこか神々しくもある。
「お兄ちゃん、おはよう」
微笑みが返る。極彩色は消え、人の顔、人の姿をしている。
青年は朝ごはんを見て喜ぶ。
「うまそー」
「でしょー。早く食べよう」
食卓に全員そろった。
「いただきます」
家族そろっての朝ごはん。高咲家の日常である。皆食事の所作が綺麗である。特に桜や柊は、以前より食べ方が綺麗になった。あけびや父は元々そうである。食べ方が綺麗になって、表情も似てきた。何より、皆おいしそうに食べる。いつもと変わらぬ日常。とある一点を除いては。
青年には皆の顔……姿が、高咲正樹――――自分の姿に見えるということを除いては。その一点を除いては、何気ない日常、幸せな日常なのであった。
青年は微笑む。焼き魚を食う。うまい。
左前に座る自分の姿をした誰かに醤油を渡す。
「これ、いるんでしょ?」
「あ、うん、ありがとう。……なんでわかったの?」
「え、何が?」
「私がお醤油取ろうとしたって」
「え、今言ったでしょ?」
「ん?」
「え? ……ああ、醤油欲しそうにしてたから」
「そ、そうなんだ……」
(あれ……言ってないのか……?)
食事の後、台所で食器を洗っている自分の姿をした誰かがいた。今日は桜の当番日だから桜だろう。桜はちょっと背中が痒いらしい。
青年は背後から桜らしき人物の背中をかいた。
「うお、びっくりしたあ」
「背中かゆいんでしょ?」
「なんでわかったんだ?」
「桜のことはなんでもわかるよ。あと今ちょっと抱きしめてもらいたいって思ったでしょ」
青年は皿洗いをする自分の姿をした桜を抱きしめた。
「ひえ…………うん」
青年の姿をした桜は赤面した。
「でも、なんで……わかったの? 新しい特技なのか?」
「うん、そうかもしれないね。代わりに、人がすべて自分の姿に見えるようになった」
「ええ? じゃあ、いまも私が正樹の姿に見えてるってことなのか?」
「そうだよ。そして、自分と同じように人を、いや生きている物すべてを操れるようになった」
「そんな冗談……」
「じゃあ、いま君の意思に反して、君の手は何をしている?」
桜の手は桜の意思とは別に動いていた。桜の手は、とある形を作っている。ピースサインの形をしているが、人差し指と中指の間がついている。それをそのまま鼻の下に持ってきて、
「私は今カトちゃんペをさせられようとしているのか……?」
「不本意なら、やめておこう」
「いや、嫌じゃない」
桜は往年のギャグを披露させられた。
「正樹が、嘘をついていないことはわかった」
「嘘じゃないよ。嘘つきな僕だけど最近嘘つかないし」
「まぁ、そうかもしれない。心境の変化でも?」
「安心してるんじゃないかな。それに嘘つくのって、ただただしんどいし」
「しんどいならやめよう」
「うん、やめる」
「で、私はいつまでこのギャグをし続けるの?」
「そのギャグが錆び付くまで」
「あと何十年しなきゃいけないんだよ。いや、卑怯な……私がこうしている限り、このミームが消滅することはないし、人類がいる限り、いつでも復活できるじゃないか」
「わかった、わかった。冗談、冗談」
青年は桜の手を解放した。
「人が皆自分に見えるようになるって、どんな気持ち?」
「気持ちねえ……精神的に大きく変化した後なんだ、今の僕は。
自己嫌悪の塊だった頃にこうなっていたらと思うと、恐くて寒気がする。僕は自分の爪を噛むように、人を殺していたかもしれない。
妹はかつて僕のことを自己愛の塊だって言ったけど、やっぱり違う。僕は自己愛の強い人間じゃなかった。僕は自分を愛せなかったから、人も愛せなかったんだ……でも……」
「でも……?」
「君が、人類すべてを君のように愛してほしいと言った。だから僕は、自分も君のように愛するんだ」
桜は青年に向き合った。
「ねえ、触っていい?」
青年の手に視線を合わせて、それから青年の目を見て言う。青年にはそれが、とても女性らしい仕草をした自分に見える。
「うん、いいよ」
青年は手を差し出す。
桜は青年の手首を左手で支えた。そして右手で青年の人差し指、中指、薬指、甲、手首、をなぞり、互いの指を絡ませた。それから左手を下にして青年の手を両手で包み込み。
「イヤじゃない?」
と恐る恐る聞いた。
「もしも僕がイヤだと感じていたら、君は僕の手を触れることができていないよ」
「あはは、そうだね」
桜は一呼吸おいて青年に問う。
「あのさ……」
「なに?」
「や、同じようなこと聞くけど……すべての人間が自分の姿に見えて、さみしくない?」
「そうだね、いまはよくわからない。でも、さみしくなる予感はする。僕はこれからだんだんと孤独を感じるようになるかもしれない。そして、感覚が感情を上書きして、いつか僕は人が皆同じに見えるということに慣れて、孤独にすら慣れてしまう。それはさみしい状態だろうね。でもさみしいことにすら気が付かないのかもしれない。僕は人類で最も孤独な人間になるかもしれないんだ。でも、それにすら何も感じなくなってしまうのかもしれない。
いまはそれを恐れる気持ちがあるけれど、そんなもの問題ではなくなる。
ただ、今は、君に触れても、君のことが感じられない。それが、僕にはとても残念だよ……」
「そっか……」
「でも、前に五感すべて機能しなくなったときがあったけれど、今思うとあれはかなり怖い部類に入る体験だった。あれに比べると……今の状況はまだマシかと思える。コミュニケーションはとれるからね」
「そうだね」
「愛してる、って言って」
「愛してる。大好き」
「そうそう、これが聞けるからね」
「なるほど」
「大好きまでいってとは言ってないけど」
青年は赤面しながら言った。
「うん……」
桜も青年から視線をそらし、うつむき、赤面しながら答えた。
桜は恥ずかしさを紛らわすために、話題をかえようと試みた。
「あのさ……さっき言ってた、生き物を操れるようになったって、どういうこと? 私の手にしたようなことを他のたくさんの人にもできるってこと?」
「そうだなー……自分の感じていることを例えて説明すると、自分の脳みそをパソコンみたいに使えるんだ。ネットを使って、したいときに情報取得ができるようになったし、人のアカウントにログインできるようになったようなものかな」
「……へ?」
「脳内の世界をネットみたいに使って現実に影響させることができるようになったんだ。気づいていなかったんだけど、今思うと、人がぼんやりと白く見えていたころはネットにアクセスできるだけだったと思う。ロムるだけって感じだね。情報を読むだけみたいな。
極彩色にみえるようになってからはネットを自由に使える状態までになった。普通のネットユーザーだね。まぁ、あの極彩色だけど僕はミームを見ていたんだろうね。
で、人類すべてが自分に見える今は、サーバーの管理者が僕になった状態。ミームだけじゃなくて人の脳にまで手を付けられるようになった。ひとりでエシュロンみたいなことだよ」
「さらっととんでもないこと言ってるな」
「とんでもないよ。他人の脳……意識・アカウントをハッキングしてログインできるようなものだからね。他人の脳を操って行動させることも、他人の意識にもぐり込むことだってできる。多重人格障害みたいに、意識を持たせたまま脳を乗っ取ることもできるし、意識を乗っ取ることもできる。そして記憶を削除することも可能だった。SNSのアカウントのログイン履歴をデリートしていると思ってくれたらいい」
「いや、さすがにそれは……」
「嘘かどうか試してみよう」
青年たちは居間に来た。
「今はちょうどニュースがあってるころだ」
青年はテレビをつける。
ニュースキャスターが原稿を読んでいるのが映し出される。
「はい、今から五秒後、僕はこの人の左目に瞬きを三回させる。どうぞ」
五秒後、ニュースキャスターが左目を小刻みに三回瞬きした。
「ね、できたでしょー?」
「す、すごい……」
「さっきも言ったけど人間以外にもできる。庭に出てみようか」
彼らは庭に出た。
「ほらみて」
鳩がいた。
「ただのハトじゃないか」
「さん、はい」
鳩がハトぽっぽの歌を歌った。美声だった。
「……な、なんでそんなことができるんだ」
「脳って信号で動いているっていうじゃない。僕はその信号を脳に飛ばすことができるって考えてくれたらいい。僕は電波とか電気信号を使っているんだね。たぶんね」
「それはもう超能力ですわ」
「そうかね? 人は声を出して意思を伝えたりすることができるでしょ。僕たちはそれを自然に行っているけど、すごいことさ。音を出して、その音の組み合わせで情報を伝えているんだから。
話すという作業は、音を飛ばして情報を伝えるんだ。僕の能力は、電波みたいなものを飛ばして人の脳を動かすことができる。脳に対する干渉度は違うかもしれないけれど、人が話すこととあまりかわらないと思う。僕自身の感覚的には似たようなものだし」
「謎理論すぎてよく意味がわかりません」
「仮説だから僕も詳しくはわからない」
「でも、その能力を持って、正樹はどうするの? 神様になっちゃうの?」
「えっ」
青年は思わず噴き出した。
「僕は神様にはなれないよ。僕は生き物を操れるかもしれないけど、災害に対しては無力なんだ。僕は除夜の鐘を鳴らさなくてもいいようにすることができるし、暴食・色欲・強欲・憂鬱・憤怒・怠惰・虚飾・傲慢を人類の頭から取り除くことができる。人から悲しみや憎しみや人殺しをなくすことができる。でも、地震や台風から人を守ることはできないし、恵みの雨を降らせることもできない。それに一度死んだようなものだとはいえ、僕には肉体という制限がある。僕は万能なんかではない。石をパンにかえることなんかできない。人類を始めこの星の生き物の誰かが知っていたことは僕も知ってる。でも彼らが知らないことは僕も知らない。どのようにして生物が芽生えたかは知っている。でもどうしてなのかは知らない。わからないことだらけさ」
「それでも十分、神様だよ。正樹の力があれば、人類をもっと幸せにできる。良くできるよ。これは力ある者の義務、だとは思わないの?」
「君はそれでいいの?」
「それでって……?」
答えるのに躊躇したものの桜は、しらばっくれるのはやめることにした。彼女はあまりにもわかりすぎている。
「私は……私は……いい! いいに決まってる!」
「……桜……」
「人がみな同じに見える正樹は、いつしか人を平等に憎み、平等に愛するようになるだろう。私はそれに耐えられなくなる時がくるかもしれない。お前の特別になりたいと激しく思うようになるかもしれない。
でも! もう覚悟したんだ!
私が正樹を独り占めすることをやめれば、たくさんの人が幸福になれるから。私はあなたのことを信じてあなたを愛する大多数の中のひとりの信者でいい。正樹は人類の救世主・神様みたいなものになるべきだよ。そうするべきなんだ。
本当は、私だって、あなたという神様の特別になりたい!
でも、神様にとっての特別になるということ、それは悪魔になるということだ。本当は人類の保護者の座からあなたを引きずり降ろして私だけを見てほしい! でも私はそうしない! 他者の不幸を無視して自分だけ幸せにはなれない」
少々語気を強めた桜だった。が、青年は愛を込めて淡々と告げる。
「君は、巨額の宝くじが当たったことを秘密にしている人を悪い人だと思うタイプなのかな。いいかい。僕は桜を僕の信者にしたくはないし、君はなれない。もちろん悪魔にもさせない。僕が君を特別扱いしなくなることを覚悟している君には、耐えられない。覚悟するということは、それが負担だということだ。負担だと思うことに耐え続けられるほど人間は強くない。それに、神の信者は信じる者と書くだろう。信じるとは、確信はないが意思の力で無理やり思い込むことだ。君には僕を実感してほしいし知ってほしい」
「本当に、神様にはならないの?」
「神様、とは、人類を守り良い方向に導く存在のことを言っているのかい? だとしたら、ならないし、なれないし、必要すらないんだよ。それになる気があったら、とっくに始めてる。
もし僕に神としての役割があったのなら、僕はそれを放棄し、君を愛する。君を特別扱いする。君は僕を堕落させる悪魔にはならない。僕は人間だし、神様だったとしても、僕がかってに悪魔になるんだ。
僕には今ね、とある国でレイプされている少女が見えるんだ。僕は強姦魔の意識を止めて少女を救うことができる。そもそも強姦される前にとめることすらできた。
でも救わない。救わなくたって人類の損失にならないし、救ってもあまり得にはならない。
とある国でテロの計画が練られている。そのせいで大量の死傷者がでる。もちろんこれも止められる。テロリストたちの記憶を消すんだ。
でも止めない。きりがないんだ。
十秒前に、とある国で自殺者が出たのを僕は見た。でも止めなかった。その人を救っている間に別の人を助けられなくなるから。
およそ三分後、君は蚊に刺される。それで君はかゆみを覚えるだけで何の病気にもかからない。
でも僕はそれを断固として阻止する。
僕は殺されたり強姦されたりする人間がいることを知っておきながら何もしない。助けられるけど助けない。それに対して少し心に病むことはあるが、うまい飯食って寝たら忘れる。そして君が幸福に生きられるように全力を尽くす。なぜなら僕には君が大事だから。
人類にとって僕は悪かもしれない。でも僕は君を特別扱いし、愛する。
それが僕の正義だ」
「正樹……私を悪魔にしないためにそんなことを言ってくれるんだね……」
「それもそうだが、僕が神様みたいなことをしたって意味がないんだ。例えば世界から戦争をなくしたとしよう。でも戦争を止めたからってみんな平和に生きることなんてできない。事故とかあるし。
でも頑張って世界に平和をもたらしたとしよう。僕は人類から病をなくせるかもしれない。でもそんなことしたら人口増えてしょうがないだろう? 結局土地問題や食糧問題や環境問題で不幸な人がでてしまったり、命を落とす人がでてしまうことだってある。人類に対する世話係になって皆を幸せにしようとすると、結局みんなを一度に殺してしまう結果になりかねないんだよ。
死の恐怖や憎しみを人類から取り除き、食糧問題などで人が死んでも悲しむことがないようにすることもできるけどさ、そんな人類ってどうよ? 魚とかの一度に何万個も卵を産んで数匹だけ大人になれるような種族ならさ、まだ人権意識が低いだろうからいいんだろうけどさ、僕らは人間だしな。あらゆる紛争や食糧問題や土地問題なんかが起きないように調度いい人口に調節できるもんならしたいけど、そんなことやってたら僕の身も心も持たないんだ。
頭のおかしい頃の以前の自分なら躊躇なくやってたんだろうけどさ、いかんせん僕は人間になってしまったんだ。
「でも、戦争はなくしてもいいんじゃないの」
「道徳的にはありえないかもしれないが、現実的には戦争は一概に不必要だったとは言えないんだ。文明を発展させるのは性欲と戦争だとよくいうだろう。戦争によって、今一般的に使われているカーナビのGPSだって生まれたし、レトルト食品だってそうだ。四輪駆動車、インターネット、メール、飛行機、船等々、数えればきりがない。
それでも、もしも僕が神のようなことをするとしたら、僕は適当に人殺しあたりから殺していって、人口を調節しなきゃいけなくなるんだけど、やっぱりそんなことしたらオーバーワークで僕が死ぬし、僕が死んだあとは大きなしっぺ返しが人類にくるさ。疲れたら休めばいいかもしれないけど、問題を先送りにしてノルマが増えるだけだよ。
じゃあ毎日まったりと千人ずつくらい悪いやつを殺していったら僕にも負担がないかもしれない。でもそんなの絶対嫌気がさすし、特に意味がないんだよ。誰かがやっていることだし。歴史には波があって、混迷期や乱世になっても指導者という者は出てくるようにできているんだ。
それに僕判断で世界を良くしようとしたらさ、僕が狂ったらそれこそ世界の終わりじゃないか。
このように、僕は定期的に人を殺さなきゃいけなくなるわけだ。それってさ、もう僕がやらなくても人や自然の摂理がやってるじゃん。それにそんなこと引き受けてる僕は人類の管理者であり神様みたいなものになるかもしれないけど、殺される側からしたらたまったもんじゃない。悪魔同然だ。
救世主が現れて世の中良くならないかって思っている人がいると思うけど。でもね、今がベストなんだよ。神の力みたいなものはちゃんと働いているんだよ」
「なるほどそうかもしれない。達観し過ぎていると、冷たくなってしまうものなんだな」
「人類全体の幸福を願えば、個人にとっては冷たく見えてしまうこともあるさ。仕方ないんだ。僕には個人がないんだから。人が極彩色に見え始めた時からそうなんだ。ただ、君が君の意思で僕の特別になりたいというのなら、別に止めない。けど……」
「けど?」
「君が僕を憎むとき、僕を憎んでいる別の人間がいる。その人が僕を憎み続ける限り、君は僕に対する憎しみというものを独占できない。だから君は僕の特別になるために、悪魔になるという手段を取らなくていいんだよ」
「その、あなたを憎んでいるというのは、誰?」
「朽木稔。僕が昔、汚した女だ」
…………桜は稔を探そうと思い、数日間探していた。しかし見つけられなかった。正樹は桜が稔を見つけられないことを知っていたが、好きにさせた。桜も詳しいことは聞かなかった。
「みつからなかったでしょ?」
「うん」
「妹たちには聞いた?」
「聞いた」
「なんて?」
「わかっているでしょう?」
「いいや、大事な人たちの頭は探らないようにしてる」
「そう。昔お兄ちゃんと付き合っていたけど、いつの間にかいなくなってた。存在すら忘れかけていた、と言われたわ」
「なるほどね、妥当かな」
「私があなたを憎む世界で唯一の人間になる道は絶たれた」
「いいんだよ、そんなバカみたいなものにならなくても。僕が君を特別扱いするって言ってるし、僕は神になんかならない。人間として生きていくんだ。何が不安?」
「そんなの当然……正樹が人の区別がつかないからじゃないか。私を特別扱いすることもなくなるさ。だから、私のことを気に掛ける必要はない」
「桜……僕は君を特別扱いするつもりだ。でも、いつしかそれができなくなってしまうことが怖いんだね。だからあらかじめ予防線を張っておく、傷つかないように。何度も言うように、それは無理だ。君が持たない」
「ならどうしろっていうんだ……本当はみんなと一緒じゃいや! 特別扱いされたい! でも……」
その時、桜の唇が覆われた。深く、包み込まれるような感じがした。桜は気絶した。
その日の夜、桜が目覚めると、体が熱かった。熱を測った。計測不能だった。
「正樹」
青年の部屋をノックした。
「うん」
青年はすぐに出てきた。
「おめでとう」
青年は微笑んだ。
「何が? というか、体が熱いんだ……」
「すぐにわかるよ」
桜は再び気を失った。桜が目を覚ました時、青年は笑顔だった。
「誕生日、おめでとう」
桜は全てを了解していた。
「ありがとう」
桜は、正樹以外の人類すべてが自分の姿に見えていた。その代りに、正樹は桜の姿が見えるようになった。いままで通り人は自分の姿に見えてしまうが、桜という例外が生まれたのだ。桜以外の他人は全て自分に見える。桜にとっては、正樹以外の全ての他人が自分に見える。彼らはふたりだけの世界を得た。
そして桜は正樹と同じく、生き物を操れるようになった。だが、彼女も普通の人間として生きることを決めた。
「力なんかに頼らなくても、神なんかいなくても、僕は神のような悪魔のような人間として生きていく。過保護な親だけにはならないし、子供に愛情を注がない親にもならない。
僕たちは人を相手にしない神みたいなものだ。子供の教育をしないでずっとイチャイチャしてる親みたいなものだ。僕たちは、親と同じようになるんだよ」
時は過ぎた。
柊はお団子も二つ結びもやめて肩に届くか届かぬかの長さに髪を切った。するとすぐにスカウトされて東京へ行き、歌手と映画女優を始めて大スターになりながら人気絶頂期に引退し、幸せな家庭を築いた。
あけびは肩甲骨の下まで髪を伸ばした。無造作な茶の髪はいつのまにやらどうしたことか素直な黒髪に生まれ変わり、そのようすは和毛の雛が夏に水鳥らしい羽を得るようだった。彼女は二度離婚を繰り返す間に子をふたり生み、その後は作家として二十代後半から一生独身を貫いた。
桜はそのままの髪を貫いたが、青年と結婚してからというもの内面は反転して淑やかな女性へと変貌し、元来の情熱家ゆえの性質が開花し、美術家として世界中を飛び回った。彼女は人類すべての母と友として生きた。
青年は工業を学び、その後はインフラ設計の道へ進んだ。人々が安寧に暮らすために必要なのは説法でも聖人でもないのだと彼は思ったのだった。美しいものを集める怪物から、美しいものを作る人間になりたかった。彼はインフラ設計という、人々が安寧に暮らしていけるようにするための揺籠を作ることに専念した。
彼はずっと揺り籠を求めていた。安らげる地を求めていた。彼は人類の管理者になることはせずに、人々が安寧のうちに暮らしていけるための土地を作ることに心血を注ぐことにした。
彼は、これからも揺り籠を作り続ける。




