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大地への帰還  作者: 桐生真之
53/56

26 黄泉

 どれだけの時が過ぎていったのか、青年は形なき意思として暗闇を揺蕩っていた。どこからが自分でどこからが自分ではないのか、個と個を分かつ物がない。この暗闇が自分であり、どこまでも意思次第で拡大し、どこまでも縮小していけるような気さえする。例えそこに意味などなかろうと――――意味がないからこそ彼は充足していた。点は点のみで完成されており、線にして結ぶ必要はない。嘗てこのように満たされたことがあっただろうか、青年はかく考える。過去を振り返る気さえいまはあるのかどうか。

(過去?)

 安定を続けていた波長に狂いが生じた。暗闇に浮かぶ点と点が、別々の形に姿を変えて歪な輝きを放ち出す。

(桜、あけび、柊。彼女たちは得られなかった父性的な愛の代行者として僕を選んだ……父は母――恋人を導くために僕を使う必要があった。母は……)

 青年は、自身が母についていかなる感情を抱いているのか解らなくなることがあった。愛しているが憎んでいるような気もしていた。正確には、どちらも同じだけ抱いていた。これらの疑惑を振り払うように、自分は母を愛しているのだと青年は決めつけた。生活を円滑にするためと精神の健康を保つための欺瞞である。結果、母性から遠ざかるための逃避行により疲弊し、拠り所を求めて母なる大地に顔を埋めて眠るのだった。楽になるために苦しむという矛盾が生まれた。

 大地に拒絶されていると思っていた彼だから、代わりの大地を求めていた。大地に還らなければならないと思っていた。しかし彼は、初めから母性と分離などしていなかった。

(それどころか僕はずっと、胎児だった)

 古い世界が剥がれ落ち、新しい認識に切り替わる。沸き立つように新たな身体感覚が芽生え、発達し、強化され、過去の脈拍の回数を演算し、現在の時間軸を知覚する。

 触覚も敏感に働き始め、横たわっているのがわかる。息吹を感じる。誰かが手を握り締めている。誰かが体に触れている。黒々とした暗闇に薄明かりが差しこみ、青年は瞼を閉じていることを認識し、瞼を開き、自分の顔を覗き込む母の笑みを見た。

「ただいま」

「気がついたのですね……お帰りなさい」

「ああ」

「あなたは長い間眠っていました。病院に連れて行こうかとも思ったのですが、凛が、その心配はない、何日かしたらいずれ目を覚ますと、仰いましたから。それにあなたは……これまで見たことないくらいの、安らいだ顔をして眠っていました」

「そうか……」

「気分はどうですか」

 青年はくすりと笑む。

「不思議な気分だ……あれだけ僕を突き動かしていた情動が、嘘のように消えている。とても静かで穏やかだ……こんなに穏やかな気持ちになったのは生まれて初めてなんだ」

「ふふふ、あばらはまだ痛みますか」

「いいや、もう痛まない」

 このとき青年は、とあることに気がついていた。

(なんだ……これは?)

(意識が流れてくる……)

 母の意識が流れてくるような感覚を覚える。人の情動が流れてくるのが手に取るようにわかる。そして母が全てを知ったことを知った。

「昔のこと、知ってしまったんだね」

「全て、柳さんから聞きましたから」

「姉妹たちも?」

「ええ」

「いまでも父さんのこと好き?」

「はい、例え私が妖怪であろうとも、私を愛してくれると言ってくれました」

「そうか、よかった。人種を超えたどころじゃない、異色のカップルだね」

「ふふふ……異類婚姻なんて昔にはよくあったもので、古譚になっているものだけでもかなりの例があります。信太の森の仙狐、葛の葉さんだって、馬の妻になったオシラサマだって……」

 母は苦い顔をして、しかし言わなければいけないという顔をして、

「ポセイドンの娘のラミアーだって、そうでしょう?」

「そうだね……」

 地下貯蔵庫で眠らせていた情報の数々は、瞬時の内に連結を果たした。知識と知識が連関し、母の発した言葉の意味と、母が発言を躊躇った意味を理解する。母は、多くの子供を食い殺し人間と結婚した女神であるラミアーと自身に深い共通点を見出したのであった。

 眉を顰めて少し俯いた母の首筋に、赤い傷跡を見つけた。

「母さん……首筋」

「これですか? 勲章ですよ。母の痛みです」

 心配は無用だったらしい。

 その後、青年が目を覚ましたことを母が皆に告げると、それからは大騒動だった。自らの夢の体験と父からの言葉によってことの真相を思い出した姉妹たちは、己の身を投げ出して彼女たちを救った青年の帰還に狂喜乱舞した。美しい絵画のように目に映るけれど、この光景は現実なのだと考えると自然と笑みがこぼれる。

 嬉しくて食事時でさえ自分のことを忘れて、家族の様子を眺めていた。あけびがした欠伸が青年に移り、他の皆に伝播した。皆で笑った。

 後日、青年は手紙を受けた。予期していたことではあったが、実際にこうやって手紙を受け取ると未だに信じられない思いがした。感情論ではもう、いないもの、と思うことにしていた相手からの不意の連絡というものは、心の準備があろうとも驚いてしまうものだ。

 誰にも手紙の存在を知られたくなかった青年は、嘗て満身創痍で訪れたあの山奥の野原に来ていた。元来生えていた四本の木々に加えて、新しく生えた木々が並んでいる。その側に寄って、静かに封を切って、手紙を取り出した。手紙にはこう書かれてあった。

 

 突然お手紙を差し上げますことをお許し下さい。想いが強くて一体どの話から手をつけたら良いものか迷ってしまいます。なので、ただひとつ、手短に私の近況報告だけさせて頂こうかと存じます。

 先日、父が他界しました。私の父は運良くいい人ではなかったので、死んでもそれほど悲しくはありませんでした。

人の業や因果というものは不思議です。あのように傍若無人な人間が、心臓麻痺のうえに、川に落ちて簡単に死んでしまうなんて。もっと長く苦しみを味わいながら死ぬのだろうと思っていましたから、とても驚いているところです。

 あなたも私も、どんな死に方をするのでしょう。

 あなたの愛が偽りかもしれないと気付いたとき、私の心には憤りが渦巻くより、もっと諦念に近い気持ちが浮かんでいました。それもそのはずなのです。私は薄々感付いていたはずなのです。あなたが人を愛さない人だということくらい。

 私の心を縛ったことも、私を愛してなどいなかったことも、私の耳に念仏のように愛を唱えたことも恨んでなどおりません。

 ならばなぜ私がこのような手紙をしたためたのか。

 その理由と言いますのは、私はただ一言、この言葉を貴方に送りたかったのです。

 貴方の子を身籠って、その子を堕胎したかった。

 それでは今生の別れです。永遠にごきげんよう。

 あなたに今後とてつもない不幸が訪れ、私よりも少しだけ不幸になってくれることを祈っております。

 

 真に不一ながら、これにてお手紙を終わらせて頂きます。

 

 追伸――ずっとあなたを見ています。

 

 朽木稔

 

 

「愛憎は紙一重か……いや、憎んでる。思いっきり恨んでやがる、ハハハ」

 摘まんだ手紙を、赤子のように無垢な所作でふたつに裂く。再び裂く。繰り返す。嘗て偽りの愛を捧げた少女の、手紙を読んで、泣きながら。

「君からは、ずっと憎しみの言葉を聞きたかった。君が僕から解放されるにはそれしかなかったから……」

 ひとつひとつが小指と違わぬくらいに細切れに破き、紙屑と化した手紙を掌に乗せた。

「全部、僕が悪いんだが、何度読んでもきついよなあ」

 紙屑は上昇気流に乗って青空に映えるように高く舞い上がり消えた。稔は完全に消息を絶った。青年の認識上にも現れず、匂いさえも残さずに風のように消えたのだ。まさに、永遠にごきげんようである。

「こちらこそ永遠にごきげんようだぜ、イカレ女」

 心というものがどのようなものかなど青年にはわからない。存在しているのかさえ。だからまずは形だけは。

「この惑星住民を統括するジゾイド星人のひとりとしてね」

 猫の墓標を前にして手を合わせる。

 彼は他人の考えていることを本を読むように把握できたが、根本的に人の心を理解していなかった。しかし今は、これまでと違った感覚を抱いている。大地に背を預け、木の根を枕にして、真青な空を眺めながら思うのは、何やら優しい気持ちである。

 目を瞑り、しばらくうとうとしていると、姉の気配が近づいていた。桜は青年を見下ろす。薄目を開けて、出迎えた。

「なんだい、桜」

「頼みがあるんだ」

 不思議なことだ。高咲桜が本を手にしている。

「どうしたの、本なんか持って」

「近ごろのお前は本ばかり読んで私と遊んでくれないじゃないか、ということを柊といつも話しているお姉ちゃんをどうしてくれる」

「柊と更に議論を深めてほしい」

「ひ、ひどいぞ……」

「泣くことはないだろう。じゃ、いま僕と話せば良い」

「そうだな。よし、では話すぞ」

「はい」

「要件はこの本の事なんだ。私は本が読めないことを知っているだろう」

「うん。そして、して欲しいこともわかってるよ」

「うん。これを私に」

「いいよ、読む」

「ふふ……ありがとさん」

「君の力になれたら僕も嬉しいよ」

「うふふ、嬉しいじゃないか。ちなみにバッドエンドではないらしいんだ。だから読み終わってふたりとも気落ちする心配はない」

「おいおい、ネタバレは禁止だからね」

「固いこと言うな。大切なのはバッドにしろハッピーにしろ、エンドに行くまでのプロセスだろう」

「結末がバッドかハッピーしかないってのも、なんだかね」

「もちろん、どちらともとれるのもあっていいし、どちらともとれないのもあっていい。物語の終わり方なんて、その物語が決めることだ、要は物語にとって自然な終わり方ならいいのさ」

「まさか君にそんなことを教えられるとはね」

「父さんの受け売りだがな」

 青年は桜と友情のような絆を感じる。

「ところで、この本はどうしたの?」

「友達が貸してくれたんだ」

「ふーん」

「お、面白いから……こ、こ、こ、恋人に読んでもらえって……」

「ふーん……まあ、ここに座って」

 手を取って座らせる。凭れかからせる。

「本を貸して」

「うん」

 桜を後ろから抱き締めるように本を抱えた。

「分厚いな。朗読すると読み終わるまでに何時間もかかりそうだ」

「うん」

「楽しそうだね」

「だって、正樹が楽しそうだからな」

「……え?」

 頬に手を当てる。両の手には、笑みの感触が。

「ほらほら、驚いてないで早く読んでくれ」

「ああ」

 にこり、笑みを返す。桜は驚いた顔をする。キョトン、という形容が相応しい。しかしすぐに微笑みを取り戻し、さらなる笑みを返した。

「桜、耳の穴かっぽじってしっかり聞いときな」

「おう」

「昔々あるところに……」

「違うだろうが」

「なぜ違うと分かった。君は、読めないはずじゃ……」

「そんなベタな出だしがあるか」

「なぬ、そういうことか」

「うん。さあ、始めてくれ」

「さあて、読むか……なになに? 隼人は怒張した得手吉の先端を麻衣子の瑞々しい薔薇の蕾に押し付けると得手吉をさらに硬直させた。怒れるロンギヌスの槍と化した得手吉で麻衣子の双乳のあわいを蹂躙すると、麻衣子は押し寄せる快楽の波に思わず嬌声を漏らした。たまらず麻衣子の花弁のような唇にしゃぶりつくと、下半身のぬらぬらとした深い窪地は得手吉の侵入を控えてまたたくまに水圧を高めるのだった」

「………………」

「……って、これエロ小説じゃねえか! しかも得手吉っていつの時代だよ!」

 地面に投げつけた。

「ふぬー! あのアバズレー!」

 桜が憤慨の声を上げた。ふたりで『ネクロロリコン』と題された猥本をげしげしと踏みつける。

「クトゥルフ、フタグンー!」

 異世界の神々でも召喚するかのごとくふたりして呪詛をぶちまける。

「邪神の見せる悪戯な夢に踊らされた主人公がネクロフィリアのロリコンになっていく怪奇エロ小説かよ! 意味わかんねえよ!」

「くっそー私みたいな奴だ! それなら、じゃあこっちは?」

 二冊目を青年に手渡す。

「未知なるエロスを夢に求めて? これもダメだ!」

 青年はこの桜という女を好きになっていた。哲学者と絵描きがひとつの魂の中に煌々とした炎を帯びて生きている、桜はそのような人間である。パトスに生きる女。だから桜が好きなのだろうと青年は思う。桜は青年から愛されていることを感じ、依存的な態度をとらなくなった。互いに自立したまま愛し合うことを始めた。この二人の関係は全てが肯定的なもので、どこまでも続く広がりを持っていた。

 本を読み終わったあと、ふたりは星を眺めて、家に帰った。愛する家族の待つ家に。愛する町並みが一望できるあの家に。

 その日の夕食中、青年はふと違和感を覚えた。母について不明瞭な引っ掛かりを覚えたと同時に、話し方が変わったわけでも、表情が変わったわけでも、ましてや何か特別なことを言ったわけでもないのにも関わらず、母と自分の関係性がわずかだけ変わってしまったことを天啓のように悟った。ゲシュタルト崩壊を起こしたように、母という存在についての認識が根底から崩れていったような不安を覚える。いままで楽しげに話していたのに、ふいに視線を外すと母の顔が思い出せない。

 それから数日間は、顔ばかりか声までも、どのようなものだったか思い出せず、鼓膜に刻まれたあの優しい音が薄れてしまう。印象が消失し始め、母と交わす言葉のひとつひとつが頭に残らなくなっていった。母と買い物に来ても、一時別々に行動した途端、なぜ自分が此処にいて、誰と来たのか分からなくなった。母からされた頼みごともその途中で、なぜそうしているのか、誰の頼みでそうしているのか忘れてしまうことがあった。まるで母が残滓としての存在でしかないような気さえ抱かせる。

 そして青年はある日、夢を見た。

 夢のなかで、青年は老人になっていた。長い髪とからからに乾いた白ひげの自分が異国の谷底で倒れていた。老人の自分は彷徨ったあげく力尽き果てそこに倒れたのでなく、安住の地を見つけてそこに横になっている。

 まもなく老人は死んで、その肉を候鳥が綺麗さっぱり平らげた。荒野だった。谷底には清らかな明かりが射していた。

 この夢の詳細な意味も真実もフロイト的解釈も分からなかったが、根拠もなくこれを吉報と捉えた青年は、わけもなく無邪気にこの天啓のような夢の出現を喜び、レンタルショップで映画を三本も借り、口笛を吹きながら一気に鑑賞し、別に面白くもない場面でもゲラゲラと笑い、内容おぼろげながらも映画を返却しに行き、心踊りながら街を歩き、海水浴に出かけた時に偶然見つけた古銭を少女が抱える募金箱に入れ、それから三夜連続で再び同じような、しかし違うような良く分からない夢を見続け、そして再び吉報だと考えて無邪気に喜んだ。

 次の日、青年は姉妹たちに起こされた。姉妹たちに囲まれながら、青年は長い旅から帰って来たような気がしていた。時計に眼を合わせると、昼を過ぎていることがわかる。このような寝坊は彼にとって珍しかった。

 あくびをしたら言葉が口をついて出る。

「ふあぁ、ただいま」

 青年を注視する姉妹たちには、何かを急いているような不穏さがあった。

「どうしたの?」と青年は問う。

 閃く。

「あー……映画ならもう返しちゃったよ? まだ見たかったかい」

 我ながら勘が冴え渡っていると思った。

「映画なんてどうでもいいの」

 とあけびが言う。勘は冴え渡ってはいなかったと自省してから、自分の体が眠りたがっているのに気が付く。

「母さんがいないんだ」

 姉が言った。完全に覚醒した。

「え、どういうこと」

 姉が説明する。朝から母が家のどこにもおらず、食事も作りっぱなし、洗濯物も干しっぱなしでいるからなお不思議なのだと言う。これを聞いて青年は疲労の塊が土砂崩れのようにこの身を襲ったのを感じた。

「ちょっと君たちは部屋から出てってくれ。着替えるから」

「ちょっと、どうすればいいの私たち。お兄ちゃん」

 と柊が言う。

「すぐ行くから待っているんだ。すぐに行くから。ちょいと聞いてくるから」

 眼を丸くする三人を部屋から押し出し、椅子に座して目を閉じる。

 気が付くと青年は荒野にいた。前方に谷底を見下ろしている見慣れた女の姿を見つける。青年はその女に声をかけた。

「やぁ、久しぶり」

 女は振り向いた。少しだけ目が赤い。泣いていたのかもしれない。

「お前は面白い死にかたをするんだなぁ……」

「そうらしい、が、今はそんなことより聞きたいことがある」

「ああ。わかっている。榧がいないのだろう」

「凛さん。二卵性と言っても双子でしょう。妹の居場所、わからないかな」

「お前は幸せか?」

「別に、普通」

「ならば榧の幸せを願うか」

「もちろん。僕は幸せになれなくても良いが、母さんには幸せになってほしい」

「そうか」

「だから、幸せにしてやってくれないか」

「まるで私が榧の運命を握っているかのような言い方だな」

「何でこんなことを言ったのか分からないけれど、凛さんは、母さんが何処にいるかくらいは知っているはず」

「勘が良いな。榧は、お前たちと私が良く知っているあの場所にいるさ」

「あの場所か……」

「お前は今、母の幸せを願うなら自分は幸せになどならなくとも良いと言ったな」

「そうだ。母さんが幸せになるなら僕はどうなっても良い。母さんは苦しんできた。その重さは僕の受けた苦しみの比ではない」

「もう一度だけ聞く。榧が幸せになるなら自分はどうなっても良いか」

「ああ、そうさ」

「そうか……ならば早く野原へ行け。榧が待っている」

「わかった。ありがとう」

 風が吹く。

「もうひとりの母さん」

 視野が砂嵐で埋め尽くされた。世界が暗転する寸前、モノクロームの視界の中に、優しい微笑が見えた。

「さてと……」

 目を覚ますとポケットに紙切れが入っていた。紙面には、『準備は整えた。後は任せた。凛』と書いてあった。

「俺も準備しようかね」

 青年の指示に不可解な想いを抱きながらも、残りの皆々は仕度を済ませて目的地へと向かった。山を登り、蔵を過ぎて、更なる獣道を抜けて行くと、あの野原に到着した。最後にここへ来たのはほんの数日前のことだというのに、大きく変わっている所がある。それというのも、この野原の中心に立っていた八本の木々がひとつにまとまり、一本の大木として立っていたのである。霊樹のような威厳をまとって森閑としたその場を治めているような気さえ抱かせる。

 その巨樹の高い枝に、榧が座っていた。

「母さん、そこにいたんだ」

「正樹、……皆を連れてきてくれたのですね」

「ああ、そうだよ。お別れだね」

「ええ」

「お別れって……?」柊が問う。

「ああ。もう、お別れなんだ」

「そんな……」あけびが言う。

「私はもう行かなければならないみたいです。もっとみんなと一緒にいたかった。呪いが解けたこの身のまま、一緒に時を過ごしていたかった。でも私はすでに人外の身なのです。人の生などとっくに終わってしまっていた。あれから皆と過ごせた間、とても幸せでした。あの日々でもう、私の千年は報われました。嗚呼……悲しいけれどもう、お別れです。

 あなた、夫婦は二世の契りというのに、十の世も夫婦を続けてきてくださって、本当に感謝しています」

「一緒に優しく老いていきたかった……ゆっくりと朽ち果てたかった。榧……」

 君不去の地にて、青年は佇む。涙が青年の頬を伝って首筋まで濡らす。

 母は瞳を潤ませながら、なおも慈悲深い優しい笑みを浮かべていた。

 青年は潮時を確信した。

 母はこんな風に笑うために生まれてきたのだから。

「さようなら、母さん」

「さようなら――――」

 ふわり――――中天に引き寄せられるように浮かぶ、飛天霊かと見紛うのは、花にもまして優雅な、我が愛しの、永遠の恋人、母だった。輝きを放ちながら天へと昇り、大気に溶け、大地となり大空となるは愛しき母。

 姉妹たちは感謝と別れを告げながら次々に叫んだ。

「ねえ、桜」

「うん」

「母さんは、いなくなったんじゃない。母さんは、もといた場所に帰ったんだ。本当に愛しているなら会わなくても良いんだ。なあ、そうだろう、桜?」

 姉は嗚咽を漏らしながら首肯した。

 洗濯物を干して取り込まぬままで、料理は作り置きしたままで、母は天に昇った。

「わかっているよ。あとは僕たちが片付けなければいけないんだ。俺と桜とあけびと柊でね」


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